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クロニクル アンド マギグラフィ  作者: 根菜類
第二部・メリヴィエ編
64/68

20悪逆帝



「で、結局」


 メリーはお代わりをしたコーヒーにたっぷりのミルクを入れ、かき混ぜながらたずねた。


「私に何をやらせたいの?」


「オルスペクト当主との会話にも出てきたのだが…」


 ヴォルフガングはいかにも高そうな透明度の高いガラス盃で、冷たい水(・・・・)を一息に呷ると数秒考えるような間を見せた。

 それはもったいぶっているとか言葉を吟味しているというより、それ(・・)に対してどう説明したものかと悩んでるようであった。


眠らぬ者(アーシュラーフ)そう呼ばれる存在に帝都は多大な迷惑を被っていてだね。

 かの者…人物なのか組織なのかは漠然としないが…の正体をあぶり出す知恵と技を借りたい」


 その顔にはじめてみる彼の苛立ちを感じ、メリーは彼に似合わないその表情に違和感を覚えた。


「私に頼るって事は…魔術(マギクラフト)絡みね?」


「その通りだ…だが気を付けてほしい。

 奴等の側に取り込まれた魔術師(マギクラフター)は一人や二人ではないのだ」


「取り込まれた…?」


「ああ、まるで神を信仰するかのように魔術を信仰しだす…おかげで優秀な魔術師を何人か失うはめになった。

 だから君も直接やつらと接触して欲しくはないんだ。」


「まるで要領を得ない話ね…まだ何か隠しているんじゃない?」


「私も要領を得ない話だというのはわかっているのだが、残念ながら隠しているのではない。

 何も解っていないだけなのだ」


 ヴォルフガングは頭を振ると、給仕に自分にもコーヒーを淹れるように命じた。


「魔術師を送り込めば取り込まれる。

 かといって魔術師以外を送り込めば行方不明になるか、死体で発見される事になる。

 まったく頭の痛いことだよ」


「それで私に人の心に魔術が干渉できるか聞いたのね」


「その通りだ。

 あの時点では君を直接巻き込むつもりでは無かったがな。

 改めて聞こう…どうやったら人の脳を書き換えることが出来る?」


「私には人の脳にどう干渉すればどんな結果が得られるか想像もつかないわ。

 もしそれを調べようとするなら、何十…何百人の人体実験が必要でしょうね」


オルグス(くそったれ)…まったく忌まわしい事だな。

 君の仮説が確かなら、奴らは、眠らぬ者(アーシュラーフ)はそれを行っているという事だ」


 メリーは首をかしげた。

 彼女の知るアルト語にはその単語(オルグス)は無かったからだ。

 ヴェンヌで学んだアルト語は教科書便りなところが多く、その本にはスラングの類は記載されていなかった。


「そのオルグスって何?」


「これは失礼した…まあ悪態のひとつだよ、綺麗な言葉ではない。

 帝国の、王族の汚点というか、過去の狂人の名前さ」


 ヴォルフガングは曖昧な笑みを浮かべた後、真面目腐った顔でメリーに向き直った。


「まさに令嬢に聞かせる言葉では無いんだ…お耳汚しを謝罪させて欲しいな」


 ヴォルフガングにしてもうら若き乙女であるメリーに聞かせたい言葉ではない。

 今では悪態としてのみ残ってるこの名前は一族の汚点てあり、そんな皇帝を擁立した帝国の恥でもあった。

 もっとも今の皇帝選出の厳しさは()の暴虐帝を生み出した当時の帝国(シュットルード)の反省から成り立っていて。

 それがこの帝国の繁栄を生み出しているのは確かなのだ。

 皇帝の権力は絶大だが、皇太子と認められるためには皇族会議の支持を受ける必要があり。

 皇帝に即位するに当たってまた厳しい審査が課せられるのだ。

 どの皇家も本音を言えば自家から皇帝を選出したいわけで、他家の重箱の隅をつつくのに余念がない。

 だからこそ彼等を黙らせる実力を身につける必要がある。


「君にはオブザーバーとなってほしい。

 私とてそう自由に動き回れはしないのでね、当面はこの南の離宮で私の相談に乗ってもらいたい」


「あら残念…せっかく帝都を観光できるのかと思っていたのだけど」


「勘弁して欲しいな」


 ヴォルフガングは自分の口に自然と笑みが浮かぶのを感じた。


「君の護衛に割ける人員はそう多くないんだよ」


「あら、自分の身はそれなりに守れるつもりだけど?

