第3話
翌日から、ノエルさまがタンジー邸で暮らすことが決まりました。
まだ正式に婚約が決まったわけではないようなのですが、お父上さまのタンザナイト伯爵の言うことには「いずれはタンジー邸で暮らすことになるだろうから、今のうちに新しい家での暮らしに慣れておくように」とのことでした。
今は緊張していらっしゃるノエルさまも、しばらくリースさまの御屋敷で一緒に暮らしていれば、そのうち慣れてくるでしょう。
しかし、リースさまの反応は、わたくしや伯爵さまが望んでいたものとは全く違うものでした。
「何故あんたと毎朝毎晩、顔を合わせなくちゃならないんだ。私は、正式に結婚の儀を終えてからでも十分だと思うが」
まあ、なんて言いよう! そんな言い方をされては、ノエルさまが心を開けないのも、当然のことです。
「リース、そんな言い方はないでしょう。ノエルさまは、緊張していらっしゃるのですよ。もっと優しい言い方はできないのですか」
「私には関係のないことだ」
わたくしに注意されたのがおもしろくなかったのか、ぼっちゃまはそう吐き捨てると、さっさとどこかへ行ってしまいました。
「大丈夫ですよ、ノエルさま。わたくしがついていますからね」
わたくしは怯えるノエルさまを安心させるように微笑みましたが、それでも、彼女の顔は強張ったままでした。
その日の夜、リースさまから頼まれていた寝酒のワインを手に、彼の寝室へ向かっていたときのことでした。
「ぼっちゃま。寝酒のワインをお持ちしました」
数回ノックをして声を掛ける。だが、返事はない。いつもなら、すぐに出てきて、用事が済むとさっさとドアを閉めてしまわれるような方なのに。
「ぼっちゃま? どうかなさいましたか?」
それでも、返事はない。
ドアにぴったりと耳をつけて、両の耳を研ぎ澄ませる。すると、ぼっちゃまの部屋(主寝室)と隣り合った奥の間から、言い争うような声が聞こえてきました。
「……じゃないっ!」
「……何を……だって……だろう?」
「……そんな……だわ!」
タンジー子爵と使用人のわたくし、それから婚約者のノエルさましかいないこの御屋敷で、誰と誰が言い争っているかは考えなくても分かります。それに奥の間は、ノエルさまが宿泊していらっしゃるお部屋です。
わたくしは足音を忍ばせて隣の部屋の前に移ると、同じように耳をそばだてました。
「わ、わたしに指一本でも触れたら……えっと……お、お父様に言いつけますから!」
震える声で、ノエルさまがおっしゃる。
お可哀想に、怯えていらっしゃるんだわ。ああ、今すぐにでも飛び出して、慰めて差し上げたい。
それにしても、ノエルさまにそこまで言わせるなんて、リースは何をしようとしたのかしら? まさか、ぼっちゃまは、そこまで野暮ではないはず……。
「触れるかっ!」
苛立ったような彼の声が聞こえて、バタンと扉の閉まる音がしました。それからすぐに、ガチャリと鍵がかかる音が――この音は多分、主寝室と奥の間と繋げているドアの音でしょう。
今の音でぼっちゃまが部屋に戻ったらしく、部屋の中が急に静かになる。わたくしが声をおかけするのも何だかためらわれる気がして、そっとその場をあとにした。
それから、隣のぼっちゃまの部屋の前を通ったとき、ドアのそばに置いていたワインがなくなっていることに気付きました。
そういえば、あとでお渡ししようと、ドアの前に置いたままにしていたんだっけ。それがなくなっているということは、ぼっちゃま自身がドアを開けたときにワインの存在に気付き、受け取られたということでしょう。
そして、ぼっちゃまがこうして酒をあおるのは、前回の見合い話を聞いた日に続いて、2度目。それも滅多にないこと。
わたくしは急に心配になって、主寝室のドアを叩きました。
「ぼっちゃま! ぼっちゃま、いらっしゃるのでしょう?」
