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クロニクル アンド マギグラフィ  作者: 根菜類
第二部・メリヴィエ編
47/68

3角人


「くどい」


 クベール侯爵(オーリン)の声にはハッキリとした苛立ちがあった。


「何度も言いますが、もう私は国政にかかわるつもりは一切ありません」


「しかし!宰相閣下からの直々のご依頼ですぞ?!」


 リッシュオール侯爵(フレドリッツ)からの使者であるサズン伯爵は止まらない汗をぬぐった。

 中部貴族である彼の領地は先の内乱で大きな被害を受けた。

 今回の説得が成功すれば国から支援を約束されていたのだが…。


「では帰って彼にお伝えください…娘が申したように、ご自分の責任をしっかりお取りください…とね」


 取り付く島もないとはこの事だった。

 伯爵の知ってるクベール侯爵はもっと理知的で穏やかな人物だった。

 しかし今彼の目の前のソファーに力なく座っている男からは、陰湿で後ろ向きなイメージしか感じなかった。

 ともすれば死臭さえさえ臭ってきそうなほどの…。

 

 当時財務長官だったオーリン・ハルカラ・クベール侯爵は、ドラゴンと相打ちになったという娘の死後、強引に職を辞して領地に引きこもった。

 彼はドラゴンも、娘を後ろから刺したという騎士団長の息子も、それを不問にした国王も、クベール領軍の出動を妨害した宰相も…そして娘を守れなかった息子をも恨んだが、一番許せなかったのは娘に押し切られて出陣を認めてしまった自分だった。

 あの時娘の出陣を認めなければ、まだ娘はここに居たかもしれない。

 そういう思いが日ごと彼の体と心を蝕んでいっていった。

 娘なら見事問題を解決して生きて戻ってくるのではないか?

 そういう願望と、現実を見極められなかった自分に絶望していたのだ。

 彼は職を辞して王都の侯爵邸を完全に引き払い、こうして領地に戻ってきてはいたが。

 領政に携わる訳でもなく、日がな一日無気力に過ごしていた。

 彼の仕事はこうして偶にやってくる、宰相からの使者を追い返す事だけだった。


 それでもサズン伯爵は引き下がろうとしなかった。

 彼にしても自分の領地の再建がかかっているのだ。


「そ…」


「サズン伯爵」


 腹の底まで響く冷たい声だった。

 こちらを完全に見下し、嫌ってもいなければこんな声は出まい。

 それほどの冷たい声を発したのは、父親の隣に立っていたクベール侯家の跡取りだった。


「どうぞお引き取りください。

 あなたはご存じないかもしれませんが、宰相や国が私たちに何をしたかお聞きになれば、それ以上口を開くことは憚られる事でしょう」


 実のところサズン伯爵は事の顛末を知っていた。

 とはいっても人づてに聞いただけなのだが・・・だがこう言われては知っていたとは口が裂けても言えない。

 今日は退散するしかない。




「宰相の嫌がらせも段々露骨になってきましたね」


 馬車に乗り込むサズン伯爵を窓から見下ろし、ウィルレイン・アルフィス・クベールは呟いた。


「愚かなことだ…もはや和解の道など無いというのに…」


 その声にウィルは振り返る事は出来なかった。

 姉の事もそうだが、彼は父親がここまで憔悴しているのを見たことがなかった。

 しかもそれは時を追うごとにひどくなっていく。

 いま自分の心を奮い立たせているのは静かな怒りだが、父の心にはそれが欠けているのがなんとなく解った。

 だがウィルには父が悲しみと後悔に落ち潰されそうになっていくのを止める術はなかった。

 ウィルにしてみてもどれだけ、こんな時に姉がいてくれればと思っただろうか?


