40フラウ
フラウ・オークナーは男爵家の庶子だった。
父のブエノが妾…とも言えない囲いの娼婦に生ませた娘で、母の死後男爵家に引き取られる事になる。
男爵家に引き取られたフラウを待っていたのは、お決まりともいえる正妻からの虐めだった。
こういう話は貴族家では特に珍しくも無い事で、父親はそんな妻の行為を見てみぬフリをしていた。
ただフラウにとって幸いだったのは、彼女の将来を思ってか?
はたまた将来手駒にするためか?
父親は貴族の末席としての最低限の教育をフラウに与えてくれた。
そんなフラウがクベール家に行儀見習いの名目で侍女として出されたのは、彼女が9歳の時だった。
領内の人員で固める諸侯家が下級貴族から侍女侍従を受け入れるのは稀で、当時から女の噂が絶えなかった当代当主も随分邪推されたものだ。
なぜクベール家が自分を受け入れてくれたかなどフラウは知りよう筈はなかったが、ちょうどマリーが生まれたばかりで人手を欲していたクベール家が、男爵家の庶子ならばそう太い縁も求められまいと、オークナー男爵の売込みを受け入れたのが真相だった。
貴族としての教育が行き届いているというというのが決めてだったようで、オークナー男爵の先見の明を褒めるよりは無い。
こうしてクベール家に放り込まれたフラウであったが、予想に反してそこは実に居心地がよかった。
自分を虐める継母が居ないのが大きかったが、余裕のある侯爵家の使用人たちは子供には優しかったのだ。
排他的な侯爵家…と父からは聞いていたのだが、正妻に気に入られたのと、まだ幼い少女なのにも係わらず教育が出来ていて気が回るからと。
まだ赤ん坊であったマリーの傍に仕えるようになった。
当代侯爵の初子であり、またその当時はおとなしかったマリーの傍は取り合いになるほどの人気ポジションだった。
やがて歩き出すようになったマリーにも気に入られ、マリーの髪を結うのはフラウだけに許された特権のようになっていった。
実際彼女の手際は見事で、自分のチェリーブロンドの髪を毎日綺麗に結い上げてもいた。
その時までのマリーは言葉数も少なく、両親に心配されるほどだったが、フラウの目にはマリーは充分聡明に映っていた。
だがそんな彼女が時折見せる歳相応な仕草があった。
マリーはフラウのスカートをつかんでいるのが好きだった。
なんとなく足元がおぼつかないのか?常に傍らに居るフラウのスカートをついつい掴んでしまうのだ。
その度にフラウの顔を見上げて照れくさそうに笑うマリーの笑顔が、彼女はたまらなく好きだった。
妹が居たらこんな感じかな?とも思った。
そう、あの時も馬車の中で座ってるにも関らず、マリーはフラウのスカートの端を握り締めていた。
何気なく外へ目をやったフラウの目には、スラムからも追い出されたような、町の片隅の樽に力なく寄りかかっていた少女と目が合った。
蔑んだわけでもない、汚らわしいと思ったわけではない。
ただ生きる事を諦めた彼女の眼が恐ろしく…死そのものに見えてフラウは目を反らしてしまった。
次の瞬間フラウのスカートを握っていたマリーの手が消えた。
あ、っと思ったときは遅かった。
おとなしいマリーの動きとは思えない素早さで、従者や侍女、両親の手すら掻い潜り、馬車の外に飛び出していく呆然と見送るしかなかった。
「別に…可愛そうだとか、助けたいだとかじゃないの!この子は…私がつれて帰りたいから連れて帰るの!
