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クロニクル アンド マギグラフィ  作者: 根菜類
第二部・メリヴィエ編
57/68

13北東に進路を取れ

やっと帝国に帰ってきた。

長かった…。



 ジルベール・ギャロア司祭長にはこそ逃げられたものの、賊の大半は捕縛する事に成功したイヴォンは、彼等…中には司祭長の腹心もいた…の証言に頭を抱える事になった。


「出港中の船に逃げ込んだだと?!」


 何という事だ、一歩遅かったのだ。


「今回ばかりは大人しく捕まっていて欲しかった…」


 イヴォンは頭を抱えた。

 さっきまでの高揚が嘘のように、その顔は真っ青だった。

 国外に行かれたら打つ手がない。

 これならまだ王都のウルク教の元に攫われていた方が助け出しようはあった。


「で、その船の行き先は解っているのか?」


「リノア辺境伯は、クベール家からの正式な要請ならともかく…」


「一介の騎士の要請では情報公開はできないと言うのだな?」


 これは仕方の無い事ではあったが、そこは融通を聞かせてほしいとは思ってしまう。

 もっともいくら侯爵家と言えども、入出国記録の提示など本来はルール違反ではあるが、そこは辺境伯の匙加減によるところも多いのだが。


「あの船の行き先はたぶんブラムシュテルンです」


 促しの目配せを受けて、レオンはおずおずと先ほど船長に語った持論を述べた。


「何故そうだと思う?」


「帝国中央部の様式だからです…帝都じゃなくても帝都周辺衛星都市だと思います。

 僕がいた帝国西方とは違った様式なので」


「レオンは帝都に言ったことがあるのか?」


 レオンは黙って首を振る事でその問いに答えた。


「僕はヴェストシュタット近隣の街の生れです。

 一応ブランマルシュ上級伯爵領の街をいくつかと、ドルグバッハやザンヴォーリンと言った大きな港町には行ったことがありますが…」


 レオンはそこで言いよどんだ。

 今自分が言おうとしている仮説と情報は、決して状況を好転させる内容ではないからだ。

 これを言ったらイヴォンはますます苦しむだろう。

 だが、知っている情報を全て提示するべきだとも理解していた。


「ですが、初めてラース王国に来た時に乗っていた船は中央の様式でした。

 先生が帝都から乗ってきた船だから間違いないと思います」


「…それはいい情報ではないな?」


「はい、西部の船ならまだ迎えに行くことはできるかもしれませんが…」


「そうか…とにかくレオンの意見も含めて、ヴェンヌに報告を出さねばならない。

 船長、悪いが頼まれてくれ…船員たちも付かれてるとは思うが、急ぎレ・オルレンヌに取って返してくれ」


 船長の顔色も決して良くは無いが、イヴォンやレオンよりはましに見えた。

 ただそれは彼が商売柄、顔色を隠すのに長けている為かもしれない。


「わかりましたが、イヴォン殿は?」


「ここに残って辺境伯と交渉を続けてみる。

 少しでも早く事後対応できるようにしておかなくてはな」


「あの…僕もここに残らせてください」


「お前も?」


「はい、もし帝国にメリヴィエ様を向かいに行くとなったら、絶対役に立てると思います。

 地理的にも、立場的にも」


 帝国人であるレオンの協力は確かに喉から手が出そうなほどに欲しい条件だった。

 しかも彼はアインツィヒ教の聖職者だ。

 イヴォンも帝国内でのアインツィヒ教が、ベルン=ラース内のウルク教とは比べ物にならないほど厚く信仰されている事は知っていた。


「わかった、それはこちらからも望む事だ…だが、ウィルレイン様から引き上げの命令があった場合は素直に従ってくれ」


 そうなった場合はアインツィヒ教か、あるいは帝国に交渉して身柄の捜索を依頼するしかなくなるだろう。

 大聖堂はともかく、帝国相手だとかえって人質にされるおそれも出てくるのだが。


「わかりました」


 神妙に頷いたレオンだが、心の中では違う事を考えてはいた。

 ヴェンヌから返答が来たら自分も連れ返される恐れがあるという事、そうなるぐらいならいっそ…。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 その船がズォルヌに入港してきたのは、それから二日後だった。

