まじまじと、ソイツを見つめた
イイイィン――。
雷の余韻がずっと耳の中で響いていた。
しん……、という音がしそうな程の静けさ。
【男】の放った一閃は悪鬼や屍鬼どもを一層していた。
ばさり、とシルヴィが態勢を立て直してくれた。
そこからは、人界への光がぐんぐんと近くなる。
唐突に、俺達は人界に戻った。
はあ。はあ、は、あ……っ!!
俺達は三者三様に荒い息遣いをした。
後ろを振り返ると、俺達が飛び出してきた冥界からの出口は見る見るうちに小さくなる。しゅっ、とか言いながら閉じてしまった。
これで暫く奴らは追ってこれない。
振り返ろうとしたら、【男】の顔が目いっぱい映り込んでいた。
――何時の間に。
俺が、ここまで接近されて、動きが取れないなんて。
【男】が俺に唇を寄せてくるのを、ただ待っていただけだなんて。
カサカサな木としか思えなかったのに。
【男】のそれが俺の唇に触れてくるにつれて、どんどん感触が柔らかくなっていく。
肌も、人の色になってきた。
木の皮か、髭根だと思っていた部分は、【男】の髪や髭になった。
肌が本来の色を取り戻してくると、【男】の髪は褐色で、瞳は碧色だとわかった。
【男】は完全な柔らかさと温かさ、血を取り戻していた。それなのに、俺に触れるのをやめようとはしない。
相手を突き飛ばそうした動きを利用して、捕えられる。かえって深く口づけられてしまった。
「ん……」
――なに、この声?
どこかに女の子がいるの?
――シルヴィ?
ううん、彼女よりも細い声のような気がする。息苦しくて口を離した途端、声が漏れた。
「あ……」
慌てて、手で抑えた。
俺っ? 俺が声を出してたの?
なんて、いやらしい声を……!
【男】は俺の手首を掴むと、ぐいーと拡げられ。
しげしげと見つめられた。
俺も【男】を見た。
……コレは。【男】なの、か?
【男】とも女とも見分けのつかない。
細くもなく太くもなく。大きくもなく小さくもなく。色っぽいような、ゴツいような。印象が定まらない。
気配は妖界人ではないし、冥界の住人ではありえなかった。
人のようでもあるが、天界人の気配も混じっている……?
「あの時、闘っていたのはお前だったのか。あのひとは女性だったから、お前だと思っていなかった。……お前が【コレ】の持ち主だったのか」
不思議なことを呟いてきた。
漏れ出てきた声だって細くて低い。余計、どちらかわからない。
ちら、と【男】の胸元を見たら、ふくよかな乳房があった。
「あの時は、すまなかった」
え?
突然謝られて、【男】をじっと見た。
【男】は人間の探し物屋をしていたという。
「俺の同業か」
俺が呟くと、【男】は頷いた。
「今はな。あの時のお前は天界人だった」
俺は眼を見張った。コイツが指す、『あの時』って。
【男】は頷くと、ぽつぽつと語り出した。
あの日。
剣戟の音がするので、近寄っていった。たった一人の人物が圧倒的多数と戦っていたという。
【男】は見た。
俺の背中に羽が生えている処も。
そして、羽がもがれた処も。
「数えられないくらいの敵に、たった一人。囲んでいる奴らが悪鬼や屍鬼だらけだった。……生き残れるとは思わなかった」
死ぬとは思わなかった。あの場を無傷で切り抜けられるとも思えなかった。
「最後にはメッタ刺しにされて、なぶり殺しにされていた」
俺は多分、意識を喪っていたんだろう。羽をもいだ悪鬼や屍鬼が勝利の雄たけびをあげていたらしい。
鬼どもが、羽の争奪戦をしだしたところに、【男】は光の矢を放った。
驚いて右往左往しているところに、飛び込んだという。
奴らから羽を奪おうとして、返り討ちにされた。あと一殴りでもされれば冥界に渡る、という死に瀕していた。抵抗できないでいたところに、死体から引きちぎった何かを胸に埋め込まれたのだという。
悪鬼や屍鬼たちはげらげらと笑いながら、去っていった。
夜になれば赤長熊や四つ目狼が徘徊する森の中。
「俺は、あまりに死に近づき過ぎていたのだろう」
生きているのに冥界への穴が開いた。ずるずると【男】は引き込まれて、冥界のあの木に取り込まれたという。
【男】は死にかけながら生き続ける。
両性具有の人間として、悪鬼や屍鬼たちの見世物として存在し続けた。
「俺も、冥界を彷徨ってたのに。なんでもっと早く出逢わなかったんだろう……?」
疑問だった。
同じとき、同じくらいのあいだ。俺もコイツも居た筈なのに。
シルヴィが涙を堪えた声で疑問に答えてくれた。
「あの時の貴方は、妄鬼になりかけていた」
――そうだ。
慈愛も正義も勇気も逃げ去っていた俺は、一歩手前だったんだ。
羽をもがれて、天界人に戻れない絶望。
傷の痛み。
冥界への恐ろしさ。
鬼どもへの憎しみと、怒り。
そんなものに魂を冒されていた。
「長いこと探していたのに、見つからなかった。最後の望みをかけて、貴方の波動を辿って冥界にくだったの。ほとんど貴方らしさが消えて居たけど、私の真名を唱えたら反応してくれたのよ」
「バカなことを……っ」
俺は呻いた。
知らずとはいえ、彼女にそんな危険を強いてたのか!