私はこの子を連れて行きたいの!」
無口だったマリーが必死に両親に訴える様は、まるで自分を責めてるかのような錯覚を覚えた。
私は目を反らしてしまった。
でもマリー様はあの子の目を正面から見返すことができたんだ…。
その日からアイシャは彼女の負い目になった。
助けに行けなかった事、目を反らしてしまった事、それはしこりとなって彼女の胸に長年巣くっていた。
だから…。
再びあの日と同じ目をして命を諦めた彼女を見て、体が勝手に動いてしまった。
神様がやり直すチャンスをくれたとさえ感じた。
全身の力をぶつけてアイシャを突き飛ばすと同時に、振り下ろされた黒い尻尾が彼女の細い腰をへし折っていた。
あまりの衝撃で一瞬で息が詰まり、上半身と下半身がバラバラに宙を舞った。
投げ出された上半身が地面に落ちるまで、彼女は父親の事を思い出していた。
何度も縁談を持ってきてくれていたが、ついついマリーの傍らの居心地がよく断っていた。
そうしている内に行き遅れと言える年齢を過ぎてしまった自分を、父は大層心配していたな。
今度帰ったらまじめに話を聞こうと思っていたのに…。
彼女は幸せだった。
侯爵家に出してくれた父に対して本当に感謝もしていた。
だから…。
「おとうさま…ごめんなさい…」
地面に叩きつけられた彼女の上半身の肺から、衝撃で噴出された空気が口の中で小さな呟きに変わった。
彼女のそんな呟きは誰の耳にも届く事も無く、弾けて消えた。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
彼女の自慢だった、綺麗に結い上げられたチェリーブロンドの髪の毛が、無残にもほどけ地面に広がるのをアイシャは呆然と眺めていた。
何故自分がまだ生きているか、何故フラウが二つに別れ地面に転がっているのか、まったく理解できなかったのだ。
「フラウ?」
ついつい彼女に呼びかけもした。
だが命を失った彼女のブラウンの瞳は、もうアイシャを見ては居なかった。
フラウはアイシャから目を反らした事をずっと思い悩んでいたが、アイシャはそれを気にした事など一度も無かったのだ。
あの時馬車の中のフラウが目を反らした事など、虚空しか見つめていないアイシャが気づくはずも無かった。
だから彼女は知らない。
フラウが何故命を捨てて自分を庇ったのかを。
姉というものをもし自分が持っていたらきっと彼女のようだろうと思っていた、たぶん唯一の家族のような存在であるフラウが何故自分の代わりに死んでいるのかを…。
瞬く間に自分の心を恐怖と後悔が染め上げる。
伸ばした指先が空を切ったとき彼女は感じた。
もうフラウは帰らない…と、それは粉うこと無き絶望という名の黒い深淵だった。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
ソレは上機嫌だった。
止めを刺す事を邪魔された時は不愉快だったが、その後これほどの美味を獲物にあふれさせたのだ。
すこしの我慢の甲斐もあるという事だ。
あとはこの獲物を一口で齧り取るだけ…。
絶望のああまりへたり込み、自身を喪失してしまっているアイシャを眺め舌なめずりをする。
ソレは絶望して足掻くのを止めた獲物にかじりつく、この瞬間がたまらなく好きだった。
恐怖に逃げ惑う獲物を追いつめ食い散らかすのも楽しいが、負の感情で埋め尽くされ動きを止めた獲物は最高の美味だった。
だからソレは上機嫌で彼女ににじり寄った。
アイシャに向けてゆっくりと口をあけたその鼻先に、光の剣が突き刺さるまでは。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「キシュァアアアアッ!」
ソレがあげる不快な咆哮を聞いてアイシャは我に返った。
そしてその鼻先に突き刺さる見覚えのある光の攻撃魔術を見たとき思った。
もう一歩早く来てくれたら、と…八つ当たりなのは解っている。
フラウが死んだのは自分の所為なのは嫌というほど自覚している。
しかし、だからこそ、せめて心の中でも何かに当たらずにはいられなかった…それが最愛の主人であっても。
「アイシャ!」
こちらに駆け寄りながら主人が自分の名を呼ぶ。
いつもなら笑顔で駆け寄るところだが、今は動けなかった。
おそらく前進何箇所か骨折もしているだろう、下手をすると内臓にも損傷があるかもしれない。
そしてなにより、傍らに転がるフラウの上半身を置いてここから離れたくは無かった。
姉を援護するかのようにウィルの雷撃の魔術が飛ぶが、ソレの表面を軽く変色させるぐらいの効果しか与えていないようだった。
その変色も瞬く間に闇に飲まれて、また漆黒の体皮が蘇る。
「ドラゴン…何故そんなものが?!」
アイシャにもウィルにも聞き覚えの無い単語だった。
マリーが誰も知らないような事を何故か知っているのは良くあったが、まさかこんな化け物の名前まで知っているとは…。
「アイシャ!とにかく早くここから脱出するわよ!
フラウは?一緒じゃなかったの?」
そうアイシャに問いかけたマリーは、彼女の震える指先が指し示す方へ視線を移した。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
ソレの…黒いドラゴンの怒りは凄まじかった。
これほどの痛みは太古の昔に遡ってもそうそう感じた事は無い。
ましてや眠りから目覚めてからは、自分に手傷を負わせるような存在は存在しなかったのだ。
人で言えば鼻先にパンチの一発でも貰ったぐらいだろうか?
