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クロニクル アンド マギグラフィ  作者: 根菜類
第二部・メリヴィエ編
52/68

8南海の風(地図掲載)

ジームヴェルグ→ヴェストシュタットに改稿


「なるほど、確かにそれは魔術師の最後の増火(オーバーライド)現象に間違いないでしょう」


 エッカルトの指摘にウィルは拳を握りこんだ。

 あれが魔術師の最後の増火と言われる現象だとすると、姉は…。


「オーバーライドを発現したした魔術師(マギクラフター)は、大聖堂の記録でも必ず命を落としています。

 というか、もう助からない怪我を負った者にその現象が見られるといいます。

 残念ですがクベール侯爵令嬢は…」


 やはりこの話を父に聞かせないでよかった。

 父も義母(はは)も未だに姉の事を諦めきれてないところがある。

 諦めきれていないというか、それを拠り所に心を繋いでいるようにも見えるのだ。


「強力な魔術師で、かつ強い精神力を持つものしか到達できない高みともいわれています。

 我々聖職者は神のお力あってこそ、そういった奇跡を起こします。

 聖職者でもないご令嬢がそれそれを起こすなど、よほど強い信念をお持ちだったのでしょう。

 それと…」


「それと…?」


「今、自分が命を賭して挑まないと王国に後が無いという、正しい認識もお持ちだったんだと思いますよ」


 彼女が命を賭けなくても人類が滅び様な事は無かったとエッカルトは思っている。

 大聖堂と帝国がその総力を注ぎ込めば、いかなドラゴンとて討ち倒すことは可能だろう。

 だがその前に、ベルン=ラース王国とその周辺がどれほどの被害を受けるかは未知数だった。

 彼女が愛したこのヴェンヌが何番目かの標的になり、灰燼に帰すであろう事は想像に難くない。

 世界を守ったというのは大げさだろうが、この国を守ったというのは間違いないのだ。


 だが、だからこそ、ソレが面白くない連中がいるのだった。


 もしかしたら自分も死んでいたかもしれない。

 あるいは親しい人、自分の生活を支えてくれている人々が…。

 という可能性にすら目を向けられない、想像力と危機感が欠如した人間が今この国を動かしているという事に、エッカルトは憐れみを、ウィルは激しい怒りを瞳に宿した。


「しかし合点が行きました。

 正直どれほどの強い魔術師であろうと、独力でドラゴンと渡り合うなどありえないと思っていたのですが…。

 半島最強の魔術師がオーバーライドを起こしたとなると、話が違ってくる」


「オーバーライド現象とはそれほどの物なのですか?」


「それこそそれを起こす魔術師によりますが…大聖堂に列挙される聖人の一人には、数万の異民族の襲来を一人で退けた司祭の記録もあります。

 クベール令嬢の場合、それよりもはるかに困難な敵を打ち破ったと思います。

 教会のお題目とか思惑以前に、聖女の名がこれほどふさわしい人は居ない…私はそう思います」


 魔術師の最後の増火を起こした魔術師は聖人、聖女に連ねられる事が多い。

 教会の都合もあるが、それだけの偉業を行う者の精神力が強いというのは確かにある。

 だがそれは決して良き心の者しか起こさないわけではない。

 悪の心は奇跡をその身に呼び込むほど強くはないと考えられてはいるが、抹消された恐怖の記録に数名の名が残ってる。

 特に帝国の第四代皇帝オルグス・フルグタイルの恐怖と悪名と、最後の悪あがきは今でも帝国で語られるほどだ。

 その恐怖からフルグタイルの血筋は全て滅ぼされ、皇族の別血筋から次の皇帝が選ばれたほどだ。

 オルグスの名は今でも帝国のスラングの一つ。

 最上級の悪態の中にその名が残っている。


「司祭殿がそう思われるのは光栄ですが、我々も早々と大聖堂の思惑に乗る訳にはいきませんよ」


 なめる程度のワインだったがウィルにはまだ早かったのか、その顔を赤く染めていた。


「我々は謹んで侯爵様の決断を待つだけです。

 侯爵子息、本日はもう遅いですから、お休みになった方がよろしいかと?

