39災厄
刑場に引き出されたアルメソルダ姉弟は怒り、泣き、懇願し、終いにはお互いを罵り合い、衛兵に押さえつけられ処刑台に消えた。
彼らの死体からはどす黒い煙が沸きあがったと噂されているが、真実は定かでは無い。
この他にも、行方不明のオリオルズを除くアルメソルダ姓の貴族や市民が捕らえられ、全て処分された。
こうしてアルメソルダ公爵家はとりあえず断絶したとみなされた。
第ニ王子は大人しかったが、終始涙に濡れてミリリの名前を呼んでいた。
それが彼女を求めてなのか、自分のせいで死んだ彼女を偲んでなのかは解らないが、彼女を追いかけるように自ら進んで処刑台に上がっていった。
ベーシス候家、スィン候家、アルジャン候家、サルバトール候家、リベルナ候家、他伯爵五家とその他の貴族家も、主だったものは処刑台に送られた。
まだ捕まっていない家中の者も多く居たが、未だ捜索の手は延ばされているし、少なくとも今後貴族家として成り立たせていく事は不可能だろう。
家もなし、王家から分配金も受け取れぬ貴族は生きていく事は不可能だ。
彼らの領地はとりあえず王家直轄地とし、その後功績に合わせて分配される事になる。
十四諸侯家のうち5家も取り潰しにあったのだ。
今後諸侯等の発言力は大きく削られるだろう…西部諸侯以外は。
そして、レ・クリュネに篭っていたはずのエチュドリール公家の人間は総じて行方不明だ。
第三王子が処刑台に上がろうとしたとき、その前に第一王子が立ちふさがるように立った。
「兄上?」
「すまんが席を外してくれるとありがたい。
最後に2人で話がしたいのだが?」
ボルタノは連座で処刑されるとはいえ王子である。
その彼の親族が最後に話がしたいと言うのであったら衛兵としては止めがたい。
その相手が第一王子ともなれば、黙って従うより他はない。
「何か言い残す事はあるか?」
「言いたい事は無いではないですが、それは王家に対しての事ではないので…」
「アルメソルダにか」
「はい」
「クベール候家から助命嘆願の書が提出されていたのだが、残念ながら受理はされなかったようだ」
「…」
「私としては受け入れても良かったのだが…クベール候家に恩は売れるし、お前をあの家に送り込めれば王家との繋がりも太くなろう。
だが宰相たちはクベール候家がお前の後ろ盾になることを恐れたようだ。
ただでさえ王都では完全に巻き込まれただけに見えるお前に対して、民衆から同情の声が上がっている」
巻き込まれて連れ去られた王子が、王都に帰れば死罪と知ってなお反乱軍の陣中を脱出して帰還した。
ちょっとした美談と共に語り継がれていた。
宰相はこのボルタノ人気も危惧したらしいが…。
「だったら助ければいいものと思うのだがな」
今まで弟とこれほど会話した事は無い。
人づてに聞くボルタノ像は父に良く似た尊大で無神経だった。
父が嫌いでかつ見下しているカルアンクスにとって、父によく似てるとされるアルメソルダ兄弟は会話するに値するとは思えなかった。
こんな弟ならもっと会話をして置けばよかったと、カルアンクスは奇しくもマリーと同じ後悔を抱いていた。
「惜しいな、本当に惜しい…。
お前がもっと早くその本性を出していれば…いや、これ以上は言わない方がいいな」
取り急ぎ王族として、兄として、彼に伝えねばならない事もある。
「お前の名誉は守られる。
お前は王妃やアルタインと違い、王族として埋葬される事になっている。
処刑方法だって最初に服毒を進められたはずだが?」
「なんとなく、毒を呷る気が進みませんでした」
「まあいい、命を奪う事は変えられぬが、死に方を選ぶ権利はお前にある。
私が出来るのは精々首切り役に苦しませぬように…と告げる事ぐらいだ」
「ご厚意に感謝します」
「惜しいな…」
「別に本性を隠していたという訳ではありません、この数日で変わるざるを得なかったのです。
それと、彼女から勇気を、矜持をもらってきましたので…」
「いや、やはり惜しいよ…お前がもしクベール侯爵令嬢と一緒になれば、私もこの後随分楽になるだろう」
「そのご期待には沿えたかったですな」
ボルタノは力なく笑った。
カルアンクスは形ばかりの手かせの下で震える、彼の拳を見ないフリをした。
「殿下、お時間です」
衛兵の声にボルタノが答えた。
「ああすまない…では」
死ぬのは嫌だろう、逃げ出したいだろう。
カルアンクスにはボルタノの気持ちは痛いほど解った。
だが彼は腹違いの弟の名誉を思い、それ以上言葉をつむぐのは止めた。
美談の主の第三王子は、最後まで堂々とした態度だった…それでいいじゃないか?
