29話
一年前に凌太が私の部屋にやってきてから少しずつだけど、自分が生きているという感情がよみがえってきたと思う。
確かに、毎日ちゃんと食事をして睡眠をとり、仕事にも真面目に通っていたけれど、それだけの毎日って、ちゃんと生きているとは思えない。
心が閉ざされている時には、自分の感情を揺らす全ての事を拒否して、単調な毎日を求めてしまう。
悲しみや苦しみを感じない為にも、何に対しても距離を置いていた私は、喜びや幸せからも自分を遠ざけていた。
凌太が私の側から離れない毎日が始まった時から、そんな自分の生活はどんどん壊されていった。
悲しみや苦しみから逃げる為に心を閉ざしていたのに、凌太が無理矢理私を抱いた時、同時にこじ開けられた私の心。
こじ開けられて、凌太からまず植え付けられたのは、恐怖という感情だった。
私の気持ちなんてお構いなしにぐいぐい入り込んでくる凌太の事が理解できなくて、怖くてたまらなかった。
いつも私の側にいて私を見つめ続けていた凌太の事、びくびくしながら警戒してた。
ずっと閉ざしていた心を目覚めさせた最初の感情が恐怖だったっていうことに、自分でもため息がでる。
恐怖から始まった、自分のあらゆる感情を呼び戻していく作業は、凌太が私を振り回していく中で進められ、今ではほとんどの感情を取り戻したと思う。
楽しい事を楽しいと笑い、泣きたい時には素直に涙を流し、腹の立つ事に直面すれば顔をしかめて。
生きている中で得る感情の大部分を取り戻せた。
それでも、まだ自分の中に息づいているとは思えない感情がある。
『愛する』という感情。
漠然とした曖昧な思いなら、凌太に対して抱いている。
再会した時がどうであれ、今の私は凌太に抱かれる事が嫌ではないし、体温を触れ合わせる事に穏やかな幸せすら覚える。
凌太に触れられた肌は薄い紅色に染まり、もっと先を求める自分自身の欲すら感じる。
長い間忘れていた温かいふれあいと、私を好きだと言いながら求めてくる切羽詰まった凌太の感情をぶつけられる時間を喜びとも感じる。
凌太が好きだと、そう思う。
けれど。
『愛する』
という感情を凌太に対して当てはめる事ができるのか、はっきりとした答えを見出す事ができない。
抱かれる度に求められる幸せを感じるし、自分も凌太を求めていると感じる。
会いに来てくれたり、電話をくれたり。私の存在を確認するような気遣いを見せられる度に、私の気持ちは落ち着く。
この一年で、歪で新しい凌太との関係にすっかりならされてしまった。
それでも、ちゃんと『愛する』事ができているのかどうかの答えは出せていない。
私が凌太に振り回されている間に呼び戻された感情の中には、『不安』という感情もあって、凌太がこれから先、私以外の女の子を選んだらどうしようという警戒心に似た不安が、絶えず私に根付いてる。
この間、偶然見かけた凌太の腕に絡みつく女の子の姿を見た時にも、その不安は湧き上がってきて切なかった。
会社の様子を話してくれる凌太の言葉からは、女の子とのそんな触れ合いは、仕事を一緒に頑張っている同期の間では深い意味はないらしいと想像できるけれど。
それでも私に根付いている不安は、不安のままだから。
この先もずっと、些細な事でその不安と闘っていかなくちゃいけないのかと思うとうんざりするのも確かで。
そんな面倒な感情を抱えている私が、凌太を愛していると、はっきり言えないのは当然。
もしかしたら、将来凌太との縁が結ばれて、凌太と結婚しているかもしれない。
そして、誰もが羨むくらいに幸せな人生を送っているかもしれない。
できれば、そうなって欲しいと、思う。
そうなれる条件は、私が凌太の事を『愛する』という気持ちを持っていると確認できている事。
