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クロニクル アンド マギグラフィ  作者: 根菜類
第二部・メリヴィエ編
54/68

10襲撃者の誤算

ジームベルグ→ヴェストシュタットに改稿

 帝都ブラムシュテルンから北西に2日の場所にあるリッヒテンの森。

 ここは古来から罪人の追放地として定められ、近隣に人が住むことを禁じられていた。

 明確に死罪にはしずらいが死んでほしい者や、罪には問われたもののこっそり助けたいものが着の身着のままでこの森に追いやられる。

 彼らは獣に襲われたり、あるいは餓死したりで森に消えるか、こっそりと忍ばされた手の物に遠くに逃がされたりする。

 念入りに暗殺者を忍ばせる場合もままあった。

 そしてまた、死んでさえなお埋葬を許されない、大罪人の死体がここに打ち捨てられる。


 その死体は念入りに森の奥まで運ばれ、そして打ち捨てられていた。

 身に着けていた豪華な衣服や装飾品は全て剥がされ、ぼろ布だけにくるまれたその体は無造作に木々の間に投げ出されていたが…。

 異様だったのは、死してすら彼の罪を許せなかったのか?

 何本もの槍や剣がハリネズミのようにその体を飾っていた。


 風雨にさらされ脆くなった槍の柄が割れ折れ、錆びた穂先だけを残し、散乱した白骨のように死体の近くに散らばっていた。

 だが散らばるのはボロボロに風化した槍の柄のみで、周囲には下草どころか苔さえも生えていなかった。

 乾燥してミイラのようになった死体もまた腐乱した様子は無かった。

 それが一層散らばる白い木片の異様さを引き立たせていた。


「へっへっへ、あったあった…こんな奥地にまで運ばれるとは、よっぽで生前にやらかしたようだぜ」


「わ、なんだこの剣の本数?…これ咎人じゃなくてここで襲われて死んだとかじゃないのか?」


「あー、ありうるな。

 ここに追放されたはいいが、よっぽど恨み買ってたとかな。

 どちらにせよ俺らにはありがたい事だよ」


 こういった土地にありがちの死体剥ぎが、とうとう彼を見つけたのは彼の死後数百年が経ってからだった。


「おいおい、これ全部錆びてるじゃねぇか」


「ばっかおめぇ、これ鉄だぞ?

 貴重な鉄器なんだから、多少錆びてても高値が付くに決まってるだろ」


 そういって彼らは薄汚れた骸布(シュラウド)に突き刺さった剣や槍を引き抜いていった。

 彼らにとって手慣れた作業だったのだろう。

 死体に敬意も憐憫も感じない彼らの所業は、街に住む貴族達が見れば目を覆ったかもしれない。

 だが底辺の住人らにとっては日常だった。

 もう死体は金も武器も衣服も必要とはしない。

 必要ないものから必要な者に物が渡るのは当然の摂理だった。


 だが。


 だがそれでも彼らはこんな森の深くまで入り込むべきではなかったのだ。

 あるいは、この死体を見つけるべきではなかったのだ。


 彼らは思わぬ収穫に我を忘れ、この死体の異常さに気づかなかった。

 最後の1本、胸の中央に刺された鉄の剣を引き抜くその時間まで。



 悲鳴は無かった。

 悲鳴を上げる余裕さえ無かったのだ。

 骨と皮だけになったその手に喉を掴まれたその瞬間、驚愕に目を見開く事だけが唯一彼らに許された反応だった。

 声を上げるより早く命と、そして魂を吸いつくされた哀れな死体を2つを足元に転がすと、彼はゆっくりと立ち上がった。


 哀れな犠牲者から吸い上げた命と魂は魔力に変換され、彼の体の細胞レベルにまで刻まれた魔力回路を走り抜け、彼の体と…そして虚ろな精神をよみがえらせた。

 だがまだ足りない。

 魔術は魂が編み上げる奇跡だ。

 もっと多くの魂を吸って、体内に宿る魔力を盤石なものにしなくてはならない。

 自分の強大な魂に比べ、この二人の魂のなんと力不足な事か!

