第5話
翌日、わたくしは朝早くから、大きな旅行鞄を前に必要最低限の荷物をまとめていました。
荷物を整理するために部屋を往復していると、その姿を奇妙に思ったぼっちゃまが、わたくしを追って部屋までやって来られた。
「朝早くから、おまえは一体、何をしているんだ?」
ふいに背中から声を掛けられ、ドキリとする。それでもわたくしは、手を休めることなく言いました。
「出て行くんです。もう、こちらにはいられませんから」
「出て行くだって?」
ぼっちゃまは驚きを隠さず言い、わたくしの正面に回ると、その目をじっと見据えて厳しく詰め寄りました。
「どういうことだ。出て行くなんて話、聞いた覚えはないぞ。もちろん、許可した覚えもない」
そして、鋭く睨みつける。並大抵の女の子だったら、ここで泣きだすか、逃げ出すかしていたでしょう。でも、わたくしはそんなことはしません。あごをくいっと持ち上げ、ぼっちゃまの目をしっかりと見つめ返して言います。
「ええ、言ってません。たった今、初めて言いましたから。ぼっちゃまにも、これからお話しようと思っていたところだったんです」
「俺が、許可すると思うか?」
ぼっちゃまの視線が、きつくなる。それでもわたくしは、屈しませんでした。
「そう簡単に認めてくださるとは思いませんが、わたくしも、意志を変えるつもりは毛頭ありません。わたくしは、今日付けでこの御屋敷を出て行きます」
「強情な女……」
ぼっちゃまが、悔しそうに歯ぎしりをなさった。
「なんとでもおっしゃい。とにかく、わたくしの意志は変わりません。後任の方には、すぐに来てくれるよう頼んでありますから」
荷物をまとめたいので、そろそろ解放していただけませんか、と言うと、ぼっちゃまは急に苦い顔になって、言いにくそうにおっしゃった。
「……本当に、出て行ってしまうのか?」
「ええ、出て行きます」
言った瞬間、わたくしの視界は真っ暗になりました――それが何を意味しているかは、理解するにそう時間はかかりませんでした。ぼっちゃまが、わたくしを胸に抱きしめたのです。
「ぼっちゃ、ま……?」
「俺は嫌だ!」
叫び声に、涙が交じる。
「おまえのうまい料理が食べられなくなるなんて、俺は嫌だ!」
わたくしを抱きしめていたぼっちゃまの力が、一段と強くなる。しかし、わたくしは、その言葉に一種の疑問を感じていました。
――わたくしを放したくないのは、おいしい料理が食べられなくなるから? つまり、放したくないのは、わたくしではなく、わたくしの料理……?
わたくしは、全身の力が抜けていくのを感じました。
「料理だけですか? わたくしをそばに置いてくださるのは、わたくしの料理だけが理由ですか?」
答えはない。
「料理なら、わたくしより上手な方は五万といます。わたくしでなければならない理由は……」
「料理だけじゃない。掃除だって、洗濯だって……おまえがいなかったら、この屋敷はやっていけない」
ぼっちゃまはそう言うと、より一層、わたくしを強く抱きしめました。
わたくしは胸がきゅうっと締め付けられるのを感じながら、ぼっちゃまのその体を、そっと引き剥がす。そして、小さく溜息を吐いた。
「やっぱり、ぼっちゃまは、わたくしと母上様を重ねていらっしゃるのね」
わたくしの言葉に、彼は首を横に強く振りました。
「そうじゃない。俺は、本気でおまえと結婚したいと思っている。おまえでなければダメなんだ」
真剣な眼差しに、ドキリとする。慌てて、目を逸らした。これ以上見つめられたら、せっかくの決心が鈍ってしまう。「ぼっちゃま、わたくしは……」
「おまえには、俺なんか、ほんの小さな子供にしか思っていないってことも分かっている」
見ていたんだ、と彼は言いました。
「昨日、裏庭のポプラの木の下で、おまえが……その、若い男と抱き合っているところを」
その瞬間、全身に雷が落ちたかのような衝撃を感じました。彼を振り向き、目を見開く。しかしぼっちゃまは、顔をしかめたまま、居た堪れなさそうに視線を逸らしていらっしゃいました。
――どうして、ぼっちゃまがそれを?
