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クロニクル アンド マギグラフィ  作者: 根菜類
第二部・メリヴィエ編
50/68

6クラーケン号

「さて、これからどう動くか…」


 ホラノォの街で早速宿を取ろうとした従者を止めて、エッカルトは唸った。

 ここからヴェンヌに向かうには主に2つのルートがある。

 スレナード川を遡ってリーヌに入り、西大街道を通ってオディーヌからヴェンヌに入るか。

 海岸沿いに西へ下り、ヴェール川を遡ってラピンからヴェンヌに入るか。

 どちらも陸路と海路の両方があり、大まかに言って4種類の方法が考えられる。


「どれも一長一短だな」


 リーヌに向かうルートは近道だが、それゆえ追手に捕捉されやすく。

 ヴェール川まで回るルートはかなりの遠回りだ。

 陸路は応用が利くが一行に道に詳しいものが居ない。

 船は早いが乗ってしまえば港に着くまで何もできない。


「やはり陸路はには不安が残るな、ブルエヌまで船で行こうと思う」


「いいんですか?」


「これまでずっと船で移動してきたのだ。

 何をいまさら…だろ?」


 ホラノォは王国の西部海岸沿いから中部に抜ける要所にある。

 人間の往来に制限がかかっている今、西部から運ばれる品物はここで取引され船に積み替えられる事が多くなってきている。

 それがまた物資の高騰を招いているのだが…。

 今市場にはリンゴや洋梨の詰まった樽、そしてブドウやイチジクが盛られている篭が並べられ、かなりの賑わいになっていた。


「もうリンゴやブドウが売られているのか?」


 スローヌではリンゴは高地栽培をしているので、早いものは転西の月(9月)から出荷される。

 帝国では帝都に出回るのが中秋の月(10月)も半ばになるので、一行の目からはかなり珍しく写っただろう。


「司祭様…」


「わかっている。

 だが1樽は流石に多すぎるな…。

 ハイモ、悪いが1篭で売ってくれるところが無いか交渉してきてくれるか?」


 ハイモに物欲しそうな目で見られてエッカルトは相互を崩した。

 エッカルト本人も果物を口にしなくて久しい…栄養の心配もあるし、ここで果物を補給しておきたかった。

 それにはリンゴは最適に思えたのだ。


 結局一行はリンゴを1樽勝って、乗せてもらう船の船員にも振舞う事になった。

 余計な出費かなとは思ったが、嬉しそうにリンゴにかじりつく愛弟子(レオン)を見ていると、これぐらいたいした出費ではないと思えた。

 必要経費ではないので、自分のポケットマネーだったのだが。


 ホラノォからブルエヌまでは2日の行程だった。

 この船は果物を載せてこの航路を往復するのが仕事のため、ヴェーヌ川を遡るにはまたブルエヌで次の船を探すか、陸路を進まないといけない。

 ここまでぼったくり船に乗るなどというトラブルはあったが、ウルク教の追っ手と出会う事はなかったため一行は油断していた。


「ここから陸路を通ろうと思う」


 エッカルトのその決断に誰も異論は挟まなかった。

 なによりいい加減船の上はこりごりだった。


 大きな街道沿いには一定距離ごとに馬を交換する場所がある。

 これは主にその地の領主が国から援助をもらって行っている事で、よほどひどい馬でなければ交換に応じてくれる。

 このため貴族や大店の商人のの馬車は常に元気な馬に繋ぎ替え、高速で街道を行き来することができるのだ。

 だがヴェール川沿いの道には馬を交換できる場所は少ない。

 交通の半分を船に取られているため、馬車や騎馬の往来が少ないからだ。

 こういう道では街道では2日で移動する距離が3日かかったりする。

 馬も生き物なので、充分な休息無しではその力を発揮できないのだ。

 ただこれでもヴェール川沿いは整備されている方といえる。


「道が思ったよりも荒れているな…」


 ゆれる馬車の上でエッカルトはつい愚痴をはいてしまった。

 馬車といっても荷馬車に幌が付いているだけで、馬も二頭立ての粗末なものだ。

 当然車軸にサスペンションなど付いていない。

 ただ歩かなくていいのでレオンに口頭での授業は出来た。

 多少舌を噛みそうにはなるのだが。


「この魔術図式(マギグリフ)を鉄板などに掘り込んで、その溝を魔力伝導率の高い魔術銀(アルケイン)で埋めると、魔術回路(サーキット)とよばれる魔道具の基礎ができる。