 まあそれは…」


 アイシャは自分の目が信じられないものを見たと気づいて驚いた。

 ヴォルフガングから背けたメリーの顔は確かにはにかんで(・・・・・)いたのだ。

 これは彼女がご執心だったレオンに対しても見せる事のなかった表情だ。 


「あなたも同じでしょうけど」


「クベール侯爵令嬢に太鼓判を押されるとは光栄だね。

 クベール侯爵子息も、魔術師としても騎士としても無類の強さを持ってると評判だが?」


「お兄様の剣の腕はよく知らないけど、魔術師としての強さは彼方よりも上よ」


 メリーは一度だけ見たことのある兄の雷撃を思い出しながら言った。


「あなたの魔力の抑え方を感じていて、だいたいの強さはわかるわ。

 たぶん回りの評判以上の魔術師なんでしょう?

 自分の本当の力を隠しているのがわかるの」


 これにはヴォルフガングは内心舌を巻いた。

 メリーの言うとおり彼は己の実力を隠していたからだ。

 皇族によく発現する風の魔力の他に、彼は切り札といえる氷の魔術を隠し持っていた。

 これは彼の身内、祖父である皇帝と父である皇太子、そして弟であるブルクファルトだけが知っている秘密であった。

 だが彼は知らなかったが、アインツィヒ教の法王もその秘密を知っていた。


「でもお兄様の魔術はもっと単純。

 速さと魔力に物を言わせて、相手を射程に捕らえた瞬間に(いかづち)で焼き尽くすの。

 工夫も構成も無いただ魔力が高いだけの魔術を魔術構成(スクリプト)数パターン持ってるだけだけど、だからこそ戦闘になったら無類の強さを発揮するわ」


 そこでメリーは申し訳程度に付け加えた。


「魔術を使って何が出来るって事なら、あなたの方が優れた魔術師だと思うけどね」


 こんな気遣いも彼女らしくなく、それを知るアイシャはまたも眼を見張った。

 そんな自分をヴォルフガングが面白げに観察してるとも知らずに…。


「強さ論議に興味が無いわけでは無いが…」


 ヴォルフガングが好むのは、薄めに淹れて少な目のミルクと砂糖を入れたコーヒーだ。

 メリーの姉がコーヒーに何も加えないで飲む…それも濃い目を好んでいたという話は驚きだった。

 想像するだけで眉間に皺がよる。

 そんな想像を飲み下すように、彼は自分好みのコーヒーを飲み下した。


「やはり君に出歩いてもらっては困るな」


 彼はメリーを真っ直ぐ見据えて言った。


「立場というのはそういうものだろ?

