目を見張る甘さ
「これ、会社の女の子が沙耶に渡してくれって」
会社から帰ってきた凌太から手渡されたのは、茶色い紙袋。
受け取ったあと、そっと中を覗くと予想通りのものが入っていた。
「何それ。テープで封がしてあったから中を見なかったけど、雑誌か?」
私の横から紙袋を覗き込む凌太はわけがわからないとでもいうような表情で私を見た。
「これね、この前凌太の忘れものを届けに会社に行った時に仲良くなった受付の女の子にお願いしてたんだ」
「ああ、俺も受付通った時に呼び止められて渡されたんだけど……仲良くなったって、そんな話聞いてないけど?」
「え?言わなきゃだめだった?あの綺麗な受付の麗華さん、名前すら神々しいけど、本当に綺麗だよね。
私の後ろで待ってた男の人も目がハートになってたもん」
くすくすと笑いながら、雑誌を袋から取り出した。
これこれ。
麗華さんにお願いして調達してもらった貴重な雑誌。絶版となっている今では滅多に手に入らない。
「じゃーん。なんと、なんと、凌太が欲しくて欲しくてたまらないこの雑誌、ゲットできました」
「は……?」
「欲しがってたでしょ?インターネットで必死で探してたけどなかったって落ち込んでたじゃない。
私には『橋と梁のすべて』なんて全く理解できないけど、凌太があんなに熱くなって欲しがるものだから密かに探してたんだよ。ふふん。」
はい、と両手で凌太に手渡すと、凌太は意味がわからないと戸惑いながらも表紙に目が釘付けだ。
ここ数か月、この雑誌を探して古本屋さんや出版社、色々探したけれど結局見つからなかった。
仕事上、建築にも絡むこういう雑誌が好きなのかと思いきや、単純に『橋マニア』だという事が判明。
高校時代付き合いだしてから、途中長いお別れ期間があったとはいえそんなマニアだったなんて知らなかった。
「す、すげー。このシルエットたまんねー」
リビングに座り込んで、雑誌に見入る凌太は、会社から帰ってきたままの姿。
「とりあえず、スーツ脱がなきゃ皺になるよ。ご飯だってできてるから早く食べようよ」
小さく息を吐いて、凌太を見下ろすけれど、一向に動く気配のない彼にさらに大きなため息を吐いた。
そりゃ、熱望という言葉がピッタリなほどに欲しかった雑誌だからこういう展開も不思議じゃないけれど、ちょと極端すぎる。いつもなら、帰ってくるなり私を抱きしめて深いキスをくれるのに。
今日はそれすらもない。カバンだって足元に無造作に置かれたままだし。
私がここにいるっていう事も忘れてるんじゃないのかな?
「ねえ、ご飯先食べようよ、今日は凌太が大好きなシューマイだよ」
私も凌太の前にしゃがみ込んで、そっと凌太の手を揺らした。
じっと雑誌に見入っていた凌太は、にやりと笑ったかと思うと私の手を引っ張り。
そして反転させられた私の体は、凌太の足の間にすっぽりとおさまって、後ろから抱きかかえられる格好になった。
「凌太……ちょっと……」
凌太は、両手を私のお腹の前で交差させて、私の肩の上に顎をのせる。
耳元に感じる凌太の吐息に、驚きで暴れてる心臓が更に暴れ始める。
「悪い悪い。沙耶のこと忘れてるわけじゃないんだけどな。あまりに驚いたんだよ」
「……でしょ?麗華さんが出版社の人と仲がいいって聞いたから、無理言ってお願いしてたの。
明日彼女にもお礼言っておいてね」
「ん。まあ、雑誌に驚いたのもそうだけど、沙耶がまさか俺の会社の女の子と仲良くなって、お願い事までするっていうのに驚いたんだ。普段は俺が会社の女の子と仲いいと嫉妬して泣きそうな顔するくせに。……あの顔もたまんないんだけど……いてっ」
にやにや笑ってる凌太の手をぱちんとたたいた。
嫉妬して泣きそうって……そりゃ、それは嘘じゃないけど。確かに結婚したって凌太が私以外の女の子に気持ちを揺らさないか心配だし、不安だし。
