19皇族の政争
少し綺麗事言い過ぎかな?
王宮…いやこの宮殿の主は皇帝だから皇宮と言うべきか?
皇宮ブラムツェントルムは皇族の住居と職場を兼ねた巨大な建築物である。
このほかにも帝都の中には数多くの離宮があり、皇族の中でも個人で別宅を持っているものも少なくは無い。
だが皇族とはいえほとんどの人間は職務を持たない。
多くの皇族に求められるのは社交場での貴族達との関係作りと情報収集ぐらいで、政治的な仕事はほとんど任せてもらえないのだ。
そういった仕事は皇帝と皇太子、およびその腹心達に指図された官僚達が行う。
官僚の多くは家督を告げない元貴族の三男や四男などだが、飛びぬけた能力を持つ平民も少なくない数登用されていた。
一見貴族から反感を買いそうなシステムであるが、貴族家からの推薦枠を設ける事でその反感を受け流していた。
もっとも、貴族出身者を超えるような能力を持つ平民官僚は早々出現などしないのだが…。
まだ明確な身分を持っていないヴォルフガングであったが、彼には少なくない公務があった。
「父上と違って署名に追われる事が無いだけまだマシだがな」
「殿下が皇太子をお継ぎになれば、今の数倍の監査決済の仕事の他に署名の仕事が増える事になりますよ」
「まったくそれだけは気が滅入る」
ヴォルフガングとて書類仕事を忌避してる訳ではないのだが、広大な帝国の各地から寄せられる報告書や要請書はうんざりするほどの量がある。
親子3代で対応してなお減る様子の見えない書類の山の影に、自分が将来処理しなければならない仕事量が隠れてるかと思うと流石に気が滅入ると言うものだ。
「それでも皇太子殿下は言っておられましたよ『ラース王国から筆記用具を輸入するようになってからだいぶ楽になった』と」
「王国ではなくクベール侯家からだな。
まったくあれだけでも半島に教会を送り込んだ甲斐はあったと思う」
ベルン=ラース王国との航路が確立しつつある昨今。
ヴェンヌで作られた工業製品はかなりの数帝都に持ち込まれてきた。
だがいまだ直通の航路を持っているのはアインツィヒ教だけで、クベール侯家からも、帝国からも、王国に間に入られると言う面白くない状態が続いていた。
これを帝国主体で直通交易路を作れば馬鹿にならない利益が上げられると考えられていた。
もちろんその利益に与るのは帝国だけではなく、クベール候家…ばかりではなく、西部の生産業全般が恩恵に与るだろう。
特にストローヌ産のワインやブランデーなどは帝国でも人気が高い。
「ペンはともかく、この紙とインクの製法は手に入らぬものか?」
ヴェンヌ産の紙は質がよく無いものの、驚くほど安価だ。
公文章の作成にこそ向かないが、勉強や下書きなどの用途を考えると輸入分だけではとても足りない。
「それもあってメリヴィエ嬢を口説き落とそうとしてるのかと思っていたのですが?」
「まあそれもある…だが彼女が気に入ったのも本当だ」
「家臣の身としましては、あまり"強い"妃をお迎えになられるのは不安ですが…」
帝国も過去に皇母の専横と言った問題が無かったわけではない。
今は皇帝も皇太子も強く、かつ他の皇家の発言力も高くなっているため早々皇母の専横など起こらないと思われるが…。
それでも継承問題などはいつどんな間違いが起こるとは限らない。
しかも専制君主国家であるならば、その間違いは致命的になりうる。
「その懸念はもっともだな…それを言われると辛い。
だがな、彼女と婚姻を結ぼうと思うのは単に私のわがままではないんだ」
「殿下がクベール候家と婚姻を結ぶ利点は分かっています。
ですが私と同じ懸念を提示して、異議を唱える貴族は少なくないともお考えください」
「そうだな…そんな連中こそ自分達の専横を狙ってるものだがな」
そのやり取りを機になんとなく執務室に静寂が訪れた。
紙をめくる音とペンが走る音だけが静かな室内に控えめに現れていた。
「失礼します」
部屋の入り口を警備してた衛兵が控えめなノックとともに部屋内に入ってきた。
こういう反応のときは当然取り次ぐべき来客があったときで、ヴォルフガングはアンゼルムと顔を見合わせた。
2人ともすぐには心当たりが思いつかなかったのだ。
「ヴォルフガング殿下に面会の取次ぎをと、ブルクファルト殿下がいらっしゃいました」
「そうか、ブルクファルトが帰ってきたのか」
ヴォルフガングの弟であるブルクファルトは、海軍の視察と言う名目でダンタヴェルグの海軍基地に赴いていたのだ。
だが本当の目的は最近頻発してる船の行方不明事件の調査であった。