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
ボルタノは台上で観衆を見回し、そこにマリーの姿を見つけられない事にほっとした。
自分もマリーの死に行く所は見たくない。
彼女も自分と同じ事を感じてくれたかと思えば、少しは心が落ち着く。
未練だが、最後にまた彼女の姿を見たかった気持ちは少しある…。
だが、こうやって目を閉じれば瞼の裏に彼女の姿が浮かんでくるではないか、それも数日前までは見た事のなかった。
自分に向かって笑いかけてくれるマリーの笑が…。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
王国を穿った内乱の爪痕は深く、多くの都市が一時的な機能麻痺を起こし、いくつかの町や村が地図から削除される事になる。
だがスレナード川より西側の土地にはその被害はあまり及ばなかった。
死闘を行った西部軍の人的被害は多くあったが、彼等の命は見事故郷を守ったといっていい。
それに対して中部の受けた損害は莫大だった。
徴兵され戦死した者の数もさることながら、反乱軍である彼等の家族にはもちろん保証金など払われるはずもなく。
この冬に多くの餓死者と凍死者を出すと予想されている。
戦争で踏み荒らされた畑に実る予定だった麦もなく、働き手を多く失ったために来年の準備もおぼつかない。
なにより多くの敗残兵が盗賊に姿を変え、まだ被害の少なかった農村すら荒らしまわっていた。
そしてそれらを取り締まってくれる衛兵も戦争で損耗され手が回らない常態だった。
中部の人間は、戦争を起こした東部の人間を恨んだ。
そして東部は兵員こそ多く失ったものの、土地が受けた損害はほぼなく。
この夏も大穀倉地帯らしく、黄金色の穂が畑を飾った。
多くの貴族家が潰されたが、むしろ膿を出し切ったといえるかもしれない。
そしてそれが中部と東部のはっきりとした亀裂として、その感情を引き裂いていた。
中部の人間にしてみれば、その妬みを西部に向けるよりは、その怒りを東部に向けることのほうがはるかに容易だったのだ。
王家にしてみても中部の復興よりも、東部の掌握のほうが優先される事だった。
急いで王都近辺の人員をまかなえる収入を確保する必要もあったし、大功のある西部貴族たちに莫大な恩賞を支払わなければならない事情もあったからだ。
即収入に繋がってくれない中部への手入れは後回しにせざるを得ない。
その方針が、戦争や盗賊以外の理由で多くの町や村が消えた事に気づく事を遅らせてしまった。
盗賊たちの跋扈が町村間の行き来を妨害し、住民達もその異常に気が付くのが遅れた。
ソレが引き寄せられるようにジワジワと王都に近づいていっていた事に。
「それほど悪い手とは思わなかったのだけどね…」
ボルタノの助命嘆願書を付き返されたクベール侯爵は嘆いた。
王家にしてみればこれでクベールに貸しを作れば、国庫を圧迫する恩賞の支払いを値切る事も遅らせる事も出来たはずだ。
このままではそう遠くない未来に国庫の中身は空になる。
財務長官であるオーリンは誰よりもその現状を憂慮していた。
これでボルタノの助命嘆願が受け入れられれば、それを口実にクベール侯家として恩賞の受け取りを辞退すら考えていたのだ。
幸いヴェンヌには自力で戦死したり負傷した兵に対する保証金を払い、さらに領軍として功労者に恩賞を払うだけの財力があった。
侯爵家の倉は空っぽにはなるだろうが、娘のためにも国のためにも…と思い嘆願書を出したのだが…。
「宰相には、やせ我慢が必要なときと無用なときの判断をつけて欲しいところだよ」
これで名実ともに最大勢力となるであろうクベール家に、王家の血を入れるのはまずいという判断だったのだろうが、ここは国を立て直すために折れるべきところだろう。
もっとも宰相には仮想敵となった財務長官が、国の財政状況を真剣に憂い、まさか恩賞の辞退まで考えているとは思いもよらなかっただろうが。
「どちらにせよ、これで恩賞を遠慮する必要はなくなったね」
もちろん西部貴族は土地を賜る事は無い。
これ以上力を付けられたら困るわけだが、金銭物品を与えて終わりにも出来ない。
それだけの財産が国には無いからだ。
折衷案でその他の恩賞を探るのだが…そうなると目に見えないモノ…利権関係しか残っていない。
しかしこれこそ最大の罠で、土地を与えるのと同じ…いやそれ以上の危険がそれには潜んでいる。
むしろ飛び地を与えてその力を一時的にも削いだ方が、王家に対して都合がよかったかもしれない。
スレナード川の運行、渡河、利水権を得たリオンロア侯家が、これから毎年得る事になる川の使用料は幾らになるか計算したのだろうか?