どんなにお互いを信頼していても、やっぱりそんな感情をゼロにはできない。
この先ずっと持ち続けていく面倒くさい感情なんだ。きっと、それだけ凌太が大好きって事だけど。
「なあ、俺が今どれだけ嬉しいかわかるか?」
「うん。わかるよ。あれだけ欲しがってた雑誌が手に入ったんだもん、そりゃ嬉しいよね。
私も、嬉しいよ。麗華さんを狙ってる出版社の人に感謝だね。あ、凌太の会社に出入りしている人らしいし、その人にもお礼言っておいた方がいいよ」
そう言った途端、顎に手が差し込まれ、ぐっと顔を横に向けられた。
瞬間重なる唇。
「凌……あっ……んふっ……」
差し込まれた熱い舌が私の舌と絡み合い、水音だけが部屋に響く。
後頭部を固定されて、身動きが取れないまま気づけば床に押し倒されていた。
「俺がこの雑誌を欲しがってるのをわかっててくれた事と、会社で超人気者の俺を狙ってるかもしれない女の子にお願いまでして俺を喜ばそうとしてくれた沙耶に驚いてるし、嬉しいんだよ」
あまりに嬉しすぎてどうにもならないような、喜びが爆発している凌太は、私を抱きかかえると寝室のベッドにおろした。
「今から熱烈なお礼をくれてやる。そんなに俺を喜ばせて、沙耶がお礼に何を欲しいのかなんてわかってるんだからな。さ、誠心誠意、お礼をしてやるから、堪能してくれ」
そういうが早いか驚きで声も出ない私の体を、熱烈なお礼という言葉どおり、愛し始めた凌太。
慣れた仕草で私の服をすべて脱がせ、その体温を分かち合った。
必死に私を愛する凌太の体に縋り付きながらも、私も徐々に興奮していくと、お互いの吐息と高い嬌声が響き渡る。
体の中を動き回る凌太の熱に安心感と幸せを得ながら、ぼんやりと考えてしまう。
確かに、あの雑誌はのどから手が出るほど凌太が欲しがっていたもので、かなり価値のある雑誌なんだけど、だからといって私が必死で探してあげようっていう気持ちはなかった。
たまたま凌太の会社の受付で凌太が下りてくるのを待つ間、聞くともなしに聞いていた会話。
『麗華さん、いつになったら食事一緒に行ってもらえるんですか?』
『すみません、ちょっと忙しいんで……』
『じゃ、連絡先だけでも教えてください』
おいおい、こんなところで口説いてるなんてばれたら出入り禁止じゃないの?
と呆れた思いで見ると、受付に座っているかなりきれいなお姉さんと、すごく真面目な顔でお姉さんを口説いてる男性。遊びで声をかけてるのでもきまぐれで綺麗な女の人の連絡先を聞いてるわけでもなさそうに見えた。
『南さんを好きになって一年、そろそろちゃんと返事をもらえませんか?』
い、一年?思わず反応して、二人に鋭い視線を向けた私に気づいた麗華さんは、はっと困った顔をした。
俯くその様子に気づいた男性は、振り返ると私をじっと見て。
『あなたからも言ってください。僕はちゃんと真面目に彼女とお付き合いがしたくて申し込んでるんです。こんなに見た目がきれいで、高嶺の花だと取引先からも人気絶大で、僕以外にも狙ってる男がたくさんいるのはわかってるんです。でも、ぼくは彼女が大好きなんです。彼女の頼みなら、なんでもききます』
なんでもって、あなた……。
ここは会社の受付だよ。くすくすと笑いながら通り過ぎる社員だっているんだからね。
あきれながらも、ちょっと羨ましさも感じた私は。
俯く受付の綺麗なお姉さんに言葉をかけた。
『こんな事言ってくれてるけど、どうします?一度くらい、食事に行ってみてもいいんじゃないですか?見た目も悪くないし長身だし、あなたの事すっごく気に入ってるみたいだし。一度くらい……』
受付のお姉さん、麗華さんは、照れたように顔を赤くしながら、
『あの、取引先の人とのお付き合いは禁止されていて……』
残念そうにつぶやいた。……禁止?
『禁止なの?』
思わずそう叫んだのは私。そんな時代錯誤な事がこの会社では当たり前なの?