「侯爵様」


 家宰のゴーディエが申し無さげに声をかける。

 彼にしてみてもこんなオーリンは見てられないのだろう。


「サズン伯爵様のご来訪中に別の使者がお見えになられまして、私の判断でお待ちいただいていますが…」


「どちらからだ?」


「リノア辺境伯様からです」


 ウィルはオーリンと顔を見合わせた。

 心当たりはまるで無かったからだ。


 リノア辺境伯家は王国の外苑を守る護国卿四伯家の一つだが、クベール侯家とは特に縁のある家ではない。

 これがベンウィック辺境伯家やアパルト辺境伯となると、数回の王国防衛線を共に戦ったり。

 西の海岸線をセルナスの海賊から守るために共同前線を張ったりと、軍事面や補給面で良好な関係を築いている。

 東部を守るガナベルト辺境伯とはむしろ仲が悪いとかあるのだが、王国最南端の街ズォルヌを守るリノア辺境伯家とは交流らしい交流は無かった。


「父上にも心当たりはありませんか?」


「ああ、あちらの顔すら見たことはないよ…」


 護国卿四伯家じたいめったに王都には姿を見せない。

 ただ国の要所を守ってるためもあって、家族は王都に止め置かれる事は多い。


「サズン伯爵とお会いになられると少々面倒なことになる可能性はあるかと思い、離れの方へお通ししておきましたが…」


「ありがとうゴーディエ、とりあえず僕が先に会おう」



 ウィルに対しても若年者と侮った態度を取らなかったその使者だが、かなり急いでるようで早速要件を切り出した。

 それは、ズォルヌ~レ・オルレンヌ間の航路が謎の怪物のせいで通行不能状態になっている事。

 それに対してドラゴン退治で名高いクベール侯家の跡取りに、ご助力を賜りたい…との事だった。

 一時は王国の助けに動く事は受け入れられないとこの話を断るつもりだったウィルだったが、南方の航路が止まると工業都市であるヴェンヌ、そして西方の領地のかなりの数が多大な損失を受けると気が付き。

 非公式を条件にその話を受ける事にしたのだが…。


「ダメだ。

 絶対に認められん!」


 頑迷なまでの父の反対に遭遇するとは思わなかった。


「しかし父上、オリヴァへの航路が途中で停滞するような事になれば、わが領地にも多大な損害がでます」


「いや、私はリノア辺境伯に協力することを反対しているわけではないのだ。

 お前だ、お前が同行する事だけは決して許可は出せんよ!」


 悲鳴ともとれる父の叫びは、ウィルの胸を穿った。

 父は姉の悲劇が自分の上にも降りかかる事を心底恐れているのだ。

 そしてあの時姉を行かせた公開が父の心を縛っているのだ。

 そして自分には姉のように、父を説得する自信も理由もなかった。


「…わかりました。

 クロードに一軍を率いて向かってもらいます。

 たしか試作の高速船が進水したと聞きますので、そのテストを兼ねて行ってもらいましょう」


 使者にはドラゴン退治に同行して生還した騎士を隊長として送ると伝えた。

 ウィルが来ないという話に最初は落胆していたが、数度の戦争を生き延び、ドラゴン討伐でもクベール侯爵子息を守って生還したというクロードの戦績を聞き、納得して引き下がった。


「魔術師の志願者も募らないとまずいな…」


 確かに今のヴェンヌはベルン=ラース王国いちの魔術技術を誇ってはいたが、まだまだ十分といえる人員を抱えてはいなかった。

 本来なら魔術師(マギクラフター)の派遣は取りやめたいところなのだが、現状を聞くに魔術師無しでは討伐どころか生還さえ難しそうな状況だった。


「姉さんならこの情報からでも怪物の正体推測できるかな…クソッ」


 無意識にでも亡き姉に頼ってしまう自分に腹が立つ。


「まずは情報収集だ…王都から引き上げてきた書物をチェックして…」


「ウィルレイン様、それは司書にお命じください」


「ゴーティエ?」


 クベール家の家宰は最近はウィルについている事が多い。

 オーリンがもはやまともに政務を行わないという事もあるが、彼なりに時代のクベール当主に期待してるものと思われる。


「なんでも一人で出来ることは限界があります。

 ウィルレイン様は将来クベール家を継がれる身、どうか早くに人を使う事に慣れていただかないと」


「そうか…そうだな、で、あの書物はどこに?」


 ついつい何でも自分が抱え込もうとするのは若さゆえだろうか?