 都合よくズォルヌに入港してくれると確信していた訳ではなかったが、密かに考えていた計画が実行するためには帝国籍の船が必要だった。

 無茶な事だとも自覚しているし、少なくない不義理を行う事になる事も解っている。

 だがこのまま彼女の捜索を諦める事になるのは耐えられなかった。

 後で見つかるようにと予めて認めておいた書置きを自分の荷物の底に忍ばせると、灰色の法服と僅かな蓄えだけを抱え、レオンはそっと宿を抜け出したのだった。


 港に入る前に素早く法服に着替えると、一回深呼吸をしてから、ドルグバッハ籍のくだんの商船に近づいて行った。


「すみません、お尋ねしたいのですが?」


 ヴェンヌの教会ではアルト語で話していたため、幸いアルト語の発音がさび付いているなんて言う事は無かった。


「こちらの船はザンヴォーリン経由でドルグバッハに向かわれるんでよかったんでしょうか?」


「そうだが…あんた、司祭様か?」


 とは言うものの、裏は既に取れているのだ。

 ミリュス湾で遭遇したときに、魔術で岩礁を崩してこの船を救い出したときに。

 あの時は侍祭の法衣は着ていなかったし、会話は全てラース語で行っていた。

 自分がシュラード人である事は既に知られているだろう。

 ラース人の騎士や船員と一緒に居たシュラード人の少年が、いきなりアインツェヒ教の法服を着て現れたら怪訝に思うだろう。

 だがそれでも、レオンは自分のこの身分に頼るしかないのだ。


『君が将来にどのような展望を抱いているか、何を目的として考えているかは私は知らない。

 だがそれがどのような物であろうとも、司祭になるという事は決して遠回りにはなりえない』


 師匠(エッカルト)から初めて受けた教えが今まさにレオンの行く道を照らしていた。

 レオンは心の中で司祭に感謝し、必ずその元へ赴く事を神に誓った。


「僕はまだ侍祭です。

 教会の仕事でヴェンヌに赴いていたのですが、帰りに先せ…司祭様とはぐれてしまいクベール侯家の方に助けていただいていたのですが。

 彼等としても僕を同行させてくださるのはここまでが限度だそうで…ここから帝国に、できればブラムシュテルンに向かう船を捜していたんですよ」


「…つまり、この船に乗せて欲しいと?」


「はい」


「ま、まあ俺の一存では堪えられんよ。

 まってな、船長を呼んで来る」


 船長は意味の男としては珍しく、髭を蓄えてはいなかった。

 彼はディルツ・ビットナーと自己紹介をした。

 帝国ではフルネームで自己紹介をするのは一級市民以上の特権である。


「話は聞いたが…言ったとおり、この船はドルグバッハまでしか行かんのだよ」


 彼は西部訛りのアルト語でおっかなびっくり話しかけてきた。

 この小さな侍祭に対して、どう対応するか計りかねていたのだろう。

 レオンは久々に故郷の訛りを耳にして、少しづつ落ち着いて行くのを感じていた。


「かまいません。

 ドルグバッハまで行けば少なくともオードベイゲル行きの船はあるでしょう。

 オードベイゲルまで行けばブラムシュテルン行きの船があるはずです」


 ドルグバッハはグラーベ川という大河の河口にある商業都市である。

 ヴェストシュタットから比較的近いこともあり、レオンには土地勘があった。

 帝都への直通便をそうそう望めない今、ドルグバッハ行の船は文字どうり渡りに船だった。


「ただ一つお願いしたいのが、ザンヴォーリンに必ず寄っていただきたいのです。

 こちらに来る途中にドルスドバッグ辺境伯様にお世話になって、帰りに必ず寄ってご挨拶をさせていただくと約束をいたしてまして。

 その約束は守りたいと思っています」


 これは巧妙な寄せ餌だった。

 形の上ではザンヴォーリンに寄航するように"お願い"だが、帝国籍のまともな船が国内に戻るのにザンヴォーリンを経由しないはずも無く。

 辺境伯に挨拶するような聖職者を乗せている船が、信仰心厚い辺境伯に便宜を図ってもらえないはずが無いのだ。

 表面ではにこやかな顔を作っているレオンも、心中は穏やかではなかった。

 自信を持って用意した交渉法であったが、考え込む船長の目に全て見透かされてるような気がして手の平に汗が滲んだ。


「師匠の、侍祭殿の師匠の司祭様の名前を伺っても?」


「先生はエッカルト・インメル神跡司祭です。

 今はもう大聖堂に帰り着いているはずです」


「船長、司祭様方の名前とかご存知なんで?」


「いんや、地元(ドルグバッハ)のテレマン司祭様以外の名前なんかしらんよ。

 だがここは聞いておくべきだろうと思ったまでさ。

 ただな…神跡司祭のお弟子さんって事は…」


「ええ、まだ未熟ですが」


 レオンはもったいぶって目を伏せて答えた。

 心の中では船長の質問の意図を理解し、胸を撫で下ろしていた。

 船長は自分が魔術師(マギクラフター)だと確認したかったのだろう。

 魔術師を乗せる事のメリットは計り知れない。

 もちろん主に船舶に求められるのは風や水の魔術師だが、火や地の魔術師も居ると居ないでは大違いだった。

 とはいえ教会の建前は魔術ではなくあくまでも神の奇跡であるため、自分から魔術師だと名乗る事は出来ない。

 ある意味気を利かせてくれたというわけだ。


「この船シルトクレーテ号はザンヴォーリンとギムベイゲルを経由してドルグバッハに向かう。

 それでいいならお乗りなせぇ」


(シルトクレーテ)号?…この船は高速船ですよね?」


「なぁに、早い名前よりも丈夫な名前のほうが船にはいいんでさぁ…船乗りにもな!」


 レオンの脳裏にジャンリュックの顔が浮かんだが、今はそれどころではないと慌てて打ち消した。


「もちろん、願ってもない事です!」


 ザンヴォーリンにも、ギムベイゲルにも、マリーの手がかりを探すために上陸する必要があるのだ。

 もちろん否応もない。


 レオンの考えるルートは2つ。

 ドルグバッハまでにメリーとアイシャを見つけることが出来たら、ジキスムントを密かに頼るつもりだった。

 ドルグバッハを越えてしまったら、大聖堂のエッカルトに頼るしかない。

 聖女の妹という事で大聖堂ではメリヴィエを囲いたがるかもしれないが、流石に半島西部に築いた橋頭堡と引き換えにはすまい。

 ベルン=ラース王国と因縁のあるブランマルシェ上級伯爵家に頼るのも危険だが、そこはジキスムントを信じるしかない。

 いや、レオンはジキスムントを信じていた。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 翌朝シルトクレーテ号は静かに出港した。

