第1話
ある夜、わたくしがリース・タンジー子爵さまのお部屋を訪ねると、彼は寝室のベッドのふちに浅く腰を掛け、珍しくお酒をあおっていらっしゃいました。
銘柄を見れば、屋敷に置いてあるお酒の中でも高級で、尚且つ度数の高いもの。一体いつ持ち出したのでしょう。きっと、わたくしの目を盗んで、厨房から持ち出したに違いありません。
だって、この御屋敷のすべてを管理しているのは、ここ、タンジー子爵邸ただひとりの使用人――わたくし、ホリー・ターコイズなのですから。
由緒正しき子爵家の家系であるタンジー家に生まれたリースさまと、タンジー家に代々仕える使用人一族――ターコイズ家に生まれたわたくしは、幼い頃からこの御屋敷で共に過ごしてまいりました。いわば、わたくし達は幼馴染なのです。年齢でいえば、わたくしの方が、ぼっちゃまより3つ年上でしたけれど。それでも、とても仲の良い幼馴染でした。
それから、リースさまの父親、つまり先代の子爵さまが亡くなられて、早いもので5年が経ちました。その間、わたくしはずっと、ぼっちゃまのことを支え続けてきました。
10年ほど前に、わたくしの両親(父は執事を、母はメイド長を務めておりました)が相次いで亡くなり、そのときは、ぼっちゃまがわたくしを支えてくださいました。
だから、これはお返しなのです。かつて、ぼっちゃまが、両親を失って嘆いていたわたくしに優しく手を差し伸べてくださったことへの、他ならない恩返しなのです。
亡き父親の跡を継いで、子爵さまになられたぼっちゃまをお支えすることこそが、わたくしの最大の務めだと、そう思っております。
ぼっちゃまを支え、見守り、そして彼の体を気遣うことが、わたくしの役目。理由はどうあれ、自分の体のことなどおかまいなしに深酒なさるところを、易々と見逃すわけにはまいりません。
わたくしは、ぼっちゃまの前に進み出ると、その大きな手から、酒の入った瓶を取り上げて言いました。
「深酒は体に良くありませんわ、ぼっちゃま」
すると彼は俯けていた顔を重たそうに持ち上げて、わたくしをギロリと睨むと、こう吐き捨てました。
「……おまえは、相変わらず俺を子ども扱いするのだな」
それは、幼い子供が言う一種の強がりのように、わたくしには思えました。だって、今は子爵さまといえど、わたくしにとっては永遠に、彼は幼馴染のリースぼっちゃまなのですから。そしてリースぼっちゃまは、ひとりっ子だったわたくしにとって、大切な弟のような存在でした。
「わたくしには、いつまでも子供のままですわ。守ってやりたい、大切な弟みたいな存在ですもの」
そう言うと、ぼっちゃまがわずかに苦い顔をしたように見えました。恐らく、わたくしに子ども扱いされたのが面白くないのでしょう。確かに、世間的に言えば、ぼっちゃまは、もう子供という年齢はとうに過ぎていらっしゃいますから。
でも、まだほんの小さな頃から、二十数年のときを共に過ごしてきたわたくしに、今更「子供扱いするな」というのも無理な話です。大切な弟だと思って過ごしてきた存在は、いつまで経っても、永遠に “大切な弟” のままなのですから。
すると突然、ぼっちゃまが、わたくしの手の中の酒瓶に手を伸ばしました。
「……そんなことは、どうでもいい。それより、酒を返してくれ」
慌てて、彼の手の届かないところへ、瓶を高く持ち上げる。冗談じゃない。これ以上飲まれたら、ぼっちゃまは本当にお体を壊してしまいます。
「いけません、ぼっちゃま。今日は、いくら何でも飲みすぎです。いつもなら、ほんのたしなむ程度ですのに……。あまり無理をされては、体の方がびっくりしてしまいますわよ」
「眠れないんだ。こんな日は、酒でも飲まないとやってられない」
その言葉に、わたくしは、あっとひらめくものがありました。
「もしかして……何かいやなことでもおありでしたの? わたくしでよろしければ、話をお聞きしますけど」
酒瓶をサイドテーブルに置き、ぼっちゃまの隣に腰を掛けて、彼の手を取る。こうしてみると、いつもは強気なぼっちゃまが、珍しく不安に怯えているのが分かります。
「……ぼっちゃま」
彼は居た堪れなさそうに目をそらすと、衝撃の言葉を放ちました。
「今度、見合いをするんだ」
わたくしは一瞬、自分の思考回路が止まってしまったかのように思えました。
――見合い、ですか? ぼっちゃまが?
