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初恋の味を思い出した夜

作者: 長野もね男

 二十九歳の時にUターンしたぼくは、すぐに地域の消防団に勧誘された。 同級生が勧誘してきたのだから、断れなかった。

 さすが故郷だ。消防団にはネガティヴな印象もあったが、消防団に入ったことで、一瞬にして若い頃に切り捨てたつもりの故郷の人間関係が復活した。

 ぼくを「ゆびとま会」に誘ったのは、ぼくを消防団に勧誘した小学校のときの悪友・山岡俊和だった。

 故郷に残っている友人はマイルドヤンキーの居心地の良さの享受を受け、横のつながりを広げようと、消防団以外でも、いろいろな会をやっていた。もちろん田舎なのでそうやって用事を作らないと退屈ということもあるのだろう。

「ゆびとま会」もそのうちのひとつで、これはwebサイト「ゆびとま」に登録した同窓生で集まって飲むという会だった。

 誘われたときに「いいよ」と二つ返事をしたぼくだったが、中華料理屋の一室に集まった十五人ほどの顔ぶれを見て、ぼくはこの席に出たことに後悔した。

 上田直美がいたのだ。

 髪を茶色に染めて化粧もばっちり決めていたが、その顔には見覚えがあった。

 中学の卒業式に、ぼくに告白してきた女子だった。

「直ちゃん、連れてきたよ」

 ぼくと一緒に店に入った山岡が、どうしていいかわからず愛想笑いをへらへらしているぼくを、指さして笑った。

「岩本くん、隣りに座ってよ。会いたかった」

 ぼくは言われるままに直美の隣に座った。座るしかなかった。

 香水に混じって、直美の髪の毛からタバコの匂いがする。十四年の歳月はそれぞれを大人にしていた。その歳月のおかげで、会うのがつらくて二度と会えないと思っていた直美と少しは話せた。

 直美は看護師になっていた。結婚はしていないが、前の職場で知り合った看護師の彼氏がいるらしい。携帯の画面で見せてもらった彼氏はなかなかのイケメンだった。四つも年下らしい。

 中ジョッキを飲み干し、会でキープしている黒霧島で水割りを作ってもらおうと幹事の同級生に声をかけたら、「岩本くんのは私が作る」とジョッキを直美に取り上げられた。幹事役が焼酎と氷、水が揃ったトレイを運んでくる。

「どのくらい」

「薄くていいよ」

 直美と話す。ビールの中ジョッキ一杯でぼくは顔を真っ赤にしていた。悪酔いしていた。

「あまりつよくないんだ」

 ぼくがビールを飲んだジョッキに直美が氷を入れている。店員が焼酎用のグラスを置いてはいたが、ぼくの地元ではビールを飲んだジョッキで焼酎を作るのが暗黙のルールだった。

「二十代の頃はほとんど飲めなかった」

 そういってぼくはタバコに火を点けた。直美は水割りを作ると、グラスを持って笑いかけた。

「ごめんね、洋子じゃなくて」

 言った瞬間、周りの参加者の会話が止まった。

 これはぼくはひどい酒の肴になってしまったと冷や汗をかく。

 高尾洋子、ぼくの初恋の女性だ。そしてぼくは中学のとき、直美の告白を「洋子が好きだから」と言って断っている。洋子に振られたあとだったのに。

「いまだから言うけどさ、岩本くんに洋子が告る前に、私はね、洋子に岩本くんが好きだって言ったんだよ」

 ぼくの顔が引きつっていたのだろう。

 山岡が口を挟んだ。

「上田って、高尾さんと仲良かったっけ?」

「同じ部活だったから。女子卓球部はね、地区大会が終わって別れのキャンプを7月にやるのよ。その夜にバンガローで好きな男子は誰って話しになって。洋子なんてその頃はさ、高校生の彼氏いて、同級生は子供だから興味ないって言ってたんだよ。そしたら二学期になったら二人付き合ってるし」とそこまでニヤニヤしながら直美は一気に言うと、急に真顔になった。