 やはり非魔術師(マギニヒト)は劣等種と言わねばなるまい。

 薄汚い亜人どもよりは少しはマシ程度の価値しかないのだ。

 だがまだましだろう、亜人の魂と違って非魔術師の魂は僅かでも糧になる。

 おいそれと魔術師の魂を(すす)れない以上、非魔術師どもの魂を大量に啜るしかない。


 彼は天を仰ぎ、出ない声で笑った。

 もう少し…もう少しあのままだったら、いかな強大な自分の魂すら使い果たしていただろう。

 そうなれば体に刻んだ魔術回路(サーキット)も動力を得ず無駄に朽ち果てたに違いない。

 だがしかし、彼は再び立ち上がった。

 これは神が根負けしたのか、あるいは彼を認めた事に違いないのではないか?

 ひとしきり笑った後、気が済んだか彼はゆらりと歩き出した。

 目的地は故郷ブラムシュテルン。

 途中地図から消えても何の支障もない村の一つ二つあったはずだ。

 帝都に着いたならしばらくはスラムに潜んで害虫駆除でもしてやるか、どうせ非魔術師は等しくわが糧になる価値しかないのだから。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 王国暦431年若葉の月(5月)。



 ジルベール・ギャロア司祭長は窮地に立たされていた。

 もっとも窮地なのは彼だけではなく、彼の雇い主でもあるバシュレ枢機卿も、それどころかウルク教自体がたいへん拙い状況に陥っていたのだ。

 だがとりわけギャロア司祭長の立場は危うかった。

 もう1年以上枢機卿に面会を許されないばかりか、司祭長という立場にあるにも関わらず中央教会への立ち入りすら憚られたのである。

 切り捨てられるのは時間の問題だろう。


「くそっ!どいつもこいつも!」


 獲物を取れない猟犬には用は無い。

 再三面会を求めた末にバシュレ枢機卿から帰ってきた答えがそれだった。

 ジルベールがアインツェヒ教の司祭を仕留め損なった事で、枢機卿は事後対応に追われるはめになったのは確かだ。

 だがジルベールにしてみては今まで散々汚れ仕事を引き受けてやっていたのに、たった一回のミスで切り捨てられては納得がいかない。

 いかにそのミスが致命的でも、ジルベールにとっては同じ事だった。

 

「何とか挽回する手は無いものか?」


 いかに腹が立とうとも、いまのジルベールを救えるのはバシュレ枢機卿しか居ないのだ。

 彼は教会内に敵を作りすぎた。

 枢機卿の庇護が無ければ明日にでも教会を放逐されてもおかしくは無い。

 そして、教会の外にはもっと敵が多い。

 なんとしても枢機卿にもう一度拾い上げてもらわねばならないのだ。


 ジルベールは考えた。

 アインツェヒ教に今回の事撤回させるのは無理だろう。

 ならクベール家に撤回させるしかない。

 だがどうやって?



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 レオン・ケッセルは夜が白み始めるころ寝床から起き上がる。

 この生活を始めたころはけっこう辛かったが、4年も続ければ慣れてしまった。

 手早く身支度を整えると、そっと屋敷の勝手口を抜ける。

 別に無断で出かけるわけではなく、まだ大半の住民が寝ているクベール邸内に気を使っての事だ。

 そんなレオンに(かまど)番が分けてくれる固いパンの切れ端が毎日の朝食だ。

 まだ薄暗い街中でパンを齧りながら歩ける事、この街の治安が如何にいいか外国人であるレオンはよくわかっていた。

 まだ開いていない教会に到着すると、まず水汲み、屋外の掃除、そして薪割り。

 司祭や他の侍祭が置きだしてくる前に教会の外の力仕事と雑務をできるだけ終わらせる。

 侍祭であるにもかかわらず、通いでやってくるなどという前代未聞の立場であるレオンからすれば、こうやって極力雑務を引き受ける事で少しは教会や他の侍祭達の負担を減らしたかった。