考えてみれば、ぼっちゃまはもう28歳。この辺りの町でも、そろそろ結婚していてもおかしくはない年齢です。おまけに、ぼっちゃまは、ご両親譲りのハンサムな容姿をされていらっしゃいますから、世の女の子たちが彼を放っておくはずもありません。
それでも、わたくしは何故か、ぼっちゃまが急に遠い所へ行ってしまわれたような気がしてなりませんでした。最初から、ぼっちゃまがわたくしのものだと決まったわけではないはずなのに……。
「近隣の荘園を治めている、タンザナイト伯爵のお嬢さんだそうだ。歳は24歳。名前を、ノエル・タンザナイトという」
「ノエルさま!」
その名前に、聞き覚えがないはずは、ありませんでした。何を隠そう、ぼっちゃまとわたくしの幼馴染で、わたくしにとっては可愛い妹のような存在なのです。
「懐かしいですわ。ノエルさまがまだ幼い頃は、この屋敷でよく一緒に遊んでいましたっけ」
そう……わたくし達3人は、いつも一緒でした。ときどき、リースぼっちゃまがノエルさまをからかうようなことがあると、すぐにわたくしの母が飛んできて、ぼっちゃまを叱りつけていたものです。そしてそのたびに、ノエルさまを慰めるのは、わたくしの役目でした。
それを言ったら、ぼっちゃまは面白くないという風に、顔をしかめました。口では「そんなことは、どうでもいい」などと言いながら。
「問題は、この見合いのことだ」
「まあ。何の問題でしょう? ぼっちゃまは昔から、ノエルさまを気に入っていらしたじゃありませんか。それに、ノエルさまだって……。問題なんか、どこにもないように思えますけれど」
わたくしには、このお見合いの件で、ぼっちゃまが深刻な顔をなさる理由が分かりませんでした。リースぼっちゃまとノエルさまの婚姻は、双方にとっても、良いことのはずだと思いましたから。
「これは、ただの見合いじゃない。互いの土地と財産がかかった、政略結婚なんだ」
それを聞いて、ああ、そういうことか……と思う。
ぼっちゃまは、つまり、この縁談が『政略的』なものであることに、一種の反発を感じていらっしゃるのです。それと、今更想いを告げるわけにはいかないという、男としてのプライドもおありなのでしょう。
ぼっちゃまは、とっても真面目な方で、その分、一度言い出したら、絶対に自分からは意見を曲げないというところがありますから。
それでも、わたくしは知っているのです。
リースぼっちゃまが、幼い頃からずっと、ノエルさまだけを見ていらしたこと。
そして、その想いが単なる幼馴染としての感情ではなく、ひとりの男性として、好いた女性に淡い恋心を寄せる気持ちなのだということも、気付いておりました。
今回の縁談だって、本当は嬉しいはずなのです。でも、ぼっちゃまのことですから、素直に嬉しいとは言えないのでしょう。ぼっちゃまは、昔から、そういう方でしたから……。
わたくしは、何とかして、そんなぼっちゃまのお力になれたらと思いました。というよりも、わたくしには、お二人のことが放っておけないのです。
その瞬間から、わたくしは強く決心しました。
――リースさまとノエルさまのこの縁談を、必ず成功させてみせると。