35光剣
「おお、マルグリット殿ここにおったか」
まだ本調子とは程遠いギャストンではあるが、総指揮官として集結しつつある軍を指揮していた。
だが彼の顔には先ほどまであった明るさは無くなっていた。
「アルバ騎兵が敗走して帰ってきたのじゃ、疲れているところ申し訳ないが索敵魔術の使用をお願いしたい」
「わかりました」
もはや見慣れたマリーの魔術の発動の動作を見ながら、ギャストンはやはりアルジャン侯爵の魔術発動は遅かったのだと再確認した。
複数の魔術構成を次々に組み合わせて発動させるマリー魔術は、まるで1つの魔術のようにまとまっていて、魔術師でなくても惹きこまれるものがあった。
「良くありませんわね…ここは包囲されつつあります。
それから敵中軍と思わしき、槍兵を中心とする歩兵部隊が前進してきています。
クベール騎兵は敵後方で戦闘中…散らばっている部隊の敵味方は判断しかねます」
「味方の集結を待つべきではないという事は解った。
これは一刻も早く敵中枢を落とさねばならんが…」
合図の意味は分からなくとも、中央に集結しようとする部隊を追うことで、敵も中央に集結しつつある。
「マルグリット殿はアルジャン侯爵のような派手な攻撃魔術は持っておらぬのか?」
あの爆炎の魔術の威力は目に耳に焼きついている。
火薬が見発明のこの世界では、火山の爆発にしか例える事が出来ないだろう。
もっともラース半島に火山は無い。
近隣でもっとも有名なのは遥か南西、東サノワ界の向こうにあるドラグニル連火山地帯であるが、それを見たことのあるものはここには居ないだろう。
マリーにしても、王国でも建材に使われている火山灰はそこから運ばれている…と伝聞で知っているだけだ。
「見た目派手な攻撃魔術はありますが、威力の面では期待してもらっては困ります。
あの炎の魔術は間違いなく、王国一の破壊力を持っていたとおもいますわ」
「そうか、アルバ騎兵の突撃を跳ね返すほどの、敵の防御陣に穴でも開けてもらえれば…と思ったのじゃがな」
「騎兵の突撃をですか?」
騎兵には槍兵というのは戦の定石といえるほどの基本戦術であるが、常に槍兵は騎兵に勝るというわけではない。
一度の突撃は凌げても、二重三重の騎兵の突撃は受け止め切れない。
槍兵が騎兵に強いというのはお互い1枚同士の陣形の場合で、しばしば損害を無視した騎兵のゴリ押しにその防御陣を崩されることが多い。
「1枚も抜けなかった…とアルバの騎士団長は嘆いておった」
1枚…つまりは1列も敗れなかったという事で、本来はありえない話だ。
陣地を築き、頑丈な柵をを設けてやっと騎兵の突撃を防ぎきることが出来るだろう。
マリーは慌てて構成を組みなおすと、再び索敵魔術を組み上げた。
今度は広域をさらうのではなく、敵槍兵に照準を合わせて。
「重装歩兵…でしょうね、あれは…」
マリーの脳裏に、ふと敵軍にも自分と同じ人間が居るのではないかという不安が過ぎった。
14年…もうすぐ15年の人生で、常に目を光らせ探していた存在が。
もしそうなら…この戦い勝ち目が無いのではと、背筋が寒くなる。
戦争に関する自分の知識はたいしたことは無い。
もし戦争にも詳しい転生者が向こうの軍に居たのなら…。
「マルグリット殿、重装歩兵とはなんじゃ?」
不安の迷路に落ち込みそうだったマリーを引き戻したのはギャストンの問いだった。
そうだ、今は目の前の問題に対処しなくてはならない。
「簡単に言えば、機動力を捨てて防御力を限界まで高めた槍兵です。
馬止め用の柵を担いで移動しているようなものなので、騎兵の突撃で打ち崩すのは難しいでしょう」
「弱点は無いか?」
「正面からの攻撃で打ち抜くのは無理だと思いますわ。
それこそ弓矢でも、魔術でも…アルジャン侯爵の魔術ぐらいであれば話は別なのですが…。
弱点は動きが遅いこと、小回りが効かない事です。
そして、正面以外の防御力はそう高くもないかと思われます」
「ふむ、マルグリット殿は陣立てや基本的な戦術は知らんのに、そういった特殊なことには詳しいの」
ドキリと心臓が跳ねる。
エゴだとは解っているが、自分の親しい人たちには自分の正体は知られたくない。
彼女が魔術以外の全てに自信が持てないでいるのは、それが受け売りだからに他ならない。
それは後ろめたく、つねにズルをしているという背徳感に彼女を押し込んでいた。
「あ、いや変な意味ではないぞ?