 明日の朝も早いのではないですか?」


「そうですね、明日は5時起きで…おっと、残念ながら予定を漏らすわけにはいきませんよ」


 その言葉にエッカルトは微妙な笑顔を返すしかなかった。

 この少年は普段背伸びをしているが、酒に対しては年相応の付き合い方をしていると思ったのだ。


「では、私も職務が控えておりますので、お先に失礼させていただきます。

 また明日、何かお話がありましたらご遠慮なくお尋ねください」


「ありがとう司祭殿」


 エッカルトは給仕を制して、自分でドアを開けゆっくりと閉めた。

 彼の翌日の予定は特には無かったのだが。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 レオンは朝の5時ごろ目を覚ます。

 顔を洗えるほど水に余裕のない船上では、濡らしたタオルで顔や体をふく程度しかできない。

 それでも海上に出る前なら川から組み上げた水をたっぷり使う事が出来たのだが、今では手桶半分程度の水をやりくりする羽目になっている。

 それでも他の船員と同じ程度の真水を使わせてくれている船長には感謝しかない。

 みんな同じ水量で文句言わずにやっているのだ。


「あー!もう、こんだけの水でどうやって体拭いて髭剃れっていうんだよ!」


 前言撤回。

 文句を言う人はいた。


「ばーか、なんで船乗りが髭伸ばしてると思ってるんだよ。

 船上じゃ髭そる余裕なんてないからに決まってるだろ」


 今日の朝番はエンゾとモイーズか…大声で騒ぐ二人にコームが拳骨を落としに来るより前に素早く身支度を整えると、レオンは厨房に向かった。

 厨房と言っても中型船であるクラーケン号の厨房は、料理をするのにテーブル一つと簡単な調理道具しかない。

 当然火は使えないためコンロもオーブンも無いのだ。

 だからこそレオンはこの船に歓迎された。

 普通は船長が独断で乗船を決めたと言っても、納得できない船員の一人や二人は出てくるのだが…。


 コンロ代わりの金属製のタライに石を敷き詰めると、レオンは魔術構成(スプリクト)を組み上げた。

 奥の船室に怒鳴り込んでくるコームの声を背後に聞きながら、火の魔術を発動して石を加熱していく。

 十分加熱した石の上に薄いスープが入っている鍋を置くと、やがて鍋からいい香りとともに湯気が立ち上り始めた。


 これがレオンが船員皆から歓迎された理由である。

 彼がいれば朝晩は温かい食事が取れるのだ。

 いくら航海に慣れた船乗りたちといえども、いつも冷たい食事ばかりでは辛い。

 レオン本人もそれが辛かったため、半日なんとか構成を考えて石を加熱する魔術を使ってみたのだ。

 冷たいスープと硬いパンでは力が出ないと、温かいスープとあぶったパンを食べた船員は口々に叫んでいた。

 それはレオンも同感だった。

 