 これは我々が魔術構成(スクリプト)を組み上げる手間を省いてくれるどころか、一般の魔術師(マギクラフター)では組み立てるのも不可能な複雑な構成を発動させる事も可能だ」


 エッカルトがレオンに示したのは葉書サイズの鉄板だった。

 これは発火の魔術図式が刻んであって、火の属性を持つものなら簡単に薪などに火を付ける事ができる。

 本来こんな事に貴重な魔術銀を使った魔道具は作らないのだが、これはエッカルトが初めて作った魔道具で思い出深いものだった。

 彼はなんとなくこれを持ち歩いていたのだが、今回は教材として役に立ってくれた。


「ではそれさえあれば一々構成を組み立てなくていいのですか?」


「残念ながらそうは行かない。

 魔術回路は最初に作られた構成から一片の調整も行うことが出来ない。

 これは簡単な着火の魔術が刻んであるが、木屑など細かいものは勢いで吹き飛ばしてしまうし、木炭など着火にしばらく火にくべてなくてはならないものには火をつけることはできない。

 まあ、これは私が始めて作った魔道具で、出来がよろしくないのもあるのだがな」


「先生が作ったんですか!

 先生は魔道具も作れるんですね!」


「ま、まあこれでも神跡司祭の一端だからな…魔術の研究や魔道具の開発は仕事のようなものだ」


 照れるエッカルトの顔を従者達のニヤニヤ笑いが取り囲む。


「ゴホンッ、それでだな、なぜ鉄と魔術銀でこのような現象が起こるかと言うと。

 鉄は鉛と並んで魔力を通しにくいという特性があるのに対し、魔術で生成された魔術銀は金属で一番魔力を通しやすいとされている。

 魔道具に注がれた魔力は鉄を避け、魔術銀で書かれた魔術図式だけを流れる…つまりは構成に魔力を流し込むのと同じことが起きるのだ」


 そういうとエッカルトはその鉄板に魔力を流し込んだ。

 その魔力は魔術回路を通って火の魔術に変化し、神跡司祭のもう一方の手に握られた木片に火をつけた。


「あちちt…。

 レオンは地属性を持っているから、勉強すれば魔術銀を精製することも出来るだろう」


 エッカルトは慌てて木片に着いた火をもみ消すと、レオンに向き直り話を続けた。


「だが魔道具を作るうえで気をつけなければならない事がもう一つある。

 鉄の属性を持つ魔力は鉄や鉛すら容易く通過するのだ」


「では鉄の属性は魔道具を使えないのですか?」


「鉄の属性を持つ者がその属性しか使えないのであればそうなる。

 だが鉄の属性もちは往々にして火や地の属性も併せ持つといわれている。

 自分の魔力を鉄に変換しなければ使えると思うのだが…」


「?」


「情けないことに断言できるほどの資料が無いのだ。

 鉄の魔術は魔術師殺しと忌み嫌われていた事もあり、大昔に途絶えたともいわれている。

 彼らの協力なくしてはこれ以上の研究は難しいのだが…」


「魔術師殺し?

 それはいった…」


 レオンはその質問を最後まで言い切ることは出来なかった。

 火の着いた矢が馬車の幌を突き破り、レオンとエッカルトの間に突き刺さったのだ。


「盗賊?!」


「ちがう!盗賊なら積み荷を燃やすような真似はしない!

 ハイモ!馬車をはしらせろっ」


「ダメです司祭様!橋が…っ」


 一行に立ち塞がったのは、ヴェーヌ川に合流するそれほど大きくない川だったが、当然馬車で突っ切れるほどの小ささではない。

 道の先あるはずの橋は落とされていて、そこに追い立てるように襲撃者が襲い掛かってきた。


「ここまでやるか…さては気づかれたな」


「ダメです!馬がおびえて止まりませんっ!」


 御者のハイモの悲鳴を聞いたエッカルトは舌打ちすると、構成を組み上げ始めた。


「みんな、荷物は置いていい。

 泳いで川を越えろ…はぐれたらヴェンヌへ向かえ。

 いくぞ!」


 エッカルトが魔術を解放した瞬間、引棒と装具が焼け落ち、馬車の幌が派手に燃え上がった。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「なんだ?!魔術か?」