 私も腕に自信があるからといって、おいそれと少人数で市井に繰り出すような真似はできないからね。

 さっきも言ったが…君や私の身に何かあったら、何人が職を失い何人が処罰の対象になるか考えた事はあるかい?」


 メリーを諭すには周囲から攻めるべきだという事をこの短期間でヴォルフガングは理解していた。

 傍らに控えるアイシャの態度と、メリーがアイシャやこの離宮の使用人への対応を見るに、彼女は目下のものをこそ大事にしていると見たのだ。

 帝国の侯爵家、特に帝都に居る貴族達では考えにくい事で、それは彼女の美徳と思える反面危うさも見せていた。

 あまり偏るのはよくないのは貴族間の対人関係でも言えることだった。


「私達が自分の身を大事にするという事は、部下や臣民を大事にするという事に他ならない。

 自分がよき君主だと思うなら特にね…もっとも、自分がよき君主だと思っている者の中にどれほど優秀な為政者がいるかは疑問ではあるがね」


 ヴォルフガングは脳裏に浮かんだ自称(・・)優秀な為政者達の顔を一通り眺め、そこに期待の持てる人物を見出せず思わずため息をついた。

 彼は貴族の自治にあまり期待を持てないでいるのだ。

 だがその時ある事を思い出した。

 それは彼が知る限りもっとも成功してる地方自治で、残念ながら帝国貴族の手によるものではなかった。


「君主の話になったところで聞きたいのだが」


 ヴォルフガングはチラッとゲラルドに目配せを飛ばし続けた。


「ヴェンヌは治安がいいと聞いたが、その理由をメリヴィエ嬢はご存知かな?」


「私は領政にはまったく関ってはいないけど…」


 彼女はクベール家の例に漏れず、領地であるヴェンヌを愛していた。

 だからそのヴェンヌを褒められて嬉しくないはずは無かった。

 それが彼女の口を軽くしたのも事実だろう。

 ヴォルフガングは人の攻め方を実に心得ている。


「住民に充分な仕事を用意する事だと、お兄様が言っていたわ…お姉様の受け売りだと笑ってもいたけど」


「仕事を?」


 メリーの意外な答えにヴォルフガングは思わず聞き返した。

 てっきりパトロールの仕方や警備方法に秘密があると思っていたのだ。


「そう」


 メリーも記憶をなんとか手繰りながら兄の言葉を思い出していた。

 ほんのちょっとだけだが、今彼女は領政に無関心だった事を後悔していた。


「盗賊も強盗も仕事だと考えるて、そんな仕事に就かないでもいいようにしてるのだそうよ」


「なるほど…」


 意外な事ではあったが、どこかストンと腑に落ちるところがあった。

 この方法で犯罪の根絶はもちろん出来ないだろうが、大幅に犯罪者を減らす事は出来るかもしれない。

 問題は今の帝都では実現が難しい政策という事だが…。


「一考の余地はあるな、少しでもスラムを切り崩せるなら意味は大きい」


「衣食満ちて礼節を知る…だったかしら?