 ウィルは姉の言葉を思い出して反省した。


「メリヴィエ様がご覧になっております」


「メリーか…」


 正直、ウィルはこの妹が苦手だった。

 彼女の金色の瞳は、心を見透かすような神秘的な雰囲気を持っていたからだ。

 自分に対して距離を置いているようにも感じていた。

 それは姉を連れて帰れなかった自分が責められてるようで、ウィルは彼女の瞳を正視できないでいた。


 父似の瞳と母似の髪の毛を持つ姉と違い、メリーは両親に似ていなかった。

 ウィルも末っ子である双子も両親によく似ているためか、どうもメリーは兄妹の中で浮いて見えた。

 彼女の泰然とした態度もそれに拍車をかけていただろう。

 姉の前ではよく喋ったそうだが、それ以外では非常に無口だった。

 その様子は両親に言わせると幼いころの姉そっくりというのだが、姉の幼いころを知らないウィル達年少組にはピンと来なかった。

 日がな書庫や書斎にこもり、本を読んだり魔術の練習ばかりする妹が、自分の手を引いて野山を駆け回った姉に似てるとは、どうしても思えなかったのだ。


 だがメリーが姉に匹敵するほど資料を読み漁っているのなら、今回の事で彼女の知識を借りねばならないだろう。

 ウィルは人を呼ぼうとして思いとどまった。

 妹に会うのに人をやって呼びつけるのはよくないと思ったからだ。

 彼は書庫に向かって歩き出した。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 アイシャは無気力だった。

 一人残された現状にその心は耐えられがたかったからだ。

 自分の主人と、そして姉の様な存在だったフラウは彼女を残して死んでしまった。

 一時は後を追おうかと考えていたが、今の主人に強く止められ、死にきれずに今に至った。

 屋敷のもんなは相変わらずアイシャによくしてくれてはいるが、爪族との混血(ハーフシャズ)という特殊な容姿はどうしても彼女に疎外感をもたらした。

 自分の外見など主人が生きていたころには気にならなかったのに…。

 アイシャは伏目がちに、その不吉と呼ばれる赤い目を隠しながら生活するようになっていた。


「アイシャ」


 力だけはあったため、自然とメイドの中でも力仕事を任されるようになっていたアイシャは、籠いっぱいの洗濯物を運んでいるところをウィルに呼び止められた。


 アイシャはあまりウィルと目を合わせたくはなかった。

 後ろめたいこともあったし、その赤い瞳を彼に見られたなかった。

 今となってはウィルはアイシャが唯一心を通わせられる…傷をなめある間柄だったからだ。

 主人が死んだことで自暴自棄になっていたウィルにシンパシーを感じた。

 彼を慰め慰められている間に、死へと引き寄せられていた自分の精神は少しだが救われたような気がした。

 主人もフレイも、自分の後追いなど望んではいないだろうという考えをする余裕もうまれたのだ。

 彼女は生きることにした。

 消極的ではあったが…。


「メリーを見なかったか?」


「メリーさ…メリヴィエ様?