ワシもこの年になっても目新しいものにはつい飛びついてしまう。
門外の事には特にな」
ギャストンはマリーの知識のちぐはぐさをそう結論づけた。
実際マリーが自ら専門と名乗る魔術においては、基礎から応用まで隙のない実力と知識を有していると聞いている。
門外のギャストンから見ても、その魔術においては非の打ち所のない実力者としか写っていなかった。
「つまりだ…通常の槍兵以上に背後からの攻撃に弱い…という事でよいのだな?」
慌ててギャストンは話を変えた。
自分の言ったことの何がマリーの顔を歪ませたのかは解らないが、そんなマリーと相対しているのに居たたまれなかったのだ。
顔を敵陣の方に向け、マリーから目を逸らしたのをごまかす。
「はい、その通りだと思います」
「ならば敵後方のクベール騎馬隊にもう一働き願いたい。
敵重装歩兵の隊列に穴を開けてもらおう…そこから先は我らの出番だ」
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「騎士団長あれを…」
「マルグリット様の打ち上げた合図だな…しかし座標しか表しておらん」
空には赤と青の花だけが数本咲いていた。
「どの部隊に宛てた合図でしょう?」
「知れたことよ、我々に向かってだ」
そう言うとディネンセンは今まで引いてきた馬に飛び乗った。
「おそらくマルグリット様は魔術で我々の動きは把握されているだろう。
その上で標的を示さず座標だけを打ち上げたのだ…他の部隊ならアレを見てどうすると思う?」
「あそこに向かうか、最初に示された敵陣に向かうか、半々ではないでしょうか?」
「そうかな?彼らはこんな信号のを受けたときの対処など指示されてはいないだろう。
とにかくだ、我々は素早くあの地点に行かねばなるまい…全員騎乗!」
クベール騎兵隊の数は既に半数を割っていた。
だが騎士団長は2千に満たない残存兵力を率い、主君から指示された地点に向かって駆け出した。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「クベール軍騎兵部隊は合図に気づいたようで、指定された地点に移動を始めました。
それとこれはオランジュ騎兵でしょうか?同じ地点に向かって移動しています」
「悪い知らせではないな、両軍が合流してくれれば作戦の成功度も上がる」
「…これは悪い知らせです。
この地点は敵軍によりほぼ包囲が完了しています。
突破しての脱出は難しいでしょう。
それと、例の敵重装歩兵を前面に押し出してる敵中軍が、もう1/4リーン(約1km)の距離まで迫った居ます…いえ、もう1/5リーン(約800m)程にも」
「ああ…目視も出来たわ、ああいう風にジワジワ攻め寄られるのは特に気分が悪いな」
ギャストンは折れた槍を杖代わりに身を起し、伸び上がるように敵軍を眺めた。
「それでは監視と合図をよろしく頼む。
ワシは前線で指揮を取る」
「御武運を…」
マリーは一度きりなら魔術で敵重装歩兵隊を怯ませる自信はあった。
だが一度それを使ってしまえば、こけおどしと見抜かれてしまう。
使う機会があれば慎重に見極めないとならない。
ここに集結した部隊は1万にも満たない上、ほとんどが負傷兵である。
実際の戦力はと考えると3千ほども居るだろうか?