慢心した黒き巨竜の、なけなしの理性を吹き飛ばすには充分な痛みだった。
「ガァッオオオォォッ!」
「なっ!構成が?!」
その咆哮は姉達から注意を逸らそうと、雷撃を放ち続けていたウィルが組み上げていた魔術構成を吹き飛ばした。
これは人の心を破壊し、全ての魔術を打ち消すといわれるドラゴンの咆哮だった。
どのような魔術師といえども、魔術の発動にはタイムラグがある。
その空白の時間に魔術師は構成を組み上げ魔力を打ち込んで発動させるのだが、その咆哮は構成を吹き飛ばし属性化した魔力を大気に霧散させる。
人や獣の力では彼等に傷も付けられぬ上、唯一危険な魔術すらも無効化されるため、事実ドラゴンは無敵だった。
狡猾にももうひと吠えし、魔力の流れを乱したドラゴンは忌まわしき光属性の魔術師をひと噛みにしようと大きく口を開けた。
だがその口内に再び光の剣が突き刺さった。
まったく予測していなかった痛みに、またもドラゴンを身を震わせた。
彼はまだ気づいていなかった。
彼以上に怒り狂った存在が、彼を殺しうる能力を今にも全開で解き放とうとしている事を…。
フラウの死を認識した時、マリーを支配したのは悲しみでも絶望でもなく強烈な怒りだった。
アイシャがフラウを姉のように思っていると同時に、マリーにとってもフラウは姉だった。
両親は溺れるほどの愛情を注いでくれてはいたが、彼女を一番理解してくれていると感じるのはフラウだった。
マリーがウィルの弱さを見れなかったと同じ事で、フラウ以外は自分の弱さを見てくれていないと感じていた。
こんな自分の世話を焼いてくれて、破天荒な行為を窘めてくれて、無理をしないように気を配ってくれていた。
だからこそ無理をするときはフラウを遠ざけていたのだが…。
思えば髪を結ってもらうという口実で、フラウを独り占めしていたのは自分だった。
もう結婚の適齢期過ぎてしまいましたから…と笑うフラウに申し訳ないと思いつつも甘えていた。
よくも…よくも…そんなフラウを私から奪ったな!永遠に!
一瞬にも満たない速さで魔術を完成させ、発動と同時に標的に打ち込まれる光剣。
マリーの怒りが形になったように、次々と現れてはその身体に突き刺さっていった。
いくら打ち消そうと咆哮を放とうとも、そのときは既に彼の身体を抉って、不快な光の魔力を彼の体内に流し込むのだ。
手を出せば手が、噛み付こうとすれば口に、尻尾で叩き潰そうとした瞬間その尻尾は切り飛ばされていた。
怒りで我を忘れたマリーは、ただ反射的にその魔術を次々ドラゴンに撃ち込んで行っているだけなのだが、ちょうどそれがカウンターのようにドラゴンの攻撃を押しとどめていた。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
ドラゴンの咆哮は次第に怒りから恐れに変わりつつあった。
こんな相手は遭った事が無い。
太古の魔術師とてこんな技は持っていなかった。
苦手な光の属性を使う魔術師はいつも優先的に殺してきた。
奴らの魔術は不快で苦痛であったが、命の危険を感じさせるものでは無かったはずだ。
だがこれは、こんな攻撃を受け続けたら死んでしまう!
攻撃を止めようと攻撃しようとも、考えられない速さで打ち込まれる魔術で動きを止められてしまう。
咆哮がまったく効果ない相手など今まで存在しなかった!
そしてとうとう、ドラゴンは身を翻して逃げ出した。
建物をなぎ倒しながら無様な姿勢で走り出したドラゴンは、やがて翼の存在を思い出し慌てて宙に逃れた。
彼の心は怒りと悔しさと恐怖で塗りつぶされていた。
今まで相手に恐怖を与えていたのは自分の方だったのでなかったか?!
甘美なその感情をむさぼるのは自分の特権ではなかったか?!
おのれおのれおのれおのれ…我は強者!我は捕食者!我は…!