真名を知られることは、相手への服従を意味する。
死してなお、永劫にだ。
シルヴィに涙まじりに睨まれた。
「貴女は私の魂の友だわ。貴女を喪う以上に、私にバカなことが怒って?」
ぽとぽとと眼から涙が落ちると、地面に菫石で出来た花が咲く。
「……ごめん」
俺が手を差し出せば、シルヴィも首を伸ばして抱きつきやすいようにしてくれた。
「リィンはなんとか生者の岸に留まっていたけれど、いつ亡者の岸に渡るのかと……怖かった」
看病する合間にも、妄鬼に完全に成ってしまうのではないか。
気が気ではなかったのだという。
――だから俺は冥界にいた時、誰にも攻撃されなかったのか。
いまさらに思った。
俺自身が妄鬼のようだったから。
ぞくん、とした。
――今回も。
冥界の匂いを未だにまとっているからだ。
俺は穢れているままだ。
絶望が冷たく俺を呑み込もうとしていた。
恐怖を振り払うように、【男】に尋ねた。
「なんで?」
――なんでそんなに馬鹿なことを?
俺が言外に言いたかったことについてわかったのだろう。
【男】が照れたように答えた。
「……なんで、って。俺にもわからん。咄嗟に、『あんなに綺麗なものを、汚い下衆野郎どもに好きにさせてたまるか』とか思っちまったんだよ」
「……」
俺は不覚にも涙が滲んでくるのを感じた。
暗闇に呑み込まれそうになっていた躰のどこかに、明かりが灯る。心の臓辺りで生まれた熱から、凍えそうになっていた躰に温かさが徐々に四肢へと広がっていく。
綺麗だって言ってくれる人がいた。
色も灰色だったか、白だったか。
俺ですら、もう記憶に残っていない羽を。
ぽろぽろと涙を流す俺に、【男】はそっと手を添えた。
「綺麗な銀色だったよ。そして、今もお前は美しい。お前は汚れてなんかいないよ。……リィンギル」
ぎく、と躰を強張らせた。
「どうして、俺の名前」
「さっき、そこのドラゴンが叫んでた」
【男】がシルヴィを振り返った。彼女は口を押さえて固まっていた。
冥界で、とっさに出てしまったのだろう。
この世界の黄金律。
お互いの真の名を知っている者同士は、お互いに拘束力がある。
シルヴィの正式名称は、俺と彼女しか知らない。
俺の名前を、この【男】に知られてしまった、そのことよりも。
――真の名前を、冥界の住人に知られてしまっていたら……!
今度こそ、俺は。
冥 界 の 囚 わ れ 人 に な る。
俺の青褪めた表情の意味がわかったのだろう、【男】が優しく説明してくれた。
「……大丈夫だ、リィン。お前の名前を聴いた奴らは、もうこの世界には居ない。焼き払ったからな」
確かに、あの時追いすがってきた鬼どもは、一匹残らず消滅していた。
安心すると、俺の躰から力が抜けた。
ちゅ、ちゅ。
また、唇が堕ちてくる。
今度は俺の額に、左のまぶたに右のまぶたに。
鼻筋に。左の頬に右の頬に。
最後に、また私の唇に。
天界界に居た時のように、幸福感が私の体中に満ちてくる。
心の中に、光が灯る。
「ん……」
暖かさに、自然にまぶたがおりる。
「なあ、お前に【コレ】を返したい」
【男】が私の手をぐ、と引き寄せた。手のひらを彼の柔らかい膨らみにのせられた。
「どうやれば、【コレ】を返せる」
熱を孕んだ声で囁かれた。
私は性を奪われて無性になった。
【男】は、私の性を与えられて両性具有になった。
――見つけた。
私が私になる為のモノ。
「キスして」
掠れた声は、今までのような低い、太い声ではなかった。緊張で掠れてはいたものの、細くて甘い声。
「どこに」
【男】の声も喉に絡んでいた。
「ここ」
私は自分の右側の首筋を示した。
私の左半分の髪は腰近くまであった。
悪鬼や屍鬼たちに切られた右側の髪は、顎のあたりでばっさりと斬られたまま。
そして、首筋には一文字の切り傷があった。
成長を司る髪が伸びるようになれば、私は不老不死ではなくなる。時の流れを与えられて、人間としての生を全うできる。
そ、と【男】が私の首筋に唇を寄せた、その時。
ぼこり、と土がもりあがった。見る見る悪鬼や屍鬼たちがその穴から飛び出してきて、あっという間に囲まれた。
「!」
咄嗟に【男】と私は背中合わせになった。
油断なく辺りを見渡す。
シルヴィも既に口から焔を吐いている。近寄って来ようとする鬼どもをけん制していた。
ジーメル石はあと一つ。
【男】に渡そうとしたら、拒まれた。
抗議しようとしたら、【男】はす、と、私の後ろに周った。そのまま、強くたくましい腕に胸の中へしまいこまれる。
「っ、何を」
「聖句を唱えろ!」
怒鳴られて、考える暇もなかった。剣を天に掲げて、聖句を詠唱した。【男】もわたしの剣に手を添えて朗々と、呼ばわる。
「光と雷、正しき営みを司る者たちよ。我らの願いを聞き入れて、その力を我らに与えたまえ。御身らの力をもって我ら、悪しきものを破邪せん!」
封じ魔法や、祓いの魔法。それに滅する魔法。
悪しき者を滅する聖句の種類は沢山ある。
なのに、私と【男】が選んだ聖句はぴったりと同じだった。
言葉が私たちの唇から出た途端、キラキラと光って宙に昇っていく。
私達の上空で言葉たちは円を描くと、八方に飛び散った。
瞬間、光の柱が私達を包んだ。
【男】に手を添えられた私の剣が恐ろしい程に輝いている。
白い稲妻が焔のように踊っていた。
私と【男】は剣を振り下ろした。
恐ろしい程の閃光と大風が辺りを薙いだ。