本陣を落とすという初手にしくじった今、この場から生還できる可能性は限りなく低かった。
ただギャストンやマリーのの予想とは違い、ベーシス領軍以外の士気はそれほど高くない。
敵兵が周囲より離れたのをいい事に、戦闘を放棄する部隊は非常に多かった。
実際その気で包囲に参加している兵は2万に満たない。
これはマリーの魔術が、周囲を上から眺めるだけで敵の動きや細かい動作まで見通せないために起こる認識のズレだ。
それすら出来ないベーシス侯爵達はもっと戦況を見れていないのだが。
ベーシス軍は実働3万と見て包囲の指示を出しているため、その陣容にはかなりの穴があった
グランシャリオ軍はその穴を縫うように移動しつつ、なかなか目指す場所にたどり着けないでいた。
「くそっ、まるで迷路だ…」
ランベルクの口から珍しく悪態がもれる。
人も馬も疲労困憊で、もはや早足どころか並足で進むのすらままならないで居た。
「陸の上とはどうも相性が悪いらしい」
「ランベルク様、もう現在位置も見失ってしまいました。
どうせ向かう先も解らないのです、ここで休憩しないともう馬も持ちません」
「そうだな、幸い敵は振り切ったようだし、ここで休もう」
彼らの周囲には馬蹄に踏み荒らされた麦畑が広がっている。
おそらくこの畑はもうダメだろう。
もう実りを待つだけであっただろうにもったいない。
いくら王都近辺が豊かな土地とはいえ、その地に住まう農家が全て豊かと言うわけではない。
当然中には僅かな土地で細々と麦を作っている農民も多いだろう。
この麦畑の主がそんな農民だったら、彼らは秋を待たずして首をつるより他はない。
そうでなかったとしても、この戦で受けた被害で多くの土地を失う事になるだろう。
グランシャリオ家の領地は麦作りに向いていない。
麦を育てるにはいささか温暖すぎるのだ。
だからランベルクはたとえ踏み荒らされた麦畑でも、それを羨ましく感じた。
「ここはビビシュヌ周辺よりマシですが、あまり小麦向けの土地ではないのですな」
畑を眺めているランベルクが気になったか、農業に詳しいという変わった騎士が解説をしてくれた。
「だからこの麦畑で育てているのは大麦です」
「ああ、エールの元か」
ランベルクにとって麦の種類はその程度の認識だった。
王国の東部は麦文化で、呑む酒もエールやウィスキーなどの麦酒ばかりになる。
対して西部はワインこそ酒の王と、蒸留酒も酢も果実から作られたものを好む。
南部の気候は西部に近いためか、ランベルクもエールよりワインの方が好きだった。
特に前回の戦いの後、マリーから届けてもらったストローヌ産の白ワインは絶品で、舌がとろけるかとさえ思ったほどだ。
「あのワインをもう一度飲まない事には死ねないな」
酒はワインの方が好みだが、麦が取れれば飢える領民も減るだろう。
無いモノねだりなのは解っているのだが、そう思わずには居られない。
ランベルクは折れて地面に転がっている、穂が付きかけた大麦を拾うと何気なくその未熟な穂先を眺めた。
「せっかく豊かな地に住んでいるのに…」
いや、豊かな地に住んでいるからこそ貪欲に富を権力を求めるのだろう。
西部も南部も、東部や中部から追い払われた民が開拓した土地だといわれる。
だから東部や中部に比べると歴史浅く、彼らから軽く見られる事が多い。
貧しいものを追放した富めるものは、また富めるもの同士でより多くの富を求めて争うのだろう。
かくいうグランシャリオ領も、商人達はかなり豊かな暮らしをしている。
おそらく影で商売敵の追い落としに余念がないのであろう。
「それを考えると東部貴族連中の事はいえない…か」
「ランベルク様、敵軍の動きが…」
「今行く」
彼の手を離れた大麦の茎は、そのまま地面の上に落ちた。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
ジリジリと前進してきた重装歩兵はついに西部連合の残存部隊と戦端を開いた。
機動性がないと言う重大な欠点を持っているものの、その欠点は状況が完全にカバーしてくれていた。