「すぐ通してくれ…ゲラルド、給仕に言ってお茶…いやコーヒーを用意するように」
「かしこまりました」
お茶…といいかけて今朝のメリーの話を思い出し、験を担ぐ意味でもコーヒーを選ぶと固くなった身体をほぐす様に伸びをしながら立ち上がった。
「ちょうどいい、休憩にしよう」
ヴォルフガングは執務室のドア付近のソファーに移動すると、弟を待った。
「兄上、職務中に失礼します」
「いや問題ないさ、陛下のところには…?」
「今はブーゲンハーゲン公爵と面会中という事で…」
「父上も一緒か」
「はい」
流石に公爵と面会中の皇帝に横入りは、皇帝の孫であっても憚られてのだろう。
緊急性は無いとのブルクファルト自信も判断したのかもしれない。
「それで…どうだった?」
皇帝に報告する以前に内容を聞くのは越権行為とも取られかねない事だが、幸いここには身内しかいない。
ゲラルドが注いでくれるコーヒーの良い匂いを嗅ぎながらヴォルフガングは切り出した。
「報告書にあった内容自体のウラは取れましたが、やはり消えた船舶の行方は不明です。
ですが、不思議な事に軍船にはそれらしい被害が出てないのも確かのようで」
「海賊の仕業という事か?」
軍船を避けて獲物を襲うのは海賊の常套手段ではある。
だがドーネル海の東は帝国海軍の目が光ってるため、海賊はほぼ存在しないはずだ。
「しかし、それだと生存者がまったく見つからないと言うのはおかしいかと」
「船ごと跡形もなく消えるか…」
「西サノワ海でも同じような事件が起こってるかはわかりませんが、アルアリア海峡近辺まで被害が広がっているようです」
「あそこより西は、オリヴァとベルン=ラースの協力無しには調査は難しいな」
「はい、ただ沿岸部近を航行してる船舶にはそのような兆候は見られないので…」
「目撃者を恐れて…という事なら、やはり人間の仕業という事になるな。
まさか鰭人の仕業という事もあるまい」
「あれはサノワ海には居ないでしょう。
シーシンドゥリアのさらに南に住むと聞いています。
まさかオリヴァノ運河を渡ってくるとかは無いでしょう」
「そうだな、それに鰭人なら船を隠すことはできまい」
鰭人は南海に住む海洋棲の亜人と言われている。
海を住処としイルカの様な特徴を持っていて、人魚伝説の元でもあるとも言われる。
伝説というより、人魚そのものの外見をしているので人魚そのものと言っていいだろう。
サノワ海周辺の国家間ではあまり知られてはいない。
「ダンタヴェルグには巡回の強化とさらなる調査を命じてきましたが、念のため今回の報告が済み次第もう一度戻るつもりです」
「たしかに、どうせ調査をするなら今の海が穏やかな時期の方がマシか」
この件は自分の管轄ではないが、ヴォルフガングの頭は半島西部への直行ルートへの影響を考えていた。
そうそう沿岸を離れはしないだろうが、アスペルマイヤーがよく使う様な沖を突っ切るルートは使えない可能性があるだろう。
できれば最も速度が早く、ラース王国に捕捉されづらい沖を突っ切りたいのだが…。
その時再びノックの音とともに衛兵が室内に顔を出した。
彼が差し出した封書をゲラルドが素早く受け取り、ヴォルフガングに受け渡たす。
「どうしました?」
封書を開封して中を改めると、思わず顔をしかめたヴォルフガングの様子を気遣ってブルクファルトが訪ねた。
もちろんアンゼルムもゲラルドも、すぐ動けるように自分の主人の指示をうかがってる。
「面倒事だ…たいした事では無いがな」
渋面とは裏腹に、どこか面白がるような声でヴォルフガングは答えた。
「私はこれから南の離宮に向かう、少々急ぐので騎馬で行こう。
アンゼルム後は頼む…ゲラルドは私に同行を」
「かしこまりました」
「では私も片付け次第向かいます」
「ああ」
急いで身支度を整えながら、彼は弟に優しい笑みを浮かべながら言った。
「ブルクファルト、私はしばらく南の離宮に滞在している。
よかったら顔を出してくれ…面白い人物を紹介しよう」
そう言って彼は足早に執務室を出て行った。
後に取り残されたブルクファルトはちょっと肩をすくめると、アンゼルムに一言声をかけ執務室を後にするのだった。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「おまたせしました」
言葉とは裏腹に、意地の悪そうなニヤニヤ笑いのメリーをみたカールハインツはしばし唖然とし、そのあと忌々しげに顔をゆがめた。
「あら、あなたが私を呼びつけたんでしょ?