 昼番と夜番合わせて1日4回用意される食事を全部レオンに温めさせるわけにはいかず。

 両方が取る食事である朝夕の6時の食事だけレオンに用意させることになった。


 朝食を食べるという彼らの習慣に初めは面食らったが、2、3日もするとこれが如何に理にかなった習慣なのかレオンは理解していた。

 朝食を取る取らないでは仕事の効率がまるで違うのだ。

 特にレオンの午前中の仕事は甲板周りの力仕事である。

 初日朝食を食べなかったレオンは昼まで体力が持たなかった。


 クラーケン号には食堂が無い。

 かって有ったのだが今は倉庫として使っている。

 だから船員の食事は各々が厨房に受け取りに来て、思い思いの場所で食べる。

 毎食同じ木の椀によそったスープと、焼けた石で温めたパンの切れ端だ。

 厨房からいい匂いが漏れ出すころ、次々と船員が自前の椀とスプーンを手に食事を受け取りに来る。

 これから仕事に入る者、今仕事が終わった者が順次交代しながら食事を取るのだ。


 スープは塩漬けの野菜や干し肉を水に漬けただけの者から、短時間でも煮込むようになったため味が格段に良くなった。

 さらにこれに運がいいと魚が入る。

 暇な船員は少ないため、よっぽどでないと糸を垂らす余裕はないのだが、レオンの加入で書類仕事の負担が減った船長がよく釣りをするようになっていた。

 もっとも船長の腕では魚が釣れることはあまり期待できないのだが…。


 最後に鍋に残ったスープを自分の椀によそり、樽からその鍋に8分目までの水を注ぐ。

 材料を目分量で放り込んで、まだ熱い石の上に置いておけば夕食前にはまた薄いスープが出来ているだろう。

 もちろん鍋を洗う水の余裕などはない。

 あとは急いで朝食をかっ込むだけだ。


 午前中のレオンはロープや甲板、さらにはマストや帆の点検をいちいち目視で行う。

 これは二人で行う業務で、そのうち一人は見習いが使われる。

 船の機能を覚えさせるためだが、重要でキツイ仕事なのでこの段階で逃げ出す船乗り見習いは多い。

 先輩の船員、レオンの場合はだいたいコームとヤニックが付く。


「おめぇがどんくらい本気で船乗りになろうと思ってるのかはしらねぇけど」


 今日の担当はヤニックだった。


「こういった船の基本的知識は身につけておいて損はねぇぞ?」


 船の見張り番を主に担当するヤニックのチェックは細かいところまで厳しい。

 レオンが問題を見逃すたびに拳骨が一つ落ちるのだ。

 それも船の周囲を警戒しながらレオンよりも細かく正確に点検を進めていく。

 経験の差と言ってしまえばそれまでだろうが、ここまでの知識と技術を身につけるのは並大抵の努力ではかなわないだろう。

 コームに言わせると、ヤニックの目つきが悪くなったのは目を鍛え過ぎたからだと、本当か冗談かわからないことを言われた。


 午後からは船長の書類仕事の手伝いだ。

 港で積み下ろしを行うたびに大量の書類を処理しなければならない。

 初めレオンはこの船がこれほど大量の紙を使うのに驚いたが、木から紙を作る帝国と違い、葦や藁から紙を作ると聞いてさらに驚いた。

 帝国では紙は木の皮から作る。

 加工が大変な上、皮を剥きすぎると木が枯れてしまうため、非常に高価なものになっている。


「めんどうだろ?

 だがな、会頭がなんでも記録は文章で残せとうるさいんだ」


 港に寄港して1枚、積み荷を降ろして最低1枚、積み荷を乗せて最低1枚、食料品など補給して最低1枚。

 その他、港に対する支払や臨時の積み荷がある度に増えていく。

 しかもこの船で読み書き計算までできるのが船長だけだった事もあり、今までは書類に追われる生活だったらしい。

 レオンに書類を書かせて、確認するだけの生活に早くもどっぷり漬かっていた。


「ラース古文字まで書けるのは、非常に助かる。

 魔術師ってのはみんなそうなのか?」


 少なくとも船長の知る魔術師は全員読み書きに通じ、難解なラース古文字も使いこなしていた。


「他所の魔術師は知りませんが、先生の教えだとラース古文字のような表意文字の理解は必須だそうです。

 僕も教わるまでは理解していませんでしたが、魔術図式(マギグリフ)の考え方が表意文字に近いので…」


「表意文字?なんだそりゃ?」


「ストラガ文字のような表音文字は、今喋ってるようなラース語の言葉の音をそのまま文字にしているんですが、表音文字は言葉の意味の方を文字にしているんです」


「よくわからんな?」


「船長はラース古文字は…?」


「残念ながらストラガ文字しか判らん。

 ストラガ文字がわかればオリヴァ語も書けるしな、ラース古文字もよく使われるやつは読める事は読めるんだが…」

 

