第2話
後日、タンジー邸に、お客様がお見えになりました。
先日ぼっちゃまが言っていた見合い相手――ノエルさまと、その父親ジルコン・タンザナイト伯爵さまです。
久しぶりに会ったノエルさまは、年月を経て、すっかり美しくなっていらっしゃいました。(いつもは冷静なぼっちゃまでさえ、そわそわされているくらいですから、相当お綺麗だったのだと思います)
「ご機嫌麗しゅう存じます、タンジー子爵さま」
そう言って優雅に腰を折る姿も、もはや、あの頃の幼い少女ではありません。立派なレディそのものです。
「お久しぶりです、ノエルさま。お会いしたかったですわ」
わたくしの言葉にも、ノエルさまは、にっこりと微笑んでくださいます。
「こちらこそ、またお会いできて光栄よ、ホリー」
ああ、まったく、なんてかわいらしいのでしょう!
それに比べてリースさまときたら、タンザナイト伯爵さまが挨拶をされても、ノエルさまがいくら微笑んでも、そっけない受け答えをするばかり。愛想がないにも程があります。
「せっかく、タンザナイトさまとノエルさまが来てくださったんですから、少しは嬉しそうにしたらどうなんですか」
独り言のように呟くと、隣から、不機嫌そうに鼻を鳴らす音が聞こえました。本当、ぼっちゃまったら、これだからしようがない。
「……もう。ノエルさまに愛想を尽かされても、わたくしは知りませんからね」
そう言ってやったら、彼はわたくしを睨み、怒ったようにおっしゃった。
「誰が愛想を尽かされるって? 冗談じゃない。誰にでも愛嬌を振り撒いているような女に、愛想を尽かしているのは私の方だ」
彼の口から放たれた衝撃的な言葉に、思わず、目を丸くした。
普段ならタンザナイト伯爵さまのような目上の方がいる前で、そんな失礼な発言をするはずがないのですが、今日に限って、一体どうしてしまったのでしょう。
よりにもよって、ノエルさまご本人がいらっしゃる前で。
「何をおっしゃってるんですか。そんな言い方、あんまりに失礼じゃありませんか。 “誰にでも愛嬌を振り撒く” だなんて……わたくしが知っている限り、ノエルさまはそのような方ではありませんよ。ぼっちゃまが “愛想がない” だけじゃないんですか」
「ホリー、おまえ、誰に向かってそんな口を……」
「わたくしのかわいい弟にです。弟の失礼を叱りつけるのは、姉の役目ですもの」
さすがのぼっちゃまも、そのひとことは効いたらしい。舌戦では、わたくしに勝てないと判断したらしく、つまらなそうに顔を背けました。
「リースさま……」
蚊の鳴くような声で、ノエルさまが呟く。その声に振り向いた彼が、吐き捨てるように言った。
「私は、父上が大切にしてきたこの土地を守り継いでいくために、あんたと結婚するんだ。断じて、それ以上の気持ちはない――分かったら、二度とその名で呼ぶな」
ノエルさまの小さな唇が、わずかに震えているのが分かりました。顔はみるみるうちに青ざめ、紅潮していた白い頬には、ほんの少しの赤らみも消え失せていました。
「リース!」
わたくしが声を張り上げると同時に、ノエルさまはクルリと踵を返し、逃げるように走って行かれた。
「ノエルさま! お待ちくださいませ!」
わたくしは、慌ててそのあとを追いました。今は、そうすることが一番だと思いましたから。
タンザナイトさまのことをぼっちゃまに任せ、わたくしは、ノエルさまのお姿を探しました。
いえ、正直に言えば、心当たりがあったのです――彼女の行きそうな場所に。
そうして、わたくしがやってきたのは、このタンジー家の御屋敷の裏庭にある、大きなポプラの木の前でした。
そこには、わたくしが予期していた通り、ノエルさまの姿がありました。
何故分かったのかと聞かれれば、それは、ここがわたくし達の思い出の場所だからとしか言いようがないでしょう。
まだノエルさまが幼かった頃、彼女とぼっちゃまとわたくしは、いつもこの場所で遊んでいました。
ポプラの木を見上げては、「ポプラの木の精霊がいる」と言い張るぼっちゃまと、「精霊なんかどこにもいない」とおっしゃるノエルさまとで、何度も言い合いになりましたっけ。
わたくしが、どちらにつくこともできずに困り果てていたりすると、途端に母がやってきて、ぼっちゃまを叱りつけたり……。