その顔はないんじゃない?」
「お前は本当に貴族令嬢か?
それとも半島の端の野蛮な国は貴族までそんな感じなのか?」
もちろんこんな貴族令嬢はベルン=ラースでもメリーだけだろう。
生来の性格もあるだろうが、クベール侯家が社交を絶ち、そのために礼儀作法などおざなりにしてしまった弊害が大きい。
もっともメリーにとってここは敵地という考えなので、敵国の皇族におもねる気はまったく無かった。
むしろ積極的に喧嘩を吹っ掛けていくつもりでさえある。
「で、どういう用件で私を呼び出したりしたのかしら?
まさか酌をしろとなど言われないわよね?」
「ベルン=ラースの貴族が何で帝都に居るのか問いただそうと思ったのだ。
いったいヴォルフガングは何を考えている?」
「殿下が何を考えてるかなど私が知るわけはないでしょう?
何故ここにいるかと言われたら…そうね、攫われて来たとしか言えないわね」
「攫われただと?ヴォルフガングか!」
「アスペルマイヤー男爵って人よ」
この会話をアスペルマイヤーが聞いたら青くなるどころか卒倒しかねないだろう。
いくら皇帝の直属とはいえ、皇家の当主の1人であるカールハインツに目をつけられたら叙爵下ばかりの男爵など一息に吹き消されかねない。
同じ男爵でも貴族院に参加していれば守ってもらえる可能性はあるが、皇帝派に所属するアスペルマイヤーが消えたところで貴族院はどうとも思わないだろう。
今でいえば労働組合に加盟していない社長のスパイみたいなものだ。
「アスペルマイヤー男爵か、覚えておこう。
それでお前は男爵からヴォルフガングに献上されたといったところか」
物扱いされて気分を害さない人間は平民にすらそう居ないだろう。
もちろん貴族であろうとも皇族であるカールハインツに言われたのなら、本心はどうあれ堪えはするだろう。
カールハインツにしても、もちろん自国の貴族に対してはそんな事を言わない分別は持っている。
だが彼は誇り高い帝国の皇族だ…他国の貴族を必要以上に見下していた。
「ならば私が皇家としてそれを受け取ってもいい訳だな?」
カールハインツはメリーに対して利用価値を見出しているわけではない。
ただヴォルフガングの対応を見極めたいというつもりでこんな事を言ったのだ。
ヴォルフガングがメリーを取り返そうとするのなら、それは皇族として彼女に利用価値があるという事。
「あなたは私を故郷に帰してくれるの?」
対するメリーは腸が煮えくり返っていた。
人を物扱いする連中は以前から嫌っていたが、そんな人間が目の前で偉そうにしてるのだ。
傍から見てるアイシャはメリーの感情に気づいて、はらはらと見守っていたし、ラッツェルもただならぬ雰囲気を感じていた。
だがカールハインツは残念ながらそんな事は気にも留めない。
物の感情に興味が無いからだ。
「なぜ戦利品を手放さねばならん?」
「戦利品ねぇ…帝国じゃ泥棒が盗んでいったものをそう呼ぶのかしら?
あいにく私の故郷ではそれは"盗品"と言うのよ」
「貴様…私をこそ泥扱いするつもりか」
カールハインツは君主としてほぼ問題ない男だったが、生憎自分の、皇族の権威が及ばない相手と相対した経験は無かった。
皇帝すらオルスペクト皇家当主である自分に対して一目置かねばならない。
彼にとって権威とそれにおもねる対応は綱に自分とともにあり、それは普遍の物だという認識を持っていた。
まだ若いカールハインツには外交経験が不足していたのだ。
だがこの異国の貴族の少女は、彼の権威を屁とも思っていなかった。
正式に帝国を訪問した場合だったらそうでもなかったのだろうが、彼女は不当に攫われてここに居ると考えているのだ。
「わかってないのね、こそ泥扱いじゃなくて、こそ泥と言ってるのよ。
悔しかったら殿…ヴォルフガングの留守を狙うような真似をしないで、真っ向から喧嘩を売りなさいよ」
非常に意地の悪い満面の笑顔を浮かべながらメリーは言い切った。
アイシャはその笑顔にマリーの面影を見た気がした。
「まあ、出来ないからこんな事をやってるんでしょうけど!」
「貴様ァッ!」
「そこまでだ!」
激高したカールハインツの機先を制したのはいつの間にかラウンジに現れたヴォルフガングだった。
少し息が上がってるように見えたので、それなりに急いで駆けつけたのだろうとメリーは思った。
「あら殿下お早いお帰りで」
そう言ったあと、この反応は少し間抜けではなかったかと、メリーの頬は少しばかり紅潮した。
「なんだ、もう名前では呼んでくれないのか?