 今日は見てない…です」


 その答えを聞いたウィルはさみし気に唇をゆがめた。


「僕相手に無理した喋り方はしなくていいよ。

 せめて姉さんといた時と同じように話しておくれ」


 アイシャは困った。

 いくらそういう仲(・・・・・)とはいえ、こんなところで甘えてきてもらっては困るのだが…。

 だいたいアイシャはもうお嬢様付の侍女ではない。

 アイシャが侍女であったのは死んだ主人のわがままによる。

 彼女がアイシャを手元に置いておきたいがために、アイシャを侍女として扱っていたのだ。

 だが身元の不確かなアイシャは本来貴族の身の回りの世話をする侍女にはなれない。

 よって今では一般のメイドとして屋敷内の仕事についている。

 そして変わったことはもう一つあった。

 使用人が主家のものを呼ぶときに、愛称で呼ばなくなった事だ。

 これは本来なら当たり前のことだが、彼女の元主人が自分を愛称で呼ばせた居たことをきっかけに、屋敷の者は主家の者を愛称に敬称付で呼ぶようになっていていたのだ。

 それが元に戻っただけなのだが…そのことに寂しさを感じるものは少なくない。


「…すまなかった。

 メリーを見つけたら僕に連絡を頼む」


「はい」


 悲しそうなウィルの顔を見て胸がチクリと痛んだが、人目のある屋敷の廊下でこれ以上砕けた話はできない。

 一礼を返すと、洗濯籠を抱え直し乾し場に向かった。



 秋晴れのお昼は絶好の洗濯日和だった。

 ここぞとばかりに夏物の一斉洗濯が行われていた。

 洗濯物は乾いたそばから畳まれて、物入れの奥に押し込まれていく。

 アイシャも目も回るような忙しさで、大きな洗濯籠を抱えて洗い場と干し場を何往復もする羽目になっていた。

 雑談をすることもなく、黙々と仕事をするその姿はかってのアイシャを知るものからしたら違和感を感じただろう。

 アイシャは口数こそ少ないが、決して無口ではなかった。


 アイシャには親しい間柄の者は居ない。

 今までは主人とフラウだけがアイシャの世界だったが、その二人は居なくなってしまったし、ウィルとの関係はまた違ったものと考えていた。

 アイシャは世界に独りぼっちだったのだ。

 その時までは。


 夜に洗濯物を干しっぱなしにはしておけない。

 日が沈む前に残りの洗濯物を急いで取り込んでいた時だった。

 目の前のシーツを物干しざおから引っぺがしたとき、その向こうに小柄な影が見えた。


 彼女は夕焼けに佇んでいた。

 ずっと屋敷に籠りきりの所為か、真っ白な肌に赤い陽光がやけに映えている。

 さっきまで読んでいたであろう分厚い本を抱え、西の山脈に沈む夕日を見送っていた。


「メリヴィエ様」


 太陽が沈みきるまで見送ったメリヴィエは、もう用は無いとばかりに踵を返した。

 あわててアイシャは彼女に声をかけていた。


「ウィルレイン様がお探しだ…でした。

 会いました?」


 彼女は無表情な顔をゆっくりアイシャの方に向けた。

 姉を失ってから笑わなくなったと言われるが、そうしている彼女はまるで生きた人形のようだった。

 その金色の瞳は、まるでそれ自体が魔力を持っているかのように、赤い光を反射して妖しく輝いていた。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 メリヴィエには大好きな姉が居た。

 彼女とってその姉は唯一の尊敬できる魔術の師匠で、王都に詰めている父に代わり自分を守ってくれる保護者であった。

 その姉が突然居なくなったのはメリヴィエが7歳のときだった。


 葬儀は無かった・・・母が半狂乱になって止めて、父が同意した。

 彼女が死んだと家族も、屋敷の者も認めたく無かったのだろう。

 姉の部屋は整理され、彼女の肖像画だけが置かれた。


 父が、兄が、王都から屋敷ごと引き上げてきたときは少々騒ぎにもなったが、メリヴィエは、メリーは我関せずと姉が最後に課題として出していった魔術の訓練を続けていた。

 メリーにとっても、姉が帰って来た時のためにコレを休むわけにはいかなかったのだ。

 姉がヴェンヌの屋敷から出陣して1年。

 メリーは人知れず泣いた。

 それは決別の涙であった。

 姉を諦め、前に向かおうという決心の涙でもあった。

 それから彼女は、姉の指示だけでなく、自分で決めて勉強や訓練をするようになった。

 決してそこまでの自覚と決意があったわけではないが、今の彼女は姉の魔術の唯一の継承者であったのだ。

 人付き合いが決して好きな方ではなかったメリーは、口頭ではなく文章で魔術についての考察や訓練法を大量に書き記した。

 もしそれを彼女の姉が見たら驚いただろう。


 あまりに高度なメリーの魔術理論は、すでに師である姉を追い抜いていたのだから…。

 ありえない話ではあるが、もしメリヴィエがドラゴン討伐に同行していたら、彼女の姉は命を落とすことは無かったかもしれない。

 彼女の姉は自分の魔術の才能の限界を嘆いていたが、メリーは姉を超えてなおその限界に到達しないでいた。


 ただ、といっても8歳の少女である。

 政治的な知識も勘も持ってはいないし、運動能力も無い。

 日がな本ばかり読んでいるため、博物学的な知識だけは溜め込んでいるのだが、 姉と違ってその知識を魔術に転用するほどの器用さは無い。

 魔術の能力こそ底知れないが、それ以外には周りに依存しないと生きていけない。

 非常にアンバランスな少女に育っていたのだった。



「メリー、教えて欲しい事があるんだ」


 ウィルがそう切り出したのは夕食後のお茶の時間だった。

 メリヴィエは返事を返さなかったが、小首をかしげる仕草でウィルに話の続きを促した。


「船を海中に引きずり込むような巨大な魔獣の話とか、読んだことはないかい?」


 メリーはしばらく考え込むと、やがて一つの名前を口にした。


「クラーケン」


「クラーケン?その魔獣は船を襲うような怪物なのかい?」


 無言で首を縦にふるメリーにウィルはさらに質問をつなげた。

 まさかこうもあっさり妹が問題の糸口を知っているとは!