「洋子のどこがよかったの?」

 睨むようにぼくを見る。

 すぐには答えが出なかった。はじめての彼女だったから。好きになったから。恋なんてそんなもんだ。他に理由はない。

「ぼくのことを好きになってくれる女子なんているとは思わなかったからさ」



 中三の夏だった。

 ぼくは洋子を幼稚園のときから知っているが、ずっと苦手な女子だった。命令口調ですぐ怒るし、特に幼なじみで親同士が仲良かったぼくなんか、洋子のおかげでどんだけいやな目にあわされたかわからない。たとえば、ぼくが教科書を忘れて隣のクラスから借りてきたら、「先生、岩本くんの教科書、違う人の名前が書いてあります」と言わなくていいことを報告する。そのくせ、自分が教科書を忘れたときは「ごめん、一組から借りてきて」とぼくを使う。そんな女子だった。

 小学校の一年、二年と五年、六年が同じクラスだった。小学六年の時など、身長もぼくよりも高くて、ケンカしても負けるなと言うほど怖かった。中学になって同じクラスにならなくて、ぼくは心底ほっとしていた。そのくらい苦手だった。

 クラスが違っていたし、できるだけ関わりたくなかったこともあって、ほとんど中学になってからは接点はなかった。だが、中三の夏休み、お盆も終わり、宿題の足音が迫ったきた頃に洋子から、突然自宅に電話がかかってきたのだ。いやな奴から電話がかかってきたなといやな予感しかしなかったが、その予感は的中した。

「宿題、終わってるとこまででいいから写させて」

 小学校時代の力関係を思い出すと断れなかった。

「親に見つかると面倒だから図書館に来て」

 言われるままにぼくは「わかった」と返事した。返事するしかなかった。

 夏休みの残り少なさを感じさせる赤とんぼが空を舞っている。汗を拭きながら自転車でぼくは向かった。

 洋子はすでに図書館にいた。ハーフパンツに白いTシャツで薄手の青いパーカーを羽織っていた。宿題を写すといいながら、筆記用具すら持ってきていない。

「ちょっと本探すの手伝って」

 ぼくが図書館の机に宿題の荷物を置いているのに、洋子は本棚に向かって歩き出す。

「早く!」

 睨まれたぼくはあわてて洋子についていく。

 人気のない百科事典に囲まれた本棚の前で、洋子は足を止めた。ぼくは何を探してるんだろうと百貨辞典の背表紙を追う。そのとき、ふいに洋子がぼくの左手を右手で握った。なんだと思って洋子の顔を見る。洋子は上目遣いでぼくを見ていた。小学生の頃はぼくよりも背が高かったのに、中学の三年間でぼくは洋子の身長を追い越していたようだ。ぼくがそんなことを考えていると、洋子が予想外の言葉を口にする。

「あんた、好きな人はいる?」

 テレビを見てアイドルが好きだというような感情はあったが、具体的にクラスの誰が好きとかは、恋がわからない中学生のぼくは、まったく無頓着だった。恋愛なんてものは、もっと大人になってからするものと思っていたし、クラスで彼女のいる奴もいたがそういう人間に自分はなれないと思っていたからだ。

「いないよ」

 洋子は周りを見渡し、人の気配がないのを確認するように周りを見て、口を開いた。

「じゃあ、私が付き合ってと言ったら付き合う?」

 そこまで言われると、恋がわからないぼくも事情が飲みこめた。窒息するほど息苦しく、心臓がバクバクした。

 女子から好きといわれる日が自分に来るとは思っていなかった。幼なじみの洋子が、ぼくにとって女になった瞬間だった。

「うん」

 思いがけず、ぼくに彼女が出来た。

 はじめてのキスはその数日後だった。

 洋子は当時女子に人気のあったとあるバンドのファンだった。洋子は掌の上でぼくを躍らせるように、ぼくを自分好みの男にしようとしていた。そんな洋子にとってそのバンドを知らない男は論外ってわけで、CDを借りに来いと言われて、ぼくは洋子の家に行ったのだった。