 船体が波除を抜け、桟橋が湿気を多く含んだ潮風に霞むまで港を眺めていた後、レオンはゆっくりと船倉に降りていった。

 騎士や兵たちが自分を探しに来なかったのにほっとした反面、やはり少しさびしいと感じていた。

 心のどこかで止めて欲しいと思っていたのかもしれないと自分を自嘲し、レオンはペンを取ってやるべき事を始めた。

 レオンの手持ちでは船賃には程遠く、足りない分は働いてかえすという契約をビットナー船長と交わしていたのだ。

 船乗りのほとんどが読み書きを出来ないため、書類仕事は主に船長の仕事なのはどの船でも一緒だ。

 かといって読み書きが得意な船長もまた貴重なのである。

 ザンヴォーリンの入港申請書、補給の注文書、積荷の目録など。

 レオンにとっては船が揺れすぎない限りは簡単な仕事なのだが、船長にはたいへんあり難がられた。

 聖職者にとっては読み書きは毎日必須な仕事だ。

 特に侍祭にとっては読み書きの練習を兼ねた聖典の写しや、日誌の記入は数もこなさねばならない上、字が下手だと記纏司祭にやり直しを命じられる。

 早く正確に綺麗に、文章を綴れるようになって初めて侍祭として一人前と認められる。

 レオンはまだ一人前には程遠いが、それでも書き物は得意なほうだった。


「綺麗な字ですなぁ」


「これでも記纏司祭様…専門の司祭様に言わせるとまだまだだそうです。

 僕も何回も書き直しを命じられるぐらいなので…」


「…わしらにゃ聖職者は勤まらんというのがよくわかりましたわ」


「それより目録の確認をお願いします。

 そっちは僕にはまったくわからないので…」


 とは言うものの、僅かだが船乗りの経験のあるレオンには目録の矛盾点がすぐにわかった。

 おそらく密輸をやっているか、荷主に積荷を誤魔化しているのだろう。

 ミリュス湾を抜けようとしてた事からも、この船はヴェンヌからの荷物を積んで居る事は予想がついていた。

 帝国では半島西部の商品は未だ珍しく、僅かな商品でも思わぬ高値をつける事があるそうだ。

 だがレオンにとっては関係の無い事だし、密輸は国の税収をすこしちょろまかす程度だ。

 危険なものを運んでいるのではない限り見てみぬフリを決め込む事にした。


 ザンヴォーリンはズォルヌから北東の方角にある。

 真っ直ぐ突き進めれば早いのだろうが、外界に出ては方角を見失う恐れが高いため、でこぼこな海岸線に沿って進むしか無い。

 至南の月(6月)に入った今は海風も蒸し暑く、気の急く旅の航路は決して快適とはいえなかった。

 だが南風に押されているシルトクレーテ号は、亀の名に相応しくない速度でザンボーリンに向かって駆けていた。

 来るときは半月もかかった行程を半分ほどの8日で駆け抜けたシルトクレーテ号は、その日の午後にはザンヴォーリンの港に滑り込んだ。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「じゃあ頼んますよ?」


「わかっています。

 僕としても順調な船旅こそ望むものですから」


 レオンにとっては最初の正念場だ。

 ドルスドバッグ辺境伯に対していい思いではないが、ここで引く事はできない。

 メリーの情報を得るのに、ここザンヴォーリンにおいて辺境伯以上の存在はいないのだ。

 シルトクレーテ号の便宜を頼むのは簡単な交渉だが、本命の話を引き出すのは至難の業だろう。

 そして何より、辺境伯には苦手意識があった。


「すいません、先ぶれも無しで恐縮ですが…」


 辺境伯の館の場所は知っていた…こっそり庭に忍び込む抜け道も知っていたが、今日は真正面から門番に挨拶を交わす。

 もちろん礼はアインツィヒ教の聖職者独特の仕草でだ。


「エッカルト・インメル司祭の弟子、レオン・ケッセルが挨拶に参りましたと、ドルスドバッグ辺境伯様にお取次ぎねがえますか?」



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「驚いた…それにしても見違えたな」


 辺境伯が初めてレオンと会ったのは、4年前の陽炎の月(8月)で。

 もうすぐ丸4年が経とうというこの日、16歳に成長し成人を超えた当時の少年が、侍祭のローブを着て目の前に立っている事に感慨深くはあった。


「辺境伯様もご壮健のようで…あの時は失礼をしてしまい、申し訳ありませんでした」


「いや、頭を下げんでくれ…今のおま、君に頭を下げられたら私が困る。

 ふむ…見事な聖職者ぶりだな、インメル司祭はよい師匠でもあられたわけだな?」


「はい」


 事実レオンにとってインメル司祭は自慢の師匠であった。


「今僕は先せ、インメル司祭がいられる大聖堂に向かう途中なのですが…」


「ああ…いや、みなまで言わなくてもいい。

 あとで侍従に船の名前を伝えてくれれば、最優先で手続きを行う様に手配しよう」


「ありがとうございます。

 あの…図々しいとは思いますが、もう一つお願いがあるんですが…」


 残念ながら交渉事はまだ師匠譲りとは行かないようだった。

 挨拶をやり過ごしてホッとしたのか、辺境伯への苦手意識がよみがえったように、レオンの口の回転(まわ)りを妨げた。

 だが、しどろもどろになりながらも、レオンは何とか言うべきことを辺境伯に伝える事ができた。


「ええっと…僕たちの1日から二日ぐらい前にラース王国から帝都に向かう船が来たと思うのですが、その船はザンヴォーリンに何か…あるいは誰か下していかなかったでしょうか?

 あと、その船の正確な行先は教えていただけませんか?