彼は始めての敗北に打ちのめされ、まるで泣きながら逃げるように北に向かって飛んで逃げた。
彼を追いかけるように背後から魔術が飛んできたが、やがてそれも止まった。
その先には数千年の時を眠って過ごした山中の洞窟があった。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
ドラゴンが見えなくなるまで魔術を撃ち続けると、マリーはその場に昏倒した。
マリーの魔力ではドラゴンを正面から削りきるなど不可能だったのだ。
その質量をほとんど削れぬまま魔力枯渇を起こしたのは当然の結果だった。
ドラゴンがもう少し冷静であったなら、用心深くマリーの能力を見極めていたら、多少の傷を受けてもあの場でマリーを殺せていただろう。
だが彼は痛みに、恐怖に負けてあの場を逃げ出した。
助かったのはマリーの方だった。
もっともそれはマリーが我を忘れてただ怒りのみで攻撃魔術を叩きつけていたからであって、彼女にはドラゴンを倒しうる切り札もあったのだが…。
魔力枯渇で倒れたマリーはすぐ侯爵邸に運ばれたが、回りの心配を他所に1週間も目を覚まさないでいた。
「マリー様…」
一緒に侯爵邸に運ばれたアイシャは自分の手当てもそこそこに、目を覚まさぬマリーにずっと張り付いていた。
彼女はフラウを失う事で、大切な人を亡くす恐怖を知ってしまったのだ。
この上マリーまで失っては生きてはいけないだろう。
魔力枯渇でマリーが昏倒したのは過去にも2回あったが、その時は両方とも半日ほど眠っていれば回復した。
だからこそ今度の場合も最初はさほど心配はされなかったのだが、昏睡が1日、3日と続くと流石に侯爵邸を重い空気が包み始めた。
口元に流し込んだ水は飲み込んでいるようなのでまだ少し待つだろうが、このまま目を覚まさなければいずれ栄養失調で死んでしまう。
だが医者も魔術師も彼女の昏睡の原因を見つけられないでいた。
だがアイシャだけはなんとなく察していた。
マリーは目を覚ましたくないのだ。
目を覚ましたらそこにフラウは居ない、その事実に耐えられないのだ。
アイシャにはその気持ちが痛いほどよく解った。
だからこそ無理にマリーを起こそうとなど思っていなかったし、このまま主人が目を覚まさなければ自分も付いていこうと考えていた。
もし死後の世界があるのなら、また3人で一緒に過ごしたい。
そんな事を望んでいた。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「あの怪物の事は何か解ったか?」
「それが…なにぶん情報不足でして」
宮廷魔術師の長は汗を拭きふき宰相の質問に答えていた。
彼は戦後職を辞した前宮廷魔術師長であるセルジュ・オド・アルクの後をついでまだ半年も経っておらず。
碌な引継ぎも無しで引きこもってしまったセルジュの後始末に苦労していた。
「唯一アレを知ってそうなクベール侯爵令嬢はまだ昏睡状態か…」
立太子を控えた第一王子としてもこれは頭の痛い問題だった。
復興途中の町並みをなぎ倒し、数百人の死者を出した黒い怪物は、打ち倒されたのでは無く逃げ出しただけだ。
傷が癒えたらまた戻ってくる可能性が高い。
切り落とされたといわれる尻尾もどこかに消えてしまって、その存在を疑問視する声すらあったが…街の破壊具合を見れば人ならざるものが暴れた痕跡は一目瞭然だろう。
「たしかドラゴン…と言ってたそうだな?
その名前から何か解らんのか?」
「実は聞き覚えがあるという魔術師も居たのですが、そやつもどこで読んだか覚えてないそうで」
「読んだ?…つまりは何かの書物という事か、文献でしか残っていないとなるとかなり古いものの可能性は高いな。
それこそ建国前とかもありうる」
頭の痛い問題だった。
調査範囲は広げれば広げるほど必要な情報を拾うのが難しくなる。
「だがそういう事であれば、王立図書と上級学校の図書室とクベール家の書庫に絞れるのではないか?