 洋子の家はぼくの家から自転車で十分ぐらいの距離だった。

 ぼくは自転車をこいでいた。たった十分の距離なのに、洋子に会うのが待ち遠しくて、すごく遠く感じたのを覚えている。

 それまでは苦手な女子だった洋子も、恋を覚えてぼくはどんどん好きになっていた。

 夏休みとはいえ平日の昼間。部屋に上がっていいと言われれば、ぼくはうきうきしながら洋子の部屋に入った。

 洋子の部屋にはそのバンドのポスターが貼ってあった。

 洋子は、そのバンドが載っている音楽雑誌の切り抜きをぼくに読むように勧めてきた。

 ぼくは、洋子に好かれたい一心で、その記事に目を落としていた。相手に好かれたいと思う。それは間違いなく恋だ。そしてその相手が好きだという証拠だ。

 そのとき、洋子がぼくの顔を両方の掌で挟んだ。掌から軽く力が感じられ、その力に合わせて首をひねると、洋子の顔が目の前にやってきた。

「ねえ、恋人なんだからちゅーしよう」

 間髪いれず洋子は目を瞑り、唇をぼくの唇に重ねた。

 柔らかかった。

 ファーストキスをしてしまったというショックで身体の芯が電気が走ったように震えた。実際、身体は震えていた。

 洋子はそんなぼくの緊張を知ってか知らずが、口を開き、ぼくの唇を食べるように唇で挟んだ。

 ぼくは思わず両方の唇に力を入れて口を閉じる。

 洋子が笑うように鼻で息を吐くと、唇を離した。

「舌を絡ませましょう」

 そう言うや、ぼくの口にかぽっと食いつくと、洋子の舌がぼくの唇を舐めていた。ぼくは口を開けた。洋子の舌が口の中に入ってくる。

 ディープキスなんて言葉を、当時のぼくは知らなかった。大人たちが、恋人たちが、たくさんの人たちが、こんなことをしているなんて知らなかった。

 頭の奥底で雑巾を絞っているような、刺激的な感覚にぼくは襲われていた。ひどく長い時間、洋子の舌がぼくの口の中で踊り、洋子がぼくの唾液を吸っているような気がした。ぼくはただ身を任せ、口を開けていた。

 洋子から借りたCDを持った帰り道、ぼくはコンドームを買うために、わざわざ遠回りをして薬局の前を通った。

 キスをしてから、それまではすごく遠い未来にあると思っていた大人になるということが、近いうちに自分の周りで起こるかもしれないと、ぼくの頭はそのことばかり考えていた。初めてだとうまくできないと聞くけど、きっと洋子ならうまくリードしてくれるだろうと、はじめての相手が洋子でよかったなと思っていた。

 新学期が始まった。恋人らしくぼくと洋子は登下校を一緒にするようになった。

 洋子と通学路を歩くとき、ぼくは、この姿をいろんな人に見てほしいと思うほど浮かれていた。

 彼女がいるということを自慢したかったし、その彼女が大好きな洋子だというのがうれしかった。

 しかし、その幸せも十日ほどしか続かなかった。

 道の上を死に忘れたつくつくぼうしが、わずかな力で動こうとしていた通学路。

 下校のとき、突然洋子に「飽きたから別れよう」と言われた。

 洋子の遠くを見ているような視線をたどれば、ぼくを飛び越えた素敵な男がいるように感じた。

 泣けもしなかった。まだ大人になれていないのにと、いまいちばん楽しみにしていたことを奪われたことにも、すぐには気づけなかった。

「なんで?」

 ぼくは別れたくなかった。やっとの思いでそれだけを言った。

「だってあんた自分のことしか考えてないじゃん」

 たしかにぼくは洋子から借りたCDをほとんど聴いていなかった。洋子がバンドの話をしても生返事だった。そして大人になれるかもしれない期待で、そのことばかり考えていた。