何だかんだ言っても、わたくし達3人は、とても仲が良かったのです――先程のぼっちゃまの様子からは、とても想像がつかないかもしれませんけれど。
「ノエルさま」
わたくしが声をかけると、木の前に立っていた彼女が、驚いたようにこちらを振り向きました。
それを見届けてから、わたくしは、ゆっくりと近づき、そしてこう続けました。
「リースも、本心から言っているわけじゃないと思うのですよ」
だから気にする必要はありません、と言うようにそっと微笑んでみせる。しかし、それでノエルさまの強張った表情が和らぐことはありませんでした。
「ノエルさま……」
ああ、きっと、彼女は緊張していらっしゃるのだ、と思いました。わたくしが、もしノエルさまのお立場だったとしても、同じく緊張していたと思います。
今から自分の婚約者と会わなければならない。しかもその婚約者は、十数年ぶりに会う幼馴染で、かつて淡い想いを寄せていた相手なのだ。緊張しないはずがない。
それで、久しぶりに会ったその幼馴染が、成長してハンサムな男性に――いや、 “ものすごく” ハンサムな男性になっていたとしたら、ときめく女性も少なくないでしょう。
「分かりますわ、わたくしも同じですもの」
だからあなたの気持ちがよく分かる、心配する必要はない、と言おうとしたのに、ノエルさまは何のことか分からないという風に小首を傾げてみせる。
少し間が空いて、わたくしが場違いなことを言っていたと分かると、とたんに恥ずかしくなりました。
慌てて顔を覆うわたくしをよそに、ノエルさまは、静かにおっしゃいます。
「……ホリーは、リースさまのことをよく見ていらっしゃるのね」
わたくしには、彼女がなぜこんなことを聞くのか、分かりませんでした。
「ええ、そりゃあまあ……。ターコイズ家の者として、ずっとタンジーさま(先代子爵さま)とリースさまにお仕えしてきましたから」
我がターコイズ家は、代々タンジー家に仕える住み込みの使用人です。現に、亡くなった父は執事でしたし、わたくしも亡き母と同じ、メイドとしてお仕えする身です。リースぼっちゃまのことは、彼が赤ん坊の頃から見てきましたし、彼の事なら何でも知っている自信もあります。
しかしノエルさまは、わたくしの言葉に、小さく首をお振りになりました。
「そうじゃないの。わたしが言っているのは……」
わずかに間が空いて、彼女が息をのむ気配がした。
「ホリーは、使命感だけのためにリースさまを見守り続けてきたわけではないでしょう?」
「……どういう意味でしょうか」
たぶん今のわたくしは、すごく引きつった笑顔になっていると思う。それほど、ノエルさまの真っ直ぐな視線は、わたくしの胸を鋭く突き刺していました。
そして彼女は、そんなわたくしに向かって、衝撃の言葉を投げつけたのです。
「ホリーは、リースさまに恋していらっしゃる。一人の女性として、彼を愛していらっしゃるわ」
思わず、目を見開く。心臓は激しく高鳴り、全身が心臓になったかと思うほど耳の奥で強く鳴り響いていた。
――わたくしが、ぼっちゃまに恋をしているですって?
ありえない、彼はわたくしの雇い主なのだから。単なる主従関係、断じてそれ以上の気持ちはない。
それなのに、慌てて否定しようとした声は、ひどくかすれて、極寒の地にいるみたいに震えていた。
「そんな……リースさまは、わたくしの主人ですよ? わたくしは単なるメイドです。そんな気持ち、抱くはずがないじゃありませんか」
けれどノエルさまは、静かに二度、首をお振りになりました。
「誤魔化す必要はないわ、わたしには分かるから。あなたは、いつもわたしを子供扱いしてばかりだったけれど、わたしにだって、それぐらい分かるのよ」
分かる? 一体、何を?
「わたしは、もう子供じゃないもの」
ノエルさまが何をおっしゃっているのかは分からないが、彼女のその言葉には、はっきりとした意志と強気な態度が感じられました。その姿は紛れもなく立派な成人女性のもので、あの頃の幼い “ノエルお嬢様” の姿は、どこにもありませんでした。
そうして、立派な大人の女性となったノエルさまは、わたくしの目を覗き込むと、もう一度言いました。
「あなたは……ホリーは、間違いなくリースさまに恋していらっしゃるわ」