敵軍に逃げ場はなく、回り込もうにも完全に包囲された状況では身動きもままならない。
あとはじっくりと蹂躙するだけだ。
ここまで重装歩兵隊を温存して来たベーシス侯爵の完全な作戦勝ちだった。
「随分てこずらせてくれたが、ようやくこれで終わりだな」
「そう思いますが…くれぐれも油断だけはされないように」
西部軍から散発的に飛んでくる矢や短矢も、重装歩兵の巨大な盾に弾かれて有効な攻撃にはなりえていない。
長槍をかいくぐって肉薄する兵もいたが、盾に取り付いてもその間から突き出される剣に突き刺され潰えた。
「2人1組だったのか…」
槍を掻い潜って攻めさせたが、その戦法も通用しなかった。
兵の命を無駄に散らせてしまった事、をギャストンは後悔した。
「あるいは3人かもしれません」
「動きは鈍いはずだな…だがその防御力は確かに恐るべきだ」
重装歩兵は盾持ちと槍持ちの2人1組を一列に繋げて運用される。
盾持ちは木の葉形の小剣も携帯しており、盾を地面に置いて隙間からその剣を振るうのだ。
長槍の間合いの内側に入られても対応は可能だった。
槍持ちも長短2種の槍を携帯しており、騎兵が迫っていない時は盾持ちの援護も行う。
正面の敵を排除、防衛するために特化した部隊である。
4/5クォート(約2m)程もある巨大な盾の後ろに隠れる兵の顔を見えないが、それがかえって鉄壁の重装歩兵の不気味さを際立たせている。
「騎士団長…お願い早く動いて!」
祈るようなマリーの懇願も遠方で苦心してるクベール騎馬隊には届かない。
彼らも疲れ果てているなか、必死に動いているのだ…人も馬も限界に近い。
「包囲状況はどうだ?」
「どうにもままなりませんな、当領軍以外の動きが悪すぎます」
巡るましく出入りを繰り返す伝来たちの報告を聞きながら、ビーシス軍の騎士団長は肩をすくめて見せた。
「ふん、役立たず共め…まあいい、最後のチャンスをくれてやろう。
全軍に一斉攻撃の通達を出せ!」
「手柄をくれてやるのですかな?」
「一時的に…だな、私は自軍の働きを忘れて目先の手柄だけを評価する愚かな君主ではないぞ?」
「自軍の被害は最小に抑えるという腹積もりですな、なるほど」
戦の趨勢が決まってくると、勝っている方の兵は動きが鈍くなるものだ。
これはせっかくの勝ち戦で死にたくないは無いという気持ちと、もう勝ちは決まったんだから自分がやらなくても大丈夫だろうという考えが原因だ。
もちろん、勝ち戦に大きな手柄を上げようという向上心の高い一部の兵は張り切るだろうが、大概の兵は敵に切りかかるための一歩を躊躇するようになる。
過去そういった兵の心理で大勝を逃したり、窮鼠猫を噛むとばかりに寡兵の突撃を受けて負けてしまう事すらもあったという。
トレノアはそういった事を懸念していたのだ。
ベーシス領軍はあくまでも防御に徹しその他の貴族軍に攻めさせれば、彼らが怯んで余計な被害を出しても肝心の自軍にその被害が及ぶ事はないというわけだ。
寄せ集めの貴族軍はトレノアの予想通りの動きだった。
西部軍を囲み威嚇はするが、決して先に切り込もうとせず。
誰かが切り込んだ尻馬に乗る事だけを考えていた。
もちろんそんな状態では誰も先に切り込もうとはせず、けっか包囲の輪を狭めただけの睨みあいになっていた。
「これでは埒が明きませんな」
「まあ、予想どうりではあるが、これほどとはな…。
弓兵はどれだけ動かせる?」
「兵は残ってますが、もう矢はほとんどありません。
2、3百が一回づつの射撃が精々かと」
「それでかまわんから、重装歩兵の頭越しに敵軍に向かって射掛けろ。
当たらなくてもかまわんから、敵軍内に着弾するようにな」
「なるほど、合点がいきました」
ベーシス本陣から発射された矢は、確かに防御陣をくむ西部軍に降り注いだ。
だが僅か2百本ほどの矢では、たいした威力も上げられない…のだったが。
これが本陣からの催促と取ったか、それとも相手の体制が乱れたのを好機ととって体がうごいたか?