 帝都方面に向かってるとしか知らないもので・・・」


 すると辺境伯はたちまち眉間に皺をよせ、険しい顔つきになった。


「王国との航行は私が直接把握しているが、今日入港した船の以外だと半月ほど前にオードベイゲルの商船しか通ってないが?」


「そんな…確かに一隻の高速船が、僕の目の前でズォルヌを出港したんですよ!

 先生と一緒にザンヴォーリンを出港した船と同じ様式の…」


「君の言う事が正しければ、それは私に無断でザンヴォーリン沖を通過したという事になるな」


「ではザンヴォーリンにその船は寄港していない…と」


 レオンは急速に血の気が抜けていくのが解った。

 よりにもよってメリーが飛び込んだ船は違法航路を通る後ろめたい船だったのだ。

 これはメリーが何事もなく解放される可能性はまず無い事になる。

 最悪の場合は口封じに…。


 ガタタッ


「レオン!…大丈夫か?」


 思わず崩れ落ちそうになったレオンは侍従に支えられた。

 心配そうにのぞき込む辺境伯の顔にも訝しげな表情が浮かんでいる。

 レオンがなぜそこまで取り乱したのか想像もつかなかったのだ。


「顔色も悪い…その船がどうしたのだ?

 ええ、要人が間違って乗ってしまったようなのです…もちろん王国のアインツィヒ教会にとって重要な方…のご親族が」


 ギリギリのところで嘘ではない。

 ラース王国のアインツィヒ教会で最も重要な人物は聖女に列せられた光刃の(スプラデュール)戦乙女(ヴァルキュリエ)であって、メリーはその親族で間違いない。

 