 司祭達が起きだして来たら一緒に教会内の雑務、そして午前のお勤めを行う。

 聖職者にとってこういう毎日の積み重ねこそが大事だと、このヴェンヌの教会を任されたオットー司祭はみんなによく言い聞かせていた。

 師匠であるエッカルトが一般的な司祭の職務を重視していなかった事もあり、レオンはオットー司祭の下で始めて普通の侍祭の職務を学んでいた。

 レオンが教会に住み込まず侯爵家から通いという事にオットー司祭はいい顔をしなかったが、そこはウィルレイン侯爵子息に押し切られらたらしい。

 ウィルは師匠のエッカルトのみならずレオンの事まで非常に気に入っており、エッカルトの頼みとばかりにクベール家で教育を引き受けようとしたのだ。

 だがレオンは教会での修行を望んだ。

 師匠であるエッカルトの立場も考えての事だが、それ以上にベルン=ラースの貴族家に深入りする事を避けたかったのであり。

 クラーケン号のクルーを弔うためにも教会で職務に準じようと考えたためだ。

 だがウィルはレオンを手放すのを良しとしなかったため、午前中は教会で聖職者として、午後はクベール家で魔術師として修行を積む事になった。

 レオンも魔術師としての修行が師匠の希望とあっては強く断れなかったのだ。


 教会は午後になると一般の入信者や巡礼者などが集まってくる、驚いた事に出来てまだ4年のヴェンヌの教会にはヴェストシュタットの教会に負けないほどの人がやってくる。

 これはこの地の聖女として奉られてる光刃の(スプラデュール)戦乙女ヴァルキュリエがいまだ西部で高い人気を得ているためで、参拝者も彼女の肖像や像にばかり祈りを捧げている。

 ウィルに言わせれば噂が一人歩きを始めてどんどん誇張されているという事だが、そう語る彼の顔はまんざらでもなさそうだった。


 地域の代表者となるエルメンラヒ司教が西部の代表的な都市に教会の設立を依頼に回ってるそうだが、予想外に好感触だとこの前オットー司祭が言っていた。

 もちろんそこには聖女である光刃の(スプラデュール)戦乙女ヴァルキュリエが奉られる事になるだろうが、アインツィヒ教は彼女の威光すら覆い包むといういい宣伝になる。

 やや心中複雑であるものの、レオンは師匠の命がけの使命が実を結んだようで素直に嬉しかった。


 午後からはクベール邸に戻り、魔術や他の学問を収める。

 ベルン=ラースとシュットルード、そして周辺諸国の簡単な歴史や、文学や計算など、シュットルード帝国では帝都でしか学べないような事を教えてもらっていた。

 齧りであるが天文学や暦、名前も知らない遠い国の事など、こんな事が司祭に必要な知識なのか?

 そんな事を考えながらもレオンは綿が水を吸うようにそれらを吸収していった。

 そして稀に顔を出すメリヴィエとの魔術の授業は実に新鮮だった。


 姉から習ったというこの世の理、ぶつりほうそくという概念は目からウロコが落ちるようだった。

 コレを知っていると知らないでは魔術の行使に決定的な差が生まれるという事を、数回の授業でレオンは思い知った。

 それをレオンよりも2歳も若い彼女は使いこなしているのだ。


 驚くのと同時に、レオンはこのような貴重な知識を自分が習っていいのかとウィルに聞いた事がある。


「知識はその価値を理解する者が持つべきだと僕は思っている。

 レオンがこの知識の価値を理解しているならかまわないよ・・・正直に言えば僕にも完全に理解できないのさ。

 これを魔術に応用できるのは姉上とメリーだけなんだ」


「あら、私にしてもお姉さまの何分の一程度しか理解できていません。

 それに私に教えて下さった事や、書き残されたことがお姉さまの知識の全てだとはとても思えないの」


 それが本当なら光刃の(スプラデュール)戦乙女ヴァルキュリエとはどれほど偉大な魔術師だったのか。

 レオンは戦慄を禁じえなかった。

 彼女が迎撃に出たのなら、ブランマルシュ軍の敗北は必然だったのではないか?

 彼女と対峙して討たれたのなら、父はむしろ武人として本望だったのではないか?

 彼女の評判と実績が肥大化し、一人歩きをしているヴェンヌの空気に触れ、レオンはそういう考えが頭を過ぎるようになっていた。


「でも僕はいずれ大聖堂に・・・」


「ヴェンヌの魔術師学校でも、姉の書き残したこの知識は開示されているけれど、残念ながら断片でも理解できる人間は少ないんだ。

 この知識が失われるのは魔術師にとって、人間にとって大きな損失だと僕は思っている。

 だからさレオン、この知識を伝えて行ける人間は一人でも多いほうがいい。

 たとえそれが国外であっても・・・だ」


 ヴェンヌの知識や技術全てを安売りする気はない。

 だがこの知識は自分達だけの手に余るとウィルもメリーも考えていた。

 クベール家だけで抱え込んでいてもいずれ失伝してしまうだろう。

 ならばこの知識を、技術を、人類が総出で守っていくべきではないだろうか?


 それは魔術師としては異質な考え方といっていいのだろう?