クベール候家とヴェール川の権利を別けたオランジュ侯家は、ほぼ自由に使える川の水を使って潅漑工事を行う予定になってる。
アルバ侯家は家畜を運搬するための特殊船の製造許可を、ストローヌのソルベール伯家は自領のワインのブランド化や醸造自由許可のお墨付きなど。
苦し紛れに次々と許可証を発行する王家の姿は、自分を切り売りする亡者のように見えた。
西部貴族たちは抜け目無く、今日の収入よりも数年先の確固たる収入基盤を狙ったのだ。
もちろんクベール侯家とて例外ではない。
金銀を除く鉱石の採掘権、武器の生産量の上限上昇、止まっていた多くの工業製品の生産許可。
オランジュと権利を別けた、ヴェール川を使っての水上通運の強化である。
それには船舶の製造強化もふくまれ、基盤である工業生産力を後押しに、王国一の造船業地になるであろう事は想像に難くない。
ライバルであったレンヌが再建のままならない状況では、船を欲する湾岸沿いの貴族たちからの注文が殺到するだろう。
そして学校の設立許可。
今まで私塾扱いだったヴェンヌの魔術学校や徒弟の訓練校が正式に認められ、今後の西部の技術力を支える砦になるだろう。
マリーなどは。
「こんなに権利を認めまくって、この国は本当に大丈夫なのですか?」
と言う程だが、東部貴族を取り込もうにも彼等に西部を上回る恩賞を出すわけには行かない。
結果基準となるであろう西部貴族への恩賞は大盤振る舞いにせざるを得ないのだ。
ダンネルによるクーデターが成功してたほうがまだ王家へのダメージは小さかっただろう。
皮肉な話である。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
家に篭っていたマリーが久しぶりに街に繰り出したのは。
王都での戦後処理が表面上は終わった秋口だった。
ウィルと共に戦後処理に関する父の仕事を手伝っていたマリーは、結局ヴェンヌに帰りそびれていた。
近日中に帰郷のめどが立ったため、今日は家族や使用人たちに土産でも買おうとフラウとアイシャと共に街に出ていた。
王都の旧市街地には反乱軍が踏み込んだわけでは無いので、建物の被害などは無いのだが、城壁の外側の新市街地や下町などは略奪されつくしていて。
それらの復興に多くの物資が裂かれていたのもあり、この旧市街地の商店街へ品物が帰ってきたのはつい最近だった。
新市街地はまだ治安状況が回復しておらず、基本立ち入り禁止になっている。
「ようやく一息ついたってところね」
それが王都の事なのか、マリー本人の事なのか解らぬまま、フラウはあいまいに相槌を打った。
当時王都に居なかったフラウには何があったか知る由も無いが、彼女たちが王都に着いた時のマリーは様子がおかしかった。
無事に王都に着いた事はもちろん喜ばれ、無理をして急いできた事は叱られた。
それ自体はいつものマリーなのだが、どこか沈んだ雰囲気なのが気にかかった。
屋敷の者に聞いてみても皆一様に顔を伏せるばかりで埒が明かない。
もちろん屋敷の者も隠そうとしたわけではない、どう説明したらいいか解らなかったのだ。
屋敷の者とてボルタノの豹変を理解していたわけではなかったのだから…。
結局のところフラウはマリーの落ち込んだような様子は、戦争で大量の戦死者が出た事ではないかと当たりをつけていた。
もちろんそれもあったのではあるが…。