「そのクラーケンいうのはどんな魔獣なのかしっているのか?」


「巨大なタコ…」


「タコって、…姉さんが食べようとして回りに止められたアレかい?」


 以前ブルエヌという港町で、漁師の網にたまたま絡まった蛸を買い取って食べようとして大騒ぎになった事があった。

 彼女達の姉は普通に蛸を買い取ろうとした下のだが、食べると聞いて急に漁師達が二の足を踏んだのだ。

 貴族の令嬢にあんなグロテスクな物を食べさせるわけにはいかない。

 食べて何かあったら自分たちが罰せられる…と。

 結局彼女は蛸を食べる事は適わず、しばらくの間臍を曲げる事となった。


「クラーケンにはタコとイカがいて。

 両方とも12本の足を持って、鯨や大海蛇(シーサーペント)を締め付けて食べる海の魔獣と本に書いてあったわ」


「じゃあそのクラーケンをタコだと言い切った理由はなんだい?」


「お姉さまが言っていたわ。

 イカは海を泳いでいるから獲物を捕まえたらその場で食べるけど、タコは海底に棲んでいるから獲物を海底へ持ち帰るって」


 そもそも蛸は海底で狩をするので、この知識は半分間違っているのだが…。

 しかし彼女の知識にあったクラーケンという魔獣はそういう狩をする可能性はあった。

 だが同時に困った事にもなった。

 海底に逃げ込まれたら手が出せなくなる…。


「お兄さま?

 その巨大な魔獣がどうしたのかしら?」


 この問いを発したのが彼の姉だったら、ウィルは決してリノア辺境伯からの要請の件を話したりしなかっただろう。

 彼の姉なら例え1人でも怪物退治に飛び出すだろうから。

 だがまさかこの引きこもりの妹がそんな事を考えるとは夢にも思わないウィルは、メリーに事情を説明してしまった。

 クベール領軍から魔獣討伐の船を出すところまで!



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 オルソンが討伐部隊に志願したのには、深い意味があったわけではない。

 ただ先のドラゴン討伐の時にはメンバーに選ばれず、選ばれて出陣した後輩のマルクは帰ってこなかった。

 マルクの死に様を泣きながら報告するクロードの姿を呆然と見ていた記憶だけはあった。

 戦死を望んでいるわけではないが、農民出身のオルソンは騎士の生き方に人一倍憧れているところがあり、正直マルクの事は羨ましいとさえ感じていた。

 今回の海の魔獣(クラーケン)討伐をもって、未練を断ち切れたら…程度に思っていた。

 ディネンセン騎士団長は優秀な騎士であるクロードに伴いオルソンまで派兵するのにいい顔はしなかったが、魔獣退治の必勝を規すという事で納得した。


 船には大量の長槍と投げやり、そして秘密兵器ともいえる巨大弩(バリスタ)まで積み込まれ、処女航海としては異例の物々しいその姿をラピンの港に現した。

  

「仕方ないとは言え、同行できないのは悔しいな」


 出陣の見送りに来ていたウィルはその船体を見上げると、本当に悔しそうにつぶやいた。

 今回その後ろには侯爵から言い含められた見張り役としてアイシャも同行している。

 土壇場でウィルが強引に船に乗り込むのを防ぐためだ。


「海の上は何が起こるか分らないし、これでも不安といえば不安だな」


「水夫として何人かはクベール商会からベテランを回してもらってるから大丈夫ですよ」


 クロードの声に力が無いのは気のせいではないだろう。


「その代価として、この船が帰ってきた暁には商会に引き渡す事をジャンリュックに約束させれれてしまったよ」


 ウィルはそう言いながらクロードの様子をうかがっていた。

 部下を持つ身として無茶はしないだろうが、彼は討ち死にを望んでいるようなフシがある。

 騎士団長からも気をつけて見てやって欲しいと言われているほどだ。

 ドラゴン討伐の最後、マルクが八つ裂きにされた時、彼は動けないでいた。

 もちろん恐怖にすくんでいたわけではない、クベール騎士団にはそんな騎士はいないのだ。

 最初の陽動のときに、最前線でドラゴンに対峙したクロードは、奮闘むなしく自慢の槍ごと片足の骨を叩き折られていた。

 だから誰にも責められるいわれも無いし、責めるものは居なかった。

 彼本人以外は。


 死ぬつもりで張り切った故の失態。

 本当に命を賭けるべき時に賭けられなかった後悔。

 それが常に彼の心を(さいな)んでいた。

 マルクが死んだのはもちろんアルィン・スタードの所為だが、かれをむざむざ死なせたのは間違いなく自分の失態だった。

 彼は今回の魔獣討伐で死ぬつもりでは無かったが、部下の1人も犠牲にしないためには…と心に秘めていた。

 クロードは侯爵代理でこの場に来ているウィルに出陣の礼を取ると、桟橋からかけられた戸板の上を片足を引きずりながら登っていった。

 かれの左足はあの時以来曲がったままだった。

 この足ではもう(あぶみ)に乗せる事も適わない。

 クロードの後姿を見ながら、ウィルはこの派兵にクロードを推薦した事を少しだけよかったと思えた。

 ドラゴン討伐の従軍の経歴からだったが、馬の上で踏ん張れない彼にはもう騎兵は勤まらないだろうが、海兵の指揮ならできるのではないか?