 お姉さまがお父様と話しているのを聞いた気がする…」


「どちらにせよ現在発展中のヴェンヌだから出来る事だろうな。

 停滞久しい帝都では難しい」


 ヴェンヌは生産品の需要が急激に伸びている途上である。

 求められているのは主に職人だが、それに伴う単純作業の仕事もそれなりの需要がある。

 ヴェンヌ生まれのものはほとんど職人になるが、近隣から流入してくる住民はそんな職業につく。

 そして高収入を期待して自分の子供を職人にしようとするのだ。

 こんな好景気がいつまでも続くわけは無いが、現在ヴェンヌは仕事に困る事はない状況だった。


「さて、スラムを崩せるほどの仕事をどうやって用意するかだが…手っ取り早いのは募兵だが」


「戦争をするの?」


「いや、その予定は無い」


 実際は生来のベルン=ラース王国ならびにラキニア王国進攻予定のために軍部の増強はやっておきたいところだ。

 どういう戦略でいくかはそれこそメリーとの関係にかかっているといっていい。

 だから今彼女にそれを告げるのは得策ではない。

 ヴォルフガングは顔色を変えずにメリーにそう言い切った。


「だから二の足を踏んでるんだ。

 あとは流通業だが…やはりスラムの住人を使うのには信用面で不安が拭えないな」


 流通業だけとい訳ではない。

 スラムに身をやつした住民は信用を得られない事から就ける職も限られ、さらに身を持ち崩していく。

 これは帝都(ブラムシュテルン)に限った話ではなく、王都(ゲランデナ)でも同じことが起きてる。

 ゲランデナの方はもっと深刻で、戦争で荒れた近隣の都市から職にあぶれた住民の流入が激しく、当然王都内では彼等を賄うほどの仕事は無かった。

 アイシャは10年前の王都のスラムまでしか知らなかったが、今のゲランデナのスラムは僅か5年で倍にまで膨れ上がっていた。

 帝都はそれより遥かにましだが、スラムはゆっくりと拡大している…はずだった。

 もっとも彼等はスラムの人口など把握していなかったので、その数が減りつつある事に気付き様も無かったが。


「考えねばならぬ事が多いな。

 一つ一つ片付けるとしよう…メリヴィエ嬢」


「なぁに?」


「今日明日とは言えんが、近いうちに帝都を案内する事を約束しよう。

 もちろん我々と一緒に…だが」


「仕方ないわ、それを楽しみにしてるわね」


「ではゲラルド、私達は王宮に戻るとしよう。

 これ以上アンゼルム1人に仕事を押し付けては気の毒だ。

 ラッツェル」


「はい」


「メリヴィエ嬢に書庫の閲覧の許そう、後で案内してやってくれ」


「かしこまりました」


 ヴォルフガングは首をかしげたメリーに微笑みながら言った。


「ここの書庫には司書はいないから整理されてはいないが、参考になる本も多いだろう。

 せめて本で無聊を慰めていてくれないか」


 そういうと彼はおどけて肩をすくめてみせた。 


「出来れば今夜には君に眼を通してもらいたい資料を纏めたいと思ってるよ…オルスペクトのご当主の襲撃さえなければ、大丈夫だったのだがね」



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 司書も居ない離宮の書庫には錠が降ろされており、中はほんのりカビ臭かった。