ひとり上機嫌の猫耳メイドに先導される形で旧市街地へ出てきた一行だったが、不意にがアイシャ足を止め風上を睨んだ。
「何か居る…よく無いモノが」
「何か居るって、そりゃ王都にこれだけ人が溢れているんだから…」
ウィルの言葉尻を打ち消すように、遠方から叫びや悲鳴が徐々に近づいてくる気配がした。
咄嗟に魔術を発動しようとしたマリーだったが、街中での使用は流石に拙いと、ウィルを伴い走り出した。
「マリー様!」
「フラウとアイシャは先に戻ってて!」
この時点ではマリーもウィルも、そしてフラウもちょっと派手な喧嘩か、酷くても捕り物ぐらいにしか考えていなかった。
たとえ街中であっても魔術で状態を確認すべきだった。
神ならぬ人の判断では無理からぬ事ではあるが…。
アイシャ1人だけが漠然と状況の危険さを嗅ぎ取っていた。
「マリー様、そっちはあぶない!」
「こらダメよアイシャ!屋敷に戻ってろと言われたでしょう!」
マリーを追って走り出したアイシャの背中を呆然と見送っていたフラウだったが、諦めたように彼女の後を追い始めた。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
青空の中、不快そうに太陽を睨みながら飛んでいたソレは嬉しそうに目を細めた。
立ち上る負の怨念が、ソレの目的地がこの場所だと教えてくれているようだった。
ソレは何回かの狩りの成果で学習していた。
夜の闇に紛れて行う狩は快適だが、陽光の下でいたぶって殺した獲物の甘美な恐怖を味わうには適していない。
獲物の恐怖を、憎悪を、絶望を、存分に味わうためにはこの不快な陽光に耐えるしかないと。
街中に開けた場所があり、自分が着地するにはちょうどいい広さだ。
ソレはその場所に向かって急降下を始めた。
その中にうようよ居る獲物は、何回も味わったあの美味しい感情を吐き出す生き物だ。
漆黒の唇を漆黒の舌で、まるで舌なめずりをするかのようになぞると、翼を広げ静かに舞い降りた。
ベルン=ラース王国の王都ゲランデナ、その旧市街地と呼ばれる場所の広場に。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「これは酷い…」
よく市の立つ広場であるそこは、人の仕業とは思えないほど酷く荒らされていた。
露店はなぎ倒され、人の死骸が幾つも転がっている。
「とりあえず生存者を探して!
衛兵が駆けつける前に少しでも手当てをしておかないと…」
ウィルにテキパキと指示を出しながら、自分も救助活動を始めたマリーはどうしようもない違和感を拭い去れないで居た。
戦場での惨状は見慣れているほどだったが、ここはどうも違う。
何が起こったのかわからないが、戦場ほどひどくは無いはずなのだが…。
「生存者が居ない?」
ここに来るまでに逃げて来た人々とすれ違っているのだから、全員が死んだわけではないだろう。
だが喧嘩にせよ暴動にせよ、現場に残された人々が全員死んでるのは明らかにおかしかった。
戦場でも戦闘不能になったような一般兵は放置されるものだというのに!
「くっ、こんな事なら逃げてる人間捕まえて事情を聞いておけばよかった」
どうやらウィルの方も生存者は見つからないようだ。
負傷した人間は確実に死んでいる…そんな事が可能なのだろうか?
だいたい犯人らしき人間が何処にも居ないのも気になる。
「鋭い刃物での一撃…いえこれは爪痕?