 自ら1隊を率いて待ち伏せをしていたギャロア司祭長は苛立たし気に叫んだ。


「くそっロドリゲの馬鹿め、魔術師が居るならちゃんと聞き出しておけというのだ!」


 彼は荒事には自ら出張らないと我慢できない性格の上、今回はバシュレ枢機卿にいいところを見せるチャンスでもあった。

 聖捌司祭一行が船で王都(ゲランデナ)を出たと聞いた彼は、リーヌとブルエヌに網を張っていたが、時間の経過に合わせブルエヌ側に主力を移してきていたのだ。

 まんまとブルエヌに降り立った一行が馬車を買い求めた事を聞きつけ、ここで待ち伏せを行ったのである。

 橋を落とし川まで追い詰めたのはよかったが、計算外なのは向こうに魔術師が居た事だった。


「魔術で馬を切り離し、馬車を炎上させ目くらましか…だれか知らんがやり手だな」


 もっとも、だからと言って困る事は特には無かったのだが…当然川の向こうにも手勢は伏せてある。


「枢機卿は司祭さえ押さえれば言いとおっしゃたがな…」


 舌なめずりをするその顔は、人間というよりも野生の獣に見えた。


「憂いはきれいに拭い去るべきだよなぁ?」



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 後ろを振り返ったレオンの目に、炎上する馬車から最後に飛び降りるエッカルトの姿が見えた。