「一応中に日光が入らないようにと、あと火の気には気をつけております」


「できれば換気もして欲しいところね」


「持ち出しは私共も許されておりませんので、どうかこちらで閲覧ください」


 ラッツェルは明り取りの窓を開くと、まだ心許ない明るさの机の上にオイル制のランプを置くと一礼して退室して行った。


「このガラスちょっと曇ってるわね」


 どこで作られたか知らないが、この書庫用らしきランプのガラスは曇りと歪みは少し目立っていた。

 ガラスはまだ高級品で、このようなガラスで覆われたランプは書庫などの火元に注意する場所でしか使われていない。

 その点はヴェンヌでも同じであったが、肝心のガラスの精度はヴェンヌの方が遥かに上だった。

 とはいってもこのランプは王都などで使われているものよりも遥かに上質ではあったのだが。


「さて、何から読ませてもらおうかしら?」


 書庫はさほど規模の大きいものではなかったが、帝国皇家が所蔵するだけあって貴重な書物が揃っていた。


「へぇ、帝国じゃ魔術大全なんていうのね」


 メリーは次から次に本を引っ張り出すと、ぱらぱらとめくっては元に戻していた。

 当然書物のほとんどはアルト語で記載されており、アイシャには何が書かれているのかさっぱりわからない。

 メリーが見やすいようにランプを掲げると興味深そうに覗き込んだ。

 もっともアイシャの興味は本の内容ではなくメリーなのだが。


「メリー様、そんなに早く読めるんですか?」


「違うわよ、どれを読もうか当たりをつけてるだけよ…魔術関係の本は少ないわね。

 多いのは歴史書と貴族名鑑ね、皇族の所蔵としては当然の内容だけどつまんないわね」


 ヴォルフガングがメリーにここの閲覧を許したのは暇つぶしのためで、ここに収められた書物が役に立つとは考えていなかった。

 本来この書庫は住人や使用人…といってもラッツェルのような高級使用人だが…達が来客予定の貴族の下調べなどに使われる離宮運営用の資料である。

 気難しい貴族達に対して何代か世代を遡って逸話でも拾い上げて、彼等の矜持を満足させるためのもので、読んで面白いものではない。

 メリーは一冊の歴史書を抜き出すと、閲覧用の机につくとアイシャと向かい合うように座った。


「メリー様、その本は何です?」


「帝国の…いえ、皇族の歴史書よ。

 こう見えて意外と新しいもので、先代の皇帝までの名前と詳細が載ってるわ…当たり障りの無い内容だと思うけどね」


 こういった貴族や王族に関する記述や歴史は貴族の子弟としてはたしなんで当然の知識であったが、メリーはそういった本よりも魔術所や博物誌の方が好きだった。

 だが今は少しでもこの国の事を知っておく必要が感じられ、当面の敵であるヴォルフガングの知識を得ようとページをめくり始めた。


「あら、2代目皇帝って初代の子供じゃなくて孫なのね?」


 だがしばらくページをめくっていたメリーの手がふと止まった。


「変ね?先代のザイクロフェンツ皇帝が35代目なのに、ここに載ってる名前は34しかない…落丁かしら?」


「そんな事ありえるんですか?」


「過失で抜け落ちてるのか…あるいはワザと書かなかったのかしら?」


 メリーは席を立つとまた数冊の本を抱えて戻ってきて、ぱらぱらと確認しだした。

 アイシャは相変わらず明かりを持ち彼女の後をかいがいしく追いかける。


「この魔術書は作者の名前が消されてるわね」


 部屋の暗さに眉をしかめながらメリーはその消された部分を透かそうとしたり、細かい図式や文字を追いかけようとしていたのだが、とうとう癇癪を爆発させた。


「それにしてもこの部屋暗すぎるわ!

 昼間だというのにこんなに暗い部屋で本読んでられないわよ」


 彼女はそう言うが早いか、衝動的に構成を編み上げ、すぐさまその魔術を発動された。

 短時間とは言え陽光の如き光がさして広くない書庫を満たし、目が眩んだアイシャがかわいい悲鳴を上げた。

 だがメリーの発動した光の魔術に反応したのはアイシャだけではなかった。

 彼女の抱え込んでいた本が、その中に隠された魔術図式(マギグリフ)に光の魔力を受けて輝きだしたのだ。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「これは…」


「どうされました?」


 その人影がわずかに顔を上げたように見えた。

 ぼろ布のようなローブのすそから伸びたその手はまるでミイラで、フードの中には不気味な青い炎が二つ幽かに燃えているようだった。


「光の魔力だ…私が失って久しい…。

 南のほうだな?」


「誰か出しますか?」


 従者のように傍らに控えていた男がその人影にたずねたが、それ(・・)は物憂げに首をふった。


「あそこはまだ大聖堂の権威が強い、迂闊に動いて逆に気づかれては面倒な事になる」


「では非魔術師(マギニヒト)をお使いになられては?」


 人影は僅かに鼻を鳴らすような仕草をみせたが、その鼻からは空気が漏れる事は無かった。


「非魔術師は信用に足らん…だがまあ期待しないで送り出すならいいかもしれんな。

 どちらにせよ帝都に現れたからには逃がす事などありえん」


「かしこまりました」


 一礼した男の顔は蒼白で血の気が通っているようには見えなかったが、緊張からか幽かにもれ出る息が彼がかろうじて呼吸している事をあらわしていた。

 彼が退出すると、その人影は幽かに震えながらフードの奥の暗闇からおぞましい声で言葉を紡いだ。


「あぁ…待ち遠しい、我が元に全ての属性の魔術人(マギヌス)が揃う時が、我がまた嘗ての力を取り戻すときが…」


 人影が見回すその暗闇の合間に、まるで死体のような人影がいくつも浮き上がっては消えていった。

 ほとんどシュラード人らしきその中に、ひとつラース人の顔が浮かび上がった。

 彼は船乗りの服をまとい、その頬にはいまだに涙の跡の様なものがこびりついていた。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「あれから来客はなかったかい?」


 ヴォルフガングが南の離宮に帰ってきたのは、やはり空に(シュテルン)が輝きだした後だった。

 外套を衣装係りに手渡しながら、家令のラッツェルに話しかける様子はどこか面白がっているようにも見えた。

 まるでまた誰かが押しかけてくるのを期待してるように。


「お客様はいらっしゃいませんでしたが、その、メリヴィエ様が…」


「メリヴィエ嬢がどうしたんだ?」


 言葉と裏腹にヴォルフガングの口角が嬉しそうに持ち上がる。

 まるでメリーが何かをやらかすのが待ちどうしく手仕方の無いように。


「書庫に閉じこもられてしまいました」


「また何か臍を曲げたのか?」


「いえ、我々を締め出すような真似はされないのですが、出てこようとも…。

 それに殿下がお帰りになられたら書庫に来て欲しいと」


「ふむ、あそこの書物には全部眼を通してたつもりだったんだがな」


 何かを見つけたとしても何を?