彼女が読んでそうで、かつ希少な文献があるのはそれぐらいだろう?」
「私も上級学校の卒業生ですが、あそこの図書室にはそれほどの希少な文献は収めていないでしょう。
なにせ庶民も入学してくる事があるほどですから…」
「ならばとりあえず王立図書だな…念のためクベール家にも書庫の閲覧要請を出しておけ。
渋るだろうが非常事態だ…ご息女の容態にもかかわる可能性があるといえば嫌とは言うまい」
本来なら一晩ほどで直るだろう症状が、1週間もそのままなら怪物の関与も疑うべきだ。
今は本気でマルグリットの身は心配だった。
あの怪物を追い払いえたのは彼女の魔術のみだ。
再びあの怪物が襲来したとき、彼女が居なければ被害は前回の比では済むまい。
「クベール侯爵子息の雷撃の魔術ではほとんど効果が無かったそうだな、しかも魔術を打ち消す咆哮を発したと?」
「侯爵令嬢の魔術だけ効いたと言うのは、おそらく光の属性だからだと推測できます。
ああいった超自然の存在は、魔術の相性というヤツに人間が思う以上に影響されるものでして…。
ただ本当に魔術を打ち消すなどは、私としてはちょっと信じられません。
実際侯爵令嬢の魔術でそれを撃退したと聞きますし…」
「どちらにせよ結局光刃の戦乙女頼りという事か、この国の者は彼女に頭があがらんな!」
こんな事ならボルタノの助命嘆願を受け入れればよかったと宰相は思ったが、今更そんな事は口にできはしない。
「今我々にできる事は調査と準備だけだ…ヤツが飛び去ったと思われる方向に調査隊を出せ。
上手く目撃者が繋がればヤツの巣の見当が付くかもしれん。
宮廷魔術師達は引き続き書物の検索と検証に…リベルヌに派遣してあそこの書物の接収も急がせろ」
これから国を立て直さなくてはならぬ時になんという事だ。
民衆の噂どおり、王家の祖が情けない愚王に祟ってるのではあるまいな?
街に流れる流言にはそんな事が混じっていた。
曰く、呪われた王が反乱を呼んだ。
曰く、王子を殺した祟りだ。
曰く、王家の祖が愚王に怒り祟ってる。
曰く、正当な王子を殺した王の庶子が呪われてる。
特に最後の噂などたまったものではない。
自分はボルタノを助けようと動いたほうだぞ?
呪われるなら宰相だ…カルアンクスは宰相の顔を横目で一瞥すると顔をしかめた。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
初夏のヴェンヌ。
マリーの好物のオレンジが美味しい季節だ。
差し込む朝日に小鳥のさえずりが重なる。
彼女は真っ先にベッドから起き出すと、すばやく着替え、手早く自分の髪を結い上げる。
井戸から水を汲むとまずは自分の顔と手を洗い、首筋や背中などからだの隅々を絞った布で拭いていく。
自分の身支度が終われば今度は主人の身支度の準備が待っている。
桶に水を汲むと脱衣所の近くに置き、ついでに寝ぼすけな妹分の準備も用意をしてやる。
前日のうちに乾かして畳んであったタオルを取り出し、主人を起こす用意が整う。
ちょっとその前に台所からオレンジのよさそうなのを3つほど選び、食卓に用意しておくと彼女は朝から機嫌がいい。
準備が終わると一回確認するように控え室を見回すと、満足したように数度頷く。
10年以上毎日やってきた事だ。
だがそれも今日までだと思うと、少しさびしく感じる…。
最後に決心するように大きく一回頷くと、主人の部屋のドアをノックする。
もちろんこの程度で起きてくれない事は承知してる。
貴族としてどうかとは思うが、マリーの寝室に入ってきたフラウはマリーの布団を剥ぎ取りにかかった。
「ほら、朝ですよ!起きてください」
しかしそうは行かない、マリーには起きたくない理由があるのだ。
顔を枕に埋め、いやいやをするように力なく首を振る。
「マリー様、これ以上寝ててはダメですよ!ほら、ドラゴン退治に行くんでしょ?起きて!」
「フラウ!」
フラウの言葉に驚いて目を覚ますと、そこはヴェンヌではなく王都の侯爵邸だった。
それも朝ではない、外はまだ真っ暗で月の光だけがテラスに差し込んでいる。
マリーは混乱していた…まったく頭が回らず夢と現実の切り替えが出来ていない。
仕方なく回りを見回すと、ベッドの傍らのテーブルにアイシャが突っ伏して眠っているのが見えた。
その身体にはいたるところに包帯が巻きつけられており、左腕は未だ首から吊っていた。
それを見た瞬間マリーは思い出したのだ、あの日の事を。
「フラウ…うぅ…」
憔悴しているマリーは声を殺す事さえ忘れ、感情のままに泣きじゃくった。
隣に寄り添ってくれるアイシャの温もりすら慰めにはならなかった。