 確かにこの知識がもっと魔術師に広まれば、魔術の技術革新が起きるかも知れない。

 それでもそのような力を独占したがるのが人間の心ではないか?

 過去の規格外といわれる偉大な魔術師達はもしかするとこういった知識を秘匿したいたのかもしれない。

 そう、たとえば悪逆皇帝の様な・・・。


「だからなレオン」


 考えの淵に囚われかかったレオンを引き上げたのはウィルの言葉だった。


「君はこの知識を正しく学び、そして引き継いでいって欲しい。

 君の後に続く者達に」


 ウィルの言葉はシルスを思い起こされた。

 彼らが、ヴェンヌの住民がみなこんな考え方をしているのなら、そのうち帝国すら飲み込む勢力に育つのではないか?

 レオンはその事が恐ろしく、そして少しだけ誇らしくあった。


 そして当のウィルがレオンに教えるのは剣術であった。

 ウィルも領主代行として忙しい身で夕食後に1時間程度しか時間を取る事は出来なかったが、毎日必ずレオンに付き合ってくれた。


「身を守る手段は多い方がいい、剣であれば受けに徹すれば時間を稼ぐこともできる。

 相手の手足を狙って無力化する事もな、姉上なら敵の攻撃を受けながら魔術の構成を撃ち出したりできるんだろうが…」


 剣を振るいながら魔術の構成を組み立てるなど人間業ではない。

 レオンは素直に感嘆したが、眺めているメリーだけがそれは剣戟の合間に瞬間発動で魔術を撃ち出したという事に気が付いていた。

 彼女はその認識を正すことは無く、黙ってレオンのカリキュラムに瞬間発動の訓練を追加した。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「ね、近いうちに会えるって言ったでしょ?」


 ラピンの港でレオンを迎えたのは、クベール侯爵家の兄妹であった。

 どこから聞きつけたのか、まるでレオンがこの船でこの港にたどり着く事を知っていたかのように、メリヴィエは彼を待ち受けていた。


「やれやれ、メリーが言い張るからまさかと思ったが、本当にこの船で彼がやってくるとはな…」


 レオンは訳がわからなかった。

 何故ここにズォルヌで会ったあの少女がいるのだろう?

 自分を待っていた?まさか!


「君はレオン、レオン・ケッセルで間違いないかな?」


 その少年の流暢なアルト語にレオンは驚いた。

 アルト語を耳にする事すら一ヶ月以上ぶりだった。


「はい、そうですがあなたは?」


「私はウィルレイン・アルフィス・クベール。

 クベール侯爵家の者で、君の師匠であるエッカルト・インメル司祭から君の保護を頼まれた者だ。

 師匠の名も間違いないか?」


「はい!・・・あの、先生は?」


「司祭は帝国に帰られた。

 もし君が見つかるようなら我が家に保護を託してね、なぁにそのうち迎えに来るような口ぶりだったさ。

 もちろん君を保護した旨は大聖堂に知らせを送る」


 憔悴しきった様子のレオンに気を使ったのか、ウィルは安心させるようにこう付け加えた。


「インメル司祭が迎えに来られるまで、君を我が家で保護する事を誓おう。

 近々このヴェンヌにもアインツェヒ教の人員が派遣されてくるそうだが、彼らに預けるのも面白くはないな?」


 成人を迎えたばかりであろうその少年はそう言うと悪戯っぽく笑った。


 だがそれから大聖堂からエルメンラヒ司祭達が到着するまで、レオンはクベール商会に通い詰めていた。

 少しでも行方不明のクラーケン号の情報が入ってこないかと思っていたのだ。

 だが半年経っても船の行方は(よう)として知れなかった。

 そしてヴェンヌに教会が建ち、しばらくウルク教の嫌がらせを耐え忍んで侍祭の修行を続けていくなか。

 レオンはまだ完全に彼らの生存を諦めたわけではなかったが、思い出は新しい生活に少しづつ埋もれていった。

 魔術の訓練に勉強に、侍祭の修行、そして剣術。

 環境はレオンに立ち止まる暇を与えなかったのである。

 レオンは一心不乱に多くの物を身に着けていった。




 ※ベルン=ラースの成人は15歳です。

  近隣諸国も似たような感じです。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 その日レオンはいつものように9時にはベッドに横になった。