とうとう諸貴族軍は西部軍陣地になだれ込んだ。
それは決して積極的な攻撃ではないが、暴力的なまでの数の差は確実にその兵達を削り落としていった。
そんな中再び敵陣より高く花が撃ちあがったが、それが最後の悪あがきだと判断し。
ベーシス侯爵は対応を考えなかった。
考えたところでその合図の内容が解らなければ、対処は出来なかっただろうが…。
その合図が示す座標は重装歩兵の、その指示があらわすのは別働隊の標的である紫。
マリーの索敵魔術はクベール騎兵とオランジュ騎兵が、とうとう迂回地点に到達した事を確認したのである。
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
「ランベルク様あれを!」
その合図は道に迷って戦場をウロウロしていたグランシャリオ騎兵隊の目にも留まっていた。
「攻撃指示の合図か…だが現在地がわからねば目標の座標も割り出せないな」
グランシャリオ軍もかなりの疲労の中に居た。
全域に戦闘が広がった泥仕合のような戦争だ。
参加した者はみなこんな過酷な戦場は始めただろう。
「しかしあの花の下にクベール侯爵令嬢がおられるという事ではありませんか、せめて合流を考えるべきでは?」
「そうか、そうだな…私としたことが…」
当然ランベルクも疲労困憊だった。
判断力すら低下するほどの。
「随分お疲れでしょうから、無理も無いかと…では?」
「とりあえず合流を目指そう。
全騎あの合図の下に向かうぞ…」
◇◇◇◆◇◇◇◆◇◇◇
西部軍への攻撃は加速的に激しさを増していった。
疲れ果てて戦闘に消極的な兵も、その中に身を置けばやがて血に酔ってくる。
なにより死に物狂いで攻撃をしなければ、いつ自分が返討ちにあうか解らないのだ。
「お嬢、ここは危険です!中に!」
「でもこの人の治療をしないと…」
「無茶をし過ぎです!また魔力欠乏で倒れたらどうするんですか!」
シャンブルの脳裏にあの日の馬から転がり落ちるマリーの姿が蘇る。
あのときの絶望感を思い出すと、この牙人はぶるリとと身を震わせた。
あの時は過労で倒れただけだったが、もし自分が受け止めるのが遅かったらそれでは済まなかっただろう。
彼女の身にもしもの事があったら、命を賭してでも守りたいと願う故郷が違うものに変わってしまいそうな気がする。
「援軍がこちらに向かってるぞ!もう少しだけ持ちこたえろ!」
獅子哮の良く通るその声も今日一日張り上げ過ぎたためか、しゃがれ掠れて見る影も無い。
敵軍とは錬度も指揮も違うのに、泥のような疲労に引きずり込まれた西部軍は、思うように身体も心も働かせられないでいた。
所詮大軍には敵わないのだとか、やはり無謀な戦いだったんだ…ここで無駄死にするんだとか。
心が折れかかった兵は後悔と絶望に支配される。
そこにはもう、故郷を守るため命を捨ててでも勝利をもぎ取ろうと決意していた気高さはなくなっていた。
ただ今は1分1秒でも長く生きるために槍を突き出し、剣を振るう。
そんな者達だけになっていた。
マリーも自分の魔力がもうほとんど底を突いている事は自覚していた。
さっきの合図を打ち上げるのと、その前の索敵魔術で残る魔力を絞りだしたのだ。
そんな状況で治療に魔術を使っていたら、シャンブルの言う通り本当に倒れるだろう。
だが手を止めると、動きを止めると追いついてくる恐怖に追い立てられて、彼女は働き続けていた。
「お嬢…流石にもう持ちそうも無いです。