「あ!」


 そんなウィルの思考を中断させたのはアイシャの小さな叫び声だった。


「どうしたんだ?」


「ううん…見間違い…?」


 甲板に整列して出陣の礼を行っている討伐隊の向こう側、空中を黒い影がよぎった様に見えてアイシャは眉を寄せた。

 船がゆっくり桟橋から離れ、ヴェール川の流れにそってゆっくり川を下りだした。

 複雑そうな顔で船を見送るウィルの後ろで、アイシャはもう一回目を凝らした。

 帆を操作する船員の向こう側、四角い帆の陰に隠れるようにして何かが飛んでいる様に見える。

 次の瞬間アイシャは走り出した。


 彼女は確かに見たのだ。

 マストに隠れるように張り付く黒い影と、その金色の瞳を。


 走りにくいメイドのスカートを翻し、小柄な猫娘(ハーフシャズ)は桟橋を疾駆した。

 ここが海であれば船が桟橋から離れるまでもう少し余裕があっただろうが、生憎ここは大河ヴェール。

 川の流れに乗って船はどんどん加速していく。

 狙いは船の脇にぶら下がってるロープだ。

 あれに捕まれば船上に躍り上がる事も出来るだろう。

 桟橋の端まで思いっきり助走をつけてアイシャは跳んだ。

 運動神経と体力には自信がある。

 小柄な猫娘は、人間の大人…いや牙人(ガルー)の大人でも飛び移るのは不可能な距離を跳躍し、狙いのロープをその右手に掴んだ。

 そしてその掴んだロープごと…派手な水音を立てて落水してしまった。


 ロープの端は船体に結ばれていなかったのである。


 アイシャは爪人(シャズ)らしく水が苦手だった。

 本当の猫のように水につかるのを極端に嫌がったりするわけではないが、とうとう泳ぎを覚えることは適わなかったのだ。

 この季節、帆船やガレー船であれば、ラピンまで川をさかのぼる事が可能なレベルの水量であったが、小柄なアイシャの体を波間に飲み込む程度の水量は充分あった。

 さらに船が起こす渦に引かれ、何度も水中に押しこまれては、たとえ水泳に自信があっても溺れるのは時間の問題と思えた。

 港からも船上からも何やら自分を呼ぶ大声が聞こえてきたが、もはやアイシャにはそれにこたえる余裕はなかった。

 アイシャは心底自分の迂闊さを呪った。

 ドラゴンの(あぎと)から二人に助けられたというのに、こんな事で死んでしまってはあの世で合わせる顔が無い。

 せめて船体に捕まればと手を伸ばすが、その鋭い爪も濡れた船体に歯が立たず滑るのみだった。

 しばらくは水にあがない必死にもがいていたアイシャだったが、やがて力尽き水底に沈んでいった。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 角人(ヴル)の少年シルスはその強い足腰を生かして、帆を操作するロープを引きしぼった。