 毎朝4時前には起きる事になっているので、これぐらいの時間には寝ないと身体が持たないのだ。

 それに早寝早起きは燃料の節約になる。

 侯爵家ではさすがに燃料をケチったりはしていないが、レオンはジキスムントの所に居たころからなんとなく無駄遣いは好きではなかった。

 庶民生まれのレオンは燃料の貴重さを身にしみて理解している。

 貧民の死亡原因は餓死が一番多いが、次に多いのが凍死だ。

 これは王国でも帝国でも変わらない。

 薪や炭は冬では生命線で、本当に必要になる時まで貯めておかないとならないのだ。

 それでも貧しい順に毎年凍死者が出るのは避けられない。

 いくら泥炭が安く手に入るヴェンヌであろうと、そんな長年の習慣だ変える気は起きなかった。

 もちろん冬などは特に、朝寝床を出るのが辛くてしょうがないのだが…。

 だが充分な燃料を使っているクベール邸はそれでも楽な方なのだと思い直して、毎朝日が出る前に起き出すのだ。


 なぜかその日はなかなか寝付けなかった。

 普段ならハードスケジュールでへとへとになって、すぐ眠りに落ちるところ。

 その日に限って、亡き父母、養父、ジキスムントにノルベルト、エッカルト司祭、そしてシルスの顔が思い出され、心が落ち着かなかったのだ。


 微睡(まどろ)んでは目を覚ますを繰り返し、いつの間にか時間は0時を回っていた。

 いかなこの国有数の都市であるヴェンヌもこの時間は静かで、繁華街の一部の酒場ぐらいからしか明かりや声は漏れてこない。

 そんな中ふとレオンの耳は人の話し声を捉えた。

 囁くようなその声は、初めは夜番の誰かの声かと思ったが、夜番がこんな時間に庭にいるわけがない。

 もし不審者がを見つけたとかなら、自分も様子を見に行った方がいいのか?

 そっとカーテンの隙間から表をうかがったレオンの目に写ったのは、庭先に走りこむ見慣れない馬車と、それに駆け込み急発進させた人影だった。

 その馬車に見覚えがあるような気もしたが、それよりも目に付いたのが馬車に駆け込む人影が抱えていたズタ袋だった。

 子供なら入りそうな大きなズタ袋は、レオンにあの日を思い出させて背筋を振るわせた。


 これはただ事ではない。

 ヴェンヌは住民が比較的豊かなためか治安は非常にいい。

 そのために特に侯爵邸の周辺の警邏を強化するなどはやっていなく、屋敷住みの警備員が敷地内を警備する。

 あんな不審な馬車が敷地に入ってくるのを止めない筈が無いのだ。

 侯爵かウィルが火急の用事で…と思わないでもなかったが、それならいつもの馬車を使うだろうし、なにより屋敷の主人の出立に住民が起き出さない訳は無い。


 そこまで考えてレオンは慌てて掛けてある上着を手に取った。


「侵入者だ!」


「守衛が殺されてるぞ!」


 廊下にレオンが飛び出したころには屋敷内は騒然となっていた。

 外門の門番を殺して進入したらしい賊は、警備の厳しい本館を避け離れの一つに進入したらしい。


「何たる事だ情けない!

 侯爵邸にこんな簡単に進入を許すとは!」


 ウィルの怒声が響き渡る中、珍しく人前に出てきている侯爵の顔も忌々しげに歪んでいた。


「馬車の音が聞こえたそうだが、誰か見たものは居ないか?」


「ウィルレイン様、僕は見ました。

 庭先に見慣れな…」


 そこまで言いかけて、ウィルはあの馬車を一瞬だが見たことがあるのを思い出した。

 箱型ではあるが、貴族が使うような装飾や形状の美しさなどは一切考慮されていないその形状は他にはない。

 ブルエヌを出た後襲撃された時以外には…。


「どうしたレオン?

 見たのかどんな…」


「先生と…」


 ウィルはレオンの様子をいぶかしんだ。

 レオンは滅多に怒りを顕にするような性格ではない。

 そのレオンが柳眉を吊り上げ、顔を紅潮させて怒りを宿しているのだ。


「先生と一緒の時に、ウルク教に襲撃されたときに見た馬車でした!」



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「ぐわっはははは…」


 ジルベール・ギャロアは笑いが止まらなかった。

 危ない橋を渡ったが、こうも上手くいくとは考えていなかったのだ。

 思ったより本館の警備が厳しかったためどうしようかとも思ったが、ターゲットの一人と思しき体格の者がノコノコ本館から出てくるとは助かった。

 侯爵邸内でドレスなどを着ているのは侯爵令嬢で間違いないだろうし、体格から上の娘のメリヴィエで間違いないと判断した。

 一人が注意を引いた隙に一人が後ろから殴るという原始的な戦法だったが上手くいった。

 魔術師と言えでも不意を突けさえすればこの程度だろう。


 侯爵は上の娘を失ったため、子供たちに強い執着を持っているそうだし。

 このまま王都でずっと人質にすれば、どんな要求も…とは言えなくても大概の事を飲ませられるんじゃないか?