 ストラガ文字はオリヴァ王国出身の高名な文学者にして詩人のアーノッド・ストラガが作り出した表音文字だ。

 母音を表す点と子音を表す線を組み合わせて文字を作るという誰にも理解しやすい構造で、オリヴァ語のみならずラース語、カラ語、セイル語、ルーカンド語、フーダー語まで表記できる優れものだ。

 スワキス語の表記も簡単なのだが、オリヴァ王国と折り合いが非常に悪いスワキスでは、意地になってストラガ文字を使っていない。

 とにかく、この文字の普及により識字率が数倍に跳ね上がったとも言われている。

 今のラース半島周辺は6つの言語に1種の文字が飛び交っている。


 古くからラース半島で使われていたラース古文字は、今では七面倒な公式文書か魔術書にしか使われていない。

 それでも古文書や古典はラース古文字で記載されているため、学者や魔術師にとってはラース古文字は必須の科目にはなっていた。


「帝国語にラース語、オリヴァ語まで堪能とは本当に助かるよ」


 帝国の公用語はアルト語だが、ラース半島で知り合った船乗りのほとんどはそれを『帝国語』と呼ぶ。

 何故かと聞いた事はあったが。


「帝国の言葉は帝国語だろ?」


 とよくわからない返答をされた。

 

「僕達はラース語を王国語とは言いませんよ?」


「それ王国なんてそこら中にあるからだろ」


「北にももう一つ帝国があるじゃないですか!」


 文化が違うのか、話しは平行線だった。



 ズォルヌの港。

 ベルン=ラース王国の南の入り口で、王国に入ろうという船や王国から出ようとする船は、かならずここに寄港して手続きをしなければならない。

 もちろん全ての船を取り締まるなど不可能だが、もし無断出国や入国がバレた場合は厳しい処罰が下される。

 積荷も船も没収され、船員は全て罪人として無報酬で強制労働につかされる。

 船の持ち主も商業許可を取り上げられ、全財産が没収される。

 それでも年に1、2隻は捕まるという。

 ズォルヌで課せられる関税を逃れれば丸儲けという事もあり、密入国を狙う船は少なくない。


「まあ俺達はちゃんとして手続きやって、堂々と国を出るけどな」


 今日もバルテル船長はレオンに書類仕事を丸投げしながら船の国情の解説に余念が無かった。

 対するレオンは必死だ。

 船長の話はしっかり聞いて知識として身につけたいし、かと言って手が止まっていればいつまでたっても仕事は終わらない。

 ジキスムントもエッカルトも、レオンが見識を広めるのを奨励していた。

 知識の重要性をよくわかってる二人は、若いうちこそ色々な経験を積む価値を理解していたのだ。

 特にジキスムントは息子のノルベルトと一緒に、レオンを領地内中連れ回した。

 将来ノルベルトの補佐を任されたとき、何が役に立つかわからないからである。


 レオンはふとノルベルトの事を思い出した。

 レオンに兄貴風吹かせまくりのガキ大将だったが、同時にレオンを弟のように可愛がってくれた。

 ヴェストシュタットを経つときに言葉を交わしたのが最後になったが、アレっきり会えなくなるとは二人とも思わなかった。

 いずれブラムシュテルンの大聖堂に師を追って行く事は考えているが、遠回りだがヴェストシュタットによる事は出来ないだろうか?