 レオン自身はすでに腰まで水につかっており、川の流れに抗ってなんとか足を動かしていた。

 幸いこの川は深くはない。

 馬車で渡るのは不可能だろうが、まだ低いレオンの身長でもなんとか歩いて渡れそうだった。

 エッカルトが無事馬車を脱出したのに勇気づけられ、再び前を向いて水をかき進もうとした時だった。

 対岸に立ち上がる影が見えたのは。


「危ない!」


 思わず先に行く従者たちに警戒の声をかけたが、残念ながらすでに手遅れだった。

 対岸の人影が撃ち出した短矢(ボルト)は、先頭を進んでいた旅の仲間の体に鈍い音を立てながら突き刺さったのだ。

 レオンが彼らと一緒に行動をしてまだ1月足らずだったが、エッカルトの従者はみな気のいい連中で、尊敬する司祭の弟子という事もあってよくしてくれていたのだ。

 初めは義父やジキスムントのためと割り切ってエッカルトに同行していたのだが、今ではここが自分の生きていく場所なのではないかと思う事も多かった。

 エッカルトと共に大聖堂に行くのが楽しみになってきたほどに。

 だから仲間を、家族を射殺された時、言いようのない怒りが沸きあがってきたのも無理の無い事だ。

 それは今まで漠然と抱いてきたクベール軍に対しての敵意をはるかに上回っていた。

 レオンは今の自分に出来る最大の怒りをもってそれに対抗しようとした。

 もちろんそれは魔術だ。

 怒りに任せて組まれた構成は穴だらけで非常に効率の悪いものだったが、レオンの高い魔力がその未熟な構成を無理やり起動させる事に成功した。


「レオン!」


 エッカルトの声が背後から聞こえたが、もう魔術構成は止まらなかった。

 突き出したレオンの両手の先より、不格好な炎の渦が飛び出したのだ。

 火花をまき散らし炎の残滓をいくつも引きずりながら飛ぶ炎の塊は、対岸の狙撃者の一人を炎の柱に変えその絶叫とともに命を奪うに至った。


「はぁはぁ…」


 だがレオンもたった一回の魔術でその魔力をほとんど使い切り、魔力枯渇の症状さえ現れていた。


「あいつが魔術師だ!先に狙え!」


 対岸の襲撃者がレオンを狙おうとするのを見てエッカルトは慌てた。

 1発や2発なら炎の盾で防げるかもしれないが、一斉射撃をされたらレオンを守る手は無い。


「レオン伏せろ!水の中に隠れるんだ」


 エッカルトの声と同時にレオンの体が水の中に消え、彼が立っていた付近に何本もの短矢が着弾する。

 エッカルトは急いで組み上げた構成を襲撃者達に向かって解き放った。

 距離があるし数もいる。

 魔術の数発でどうにかできる状態ではないが、目くらましで彼らの動きを牽制することはできる。

 たいして熱くもない炎の壁が襲撃者の目をくらませていうちに、従者の何人かが対岸に着くことができた。

 従者といっても全てが人足や身の回りの世話ではなく、エッカルトの護衛を兼ねている者もいる。

 こんな最果ての敵地に、魔術師とはいえ護衛無しで重要な神跡司祭を送り込めるはずもない。

 確かに敵の方が大勢ではあったが、エッカルトの魔術の援護をもらった護衛は手際よく襲撃者を片付けていった。

 だがそれでも何人かの犠牲は避けられなかったのだが。


「やれやれ、結局はレオンが気を引いてくれて助かったのか」


 殿で川から上がりながらエッカルトが呟くが、先に上がっていた従者たちに奇妙な目で見られている事に気が付いた。


「司祭様、レオンはどうしたんですか?」


 エッカルトは弾かれたように背後の川面を振り返ったが、どこにもレオンの姿は見えなかった。

 従者たちが見てる間にエッカルトの顔が見る間に青く染まる。

 矢が当たった様に見えなかったから油断していたのだが、まさか何発か水中のレオンに当たっていたのか?

 それとも溺れてしまったのか?!

 エッカルトは気が付かなかったのだが、レオンは師の言葉で水中に身を隠したのではなく、あのタイミングで魔力枯渇により気絶していたのだった。

 気絶したレオンはそのままエッカルトの目の前を川に流されていたのだが、魔術に集中していた彼は気が付かなかった。


「レオン!」


 引き返そうとしたエッカルトだったが、その腕は従者に掴まれてしまった。


「ダメです!向こうから追撃が渡ってきます!」


 最初に馬車を襲撃して追い立てた部隊が、ちょうど川に降りていくのが見える。

 エッカルトは数秒悩んだが、とうとう川を背にして走り出した。


「ああ、なんという事だ…レオン…私の所為だ…許しておくれ!」


 エッカルトは走りながら外聞なく泣き出していた。

 短い間だったが彼にとってレオンは打算で招き入れた研究の道具ではなく、息子とも思える可愛い弟子だった。

 おそらく彼に信仰と使命が無ければ己の身も顧みず戻ってレオンを探していただろう。

 だがそれは出来なかった。

 彼が逃げなければ生き残った従者達の身にも再び危険が迫るのだ。

 エッカルトは泣きながら走った。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



「見失っただと?

 ふざけるなっ!」


 ギャロア司祭長はそう怒鳴ると同時に、目の前の男を殴り倒していた。


 エッカルト司祭一行の動きをつかんで先回りし、人気のないところで襲撃。

 橋を落としておいて川に追い込み、対岸に伏せていた兵と挟み撃ちという念の入れようだ。

 これでどうして失敗したのか理解できない。


 一行に魔術師が居たのは予想外だったが、対岸に用意した兵には貴重なクロスボウまで用意してやっていた。

 魔術師の一人(・・)が居たところで数人の弩からの射撃を防ぎきれるハズはない。

 そんな事が出来たら…そんな事が出来るのは、あの忌々しい光刃の(スプラデュール)戦乙女(ヴァルキュリエ)ぐらいだろう。

 ウルク教の中央教会は未だに彼女の力の一端すら正しくつかんでいないのだ。

 ただ憎しみのみが先行して彼女のイメージを形作っていた。


「奴らが向かうのはヴェンヌだ。

 馬を用意しろ、教会の名前で無理やり徴収してもかまわん」


 ここは西部だ、ウルク教の評判など知った事か。

 どうせ苦労するのは西部進出派の連中だ。


 まだヴェンヌまでは充分な距離がある。

 この分ならスローヌを越えたところあたりで見つけることができるはずだ。

 もしそこで見つからなくとも、オディーヌで張っていれば奴等はそこからヴェンヌに向かうはず。

 周辺の地理に疎いシュットルード人なら、街道か船ぐらいしかルートを取る事は出来ないだろう。

 まずは急いでスローヌの港を抑える事だ。


 手勢を無駄に失ったことに血を登らせたが、考えればまだ荒れるような段階ではない。


「チッ、無駄に手間取らせやがって」


 肉食獣の様なぞっとする様な笑みを浮かべ、彼はまた狩りに出向こうとしていた。

 半分は仕事のため、半分は楽しみのために。

 彼の苛立ちは楽しみが失敗したためで、落ち着いたのはまた最初から狩りを楽しめると思いなおしたからだ。

 法服よりも鎧が、鎧よりも裸が似合う獣のような男は、舌なめずりをしながら狩りを再開した。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 レオンが目を覚ましたのは粗末な小屋の中だった。