驚きのあまり、わたくしは、ぼっちゃまが精霊さまの御姿をその目で見ることができるということを忘れていました。それに、ぼっちゃまがあの場にいらっしゃったことも気づきませんでした。精霊さまの御姿が若い男性で、ぼっちゃまの目には、わたくしが彼と抱き合っているように見えていたことも、まったく知らなかったのです。
「分かってはいるんだ……おまえには、俺なんかより、ずっとふさわしい相手がいることくらい。おまえが、昨日抱き合っていたあの男を好いているってことも。今だって、この屋敷を辞めて、そいつのもとに行こうとしていたんだろう?」
責めるような彼の言葉が、心なしか、悲しげに聞こえました。
――違う。違うのに。わたくしが言いたいのは、決して、そんな言葉じゃない。
彼のその言葉は、昨日、自ら突き放したときよりも、ずっと深く胸に突き刺さっていました。
「俺がいくらおまえを求めても、おまえはそれを望んでいない」
わたくしは、その言葉を聞きながら、両の拳を握りしめ、唇を強く噛み締めました。
「それでも……俺は、おまえが……ホリーのことが、好きなんだ」
思わず、涙があふれそうになりました。でも、ここで泣くわけにはいかず、口元を押さえて、嗚咽をもらさぬように必死でこらえなければなりませんでした。
――ああ。もし、そのお言葉に、頷くことができたなら。
叶わぬ望みだとは分かっております。ぼっちゃまにふさわしいのが誰なのかも、重々承知しているつもりです。でも、考えずにはいられませんでした。
真っ白いタキシードを着たぼっちゃまの横に、花嫁衣装に身を包んだわたくしが寄り添っている。ポプラの木の下で、ひっそりとした結婚式を行う。精霊アルベロさまに見守られながら。
――いつか、あの木の下で。
幼い頃は、いつもそう思っていました。それぐらいに、わたくしは、ぼっちゃまのことが大好きで、いつかは彼とともに、両親のような幸せな家庭を築けたらと願ったものでした。
亡くなった祖父は執事だったようですが(祖父母とも、わたくしの生まれる前に亡くなったので、覚えていないのです)、祖母は、ぼっちゃまと同じタンジー家の出だったといいます。なんでも、執事としてそばにいた祖父のことを、これ以上ない相手だと確信した祖母が、父と兄に申し出て、結婚の許しを乞うたとか。
わたくしはその話を聞いたとき、なんと情熱的な女性なのだと思いました。そしてその彼女の血が、わたくしにも流れているのだと思うと、胸が熱くなるようでした。
「……わたくし、ぼっちゃまを愛しています」
そう、わたくしは、間違いなくぼっちゃまを愛している。
「だったら何故拒む?」
若干苛立ったような彼の問いに、わたくしは静かに自問してみた。
答えは、すでに分かっていた。
「ぼっちゃまは、やはり誤解していらっしゃいます。わたくしは、ぼっちゃまを愛していますけれど、恋焦がれているわけではありませんのよ?」
わたくしの、ぼっちゃまに対する本当の気持ち。その『愛』の形は、幼き頃に抱いた淡い気持ちよりも、はるかに強く、屈しがたいものでした。
「……何が違うんだ」
ぼっちゃまの声は、苛立ちの色を増していました。でも、わたくしは、動揺することなく、諭すように答えます。
「全然違います。『愛』と『恋』は、似て非なるものです」
『恋』とは、まさしくリースさまとノエルさまが、互いに感じていらっしゃるお気持ち。わたくしの『愛』は、それとはまた違うものだ。
リースさまとノエルさまが互いに恋をし、愛し合っているのなら、わたくしが取るべき道はただひとつ。
――おふたりが幸せになれる方法を、考え、行動に移すこと。
わたくしは、ぼっちゃまの目をしっかりと見据えると、こう続けました。
「仕方がありませんね。もう少し、こちらでお世話になることにいたします」
ぼっちゃまの顔に、みるみるうちに笑みが浮かんでいく。
「ただし、ひとつだけお願いがあります」
「お願い?」
わたくしは、ぼっちゃまの目を見据えたまま、大きく頷いてみせた。
「ノエルさまに、ぼっちゃま自身のお気持ちを、ちゃんとお伝えになってください」