ドアは、すぐに開きました。いつにも増して不機嫌そうなぼっちゃまが、右手にワイングラスを持ったまま、左手でドアノブを回して顔を出します。
「……何だ、騒々しい」
「寝酒のワインを所望した時点で、気付くべきでした。ぼっちゃまがこうやってお酒をお飲みになるなんて、考えてみたら、滅多にあることじゃないのに」
ぼっちゃまが、ふうと溜息を吐かれる。
「……酒を飲むくらい、いいだろう。自分の屋敷で、自分の金で買ったものを飲んでいるんだ。それが何か問題あるか?」
「大ありです!」
わたくしは、これまでにないくらいの大きな声で叫びました。ぐいっと詰め寄り、後ろ手でドアを閉めながら言う。
「ぼっちゃまは、普段あまり飲まれない代わりに、何か不安や不満を抱えているときにお酒を欲しがるのです。そしてそういうときは、大抵、飲みすぎるくらい飲まれます――お体を壊されるんじゃないかというくらいにね。わたくしは、それが心配なのです」
ぼっちゃまの手から、ワインの入ったグラスがスルリと抜け落ち、絨毯の敷き詰められた床を派手に濡らした。
掃除をしようと屈みこんだわたくしの手が、サッとつかまれる。
「ぼっちゃま?」
顔を上げるとほぼ同時に、あごをつかまれた。
ぼっちゃまの左手はわたくしの右手を、ぼっちゃまの右手はわたくしのあごを、そしてぼっちゃまの切れ長の瞳はわたくしの目を射るように見つめている。
「ぼっちゃま……」
声にもならない息がもれる。ぼっちゃまの視線が、少しきつくなった気がいたしました。
「……またか」
「え?」
ぼっちゃまの手に、力がこもる。
「おまえは、いつもそう、俺を子供扱いする。心配だとか、弟みたいだとか。そんなことを言われて、俺が嬉しいと思うか」
すぐには、答えられませんでした。
心配しているのは事実ですし、幼い頃からずっと見てきた彼を弟のようにしか思えないのも事実。けれど、大事なのは多分そこじゃない。
「……年下では頼りないか。やはり年上の男がいいのか。俺は、いつもおまえをあとから追いかけるしかできないのか」
ゴツンと、後頭部がドアに当たった。いつのまにか、ぼっちゃまに気圧されて後ずさりしていたらしい。
「ホリー」
名前を呼ばれて、視界を覆われた。左側は、ぼっちゃまがわたくしのあごを掴んでいる右腕で。そして右側は、ぼっちゃまがたった今、壁に突き立てた左腕で。
「ホリー」
もう一度、名前を呼ばれる。その声には、わたくしの知っているぼっちゃまにはない、ひどく甘やかな響きがありました。
「ぼっちゃ……」
開きかけた口を、今度は口で覆われる。
そのキスは、ひどく官能的で、ひどく情熱的でした。息が止まりそうになり、実際、何度かふらついてしまったくらいです。そしてそのたびに、ぼっちゃまは口づけを交わしながら、優しく抱き留めてくださいました。
ようやく唇が離れたときには、ぼっちゃまも、わたくしも、荒い息をしていました。
息を整えながら、わたくしの目をじっと見据えて、彼は言います。
「……これでも俺のことを子供だというのか、ホリー?」
とても、首を上下には振れませんでした。その代わり、小さく首を横に振ると、ぼっちゃまの口の端が、愉快そうに歪みました。
「やはり、ホリーは俺の期待を裏切らないな」
しかし、ふと隣の奥の間の方を見やったかと思うと、途端に物憂げな顔になって、溜息をお吐きになる。
「……いっそのこと、おまえが妻ならばよかった。おまえなら、こんな苦しい想いをせずに済んだのに」
おまえが妻なら。不覚にも、その一言にドキリとしてしまう。
ぼっちゃまほどハンサムな方にそんなことを言われたら、誰だって本気にしてしまうでしょう。いえ、わたくしは自分の身の上を弁えておりますから、決してそんなことはないのですけれど。
それでも。