 身を起こすと気絶する前に来ていた服は脱がされ、下着だけで横になっていた。

 ズボンとシャツはベッドの脇に無造作にかけてあったが、上に来ていたローブは見当たらなかった。

 もし誰か助けてくれたのなら濡れた服を脱がすのは当然なのだろうが、なぜか見当たらないローブに嫌な予感が沸きあがってきていた。

 本来は侍祭も専用の簡素な法服を着るのだが、レオンは旅の途中で侍祭に任命されたため簡素なローブに侍祭の証を刺繍しただけの簡易版の法服を着ていたのだが。


「おや、目が覚めたかい?」


 日に焼けた漁師のようないで立ちの老人が、レオンが寝ていたベッドの部屋に顔をのぞかせた。


「息を吹き返してくれてほっとしたよ、司祭さんに目の前で死なれたら目覚め悪いかんな」


 レオンは自分の顔から血の気が引くのを自覚した。


「あの、僕のローブは…」


「ああ、あれなら近くの教会にもっていったよ。

 身元の確認しないと困るしな」


 当然この漁師は善意でレオンを助けてくれたのだろう。

 そして善意でレオンの身元を確認しようと教会にローブを届けたのだろう。

 だがレオンは解っていた。

 それがどんな結果を招くのか?

 自ぼれてるわけではないが、自分なら先生に対して充分な人質になるだろうという事を理解していたのだ。

 もしこの漁師が今教会にローブを届けてきた帰りなら、一時の猶予もない。


「すみません。

 水をいただけないでしょうか?」


「ほいほい、お安い御用さね」


 レオンは漁師が引っ込んだのを見ると急いで服をひっつかむと、まだ湿っているそれらを急いで身に着け、気持ちの悪い履き心地の靴に足を突っ込むと窓から飛び出した。

 漁師の家はヴェール川よりもわりかし離れた場所にあったが、家を出てすぐその流れを見渡すことができた。

 あの川を遡っていけば先生と合流できる!

 はぐれてもヴェンヌへ向かえと言ったエッカルトの言葉を思い出す。

 道は解らないけど少なくともこの川ぞいに歩けばまた先生に会えるかもしれない。

 レオンは無一文なのも忘れて川沿いを走り出した。


 だが、当たり前だがそうたいして走らないうちに追手に見つかる事になる。

 向こうの方からあの漁師と何人かの村人らしき人間が、声を上げながらこっちに向かってくるのが見えた。

 その中に紺色の法服が見えたような気がしてレオンは全力で走り出した。

 彼らはどう思っているのか?

 やはり聖職者を騙った悪ガキだと思っているのだろうか?