これは止めるタイミングを少し早まったかな?」
「立ち聞きしていたのね、趣味の悪い事」
「いやなに、止めるにしても息が上がっていたらみっともないだろう?
少し息を整える時間をもらっていただけさ」
メリーは色々規格外とは言え年頃の少女だ。
貴族然とした付き合いのほかに軽口を叩き合える友達を求めていたのかもしれない。
彼女の世界には親族と臣下しか居なかったのだ、彼女が近隣の子供達に友情を求めても、彼等はそれに答えるわけには行かない立場だ。
軽口に付き合いながら、余裕を持って自分を受け止めてくれるヴォルフガングに惹かれ始めていたとしても不思議は無い。
それに…都合のいいタイミングで登場する彼の所業は亡き姉を思い出させた。
「ヴォルフガング!貴様いったい何を企んでいる?」
カールハインツの怒りの矛先はそのままウォルフガングにスライドした。
一回りも年齢の違い少女に怒鳴る事はやはり抵抗があったのだろう。
メリーに対する怒りも全部上乗せしてヴォルフガングに詰め寄った。
「帝国の利益ですよオルスペクト御当主」
ヴォルフガングは堂々とそう答えた。
もちろんその思いに一点の曇りも無いのだ。
「ぬけぬけと…ベルン=ラースの貴族の娘などを攫ってくるのが、お前の言う"帝国の利益"か!」
「攫ってくる…?」
ヴォルフガングは思わずメリーを見たが、彼女が素早く視線を反らせた事でなんとなく状況を読み取った。
「なるほど、メリヴィエ嬢がそう言ったのか」
「だとしたら、まあ攫ったという事に違いはないのでしょう。
ですが、彼女をここに置いているのは間違いなく帝国のためですよ」
それと自分のため、さらにはカルナリアス皇家のためだが…と心の中で付け加えたのだが、彼のしれっとした表情からは読み取れはしない。
「そういう訳で、なんらやましい事はありません。
彼女がここに居るのは陛下も皇太子殿下もご存知の事…彼女の事を秘密にしているのは別に理由があるので」
「理由だと?」
「ひとつは彼女が密入国まがいの方法で帝国に入らざるを得なかった事。
もうひとつは…」
これはカールハインツよりもメリーに聞かせるつもりでヴォルフガングは言った。
今メリーが南の離宮に止め置かれている理由がまさにそれなのだから。
「彼女の存在を眠らぬ者どもに気づかれないようにするためです」
カールハインツは眉を寄せた。
彼にとって自分に適性の無い魔術はもちろん、怪談話とか都市伝説の類も一考に価しない与太話に過ぎなかったのだから。
「眠らぬ者だと?
そんな世迷い事を信じてるのか」
「眠らぬ者についてオルスペクト御当主がどう思われているかは知りませんが」
メリーはラウンジの静けさに不意に気が付いた。
いまこの部屋に響き渡るのは2人の声だけで、それ以外の人間はみなまるで口を開くのが憚られるとばかりに固唾を呑んで黙り込んでいた。
「実際王宮でも対策部が設けられているほどの存在です。
摩訶不思議な怪物なのか、ただの詐欺師なのか、未知の魔術師なのかは置いておいて…ね」
それが皇族2人の対峙が恐れ多いというよりも、なにかどんよりとした不気味さを忌避してるようにも思えた。
関りたくない…当事者以外にもそう思わせる嫌な気持ち悪さが眠らぬ者の名前にはあったのだ。
「貴様が最近暗躍してるのはその眠らぬ者対策だというのか」
「暗躍とは人聞きが悪いですね。
犯罪者を捉えるための内偵ですよ…秘密裏に動いてるのはそのためです」
ヴォルフガングは失礼に当たらない最低限の動きで肩をすくめて見せた。
一応カールハインツは数少ない彼よりも立場が上の人間なのだ。
皇帝の孫とはいえ気を使わねばならない。
「馬鹿らしい…」
「御当主?」
「馬鹿らしいと言ったのだよ…そんな事の為にコソコソ動き回る貴様も、それにピリピリしてた私もだ」
カールハインツは怒りっぽい事で有名なのだが、その怒りの向かう先は回りよりもむしろ自分自身に向かう事が多い。