まさか王都の真ん中に熊や虎が出たなんて事はないでしょうけど…」
押っ取り刀で駆けつけてきた衛兵達に現場を引き渡すと、姉弟は犯人を捜し始めた。
「おそらく悲鳴の上がってる場所でしょう」
マリーにしてみれば、フラウとアイシャがまさか指示に従わずこの場所に残っているとは考えもしなかった。
ウィルと共に走り出した足取りは、焦りよりも慎重さを感じさせる落ち着いたものだった。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
アイシャは不自然に静まり返った区画を、足音を忍ばせて進んでいた。
この近くにマリーは居ない。
もっとも危険な臭いの充満しているこの場所に愛する主人が居ないのは幸いだが、この臭いの主を放置しても置けない。
ソレが王都に居る限り、いつマリーの身に襲い掛かるかもしれないのだ。
この時点ではまだアイシャはソレの危険性を見誤っていた。
野生の猛獣…もしくは狼狒々や鬣熊のような魔獣だと思っていた。
森の中ではいざ知らず、街中だったら自分1人でもしとめる自信はある。
そんなアイシャの自信を聞いたら、マリーもシャンブルも顔を青くしただろう。
1クォート(約250cm)の類人猿や、ヒグマほどもある虎を相手に戦うようなもので、いくらアイシャが素早く、短剣の技に秀でていたとしても1人では仕留めるどころか逆に狩られる方だろう。
しかも今彼女が忍び寄ろうとしている相手は、その非ではなかった。
「なに、あれ…?」
明るい陽光の下、死体を貪る巨体は彼女が今まで見たことが無いほど大きく、見たことが無いほど異質な姿をしていた。
そして死体に齧り付きながらもその漆黒の…光を一切反射しないその目は、物陰に潜むアイシャの姿を捉えていた。
ソレは待っていた。
愚かで矮小な獲物が自分に向かってくる事を。
気づかないフリをしておいて、自分に襲い掛かったところで打ち倒す。
お気に入りの遊びだった。
しかもそれをすると獲物の絶望が各段に良くなるのだ。
「ダメよアイシャ」
逡巡していたアイシャの腕をつかんだのは、なんとか追いついてきたフラウだった。
フラウはアイシャより幾分か冷静だった。
恐怖に押しつぶされそうになりながらも、アイシャに追いつき、死そのものとも言える怪物から彼女を引き離そうとした。
彼女にしては当たり前だ。
あんな化け物に人間が勝てるわけは無い。
息を殺しあくまでも小声でアイシャを止めると、引きずるようにしてその場から立ち去ろうとした。
なんだ来ないのか?
ソレはいぶかしんだ。
肩透かしをされる事は面白い事ではない。
そんなつまらない獲物はさっさと仕留めるか…。
身を起したソレはその巨体から信じられないスピードで、アイシャとフラウが逃げようとしている先に回りこんだ。
障害物を吹き飛ばし、破壊しながら!
「そんな!」
「くっ…」
咄嗟にフラウの腕を振りほどくと、アイシャは短剣を抜きつつソレに躍りかかった。
アイシャの動きは素早く、小回りの気かなそうなソレの目にすら容易く切っ先を届かせた。
どんな怪物であれ目は急所と同時に重要な感覚器である。
せめて方目だけでは潰せればその隙に逃げる事もできるだろう。
咄嗟の判断でそう考え動けたアイシャは非凡な才能の持ち主だっただろう。
だがその漆黒の目に突き立てようと打ち込んだ短剣は、その切っ先を打ち付けるとあっさり根元から折れてしまった。
アイシャの手の中にはジーンとした痺れと、もう武器にもならない柄だけが残されたのである。
次の瞬間、アイシャは叩き付けられ、吹き飛んで近くの壁に受け止められた。
決してソレは小回りが利かないなどと言う事は無いのだ。
そんなフリをして獲物をいたぶるのが好きなだけだなのだ。
一撃を受けまだ辛うじて息のあるアイシャを嬉しそうに眺めると、蛇のような…いや大木の幹のような尻尾を振り上げ彼女に叩きつけようとした。
今になって尻尾の動きがスローモーに見える。
あんなに遅いのに、なんで私の体は動かないのだろう?
壁に寄りかかった格好で諦めたように目をつぶる。
それほど未練は無かった。
マリーに救われてからの命は本来の自分の物では無いとさえ考えていたからだ。
この命はマリーの物、だからマリーのために使う…それだけだった。
命を諦めるのはこれで2回目になるけど、前と違って苦しくないからいいや…そうアイシャが覚悟した瞬間、彼女の体は突き飛ばされた。
真っ黒い尻尾から逃れるように…。
混乱したアイシャが何とか振り返ると、そこには上半身と下半身を千切り飛ばされ、絶命したフラウの体が転がっていた。