 漁師や村人はそんなところだと思うが、誤解を解いている余裕はない。

 だいたいここは敵地なのだ。

 ウルク教に捕まって先生に迷惑をかけるわけにはいかないと。

 レオンの中では完全にウルク教は悪の軍団になっていた。


 息を切らしながらどれだけ走っただろう。

 なんと道が途切れ、この先は崖になっていた。

 道はそのまま曲がって川に突き出た粗末な桟橋と漁師小屋に繋がっている。

 そして生憎船は一艘も無かった。

 漁師小屋は無造作に破れた網が積んであるだけで、入り口のドアさえない。

 レオンは後ろを振り向くと慌てて桟橋の先まで走っていったが、当然そこで足を止めざるを得なかった。

 後ろから追手が迫る中、レオンは悲痛な覚悟を決めた。

 助走をつけて走り出したレオンは、川面に身を躍らせたのだ。


 レオンもまったく泳げないわけではないが、頑張っても精々数十メートルだろう。

 とても対岸にたどり着く事は出来ない。

 水の魔術でも使えれば話は別なのだろうが、生憎レオンにはそっちの属性はもっていなかった。

 だから必死に泳いで、泳いで、泳いで、レオンは力尽きた。

 動かなくなった手足をそれでも必死で動かそうとしながら、苦しさと恐怖に抗っていたが、やがてその力もなくなった。

 最後に残った意識で、養父、ジキスムント、そしてエッカルトに謝罪をし、神に祈りをささげようとした時。

 レオンの体は急に水の上まで浮上したのだった。


「ゲホッゲホゲホッ…」


「おー、息はまだあるな。

 もう大丈夫だからおとなしくしていてくれよ?」


 そう言われようとも、もう手足は1/100クォート(約25mm)だって動かない。

 そう考えて自分を抱える声の主を見てぎょっとした。

 そこには灰色の毛並みの山羊の様な顔があったのだ。

 まさしくそれは聖書に書かれる悪魔の姿のように見えた。


「シルスどうだ?生きてたか?」


「かろうじてってところですね。

 しっかり掴んでいるんで引き上げたのみますよ」


 レオンを抱えたその角人(ヴル)の腰にはロープが結んであり、船上からそれを引き上げてくれているようだった。

 逃げなくてはという考えはまだ持っていたのだが、もうその手足はピクリとも動かす事は出来なかった。


「処女航海で猫耳の嬢ちゃん助けて、今度はシュラード人の坊主か。

 この船にはよっぽど奇縁があるんだろうな」


 甲板にひっくり返されたレオンは息も絶え絶えになりながらも、視線だけで周りを見回した。


「名前が悪いんですよ名前が。

 クラーケン号とかもう最悪ですよ」


「それは俺じゃなくて、ぼんに言ってくれ」


 この船はあの日、ズォルヌの港に入ってきた船と同じ?


「あの…」


「あー、悪いんだがな」


 髭面の男がレオンの言葉をさえぎって声をかけてきた、しゃがみこんだ丸顔がレオンの顔の上まで迫る。


「岸に着けてやるわけにはいかんのよ、今度の航海には余裕なくてな…坊主はどこに行こうとしてたんだ?」


「…ヴェンヌへ」


 その言葉を聞いた船員たちは微妙な表情で顔を見合わせた。


「悪いけど反対方向だな、この船はズォルヌ経由でオリヴァ王国に向かう事になってる。

 ズォルヌに降ろしてやってもいいが、坊主一人でヴェンヌにたどり着けんだろ?」


 この中で一番身なりの良さそうな男がため息を吐きながらレオンに問いかけた。

 おそらくこの男が船長なのだろう。

 その視線が船の外を向き遠くを見るように目を細めたのを見て、レオンは心中の焦りを隠せなかった。


「ところで、岸で騒いでる連中は坊主のなんだ?

 もしかしてやらかして追われてるのか?」


 甲板で倒れて動かないレオンの目には岸の様子など解るべくもなかったが、彼が何をさしてそう言っているのかは判りすぎるほどわかった。


「追われているけど、別に何かやったわけじゃない…」


「やった奴はたいていそう言うんだ。

 坊主の身元と追われてる理由言ってくれないと、レ・オルレンヌあたりで衛兵に引き渡さなきゃなんねぇな」


 レ・オルレンヌが国の直轄地だという事は知っている。

 そんな街ならきっとウルク教の力も強いだろとレオンが思っても無理はない。

 事実直轄地には大きめの教会が置かれていたりするのだ。

 ただレ・オルレンヌには小さいながらもアインツィヒ教の教会もあるのだが、これはエッカルトすら知らないことで、レオンには知りようも無い事だ。

 レオンは迷った。

 命を助けられたかといって、この船の連中を信じていいのだろうか?

 

 それに何といってもこの角人だ。

 帝国には角人も牙人(ガルー)も帝国には住んでいない。

 よっぽどの辺境ならわからないが、少なくとも都市といえるような場所で見かけることはありえない。

 帝国で亜人と言えばホーホラントに出没する翼人(ワゾ)ぐらいなもので、彼らは帝国民と見なされずに遭遇すると必ず小競り合いになるような関係だった。

 いう事を聞かない子供に『翼人がさらいに来るぞ!』と脅しつけるほどの。

 だからレオンには角人が悪魔か魔物にしか見えなかった。


「なんだ?角人が珍しいか?

 お前が向かってたヴェンヌじゃ角人も牙人も珍しくないぞ?

 たしかに船乗りの角人は、俺もコイツしかしらねぇけどな」


 そういって髭面が笑った。

 角人も表情はわからないが、笑ったようなに見えた。


「シュラード人って事は、シュットルード人か?

 もしかして追われていたのはそれが理由か?