彼は若くして父が死んで当主となった後、常に自分の不甲斐なさに怒り続けているのだ。
「いいだろうヴォルフガング、精々ありもしない影を追いかけているがいい。
私も少しぐらいの動きには目をつぶろう。
ただ…」
そこで彼は不意に言葉を飲み込んだ。
ウォルフガング訝しげに尋ねるが、若き当主は首を振る事で答えた。
「ただ、なんでしょう?」
「いや、何でもない」
メリーの引き渡しを要求しようとしたが、その口実が見つけ出せなかったのだ。
それに何故彼女の引き渡しを衝動的に要求しようとしたかもわからなかった。
それを自分で、珍しい動物が欲しかったのだと心中で結論付けて、振り払ったのだ。
「とにかく…今日のところは引き下がるが、私は皇族としてお前たちの動きを監視する義務がある。
その事を忘れるなよ?」
「もちろんです…お互い様ではありますが…ね」
「ふんっ!」
肩を怒らせて退席しようとしたカールハインツだったが、ラッツェルに目を止めると一言。
「馳走になったな…美味い茶だった」
そう言って離宮を後にしていった。
「やれやれ、まさか私の内偵がそんな風に勘ぐられていたとは予想外だったな」
ヴォルフガングは彼が離宮の庭園を去っていくのを窓から見送ると、ラウンジのソファーにどっかと腰を下ろした。
背後にはいつの間にかゲラルドが控えている。
「ラッツェル、迷惑をかけたね。
迷惑ついでに私にも一杯お茶を入れてくれないか?できればゲラルドの分も」
「かしこまりました」
そして彼はじっと自分を見下ろしてる金色の瞳に目を合わせた。
「説明しろって目だね?」
「当り前よ、あの人は誰で、何で私に喧嘩を売りに来たの?」
メリーは柳眉を逆立ててヴォルフガングに食って掛かった。
買ったはずの喧嘩を横から掻っ攫われたようで、どうにも収まりがつかないのだ。
「彼が喧嘩を売ってるのは君にではなく私にさ、彼はカールハインツ・オルスペクト・シュットルード。
私の最大の政敵さ」
「政敵?皇太子の息子である貴方の政敵って…」
「そう、次期皇太子を争うライバルといった所だ。
お互いせっせと足を引っ張り合う仲だよ」
「という事は、私はあなたたちの争いに巻き込まれたという事ね?」
ヴォルフガングはさも意外だと言いたげな顔をし、お茶のカップをテーブルに置いたラッツェルと顔を見合わせると、そのお茶を一口飲んで答えた。
「いや、自分から首を突っ込んだんじゃないか?
もちろん我が帝国皇室が気に食わないという理由で…だ」
「たしかにあなた達は気に食わないけど、それとこれとは別よ!」
ヴォルフガングはメリーの苛立ちの原因をなんとなく見抜いていた。
彼女は振り上げた拳の振り下ろし場所を失い、戸惑っているのだ。
これを収めるにはその拳を受け止めてやればいいのだが、さてどうしたものか…。
「メリヴィエ様は私達を庇ってくださったのだと思います」
ラッツェルの言葉に顔をあげたヴォルフガングは、ばつの悪そうに眼をそらすメリーを見た。
「ふぅうん…」
「な、なによ…」
「いや、何でもないさ…それがベルン=ラース流なのかい?」
「いいえ、ヴェンヌ流よ!」
ヴォルフガングは何も言わなかった、メリーの危うさを再確認しただけだった。
守られるべき対象が守るべき者よりも前に出るのは決して美徳とは言えない。
それをこの令嬢はわかっていないのか、それともわかっていても我慢できないのか、昨日彼女に出会ったばかりのヴォルフガングは判断できなかった。
貴族の、権力者の首は安くない。
それは本当に必要な時以外に軽々しく手の届くところに置いてはいけないのだ。
臣下をや市民を守るために貴族が動くことは当然だが、自分の身で彼らを庇うべきではないのだ。
自分が死んだら誰が守るべき民を守れるというのか?
彼女の言う通りクベール候家がそんな貴族なら恐れることは無い。
むしろかの家と結ぶことは危険だともいえる。
だがそんな家が半島で一二を争う権勢を得ることができるだろうか?