 滑りやすい甲板では蹄の様な角人のつま先は非常に有意に働く。

 その能力と生まれつき頑丈な手足をもって、シルスは見習いながらもそれなりの地位を与えられたいた。

 角人が水夫に向いているのならもっと角人の水夫が増えても良さそうなものだが、残念ながら角人は普通金づちで、水夫の最低条件ともいえる水泳ができるものはまず居ない。

 シルスはその希少な例外で、むしろこの船の中ではトップクラスに泳ぎが達者だった。



 山羊に似た頭部を持つ角人は、その能力と性質から非常に職人向けの亜人である。

 近視がちなその小さい目は細かいものまで見分け、太い腕に不釣り合いな細かい指先は非常に器用だった。

 もともと山地に住んでいた彼らは、雪に閉ざされた冬にその住処で様々な道具や工芸品を作って生活していた。

 人間が彼らに初めて会ったとき、彼らの持つ農具や木彫りの人形。

 銅器や織物などの精巧さに非常に驚いたという。

 やがてラース半島に製鉄技術が持ち込まれた時、最も早くからそれを習得したのは角人であった。

 だが彼らが作り出した優れた鉄器は、人間たちの手で自分たちへ向けられることとなった。


 蹂躙し奪う事しか考えられなかった当時の人間は、牙人と同じく、いやそれ以上の勢いで角人を襲い。

 殺し、奪っていった。


 生き残った僅かの角人はより高山に移り住み、人間をやり過ごそうとしたものや、人間に追い立てられ西に逃れたものが居た。

 シルスらヴェンヌの角族は後者の末裔といえる。

 未だに人の通わぬ山奥には、角人の隠れ里の様なものがあると言われてはいるが…。


 ともかく、人間に追い立てられた角人達は、この西の地で何故か人間の諸侯であるクベール家の元に身を寄せた。

 工業によって国を建てようとしていたクベール侯と、お互いの利害が一致したからだと思われるが、これにはもう一つ大きな理由があった。

 それは角人が持つ頑迷な信仰による。

 彼らが崇めるのはウルク教が崇める唯一神ではなく、山岳を駈け山々にその強大な槌を振り下ろすという雷神(フーダー)だった。

 自分たちに改宗を迫らないクベール家は、彼らには雷神の使いに見えたのかもしれない。

 それともその血に連なる雷の魔力に惹かれたとも言われている。


 ヴェンヌに集まった角人の氏族たちはすぐにその生活に慣れたわけではない。

 西部といえ未だ偏見は根強い。

 謂れのない風評を流されもした。

 だが近年ついには職業選択の自由も含めた、確かな人権を確立しつつあった。


 本来水夫などに採用されるはずもないシルスが、商会とはいえ正式な船乗りに採用されたのはその象徴であった。

 とはいえまだ船では下っ端のシルスは、あの日出港の難しい操作をベテランの船員の指導のもと行っていたのだったが…。



「誰か落ちたぞ!ロープ固定しろ!」


 船の近くに人が落ちてしまった場合、水底に巻き込まないように船の軌道を固定するのが常だった。

 シルスも一緒にロープを引っ張っていた見習い仲間と協力して、手早くロープを固定する。

 常に行うべきことは甲板付近の確認と、救助活動だったが…。


「ダメだ!渦が多い…」


 数日前の雨で水量がわずかに増水していた。

 それ自体は問題ないのだが、増量した水が普段とは違う流れをとり、流れの至る所で小さな渦を作り出していたのだ。

 船には問題の無い大きさであったし、人であったとしても水底に押し込むほどの力はない。

 だが泳ぎを妨害し、極端にその体力を奪っていくには十分な渦だった。


 船尾付近に駆け寄ったシルスは、渦の合間を沈んだり浮かんだりしているダークグレーの髪の毛を見た。

 あそこはロープを投げても絶妙に届かない距離だ。

 このままでは力尽きて沈むのは時間の問題に見えた。


 シルスは迷わなかった。

 腰に手ばやく予備のロープを結びつける。

 焦る手が震えるが、普段の扱きの成果か努力のたまものか、たいした時間のロスもなく結びつける。


「おい、シルス無茶するな!」


 ベテランの水夫が止めるのもかまわず、シルスはそのまま川に飛び込んだ。

 今の川の流れは水泳が得意な者でも危険だ。

 だからこそ飛び込んで助けようとする者は誰も居なかったのだ。

 器用に渦を避けながら泳ぐシルスだったが、同時にこのままでは間に合わないという事もわかってしまった。

 今まさに彼女は、アイシャは力尽き水面に沈んだところだった。

 ロープの長さにも限界がある。

 無理して沈む彼女を追っても、共倒れの恐れが高い。

 だがシルスはせめてロープが張るまで、限界が来るまではと思い彼女に手を伸ばし続けた。


 その時奇跡が起こったか?