 ブラムシュテルンで会えるようならぜひ会いたいのだが…。


 ズォルヌはただ関税を課す海の関所というわけではなく、ここでは比較的良心的な価格で補給をさせてくれる。

 簡単な飴と鞭だが、そうとわかっていても多くの船はズォルヌでの補給を期待してここを通過するのだ。

 当然クラーケン号もここで補給してから難所アルアリア海峡に挑む。

 航海術が未熟なこの時代、陸地を見ながら航路を進む。

 半日陸地が見えないアルアリア海峡は進むための目印が無いのだ。

 ミュリュス湾を横断するときも陸地から離れるが、あそこは常に目印になるような島がある上、難所には灯台が立ち、夜でもその位置を確認できる。

 アルアリア海峡とは難易度が全く違った。


 アルアリア海峡を渡るときは太陽を利用する。

 日の出とともに出港しひたすら太陽を左手に進み、昼時は帆をたたみ極力流されないようにして待つ。

 そして午後は太陽を右手に進むのだが、そのやり方で日暮れまで対岸が見えないと遭難になる。

 その場所が錨を下せる水深なら、錨を下して翌日に賭けるのだが、錨を下せないほど海底が深かったらもう絶望的である。

 それは完全に航路を見失ったという事になるからだ。


 ひたすら北に向かうか、南に向かうか、船長の判断にかかっているが、航路を大きく外れてしまった時点で帰還は絶望的と言われていた。

 もっとも少しずつ航海技術が上がってる昨今では、百隻がアルアリア海峡を渡るうちに消息を絶つのは1隻ほどで、それなら海岸沿いの航路を行くのと変わりはなくなっていた。

 だがそれでも、何の目印の無い海を突っ切るには勇気が必要だった。

 百戦錬磨のクラーケン号のクルー言えどもそれは同じで、なまじ経験があるからこそその危険性を熟知していた。


「レオン、朝食の準備ができたらお前は休んでな。

 今晩は夜番してもらわなきゃならんからな」


 朝食の準備を始めたレオンの後ろから、コームが声をかけてきた。

 寝不足のため構成を上手く組み上げられずに悪戦苦闘しているレオンだったが、なんとか石を加熱し始めたところだった。

 昨日の夜も港に下りずに夜番だったのだ。


「夜番ですか?」


「おう、海峡を渡るときは船員総出で昼間の航海に当たる。

 だからオリヴァの海岸近くまでたどり着いたら、錨を下してそこで一泊すんだ。

 その時に悪いが寝ずの番をしてもらうぞ」


「ほとんど1日無駄にしちまうが、まあ安全にはかえらんないからな。

 そのあとタックスの港を通過して、アロンツェまで無補給で向かう…そのためにズォルヌでしっかり補給したんだからな」


 どうやら今日はバルテル船長も甲板に上がるようだ。

 彼がこんな時間から起きているのを見るのは初めてだったが、どうやら今日は船長室に朝食を届けないで済みそうだ。


「アロンツェってところが目的地でしたよね?」


「おう、そこの商会の支部に荷物を引き渡して、今度はヴェンヌに運ぶ荷物を引き取る。

 そしたらお待ちかねのヴェンヌ行だ」


 とはいえレオンがこの船に拾われてすでに1週間以上が経過している。

 その後半月かけて引き返したとしてももうエッカルトは居ないだろう。

 師に手紙を出さなかった事は後悔してないと言えば嘘になる。

 だが自分の事は後回しで、すみやかに使命を果たして欲しいという気持ちも本当なのだ。


 朝食を配り終えると、レオンは他の夜勤転倒者といっしょに、あくびを噛殺しながら寝室に下りていった。

 寝室は暗く、明り取りの窓を閉めると真っ暗になる。

 船室で寝るのには昼も夜も無いので非常に助かる。

 甲板でいつもよりうるさく走り回る船員達の足音が邪魔だったが、やがて寝息を立て始めた。

 昼間寝られないようでは船員は務まらないのだ。



「うおぉっ!危ねぇ!」


 港を出ようとしたクラーケン号は一隻の船とすれ違った。

 その船はよっぽど急いでいるのか、無理な進路をとりあわやクラーケン号とぶつかるところだった。