彼はそれは無いと考えた。
メリーが未熟なのか、異端なのか、あるいはその両方なのか、おそらく甘やかされて育てられたのだろう。
彼女の性質は好ましいが、政治家には向かないな…そこまで考えてヴォルフガングは逆なのだと気が付いた。
彼女が権力者に向かないからこそ好ましいと思う自分がいるのだと。
「優しいのはいい事だとは思うが、私から見たらもう少し自分の身も大事にした方がいいと思うな。
それが彼らを守る事にもつながる」
「どういう意味よ?」
「君に何かあったら彼ら全員責任問題になるという事だよ。
…私としてもだ」
ヴォルフガングは紅茶の香りをゆっくり楽しむと、また一口カップに口を付けたあと続けた。
それはまるで教師が言い聞かせる様な、もったいぶる様な喋り方だった。
「そんな事で優秀な家臣を失う事は避けたい…と考えているのだけどね」
目の端でメリーの顔がさっと紅潮するのが見えた。
「君の侍女もそうだ。
もし君の身に何かあったら、彼女はこの帝国では生きていけないだろう」
そこまで言ってヴォルフガングは後悔した。
何も彼女に説教じみた事を言うつもりは無かったのだ。
迂闊な言葉で彼女の輝きを損なう事があったら、それこそ取り返しのつかない事になるだろう。
ヴォルフガングは衝動的に取り消しの言葉を発しようとした。
だが今回その機先を制したのはメリーの言葉だった。
「わかったわ…それはあなたの言う通りだと…思う。
私が軽率だったかも…」
それが本来彼女からしてもらしくない反応だったという事は、背後のアイシャの反応でわかった。
あんぐりと口を開けた猫耳メイドの顔はどこか間抜けで、思わず吹き出しそうになった。
「なによ?」
「いや、君を笑ったのではないよ」
ヴォルフガングはなんとなく心中穏やかになっていくのを感じた。
メリーが馬鹿では無い事にホッとした気がした。
冷静に考えれば当たり前だ。
馬鹿であったら半島最高の魔術師と言われるほど魔術を収める事は不可能だろう。
彼女は徹底的に貴族に向いていないだけなのだ。
「さてそろそろ昼か…ラッツェル、私たちの分の昼食は用意してあるかな?」
「はい、いつお戻りになられてもいいように準備させてあります」
「では頼む」
「かしこまりました」
そこまで話してヴォルフガングは気が付いた。
普段午前中にこんな騒ぎがあったら昼前にはへとへとになっているだろう。
ただでさえ皇宮と離宮を2往復しているのだ。
それどころか、今朝の作業の効率はかなり良かった気がする。
「そういう事か」
「どうしました?」
「いや、明日からも朝食を食べようと考えていたところだ。
体を動かす予定がある日は特にな」
彼女の故郷ではみなこのような習慣をしてるのだろうか?
ヴォルフガングはふと気になった。
もしかしたらヴェンヌの発展の裏にはそんな事も関係しているのかもしれない。
「ヴェンヌでは皆が朝食を食べているのか?平民も?」
「全員…かどうかはわからないわ。
でも屋敷の住民はみんな朝食を取るし、領軍も食べると言っていたわ。
船乗りも職人も…基本的にみんな食べるんじゃないかしら?」
ある意味予想通りの答えだった。
食事は腹が減ったから食べる。
つまりは労働の後に食べるのが一般的だ。
だがあらかじめ食事をしておくことで、その後の労働にいい影響が出るのなら、先に食べておいた方がいいのだろう。
「これはいいアイディア…習慣だな。
一体誰が始めたんだ?」
「お姉さまが言い出したって聞いたわ。
ううん、数代前の当主が言い出したそうだけど、それを根付かせたのはお姉さまだって」
「光刃の戦乙女か…恐ろしいな」
「何か言ったかしら?」
「いや、なんでも」
ヴォルフガングは心中で胸をなでおろした。
伝え聞く光刃の戦乙女の話には隙が無さすぎると感じた。
もちろん美化されているのであろうが、話半分でも本当なら政治的にすら手ごわい存在になっただろう。
「彼女が死んでよかったのか、それとも…」
これから対峙しようとする不気味な存在の事を思うと、光刃の戦乙女の武勇に縋りつきたくなった王国民の気持ちも分かろうというものだ。
だが彼女は既にいない。
もし彼女が存命だとしたら、妹を巻き込もうとしているヴォルフガングを許すと思うか?