「ホリー」
今のように名前を呼ばれて、真剣な瞳で見つめられたりすると、普段の抑制などなかったかのように、体の奥が熱くなる。
「……リース」
思わず、彼の名を呼んだ。
彼はそんなわたくしを抱きしめ、それから絞り出すような声で、わたくしの耳にささやく。
「おまえが好きだ」
その瞬間、わたくしの中で、時間が止まったように感じました。ぼっちゃまの言った言葉が、頭の中をぐるぐると回り続けている。
――おまえが好きだ。
確かに、彼はそう言った。おまえが好きだ、と。
「わ、わたくしも……ぼっちゃまのことは、好きです。幼い頃から、ずっと見続けてきましたから。でも」
声が震える。舌がもつれて、うまく言葉が出て来ない。
「わたくしの考えている『好き』の気持ちと、ぼっちゃまの考えていらっしゃる『好き』のお気持ちは……たぶん、違うものです」
「違う?」
ようやく、ぼっちゃまが体を離し、わたくしの目を見た。それに応えるように、小さく頷いてみせる。
「ぼっちゃまは、誤解されているだけです。ぼっちゃまは、早くに母上様を亡くされましたから。きっと、わたくしと母上様を重ねているだけなんです」
いやな沈黙が、二人を包む。
「……おまえまで、俺を拒むのか」
ぼっちゃまがようやく絞り出したその声は、いつもの堂々とした彼らしくない、ひどくかすれた声でした。
「そうではありません」
わたくしも、そう言うのがようやっとでした。
「だったら何故!」
「ならお聞きします。ぼっちゃまの中で、わたくしの存在はどのようなものですか? どれほど価値のあるものですか?」
「それは……」
ぼっちゃまが口ごもる。そう、ぼっちゃまがその質問に答えられるはずがないのです。
――ぼっちゃまにとって、わたくしは、使用人以上、姉以下、母親未満。
長年彼の行動を見ていれば、彼が何を考え、どう感じているかくらい、痛いほど分かります。もちろん、ノエルさまへのお気持ちも。
「本当は、ノエルさまを一番に想っていらっしゃることを、わたくしは知っています。だからなんでしょう?」
本当は、ノエルさまとの結婚だって嬉しいはずなのです。幼い頃からずっと、想い慕ってきた相手なのですから。
でも、彼には接近の仕方がわからなかった。だから、ノエルさまが「指一本でも触れたら、お父様に言いつける」というほど、激しく拒絶されてしまった。そして、その悲しみを癒すため、幼子が母親に甘えるように、わたくしのことを求めた。
「ぼっちゃまは、わたくしを一種の慰めにしていらっしゃるだけなんです。母上様の代わりにしていらっしゃるだけなんです。それは、恋ではありません」
何も言わないぼっちゃまをよそに、わたくしは畳みかけるように言いました。
「ノエルさまに対して感じていらっしゃる大切なお気持ちを、どうして誤魔化そうとなさるのです? どうして大切なノエルさまに、あんな冷たい仕打ちができるのです?」
ぼっちゃまは間違っていらっしゃいます。わたくしは彼の目を覗き込むと、はっきりとそう申し上げた。
「誰かを好きになるということは、ちっとも恥ずかしいことではありませんよ」
そして、わずかに口角を上げ、微笑んでみせる。しかし、ぼっちゃまは居た堪れなさそうに目を伏せると、呟くようにおっしゃった。
「違う、俺は……」
両の拳を握りしめ、唇は、わずかに震えている。
ぎゅっと抱きしめ、慰めて差し上げたいのを、ぐっとこらえ、わたくしは敢えて厳しく言い放つ。
「ノエルさまに、ちゃんとご自分のお気持ちをお伝えした方が良うございますよ」
ぼっちゃまが息をのむ気配がした。
「それでは、失礼いたします。おやすみなさいませ」
わたくしは腰を折ると、いつもと変わらない就寝前の挨拶をしました。顔を上げ、去っていくときには、きっといつものように笑えていたことでしょう。