「どこに目をつけてやがる!」


 モイーズの怒号もどこ吹く風か、その船は無視してズォルヌの港に入っていった。


「クソ野郎が!」


「あの船よほど急いでたな」


 明け方に入港するとは、どういうスケジュールで航海してきたのか想像もつかない。

 あの様子では今日中に入国の手続きをして、今日中に出港しそうだ。


「帝国っぽい船体だが、ズォルヌに、いや王国に何の用だ?」


「レオン連れてきて見てもらうか?」


「止めとけ!今寝入ったとこだったらどうする

 それにあいつは別に本職の船乗りじゃねぇんだ。

 帝国の船の事だって詳しくはあんめぇ」


 コームめよほどレオンが気に入ったのか、最近は彼を気遣う事が増えてきたな。

 そう船長は思ったが、あえてそれを指摘はしなかった。

 そういやあいつの息子はレオンぐらいの歳だったかな?とは思っていたが…。


 出掛けにケチはついたが、クラーケン号は順調に海原を斬り進んでいた。

 もっとも夕方に対岸に到着するまで本当に順調に進んでいるのか確認のしようはない。

 後方にシゴーニャ半島の南端が見えていたころは現在の向きを確実に把握できていたが、それが水平線にかすんで消えた後は太陽だけが頼りだった。

 だが太陽も真東から昇って真西に沈むわけではない。

 太陽を常に左側に置いておいたつもりでも、気づかないうちに大きく航路が逸れてしまう事はよくあるのだ。


「よーし!帆を畳め」


 太陽が頂点に達する少し前、そろそろ方向を捉えるのが困難になり始めたと判断した船長は停船を命じた。

 以前は昼もそのまま進んでいたそうだが、それこそが遭難の原因だと判断され。

 方角の判断が難しい真昼は停船するという手法が一般的となった。

 だがアルアリア海峡はかなり深い海で、錨を下ろすことは出来ない。

 こうやって帆を畳んでいてもそれなりに流されてしまう上、どこに向かって流されているのかすら判断できるものがない。

 この時間船員達にできる事は、船の周囲に目を光らせながら交代で昼食をとるぐらいだった。


 午前と午後12時の食事は固いビスケットだけだ。

 ビスケットといっても砂糖は使用されているような甘いものではなく、ただひたすら固い味気ない小麦粉の塊だ。

 それをぼりぼり噛み砕き、僅かな水で流し込む。

 もはやそれは食事というより作業だった。

 粗末でもスープの付く朝夕の食事を楽しみにする船員の気持ちもわかろうというもの。


「おまえら、船や岩礁だけじゃなく、海面の異常も見逃すなよ?

 この船の名前の元に出会ったら終わりだからな!?」


 あまり嬉しくないジョークを叫びながら、船長は副会頭で跡取りであるジャンリュックの言葉を思い出していた。


「処女航海でクラーケン退治したんだから、クラーケン号でいいんじゃない?」


 その場に居た全員がそのあまりのセンスの無い命名にドン引いたという。

 特に船長以下配属予定の船員全員は頭を抱えた。

 当のクラーケンと遭遇した連中だ。

 名前が本物を呼んだらどうするんだと迷信深い船員は怒ったが、鈍いというかずれてる感性のジャンリュックには通じなかった。

 本人は乗る予定が無いのだから気楽なものだ。


 メリーの解説によれば深い海に住むクラーケンは海面の獲物を襲わないというが、何事も例外がある。

 泳いで移動中のクラーケンに遭遇でもしたらおしまいだ。

 今ここにはそのメリヴィエは乗っていないのだから…。



 予定通り航路を進んでいたのなら、この位置はアルアリア海峡の最も深いと思われる場所は越えているはず。

 地元の漁師もここまで沖に漁に出ることはないが、大型魚の回遊コースにあるアルアリア海峡は重要な漁場である。

 特にマグロやカツオ、カジキさらには鮫やイトマキエイなどの回遊が見られる。

 ベルン=ラース王国ではこういった大型魚はあまり食べられないが、オリヴァ王国のタックスから始まる港町ではマグロやカツオはご馳走だった。


 昼を過ぎたころだろうか?