「そうか、では念のため湾岸に捜索隊を出そう。

 で、レオン…君ははどうするのだ?」


「このまま帝都に向かいます。

 もしかした途中で何か手がかりがつかめるかもしれませんし…それに、経過はともかく大聖堂の先生の所には戻らないといけませんから」


 無断でズォルヌを飛び出してきた以上、もうヴェンヌには戻り辛い。

 本来の目的ではあったが、メリーを保護し、そしてヴェンヌに送り帰すことを最後の恩返しとすると決めていた。

 自分勝手なのはわかっていたが、帝国に入った以上は大聖堂に顔も出さずにラース王国に戻る訳にもいかない。


「わかった。

 では何か解ったらインメル司祭宛てに連絡を送ろう」


「ありがとうございます。

 重ね重ね辺境伯様のお気遣いに感謝を…」


「これは君が気にする事ではない。

 帝国の臣民として、アインツィヒ教の信徒として、そしてこのザンヴォーリンを預かる者としての私の義務を遂行するだけなのだからな」


 顔色を失ったレオンを椅子で休ませると、彼はシルトクレーテ号の手続きに便宜を図るように部下に命じた。

 そして気の毒なほど狼狽してるレオンの向かいに腰を下ろすと、少し考えてこう付け加えた。


「それにだ、ザンヴォーリンを回避するのは密輸船の類であろう。

 意外と近隣の港に隠れてるかもしれん」


 辺境伯はそうは言ってくれたが、レオンにはわかっていた。

 あの船は中央で作られた高速船だ。

 田舎の密輸商人が手に入れられるものでは無い。

 何かしらの内密の目的を持って、入出国を記録されるザンヴォーリンを避けたのだろう。

 そうなると何故ズォルヌには素直に入港したのかは疑問に感じるが、レオンにはそこまで推察できる知識はなかった。

 帝国船に偽装した王国の船だという懸念も無いわけではなかったが、そうだとしたらなおの事帝国内でメリーを保護する必要がある。


「君が乗ってきた船…シルトクレーテ号という可愛らしい名前だったな。

 最優先で手続き補給を行わせるように指示したが、どう頑張っても今日中に出港は無理だ。

 今日は屋敷に泊まっていきなさい。

 なぁに、心配することは無い…君に説法や神学論議を求めるような真似はしない」


 侍祭というのは司祭見習いのような物で、彼らは20歳過ぎまで司祭の勉強と訓練に生活のほとんどをつぎ込む。

 それでも20歳過ぎたぐらいで司祭に任じられれば早い方で、中には30歳を過ぎてもまだ侍祭のままだったり、司祭に上がれぬまま還俗をする者も少なくない。

 それは高々4年未満の修行しか行ってないレオンでは、神学の理解もまだまだ未熟だろうし。

 辺境伯を満足させる説法も行えるとは思えなかった。

 もちろん辺境伯はそれを理解してくれていたのだ。


「今日はゆっくり疲れを癒すといい。

 君に課せられた使命を私は聞こうとはしないが、君はその使命を全力をもって全うするように。

 それが神に使える人間の使命だよ」


 ドルスドバッグ辺境伯は、優しげにそう言った。

 彼にしてみれば、顔色を失い倒れそうになるまで教会の使命を追いかけているレオンが、好ましく感じない訳は無かった。

 例え幾ばくかの勘違いが混ざっていたのだとしても。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 レオンは気を奮い立たせて、翌朝なんとかタラップを上った。

