卵
チキチキチキ中身は何だろなのコーナー
ローテーブルとソファ、ラジカセしかない部屋の中、オレはソファに腰を降ろしている。
目の前の甚平を着た深海魚の様な目のマスク男、中さんはオレの真正面にテーブルを挟み立っている。右手でテーブルの上にある編み込みの箱から卵、5つ入っている内の1つを取り出すと、徐にオレに差し出す。
「何が入っている」
「…黄身と白身…っすかね」
「…はっ」
マスクを着けていようともまざまざと判る。鼻で笑われた。慣れたもので腹は立たないが、いい気分はしない。視線で分かったのか中さんが短く「すまない」と半笑いで溢した。
中さんは、卵を箱の上まで持って行くと唐突に卵を握り潰した。
「は…?」と視界で状況に付いていけず、耳は不快な音を拾う。
パリ…と短く殻が割れる音がした後、ぐじゅり…と腐ってぐすぐずに果汁が垂れている蜜柑を潰した様な、もしくは腹に直接手を突っ込まれ臓器をかき混ぜたかの様―――自分で想像しておいて吐き気が込み上げる。中さんは、完全に握り潰した後しつこく何度も何度も片手で握り潰している。
ぐじゅり…ぐじゅり…ぐじゅり…ぼた、ぼた―――――。
質素な部屋に、不快な水音が反響する。
中さんの手は、ドス黒く染まっていた。アレは、卵の中身なのか?中身にしては黒すぎる。ねばねばしたモノがぼたぼたと箱の中に落ちていく。さっきまで白かった卵達は全てヘドロの様な黒に汚染されている。気持ちが悪い。音は、次第に異臭を放ちオレを襲う。
腐敗臭に生ごみの腐った匂いの上から牛乳と魚のミンチをぐちゃぐちゃにかき混ぜた物を密閉空間に放置し続けた様な―――。
「中さん…ちょっと」
部屋に充満した、過去に嗅いだことの無い生臭さに吐き気が耐えれずオレはベランダに駆け出した。鍵を外す事が此処までじれったいと思った事は無い。
ガララッと勢い良く窓を開け放つ。パリ…と短く空気が破れる様な音がした。深夜の静まり返った空気が、部屋の異臭と混ざり合う。オレはベランダの壁にもたれ掛かり、吐き気をなんとか落ち着かせようと務める。鼻にこびり付いた異臭は中々オレを逃がしてはくれない。
「この部屋、数日前まで知り合いが住んでいた事になっていた」
屋内から中さんが話し掛けてくる。あの人は何故あの異臭の中へ依然としていられるのか。
中さんは、箱を暫くみると興味が失せたかの様にキッチンへ立った。きっと手でも洗うのだろうか。あの異臭が落ちるとは思えないが。数分して中さんがリビングに戻って来た。
「中さん、さっきの卵」
「実はその知り合いが失踪したらしい」
「…」
オレの質問に答えないのはいつもの事なので、中さんの言葉を待つ。
中さんは箱には目もくれず、ベランダに出るとオレと同じように壁にもたれながら話を続けた。
「で、どうも部屋の様子がおかしいっつう訳で俺に仕事が来た」
「なんで、失踪したって」
「無断欠勤が6日も続いてたんだと、無遅刻無欠席だった奴が連絡も無しにある日ぱったりと来なくなった。まぁよくある話だ」
「そう、でしょうかね」
最初の卵の話と今の話が一体何の関係があるのか分からず頭がついて行かない。そればかりか、先程卵を握り潰した時中さんが一体どういう表情をしていたか、という方が何故か気になっている。
「真面目が取り柄みたいな奴だったからな。で、流石におかしいと言う話になったそうだ。男の一人暮らしで彼女も居ない。もしかしたら、家で倒れているんじゃないかってな」
「…なら、誰か家を訪ねたんですね」
「あぁ、上司と男の部下二人だ。大家はすぐに鍵を開けてくれたそうだ。このご時世若くても孤独死なんつう可能性もあり得る」
「はぁ…」
中さんは、空に視線を寄越し話を続ける。相変わらず、目に生気が無い為感情を読み取り辛い。
「部屋は綺麗だったとよ。几帳面な男で、男の一人暮らしとは思えない程にな。財布も通帳も印鑑もある。男が通勤用に使っている鞄、靴。普段使いしている風な汚れた靴。テーブルの上には卵が6つ入った編み込みの箱とコーヒーの入ったコップ、ベーコンエッグとサラダが盛られた皿とロールパン。傍らにラジカセがあったそうだ」