 太陽が頂点から傾き始め、そろそろ出発というころ船長の釣り道具を担いでレオンが甲板に姿を現した。


「あつい…」


 中秋の月(10月)とはいえ今日は日差しが強い。

 その上アルアリア海峡のここらへんには暖流が流れ込んでいるため、船上で風に当たってる船員にも汗が滲んでいた。

 風の通らない船室なら寝苦しいだろう。


「邪魔はしないので、船尾で風に当たってていいですか?」


「おう、これから出発だから走り出すまでそこの日陰におとなしくしとけ。

 動き出したら邪魔にならんところで風に当たってていいからな」


「帆を張れーっ!」


 船長の号令一下船員たちが動き出す。

 今度は太陽を右手側に仰ぎ見ながら、風を受け走り出すのだ。

 風はあいにくの西南西…やや向かい風だ。

 帆をめいっぱいねじり、真南から多少逸れるのを覚悟して帆に風を受ける。

 四角帆だが2本のマストを持つクラーケン号は、追い風でない時こそその真価を発揮する。


「よぉし、|このまま直進を保て《キープ ヒァ ステディ》!」


 やがて軽快に走り出したクラーケン号は、船首で波を越え後部に白波を引き風を切った。

 軽快といっても精々4ノットちょっとが精々で、時速にして16/7リーン(約7.5km)がほどだろう。

 それでもこの速度を保てば、ギリギリだが明るいうちに海峡をわたる事が出来る。

 普段3ノット程度でも24時間走るのに比べれば、半分ほどの行程を走るのが精一杯だ。

 レオンはそんな白波の間に釣り糸をたらしていた。


 もちろん本気で魚を釣ろうとは思っていない。

 どうせ甲板で涼むなら、何かやりながらがいいと思っただけである。

 実際釣り糸を垂らしながらも、手元では魔術の練習を繰り返していた。

 構成の組み立ても魔術の発動も、反復練習で身体に覚えさせるというのは魔術の基本になっている。

 それを突き詰めたのがクベール家の瞬間発動だが、そこまで到達できる魔術師は少ない。

 だがそれでも魔術師の修行には反復練習が欠かせない。

 それは師匠(エッカルト)から言われていたし、襲撃を受けたあの日放った練習不足の自分の魔術を思い出すに。

 師のようにそつなく魔術を使いこなす訓練は必要だと思い知ったのだ。

 だから船員の仕事の合間にも、構成を組み立てる練習は欠かさないでいた。


「おい!レオン引いているぞ!」


 焦ったような船長の叫びに我に返ると、目の前の竿が大きくしなっていた。


「竿は寝かすなよ!竿のしなりで衝撃を逃がすんだ…ゆっくり手繰れ…そう、その調子だ…」


「船長!仕事をしてください!」


 鰹の群れが船と併走でもしてたのだろうか?

 続けざまにレオンは魚を釣り上げ、船長は仕事そっちのけでレオンの後ろに張り付いていた。

 幸い船の進行方向に修正はいらなかったらしく、日が沈むころにはオリヴァ王国の海岸が見えてきていた。

 コームは船長の職務放棄におかんむりだったが、その日の夕食のスープにはたっぷりのカツオの切り身が入っており、船員全員の腹を満たす事になった。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 オリヴァ王国の港町アロンツェはノクト川の河口にある。