 ザンヴォーリン周辺の事は辺境伯に任せるしかない。

 今自分ができる事は、一刻も早くメリーとアイシャを見つける事だと覚悟を決めていった。

 だが。

 ギムベイゲルでもあの船の行方は一切つかめなかった。

 辺境伯からバイルシュミット子爵に宛てた紹介状も無駄になってしまった。

 まさか東サノワ海の中央を横断したのでもあるまいに、ここまで無補給で走るのはありえないだろう。

 悲痛な覚悟を背負ったレオンはついにドルグバッハへと到着した。

 

「侍祭さん、悪いがこの船はここまでだよ」


「わかっています。

 ドルグバッハにはいくつか心当たりがありますし、ここの教会に便宜を図って貰う事もできます。

 これまでありがとうございました」


「なぁに、礼を言うのはこっちの方よ」


 実際レオンは幼いころ何回かこの街を訪れた事があり、街の中には当時主家であったブランマルシュ家の屋敷もあった。

 護衛付きではあったが、ジキスムントの息子のノルベルトと無邪気に街を駆け回った事もある。

 ドルグバッハの領主はブライトクロイツ上級子爵であったが、上級子爵は貴族界から距離を置かれがちなブランマルシュ上級伯爵家に対しても比較的友好的だったのである。


 さて、どこから当たってみるか…。

 ビットナー船長と船員たちに別れの挨拶をし、レオンは市街地に足を向けようとした。

 振り返ろうとした拍子に目の端を何かが横切った様に感じ、レオンは慌ててそれに目を向けた。

 それは季節外れのトンボであったが、きらきらと海の反射光を羽根に受け、そのままスーッと沖の方へ飛んでいった。


 ドルグバッハの港の左右には港を囲むように岩礁が伸びていて、天然の波止めになっている。

 岩礁の中には海面に突き出た岩がゴロゴロと突き立っており、何名かの地元民がそこから糸を垂らしていた。

 その中でも端っこに追いやられてる者が1人。

 まるでレオンの視線を誘導するかのように、その人影に向かって飛んでいったトンボは、そのまま岩をくるりと一周すると。

 陸地の方に戻ってきて、レオンの頭上を越えていった。

 だがレオンの視線は既にトンボを追いかけるどころではなかった。


 アインツィヒ教は牙人(ガルー)爪人(シャズ)、そして角人(ヴル)の排斥を撤回したが、長年染みついた亜人への迫害は帝国民の中から簡単には消えなかったであろう。

 表立って害されることは無くなったであろうが、無視や嫌がらせは日常茶飯事なのであろう。

 だからその1人は、人間(・・)を避けて岩陰で手作りの釣竿を握っていたのだろう。

 だがこの街に角人が居たなどという事はレオンは知らなかった。

 最後に、6年前のこの街に訪れた時にはここには亜人はいなかったのは間違いない。

 だがそれより、レオンは顔の区別などつかないはずの彼、角人に強烈な既視感を抱かずにはいられなかった。


 レオンは思わず走り出し、服が濡れるのも構わず岩礁の浅瀬を突っ切った。

 なるほど、ここに釣りに行くには泳ぎが達者でなければ難しいだろう。

 だがレオンは知っていた。

 ()は抜群に泳ぎが上手かったことを。

 レオンは角人の傍らまで駆け付けると、驚き目を見開く角人へおそるおそる手を伸ばして彼の名を叫んだ。


「…っシルス!」


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