 図星だ。

 でも、別れたくなかった。

「そんなことないよ。いままでもこれからもずっと洋子のことをいちばんに考えるから、別れるとかやめようよ」

 精一杯にぼくは言ったが、洋子に取り付く島はなかった。

「だから言ったでしょ、飽きたって」

 夏の終わりとともに、夢はぼくを残して通り過ぎていった。

 洋子と別れてから、ぼくはよりいっそう洋子が好きになった。

 洋子と時間が被るように通学しようとしたら、洋子に露骨にいやな顔をされて時間をずらされたこともあった。

 洋子のクラスに用もないのに洋子の顔を見に行ったりもしたし、合同授業や学年集会ではいつも洋子ばかり見ていた。

「こんなに洋子のことが好きなのにどうしてぼくの気持ちをわかってくれない。どうしてぼくを好きになってくれない」と、いま思えば自分勝手すぎる手紙を渡したこともあった。

残りの中学生活は洋子のことばかり考えて過ごした。おかげで公立高校の受験にぼくは失敗した。

 直美に告白された卒業式の数日後がホワイトデーだったが、バレンタインのチョコをもらってないのに洋子にクッキーを持って行って、洋子の家の前で「バカじゃないの。もう来ないで」と本気で怒られた。

 そしてお互いに高校生になり、それから洋子とは話していない。



「いまでも洋子を好きなの?」

 直美がぼくに訊いた。カルピス酎ハイを飲んでいる。

 洋子の猫のような一重瞼が頭に浮かぶ。ぼくがその後に恋をした女性は、みんなどことなく洋子に似ていた。

「長く会ってないからわからないよ」

「否定はしないんだ」

「初恋の人だから」

「えー。私は、岩本くんが初恋の人だけど、いま好きって言われても絶対付き合わない」

「絶対かよ」

「うん、絶対」

 直美はそう言うと声を上げて笑った。

 もう夢見る歳をぼくらは過ぎていた。お互いに異性を見る目は肥えていて、勢いだけで愛を育てるほど愚かではなく、賢くなっている。

 このあとゆびとま会で聞いた洋子の噂はあまりいいものではなかった。

 山岡をはじめ、地元のマイルドヤンキーたちはその情報にやたらと詳しかった。

 洋子は既に結婚して三人の子供がいるらしかった。

 中絶をしたという話も聞いたし、ベビーカーを引いて旦那とは違う若い男と遊んでいたとも聞いた。

 でも、ぼくだって、もう一度洋子が相手なら、たとえ洋子が結婚していようと、子供がいようとも、恋をしてしまうかもとぼくは思う。

 誰に何を言われてもいいと愚かな恋に進んでしまう弱さがぼくの中にあるのは否定できなかった。

 それは初恋の記憶で美化されてるだけかもしれない。

 でも、あのとき大人にしてくれなかった洋子に、大人になってから会って愛しあいたい気持ちは、若い頃の忘れ物として心に残っていた。

 そう思ったとき、目の前で直美が飲んでいるカルピス酎ハイが眩しく目に写る。

「カルピスって初恋の味だよな。一口飲ませて」

 直美は笑いながらぼくにコップを渡す。

「なによ。わたしと間接キスしたいの?」

「違うよ」

「初恋の味だなんて、いまはカラダにピースなのに」

 そう言って直美はゲラゲラ笑う。

 ぼくはカルピス酎ハイを一口飲んだ。子供の頃に感じた甘酸っぱい酸味が口に広がる。それから焼酎の苦みが感じられた。この苦みがうまいと感じたぼくは、大人になってしまったんだなと感じた。


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