 しかもそれは自分の目をすり抜けていた…という事だ。

 ヴォルフガングはその頭を回転させ始めた。


「彼女を連れ出すためにも早速赴くとしようか。

 ラッツェル、食事の用意は?」


「お声がけ下さればいつでも」


「では頼む」



 書庫は明らかに灯りとは違う光に包まれていた。


「いったい何をしているんだ?!」


「あ、殿下!」


 メリーは光の魔術を発動しながら、一冊の本を食い入るように読んでいた。

 ヴォルフガングはその本に見覚えがあった。

 4代皇帝にして廃棄抹消された悪逆帝オルグスの即位前の著書であったが、魔術書として優れた内容のため著者名だけ消されてこの南の離宮に隠されていた本だ。

 ただ目新しい内容は無かったはずだった。


「あなたの言っていた心を操る魔術の事、これに書いてあるわ!」


「そんな馬鹿な!」


 ヴォルフガングはメリーの傍ら、その本が見える位置に駆け寄った。


「この本は何回か読んだことがある…だがこんな内容は!」


 本のページの上にまるでホログラムのように浮き上がる文字は、確かにヴォルフガングの見たことない内容だった。

 文字は魔術で作られた明かりをまるで反射するように浮かび上がり、ラース古文字によって複雑な理論を細かに表していた。


「これは…いったい何をやったんだい?」


 はやる気持ちを抑え、あえて一呼吸待ってヴォルフガングは問いかけた。

 彼は衝動で動く事の危うさを知っている。

 だから自分の気持ちを制御するために口を開くときは一呼吸空ける事にしていた。

 この局面でそれを実践できてる自分に僅かな満足感を覚えながらも、自分の心を制御しようと勤めた。


「この部屋があまりにも暗いから魔術で明かりをだしたの、そうしたらこの本が光の魔力に反応して…」


「そんな仕掛けが」


 流石に開いた口がふさがらなかった。

 確かにこの書庫に光の属性を持つ魔術師が入った事は無いだろう。

 それだけ光の属性持ちは貴重で、なおかつ帝国皇族や貴族に発現したものはいなかったのだ。


「ねぇ、この本を書いたのは誰なの?

 こんな事を何人もが思いつくとは思えないの…」


 メリーのいう事はもっともだった。

 それだけこの内容は異常だったのだ。


「まさか!これを書いたのは5百年以上も前の人間だ。

 そんな事が…あるはずは無い」


 ヴォルフガングは搾り出すように言葉を紡いだ。

 眼は本に釘付けで、貪るようにその悪魔のような理論を読んでいた。

 人を人ではないものに作り変える方法。

 だがこんな事が本当に可能なのか?


「もしこれを書いた人が自分自身にこの理論を実行していたら…千年経っても生きているかも知れないわ」


 ヴォルフガングは思わず顔を上げてメリーを見た。

 彼女の目にも自分と同じ疑念の恐怖が刻まれているのを見て、少しほっとしてしまった自分を恥じた。


「彼は」


 そのままその言葉を絞りだすのは至難の業であった。

 彼は自分の知ってる歴史が音を立てて崩れていくような恐怖を感じた。


「彼は680年前に処刑されている。

 少なくとも記録はそうなっている」


「知ってる人なの?」


「記録の上だけだけどね」


 精一杯の虚勢としてかすかに笑顔を浮かべた若き皇太孫は、彼女に告げたくなかった名前を継げた。

 汚い言葉…であると同時に皇族としてそれは恥ずべき記録だと思っていたからだ。


「彼の名前はオルグス・フルグタイル。

 このシュットルード帝国の4代目皇帝にして、歴史から抹消された帝国の汚点だ」


 本の上に浮かび上がる文字が、その言葉に反応してゆらりと揺らめいたようにも見えた。



現在は帝国暦779年

悪逆帝の処刑は帝国暦99年

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