牙人部隊もけっこうな数が逝っちまいやがっりました。
言いたかないですけど、覚悟された方がいいかもしれません」
「そうね、とうとう年貢の納め時かもしれないわね…」
「…年貢?」
貴族軍にはベーシス侯爵から、諸侯家の4人は必ず生け捕りに、最悪でもクベール侯爵令嬢は生け捕りにするよう厳命が行っているのだが、2人ともそんな事は知らない。
魔術師の生け捕りなどは危険ではあるが、王都に残されたクベール家の者を人質にすればどうとでもなると考えていたのだ。
それだけトレノアは魔術師としてのマリーを買っていたのだが、彼女の索敵魔術とあの打ち上げた合図には注意を払っていなかった。
肝心な国軍の元帥府がその魔術の情報を捉え切れていなかった事も、カラフルな打ち上げ合図がいかに高度な魔術なのかアルジャン侯爵が彼に伝えていなかった事も。
そしてその危険性を認識するチャンスを、アルジャン侯爵の爆炎の魔術で吹き飛ばされたためでもあった。
彼女はその2つの魔術でクベール騎兵とオランジュ騎兵を誘導し、まんまと反乱軍の警備間ををすり抜けさせたのであった。
「標的はあのでかい盾を抱えた槍兵だ!なぎ払うぞ!」
「これで全ての力を出し切っていい!その命を預けてくれ!」
2人の司令官の号令一下、ボロボロに疲れ果てた3千の騎兵は5千の重装歩兵背後を斜めから突いたのである。
戦闘においてはほとんど損害を出していない重装歩兵隊であったが、疲労と無縁とはいかなかった。
何より苦手な進軍を急かされてここまで進んできたのだ。
一斉攻撃に参加しないでいいと聞かされホッと胸をなでおろしたぐらいである。
そんな彼らが背後からの奇襲に、盾はおろか槍すら返す事が出来なかったのは仕方ないだろう。
その突撃は意外なほど一方的な蹂躙で、正面以外からの攻撃に対し重装歩兵の脆さが浮き彫りになった。
重装歩兵はその緒戦で、強さと弱さを同じ相手にさらけ出す事になる。
「な、なんだやつ等は!どこから現れた!」
トレノアからしてみれば、現れるはずのない幽霊のような部隊だ。
その取り乱しようは気の毒になるほど。
「クベールとオランジュの紋章をが見えます…別働隊を放っていた?!」
ベーシスの騎士団長すら完全に想定外だった。
空から陣地を眺めでもしないと突きようのない、警備の隙間を縫っての進軍である。
地上からしか陣を見ていない彼らには決してその動きを予測する事は出来ない。
そして…。
堅牢な重装歩兵隊が薙倒された今、西部軍本陣からベーシス本陣まで奇跡的に視線が通ったのだった。
マリーの魔術は破壊力でも攻撃範囲でも、アルジャン侯爵の魔術に遠く及ばない。
それは魔術の研鑽の方向性だけの話ではなく、双方が持っている属性の相性にも起因した。
だからマリーの光の魔術には、アルジャン侯爵が絶対到達できない利点も存在していたのだ。
それは精度と射程…光の速さと正確さ、大気に拡散しづらい性質。
そして何より、マリーの持ち味である発動の早さ。
それらを考えた場合、自分の残りの魔力を出しつくしてでも試してみる価値があると、その時マリーは判断したのだ。
「う、えっ?」
トレノア・エペイスト・ベーシス当代侯爵は、突然自分の胸から生えたように見えた光の剣に反応できなかった。
それは心臓こそ外したものの肺を貫通し、切っ先は背中に抜けていた。
彼は数秒間その光剣の柄を眺めていただろうか?
やがてそれを構成する魔力が大気に拡散して消えるのと同時に、血を吐き出しその場に倒れた。