 ノクト川はその流れの途中でノクト運河に繋がり、オリヴァ王国の南側にあるロート海という内海に繋がっている。

 ノクト運河はもちろん、ノクト川も船で運行のしやすい穏やかな川で、南方や東方からやってくる船はほぼこの航路を通ってラース半島近辺に向かう。

 この運河は2代前のオリヴァ国王であるスタンツェリ王が、国庫を傾けてまで工事を強行った大運河である。

 当時は反対意見も多かったが、いざ開通してみるとこの運河はオリヴァに莫大な富をもたらした。

 流通の要所としてのオリヴァの重要性と、ノクト運河の通行料は年々増加の一途をたどり。

 もう数年で工事にかけた費用を取り返せるといわれているほどだ。


 ノクト運河開通以前はサレフォノ大陸を回りこむ西回りルートがメインで、そのルートを支配圏内に納めるスワキス王国が富を独占していたが。

 今では西回りルートとその港町は見る影も無く寂れている。

 この事はスワキス王国のプライドと権益を大きく損ね、長年続く両国の確執の原因になったといわれている。


「と、言ってはいるがな」


 入港してからの検査待ちの時間に、コームがこの国の事を解説してくれていた。


「西回り航路が廃れたのはスワキスの自業自得だ」


 レオンにとってはオリヴァ王国やスワキス王国の事は、ベルン=ラース王国よりももっと遠いはるかな異国の話だった。


「当時スワキス王国では賄賂と汚職が横行し、海賊すら役人に金を握らせたらやりたい放題だったと聞くぜ。

 セルナスの海賊共が一番元気がよかったころだ。

 スワキスの連中は海賊取り締まるどころか、一緒になって海賊行為にいそしんでやがったらしいからな」


 みんな船内待機で暇なのか、次々レオンの周りに集まって会話に参加していくが、その主な内容はスワキスよセルナスへの悪口だ。

 聞けばセルナスは国民総海賊と言われるような略奪国家で、そりゃあ船乗り達からは嫌われるだろうなと思えた。


「おかげでラース半島に入ってくる向こうの商品も高騰するわ、コッチから向こうに送る商品も数倍の価格に跳ね上がってたそうだしな。

 商品が売れなくて船乗りとか何人も食いっぱぐれたって話だぜ」


 どうやらスワキスとセルナスの悪口は言い出すと止まらないようだ。

 船乗りも人間だ。

 仕事するうえでちゃんと生活していかねばならない。

 年を取れば嫁も取るだろうし子供も生まれる。

 自分だけでなく家族も養わねばならないだろう。

 そのためには自分の仕事が"割に合う"ものでなくてはいけない。

 そう考えた時、オリヴァ王国とベルン=ラース王国、そしてカラク連合にとって、セルナスとスワキスは己の生活を脅かす敵と見なされた。

 スワキスの一般市民にとってはとばっちりだろうが、そういった理由で2国は近隣諸国から疎まれているのだ。

 今の2国の没落も『ざまぁみろ!』と思うものは居ても、同情する者はほとんどいなかった。

 レオンは知らない事だが、特に半島西部ではスワキスに対する当たりが強い。

 それはスワキス王国が、ベルン=ラース王国やシュットルード帝国を上回る亜人排斥国家だからだ。


「えーと、こちらの船は…クラーケン号?変わった名前ですね」


 やや高い声だが、入国審査の役員らしき男の声が桟橋上あたりから聞こえてきた。

 発音のしっかりしたオリヴァ語だ。

 オリヴァ王国の公用語は当然オリヴァ語だが、交易国家らしくラース語やセイル語はどこでも通じる。

 これはオリヴァが交易国家というだけでなく、オリヴァ人が語学に堪能だと言われてる所以だ。

 何といってもあのアーノッド・ストラガの生まれた国なのだ。


「クベール商会の船で間違いないですか?…よろしい。

 では規定通り内部と船員を改めさせていただきますよ?」



「随分丁寧な人ですね?」


 帝国もラース王国でも、役人はだいたい横柄だった。

 この声の主のように丁寧な応対をするような人間(・・)にはまずお目にかかれない。


「まあオリヴァは交易で発展してる国だからな、自国に富をもたらしてくれる交易商人とその船にはいい感情持ってるんだろう。

 あとは国民性かな?

 オリヴァ人には賄賂が通じにくいのでも有名だ」


 賄賂の通じない役人などという者が本当にこの世にいるのか、レオンには信じられなかった。

 ラース半島でも師がこっそり役人に袖の下を渡すのを見てきたし、故郷である帝国でも当たり前のように役人は賄賂を受け取っていたからだ。


「あー、あとあの役人は特別だから」


「特別?」


「ここの名物みたいな奴でな、二重の意味で変わり者なんだ」


「そうそう、真面目を絵にかいたようなヤツでね…アイシャの嬢ちゃんもそうだが、爪人(シャズ)って真面目な性質なのかね?

 いい加減な連中が多いとはよく聞くんだが…」


 タラップから甲板にその姿を現したのは、身長1/2クォート(約1.25m)とちょっとほどの直立する猫だった。


 オリヴァ王国

挿絵(By みてみん)

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