恋愛なんて自由だし、ましてやこんな綺麗な人、今までだって声をかけてくる男の人はたくさんいたはずだろうに……。
『だから、無理なんです……。私、この仕事気に入ってるので、免職なんてことにはならなくても、異動の可能性もあるわけなので……本当に残念なんですけど、無理……です』
次第に小さくなっていく声と、震えている口元。彼女もきっと、この目の前の男性の事を少なからず想っているに違いない。
食事にだって一緒に行きたいだろうし、連絡先だって教えてあげたいに違いないんだ。
それを、妙な慣例のせいで自分の気持ちを抑えなきゃいけない状況に追い込まれて悩んでる。
おかしいっ。
好きな人と一緒にいられるほど幸せな事はないって、私は本当に実感してる。
離れるしかないと悲しく過ごした数年間を思い出すたびに切なくなるのに。
その気持ちは凌太だって持ってるはずなのにーっ。
『大丈夫、私が何とかしてあげる』
突然両手を握りしめて、低い声でそう告げた私に、半分おびえていた二人の表情は気にしないことにして。
その後三人で作戦会議。
その男性が出版社に勤務していると聞いて、思い出したのが『橋と梁のすべて』だ。
凌太が必死で探している雑誌。これを是が非でも調達しなさいと、厳命。
私の迫力に押された彼は、『はい』と即答してくれた。
そして、麗華さんには『麗華さんが彼に頼んだってことにするのよ』と言い渡し、これにもすぐに了解を得て。
数日たった今日、無事に雑誌は凌太のもとに。
にやりと笑うのは、結局私なのだ。
私を貪りつくし、満足げに荒い息を吐いている凌太は、私の隣にごろんと仰向きになると、そっと私を抱き寄せた。
「今日の沙耶、すごく積極的だったな。そんなに感じたのか?」
くすくすと笑いながら、私の耳元にささやいている。かなりご機嫌だ。
私が側にいれば、それだけで幸せで、機嫌もいい凌太。それは私も同じ事で、二人でいられる幸せに感謝しっぱなし。
きっと、世の中の恋人同士みんな同じ幸せの中で生活してるんだろうと、思う。
だから、麗華さんたちにも同じ幸せを味わってほしい。
「ねえ、あの雑誌ね、受付の麗華さんの事を気に入ってくれてる出版社の人が必死で探してくれたのよ。麗華さんもその姿に惚れちゃったみたいでね、あの二人結婚するかもよ」
甘えた声で、凌太の口元にささやいた。
「えっと……受付の女の子を口説くのは……」
困った顔で何かを言いかけた凌太の唇を、私の唇で軽くふさいだ。
かすめるだけのキスに、凌太は言葉を止める。
「あれだけ探しても手に入らなかった雑誌を見つけてくれるくらいに麗華さんの事が好きなんて、素敵よね。……ね、素敵よね。麗華さんもね、前からあの男性の事が気になってたみたいで。ふふ。良かったわね。凌太があの雑誌を欲しがってなければまとまらなかったカップルだもん、凌太がキューピッドだよね。素敵」
何度も『素敵』を連発して、凌太に何も言わせないように、そして、凌太の体にしがみついて甘える仕草を繰り返すと。
「そうだな、素敵だな。俺からも、おめでとうってひやかしておくか」
なにやらすごくいい事を成し遂げたように、満足げな声をあげた凌太。単純だな。そこも大好き。
「うん。ひやかしておいてね。受付の女の子って、綺麗な子が多いから声もかけられやすいけど、こんな純愛もあるんだね。凌太の会社のおかげだよ。この先も受付にいっぱい恋愛の花が咲くかも。楽しみだねー」
凌太の胸に顔をすりすりしながら、嬉しい声をあげると、『そうだな、そうだな』何度も楽しげな声が聞こえた。
……任務完了。
数日後、有給を取って家に遊びに来てくれた麗華さんは、出版社の彼と付き合う事になったと嬉しそうに話してくれた。
『私も一目ぼれだったんです』
ただでさえ美人で目を引く女性の照れる様子に、私も嬉しくなった。
『社長が奥様を溺愛されてるの、わかります。沙耶さんの事、私も大好きになりました』
そんな、目を見張るほどの甘い言葉。女の人から言われて嬉しくないわけがない。
しかも、凌太を知っている女性。凌太の周りにいる女性は、たいてい私を敵視するから、思わず嬉しくて胸がいっぱいになる。
そして、これからも、凌太に甘えて甘えられて。蜜な日々を……。