 食いもんちょろまかした位だったら俺たちがどうこう言う事じゃねぇが、殺しとかやってんならホントに衛兵に突き出さざるをえんぞ?」


 殺しと聞いて頭を過ったのが、レオンの魔術で火だるまになったあの男だった。

 あの時は怒りで我を忘れていたが、いざ思い出すとじわりと実感を伴い腹の底が冷たくなった。


「おいおい、本当に殺しをやってんのか?」


 青くなったレオンの顔を見て、呆れたように髭面が言った。


「仲間が襲われたから…」


「ふーん、誰にやられたんだ?」


「ウルク教」


 その瞬間、自分を囲んでいた男たちの顔に浮かんだ敵意を感じ、レオンは迂闊に話した自分を呪った。

 だが彼らの敵意はレオンに向けられたものではなかった。


「ヤニック、居るか?」


「ええ、法服の奴がひと…2人混じってますね」


 船長らしい男が顔も上げずに呼びかけると、答えたのは舳先から川岸の騒ぎを眺めていた男だった。


「そうか、だったら話は別だ。

 坊主、お前を逃がしてやるよ…ただし、さっき言ったようにこの船は今もヴェンヌから離れて行っている。

 ヴェンヌに帰るのは一月後になるが、いいよな?」


「ヴェンヌには仲間が向かっているはず…嘘われた時にはぐれて…」


「ふーん、手紙出したいなら途中の港に預けるって手があるが、坊主字は書けるのか?」


 無言で頷くレオンに船長は内心すこし感心していた。

 どこの徒弟か知らないが、読み書きができる者は未だに少ない。

 ラース語の文が書けるのかは知らないが、もしそうなら押し付けたい仕事は山のようにある。


「どこ宛で出すつもりなんだ?


「クベール侯爵…様の館に」


 それは流石に予想していなかった答えだった。


「おい?」


「先生は、師匠は侯爵様へ用があるといってい…ました」


「師匠の名は?」


 船長はクベール商会に所属して長い。

 魔術師の名家であるクベール家と縁の深い商会であれば、魔術師と会う機会も多い。

 なにより会頭であるドローリンも、跡取りであるジャンリュックもクベールの血を引く魔術師なのだ。


「エッカルト…エッカルト・インメル」


 名前だけに止めようとして、ここは教会ではないと思い出した。


「こっから先、お前ひとりを下してもヴェンヌにはたどり着けんだろう。

 悪い事は言わん、このままこの船に乗ってな…そうすりゃヴェンヌには確実にたどり着けるんだ」


 この時代の航海術で一月の遠征の末に"確実"に帰ってこれる保証はない。

 だが彼らの言葉には自信があり、それを疑うような気は起こさせなかった。

 だが、一月…エッカルトはおそらく数日中にヴェンヌに入るだろう。

 師匠の用事が何日で終わるのかは知らないが、一月後にはもう国に帰っているのではないだろうか?

 もし自分が一月後にヴェンヌに付くなど知らせたら、師匠の仕事に支障が出るかもしれない。


「やっぱり、いいです…」


「あん?船を下りるのか?

 まあ気が進まんなら仕方ないが、下せるのはズォルヌになるぞ?」


「いえ、そうじゃなくて、手紙の事」


「なぜだ?」


「僕が1月後にヴェンヌに着けるって知らせてしまうと、先生のお仕事の邪魔になるかもしれないから」 


「お前…」


「お願いします。

 ヴェンヌに戻るまで僕をこの船においてください」



「ああ、いいぞ」


 船長はあっさりと請け負った。

 もともと人手不足の船だ。

 それにもうこの少年に押し付ける仕事の目算までできている。


「ただしその分しっかりと働いてもらうからな。

 まあ今日1日はお客さんでいいから、ゆっくり休んで体力回復させとくんだぞ」


 そう言い残すと船長は船尾の方に歩み去り、川岸のの騒ぎを観察し始めた。


「だってよ…そろそろ立てるか?立てるなら船室まで案内してやるよ」


 ひげ面の男に助け起こされ、レオンは何とか立ち上がった。


「そういやおめえの名前まだ聞いてなかったな、俺はコーム。

 一応船員のまとめ役だ」


「レオン…レオン・ケッセルです」



 あの時、師の名前を口にしたとき、レオンの目に火花が飛んだように見えた。

 その火花を思い出し船長は呟いた。


「魔術師か…」


 拾いもんかもしれねぇな…クラーケン号のバルテル船長は心の中で付け加えた。


 結局活躍するのはオッサンばかりか…。

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