いや、きっと許しはしないだろう。
彼はとても敬虔な信徒とは言いがたかったが、この時は心の中で神に祈りをささげた。
ついでに聖女であるメリーの姉にも…。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
カールハインツは馬上で物思いにふけっていた。
彼はヴォルフガングのいう眠らぬ者などというモノの存在を信じていなかったから、彼の目的を計ろうとしていた。
帝国の利益のためという彼の弁が本当だとすると、それは来るべき帝国の拡張政策に繋がる事だろう。
誘拐されてきたといいあの小娘が本当だとすると、西部貴族に対する人質か、あるいは懐柔政策のための餌だろう。
それが成ったら彼と自分の立場の差は決定的なものに成りかねない。
カールハインツは自分の旗色が圧倒的に悪いという事を理解していた。
理解していたからこそしばしば強攻策に出ざるを得ないのだ。
そうして当然、かれの想像通りだとした場合、ヴォルフガングの邪魔をするなど持っての他という事になる。
彼が帝国のために動いているのなら、それを邪魔する事は帝国の利益を損なう事だ。
「ヨヒアム、オルスペクト家で自由になる船舶はどのくらいある?」
「長距離の航海が可能なのは3隻、そのうち高速船が1隻です。
河川用の貨物船なら5隻、舟遊び用の遊覧船なら10隻ほど集めることができます」
「その高速船はどこまで行ける?」
「補給しだいですが、サノワ海内ならどこへでも行ける船員はよういしてあります」
これはとんでもない数字だった。
小国だったらこれほどの数の船を所持する事すら困難だろう。
一国の王ならぬ、一国の皇族が持ちえる資産ではない。
「どうされるおつもりで?」
「まだわからんな…とりあえずクベール候家とやらの小娘から話を聞く必要がある。
あいつめ、『私を故郷に帰してくれるの?』と聞いたな…つまりヴォルフガングではその望みを適えることが出来ない、あるいは…」
彼はメリーの顔を思い出しながら、あまり纏まろうとしない考えを纏めようとしていた。
この際、なんでメリーの顔が思い浮かぶのかなど考えるのは止める。
「適える気がないという事に薄々感づいているのだろう」
言い方は悪いが、自分が次期皇太子レースでヴォルフガングに迫るには、彼の上前をはねる必要がある。
カールハインツは血が滲むほど唇を噛み締めた。
不本意だが仕方がない、オルスペクト皇家に帝位を奪い返すのは亡き父の悲願だったのだから。
まずは何としてでも功績を積み重ね、ベルン=ラース王国進行の際には1軍を率いる許しをもらう必要がある。
ブランマルシュの進攻失敗の報告書は穴が開くほどよんでいた。
だからというわけでは無いが、自分が率いれば王都を落とす勝算は充分にあると考えていた。
事実彼は帝国軍の連帯を率いる将軍の地位を自力で勝ち得ているのだから。
ヴォルフガングの将軍としての実力は未知数だが、外交や謀略では油断できない相手だというのは理解している。
軍務も無能という事はないだろう。
だからこそ、進攻軍をヤツに率いらせるわけにはいかないと思った。
他の2皇家もカルナリアス皇家が帝位を独占するのは気に食わないはずだ。
特にジノルフンツ皇家においては、一度も皇帝を輩出したことがないのだ。
帝位を独占してるカルナリアス皇家よりも、まだ他の皇家の方がマシだと考えるのではないだろうか?
今やるべきは実績作りと、皇族会議への手回しだ…そうカールハインツは考えていた。
「そうなると目障りなのはルードヴィッヒか…。
貴族院ともども魔術狂いになりおって」
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「おや、ブルクファルトじゃあないか、なんだもう戻ってきたのか」
皇帝と皇太子に内偵の報告を行った後、ブルクファルトは兄の進めに従って南の離宮に向かうつもりで居た。
だが丁度運悪く、会いたくない相手と王宮内で出くわしてしまったのだ。
「ルードヴィッヒ殿…」
ルートヴィッヒ・ジノルフンツ・シュットルード。
四皇家のひとつジノルフンツ家の嫡子である。
一見皇帝の孫であるブルクファルトの方が立場が上に見えなくもないが、ブルクファルトはカルナリアス皇家の党首の孫で、ルートヴィヒはジノルフンツ皇家党首の子として比較される。
もちろん皇族同士で立場を比べるときは、当主に近いほうが上と見られるのだ。
「お前は軍観じゃあないだろう?なんでダンタヴェルグに視察になんか行ってたんだ?」
ルードヴィヒは小太りの身体を揺するように、ブルクファルトに迫ってきていた。
明らかに運動不足の身体で、事実1日中部屋に篭って魔術の研究ばかりしている。
いわゆる"魔術オタク"なのだが、その魔術の腕は本物で、皇族の中でも彼に比肩しうる魔術師はヴォルフガングだけで。
2人合わせて双璧と呼ばれるほどであった。
「まさかカルナリアスだけで軍部の掌握とか考えていないだろうなぁ?