 力尽き沈んだ彼女の体が水面にぷかりと浮き上がったのだ。


「な?!」


 驚いたシルスの目の前で、再び彼女の身体は傾き水に落ちた。

 慌ててその力を失ったままの彼女の体を抱き上げる。

 布面積の多いメイド服は重かった。

 こんな服を着て溺れた彼女は辛かっただろう。

 すでに呼吸は止まっている…このままでは危険だ。

 彼女を持ち上げ水面に運んだものを確認しようとしてギョッとした。

 それは仔馬ほどもある氷の塊だった…川イルカあたりが助けてくれたのかと思っていたシルスは、呆然とその氷が波間を漂ったのちに砕けて消えるのを見送った。

 それから慌てて船に引き上げの合図を送ったのだ。


 もしあと少しでも助け上げるのが遅れたら、彼女は助からなかったかもしれない。

 シルスとてあのまま水中にもぐっていたら、渦に巻き込まれて命を落としていた危険性すらあるのだ。

 だからあの絶妙のタイミングで現れた氷の塊は奇妙だった。奇妙過ぎた。

 どう考えてもあれは彼女を助けるためにあそこに現れ、役目を終えて消えていったのだ。


「こちらからはよく見えなかったが、そんな事があったのか…」


 報告を聞いたクロードは、シルスの独断専行をまず叱り、そしてアイシャの命を救ってくれたことに深く感謝した。


「氷か…」


「彼女が助かったのは嬉しいんですが、どうもあの奇妙な氷が気になって」


「その氷はすぐ砕けて消えたと言っていたな?」


「はい」


「たぶんそれは魔術によって作られた氷だ」


 クロードは魔術で生成された氷を何度も見たことがあった。

 魔術で凍らせた水が溶けるのは普通と同じであるが、魔術によって作られた氷や炎は魔力(マナ)の拡散と共にすぐ消えてします。


「魔術で?でも誰がそれを?」


 クロードはシルスの問いには答えられなかった。

 ハッキリ言えば心当たりはある。

 だが同時にそれはありえない答えだったのだ。

 もし彼女が生きていたら、自分の侍女(・・)が溺れ死ぬところをむざむざ見過ごすなどという事は決してないだろうが。


「アイシャの容体は?」


「息は吹き返しましたが、以前意識は戻ってません。

 親方が言うには意識が戻るまで動かさない方がいいと」


「そうか、では私の部屋のベッドに寝かせておいてくれ」


「騎士様はどうするので?」


同僚(オルソン)と交代で使うさ」


 次の港からどうにか伝言を伝えてもらわないとまずいな…クロードは氷の話を意図的に頭の隅に追いやった。

 ここで感傷に囚われずに現実的な考察を行っていれば、事態は変わっていたかもしれない。

 しかし無理からぬことだっただろう。



          ◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇



 薄暗い船底の部屋でアイシャが目を覚ましたのは、どれほど時間が経っての事だろうか?

 船員が寝泊まりする部屋らしく、簡易なベッドが置かれ、そこに寝かされていた。


「お、目を覚ましたか」


 ベッドの近くに座っていた、いかにも水夫と言えそうな髭面の男が彼女の顔をのぞき込んで声をかけてきた。

 彼の顔は見覚えがある。

 主人と一緒に何度かクベール商会を訪れた時に見た顔だ。

 という事は…。


「おーい、娘っ子が目を覚ましたぞー」


 彼はドアの向こうに向けて叫ぶと、アイシャに向かって彼女の服を投げてよこした。


「びしょ濡れだったから緊急措置で脱がしたが、さすがに着せるまでは出来んかったわ。

 俺は外に出てるから、さっさと着替えといてくれや」


 男はそういうとさっさと出て行ってしまった。

 だから残されたアイシャが毛布をめくってその下を見て、顔を真っ赤にするのを見たものは居なかった。


 アイシャが急いでメイド服を着終わったころ、船室のドアがノックされた。


「着替え終わった?」


「うん」


 入ってきたのは予想と違い、領軍の騎士のオルソンだった。

 その手には木製のボウルがあり、いい匂いを立ち昇らせていた。

 そのとたんにアイシャは自分が酷い空腹状態だという事に気が付き、派手にお腹を鳴らした。

 オルソンは顔を真っ赤にしたアイシャにボウルに入ったスープを渡し、さっきの髭面の男が座っていた椅子に腰かけた。


「とりあえずこれを食べるんだ、話はそれからだよ…なんたって、あれから3日も眠っていたんだから」


 3日と聞いた瞬間、アイシャはボウルに噛みつくようにしてスープを啜っていた口を離した。


「み、3日?…船が出向してから3日?」


「お、おう、そうだが?」


 途端に険しくなったアイシャの顔にただならぬ気配を感じたオルソンは、寛いでいた体を起こした。


「今は、どこらへん?」


「ミリュス湾を横断してるところだ…アイシャには悪いが、ヴェンヌに帰るのは俺たちと一緒になっちまうな」


 つまり怪物討伐が終わってからという事になる。

 アイシャは手元のスープをしばらくじっと見つめると、顔も上げないで告げた。


「このスープを…もう一杯」


「どうした?お代わりか?

 じゃあそれを飲み終わったら…」


「違う…このスープを、この船のどこかに隠れてるメリヴィエ様にも」


「…え?」


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