卵、と言う単語が出てき緊張する。「まるで、朝食だ」と漏らすと「嗚呼、とても素敵だ」とどう捕えていいのか困る返しが隣から来た。
「当然ながら、新鮮度は落ち何処から入って来たのか飯には蠅がたかっていたそうだ」
「う゛…」
「男が、外に出た形跡が無かったそうだよ。ゆうなら朝食の最中に忽然と消えた様だったとさ。スマホも置いてあって、今のご時世スマホも財布も置いて数日間も居なくなるなんて、よっぽどの事情だな」
「スマホは…使われた形跡ないんですか」
「履歴調べたら無断欠勤した日から、何も使われていなかったそうだ」
中さんは、飄々と答える。
オレは気になっていた事「机の上の卵」と口に出した瞬間それを待っていたと言わんばかりに中さんがにたりと笑ったのが分かった。夜風のせいか、それとも隣の深海魚のせいか、足元から頭まで一気に悪寒が駆け巡る。中さんは「空だったとよ」とニヤニヤとしながら言った。
「空?え?から、って何も入って無かったんですか」
「ああ、卵の底に穴が空いててな―――全て無かったってよ中身。男はその後行方不明届が出されてすぐに親御さんが家具屋ら何やら持ち出したんだがな、アレ」と視線をリビングのローテーブルとソファを顎で指すと「アレだけは、持って行かなかった。大家も全部持って行ったものと思っていたから驚いた様だ」
「なんで、持ち出さなかったんです。あんなの、外に出そうと思えば出せるじゃないですか」
やっと、吐き気が落ち着いて来たのに、リビングを見ると思い出して駄目だったので夜景を見ることにした。ちらりと中さんがまだニヤついているのが見えた。完全に面白がっている。
「言ったろ、部屋が変だとな。兎に角異臭がするんだよ。耐え難い程のな、だが何処から異臭がするのかは判らなかった、だからオレが呼ばれた」
「はぁ…あの中さんと男性ってどういう知り合い何ですか」
「一度話しただけ」
「へ?」
「知り合いと言ったろ、喫茶店で相席になった時にな話したんだよ。丁度、失踪する前日だった様だ。妙にハイテンションな男だったよ」
オレは、口を挟まず黙って聞くことにした。
「男は、俺に卵の話をし始めた。
男は卵細工を創るのが趣味だと言う。写真なんか見せられたよ、色鮮やかで置物として申し分ない出来だと思ったな。だが、最近は作らず見守っていると言った。俺が『何を』と聞くと『かえるのを』と嬉しそうに答えた。」
『中身を全て抜いたのに、穴から覗くと何かいるんですよ』
「何かと言うのは?」
『何かですよ!よく見えないんですがね、こう視界の端をちょろちょろ動くんです』
「ほぉそれは面白い」
『そうでしょう!!だからね私、孵化を待っているんです。毎日話し掛けるといいと聞いたので、毎日話し掛けながら私が居ない時は、私の好きな怪談をラジカセから流しておくんです』
「へぇ、して成長しているんで?」
『はい、日に日に大きくなっていますよ、きっともうそろそろです。楽しみだなぁ』
「男とそんな話をして別れたよ。まさかこんな形で再開するとは思っても見なかったが」
オレは顔を知らない男の姿を想像する。
真面目が取り柄で、無断欠勤など考えられない程上司や同僚に信頼されている。部屋は綺麗で、朝食もきっちりと用意するなど独り暮らしのオレの想像する成人男性像とは大きく違い出来た男性という印象を受ける。
…どうしてもズレている。卵の話を中さんにしたと言う男性と、部屋の持ち主と。オレの中で人物像が重ならない。人なんて二面性、多面性なんてあって当たり前だと思うが、会社での人物像と私生活での人物像は一致するのに、―――違和感が残ってしょうがない。
考えを巡らしている時、ある事に気付いた。あんなに気になっていたのも関わらず、頭から抜けていた。まるで本能的に知りたくない事に蓋をしたかの様に。一度気付いてしまうと、今度はそればかりに思考が偏る。
中さんが「さて、身体が冷えてきたな」など呑気な事を言いながら部屋に戻っていった。オレは、どうしても部屋に入るのが億劫で未だベランダにいた。きっと、鼻腔に異臭がこびりついているせいだ。
「中さん、」とソファに腰を降ろした背中に声を掛ける。
「風邪、引くぞ」
「空、だったんですよね?全て」
「嗚呼」