ボクはともかくカールハインツが黙っていないと思うぞ」
普段魔術師としての能力の無いカールハインツを馬鹿にしまくってるというのに、こんな時だけ引き合いに出すその性根を。
ブルクファルトは心底軽蔑していた。
「まあいいさ、お前が何を企もうとボクを追い落とす事など出来ないのだからな。
カルナリアスが帝位にしがみ付くなら、帝国の魔術師はボクが支配するまでだ。
その場合軍務はオルスペクトにでもやってもらうさ」
もちろんルードヴィッヒにそんな権限は無い。
だが彼が皇族の中でもっとも貴族院の支持を集めているのもまた事実なのだ。
支持を集める理由としては彼の魔術の実力によるところが大きいが、"操りやすい皇族"という事実もまた一役買っていた。
はたしてこの男は本当に兄に比肩しうる魔術師なのか?
その魔術の腕を目の当たりにして、兄と帝位を競おうという意思を無くしたブルクファルトにとってそれは長年の疑問であった。
貴族や皇族の持つ魔術師としてのステータスは、それだけ影響力が高いのである。
むしろ魔術を持たないウーツベルフが皇太子の地位を得た方が異例だとも言えた。
「…よろしいですかな?ルードヴィッヒ殿。
私は視察の報告書をまとめなくてはいけないので…」
何か反論を言おうとしかかったが、思いとどまった。
何もこの男に自分の時間さいてやる必要はないだろう。
報告書は既に提出済みなのだが、この際出汁に使わせて貰う事にする。
「うん、公務だとかいい気になるなよ。
父親が皇太子だから贔屓されてるだけじゃないか」
そういう文句は皇太子候補にもなれなかったあんたの父親に言えと、心の中で毒づきつつ一礼すると。
ブルクファルトは馬房に急いだ。
「紫電の魔女に使いを出せ」
ルードヴィッヒは腹心として連れている魔術師にそうつぶやいた。
「視察だと?
ボクの目は誤魔化せないぞブルクファルト…どうせあの方が幽霊船を集めている事を嗅ぎ付けでもしたんだろぅ?」
その呟くルードヴィッヒの目には、先ほどまでもおどける様な色は浮かんでいなかった。
彼は憎々し気に言い捨てた。
己を偽るのは気分が悪いが仕方ない。
それが彼に課せられた使命なのだから。
「いくらあの方が皇族に手出し無用とは仰られていたとしても、同じ皇族であるボクなら手の打ちようは色々あるんだよ」
ルードヴィッヒの部下の一人、魔術師がそそくさと皇宮を後にした。
いくら魔術が専門とはいえ、部下を全て魔術師だけで固めているのは異常と言える。
彼にとって信用が置ける人間は魔術師だけで、評価できる人間も魔術師だけだった。
周りはその異常さを見て、ルードヴィッヒは帝位をハナから諦めているのだと判断していた。
だが彼は父と違い帝位を諦めてはいなかったのだ。
いや、あの方との邂逅以来帝位に執着し始めたと言っていい。
あの方は言った、魔術師の支配する世界にしたいと。
その言葉はルードヴィッヒに天啓のように降り注いだ。
そういう世界にしたい…いや、しなければならないとさえ思った。
今まさに構成が霧散して消えていく彼の攻撃魔術のように、彼の疑念や敵意が何かにかき消されているとも知らずに。
ルードヴィッヒはあの夜の事を思い出ししばし恍惚としていたが、やがて自分の仕事を思い出し移動を始めた。
残念ながら彼は皇立魔術院に接触を禁じられている。
これは今の皇帝であるアルジヌア三世の命令で、何人たりともそれを覆すことはできない。
それを命じられたときは尻尾を掴まれたかとひやひやしたものだが、どうやらヘッドハンティングが過ぎただけだったようだ。
だがやりようはある。
まずは帝国の魔術列伝の編纂から手を付けるべきだろう。
彼は自分の元に集まってくる魔術の知識に興奮を覚えた。
それは本来の魔術オタクという性は変わってないように見えた。
皇太子と、貴族院と、皇族会議をそれぞれ代表する3名の後継者争いは年々激化の一路をたどっていた。
ヴォルフガングはむしろ優秀さ故に他の組織の後ろ盾を得られず、そこを他の皇家に突かれる形になっていたが、カールハインツとルードヴィッヒも決め手を欠ける結果となっていた。
この三竦みを機会とばかりに介入する影が、おぞましき過去の闇から蘇ってきていることを帝国はまだ知らなかった。
眠らぬ者は再び帝国を、そして世界を手に入れようとその暗躍に力を注いでいる時だった。
「魔術師の帝国…」
ルードヴィッヒは口の中でその言葉を弄ぶと、にんまりと唇の端を持ち上げた。
彼は共を連れ、そそくさと皇宮内の暗い道へ消えていった。
シーシンドゥリア通商連盟は、オリヴァの南東の海岸線(南路交易海)沿いに広がる連合国家です。