 あとはこのまま馬車を飛ばし、近くの川に隠してある小舟にこの娘を放り込めばもう連中は追いつけまい。


 教会の連中が自分に頭を下げに来る様を想像してギャロアは悦に入っていたが、実際はそう上手くいくまい。

 教会が侯爵令嬢をさらったなどと表沙汰には絶対できないため、脅迫などもってのほか。

 彼女も証拠隠滅に殺すしかないだろう。

 族から教会が令嬢を救い出したという筋書きも作れない事もないが、それなら事前によほど綿密な計画を練っておかなければ難しい。


 今回の様に目撃者上等で決行された襲撃などいくらでも穴を突かれる。

 そもそもたまたま目標が本館から出てこなければ敗走するしか無かった作戦だ。

 夜中の0時にだ…。


 ギャロアは有頂天で気づかなかったが、彼女がドレスを着て本館を出てきたのに理由がある。

 別館の自分の部屋に戻ろうとしていたのだ。

 一人寝ってしまったウィルを彼のベッドに残して…。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 レオンから話を聞いたウィルと侯爵の怒りは凄まじかった。

 もはやウルク教はクベール家の不倶戴天の敵といってもいい。

 認識の違いといってはそれまでだが、王家の力を背景に無理を押してきたウルク教にとって、その権威が通じないクベール家を始めとする西部諸侯は神の威にも逆らう反逆者だと考えている。

 だが西部諸侯にとってはそういった教会の思いあがりこそ見過ごせない悪だった。

 今回のアインツィヒ教の件に関しても、ウルク教からの防波堤にするために受け入れたと言ってもいい。

 権威が通じないとわかるとこんな山賊まがいの手を取ってくるとは…神の使途が聞いて呆れる。


「屋敷内の人員の無事を確認しろ!

 奥様と母上達は無事か?」


 現状を確認しようとするウィルの声にも隠し切れない怒りが溢れていた。


「はい、本館には侵入した形跡はございません。

 皆様本館にいらっしゃいましたので、賊共も手が出なかったようで…」


 追い詰められたウルク教が取りそうな手に、人質を取って光刃の(スプラデュール)戦乙女ヴァルキュリエの聖女認定の取り消しなどは充分考えられた。

 そのためにも王都からクベール家の者を完全撤退させ、教会と充分に距離を置くようにしていたのだが。


「メリーは?」


「メリヴィエ様も夜間は本館にいらっしゃいましたので…」


 メリーは普段別館の一つで魔術の研究をしているのだが、流石に夜は自室がある本館に戻っている。


「念のためオットー司祭に使いを出せ、アインツィヒの教会にも手出しをしないとは限らん。

 あっと、レオンは残ってくれ、まだ聞きたいことがある」


 教会の事も心配だったが、たった今襲撃された侯爵邸の方が大事なのは理解している。

 レオンは無言で頷いた。


「本館に侵入が適わなかったという事は、ヤツ等何をしに侵入してきたんだ?」


 人質に代わるものと言えばクベール家の家宝や機密の書類などだが、当たり前だがそれらも全て警備が厳重な本館に置かれている。

 別館に居るのは下働きや客人、それに消耗品ぐらいで、とても襲撃者の求めるものがあるとは思えない。


「馬車に飛び乗った人影がこれぐらいの袋を抱えていました。

 何か心当たりはありませんか?」


「子供なら入りそうな大きさだな、それなら大概の物は入るだろう。

 これが単なる物取りなら心当たりは腐るほどある…だが教会の犬が狙いそうなものとなると…」


 ウィルの思考を中断させたのはメイド長の叫びだった。

 彼女は別館でメイドの身柄の確認を行っていたのだが、その彼女が慌てたように飛び込んできたのだ。


「ウィルレイン様!アイシャが、アイシャが見当たりません!」


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