「上司と部下さんが部屋に入った時、卵は6つだったんですよね」
「嗚呼」
「この部屋は異臭が何処からともなくするんですよね」
「嗚呼」
「なら―――、入った時ってそのラジカセって起動してたんでしょうか…」
訊きながら、自分の声が震えて来るのが判る。知りたくないし、確認なんかしたくないだが…どうしようもなく気になってしょうがないのだ。中さんは短く「嗚呼」と言うと、カチリとラジカセを付けた。暫くし、はきはきとした男性の声で怪談を朗読するような内容の音声が流れてきた。音声は瞬く間に部屋を支配していく。
「―――それは、どうだろうなぁ?何故そう思う梅雨咲」
「まず…オレ達が来た時、卵は5個でした…その大家が動かしたとかって話は…」
「何も触れていないと、」
「なら、一個減っているのはおかしい。親御さんが一個減らした?だが理由が分からない。なぜ、テーブル、ソファ、ラジカセ、卵を置いていったのかも分からないんすけど…。
もし、朝食の時になんらかの用事で外の出ないといけなくなったりしたら、男性はラジカセを付けて席を外す気がするんす。勘ですが、それで無断欠勤が続いた後、上司と部下さんが部屋を尋ねる。調べるにあたって、卵が空である事を知っている…卵も多分調べたんだ。それも穴を覗いてまで…その時、誤って卵を潰してしまった。異臭はその時発生したもので…当然大家に連絡を取る。連絡を受けた時に、部屋に異変は無いのに出所の判らない異臭がする…」
最後の方は、独り言の様になっていた。
自然と足音を見ていた視線をあげ中さんを見る。中さんと目が合う。
「でも…おかしいんですよ、中さんが卵を潰した時…」
「潰した時?」
「【中身】はあった…んすよ」
「ほぉ~それは興味深い」
中さんはにたにたとしながら徐に、箱をひっくり返すと卵を床にぶちまけ躊躇い無く素足で卵を踏みつけていく。クシャ、クシャと乾燥音が響く。
「何やってんすか!!そんな事したら!!」
慌てて、中さんの元に駆け寄る。中さんは「これぐらいで大袈裟な」と馬鹿にした様に笑うと開けっ放しの窓を閉め「用は済んだ、出るぞ」とそそくさと荷物をまとめ始めた。
オレは、固まっていた。床には真っ白な砕けた殻が散らばっている。そう、真っ白だ。オレは確かに卵が汚れるのを目にしている。中さんが洗ったのは自分の手だけだ。箱の中も汚染されていない…どうなっている?
「愚図愚図するな」との声に「これは…」と声に出す。
「他に任せろ、片付けまでは依頼されていない。何、元元使えなかった部屋がいよいよ使い物にならなくなっただけの事」
中さんは飄々と言う。
オレは、兎に角この部屋に居たくないと言う感情が先走り足早に玄関に向かう。そんな時でも、愚かなのか気を紛らわす為か中さんにどうでもいい様な質問をしてしまう。
「中さんは、男性の名前知ってるんですか」
「知らないな」
玄関を出、再び外に出た後にふと思った事がある。
玄関に付いている除き穴。まるで、卵に開けられた穴の様だ。
無人の部屋に木霊する男性の声、空の卵の中に何かが居ると言った男性。
出所の判らない異臭、卵を握り潰した時の異臭…まるで、この部屋自体が卵の様だと思った。
ガチャンと鍵の掛かった音がした。
「明日、大家に報告だな。梅雨咲お前を連れてきて良かったよ」
「はぁ…」
何をされたわけでもない。ただ訳の分からない恐怖が纏わりついてきて、震えが止まらない。
階段から、下階に居りつつあの黒い物は?なぜ卵は汚れていなかった?余計な事を考えすぎる。
何より、中さんは何故名前も知らぬその場に居ない男性に対し『まさかこんな形で再開するとは』など言ったのだろうか?大家が写真でも見せた?そもそもピンポイントで大家が写真なんか持っているものだろうか。上司、同僚の話にしても誰かから聞いて風な言い方をしていた。
それから、何故あの卵だけ中身?があったのか?中さんには見えていなかった?だがあんなに執念に握り潰していたのに?
すっきりとしない脳内は、ただいたずらに恐怖を増長させるだけだ理解していながらも思考が止められない。
マンションを出た後、中さんが振り返りざま「ラジカセの声、男の声だったよ」と言ってきた。
お目汚し失礼いたしました。