今はまだ呼び戻せていないその感情を呼び戻して、凌太の側に寄り添えるならば、その時は。
『お嫁さんにして』
そう言いたいと思うんだ……。
* * *
時々うまく言葉が繋げなくて、まどろっこしい言い回しもしてしまったけれど、そう思っている私の気持ちをようやく伝えた。
どうしても私と離れたくない凌太はなかなか納得してくれなかったけれど、私が『愛する』気持ちをゆっくりと取り戻すためにはとりあえず離れなきゃいけないと、渋々わかってくれた。
「で?いつになったら会えるんだ?」
「んー。私の気持ちがはっきりしたら」
「だから、いつ?」
「わかんない。今回私と凌太が再会するまでの時間よりは短ければいいとは思うけど」
「は?それって6年って事か?」
「ん、そうなるかな」
見るからに不機嫌な表情でため息をつく凌太に、一瞬心は揺れて、やっぱり離れるのをやめようかとも思ったりもするけど。
だめだめ。しっかりと自分を見据えるためには凌太に流されてはいけない。
そう言い聞かせて、敢えて無表情を貫いた。
「で、今回こそ返してね、合鍵」
「え?……嫌だ」
相変わらず拒否する凌太。まあ想像はしていたけど。
「じゃ、凌太が知らない部屋に引っ越すし。それでもいいの?」
「……それも嫌だ」
「じゃ、返して。合鍵持ってなくても、私の居場所がわかっている方がいいか、それとも合鍵を返さなくて、私がどこに住んでるのかわからないのと、どっちがいい?」
ふふん、と強気な言葉が自然に出てくる。凌太と高校生の頃に付き合っていた感覚を思い出してきた。
あの頃は、私も凌太も対等になんでも話せていた。
再会してからは、私の感情が麻痺していたから何もかもが凌太に押し切られていて。
全て凌太次第で動いていた。
それって、やっぱりおかしいんだ。
「合鍵返せば、これからもこの部屋で暮らすのか?」
探るような凌太の声は弱々しくて、なんだか可笑しくなる。
「うん。ここにいるし、仕事も変わらない。ただ凌太と会う事はやめる」
「……はあ」
低い声でため息をついた凌太は、天井を仰いで何かを考えていた。
きっと、合鍵をどうしようか悩みに悩んでるんだろうな。
その様子をみてると、私を手離したくないという凌太の気持ちは、本当らしい。そう感じた。
しばらく考え込んでいた凌太は、突然、口元を固く結んだかと思うと。
ポケットからキーケースを取り出し、あっという間に私の部屋の鍵を抜き取った。
「ほら、ちゃんと返すから、じっくり考えて、俺の元に戻ってきてくれ。
ずっと待ってるから。待ちくたびれて、俺がおかしくなる前に戻ってこい……」
苦しげな声に、私の胸もぎゅっと掴まれて泣きそうになる。
やっぱり、凌太の事、好きだという感情はあるから寂しい。
自分で決めた事だけど、いざ離れるとなると悲しい。
「俺、沙耶が戻ってきてくれた時には会社のトップになってるかもしれない。
肩書だけでなく、実力もつけて、ちゃんと待ってるから、本当、俺がおかしくなるまでに戻ってきてくれ」
「ふふ……。簡単に戻るなんてできないし、私もしっかりとした人間になって、自分で未来を作りたいと思ってる」
「ん……そうだな」
そうだな、という凌太の声は拗ねていて、全くその意味を成していない。笑える。
子供のようだな。ちゃんと会社を背負っていけるのかと気になる。
それでも、凌太なら大丈夫かな……。
「凌太がおかしくなっちゃう前に戻れるかはわからないけど、今回は凌太の部屋の鍵、私にちょうだい」
「は?」
「だから、凌太の部屋の鍵」
ちょうだい、と右手を出した。手の平を上に向けてにっこりと笑うと、戸惑いしか感じられない凌太の顔がおかしくてたまらない。
「俺の部屋の鍵?」
「そう。突然部屋に入り込まれる怖さとか驚きを、今度は私が凌太に味あわせるから、ちょうだい。
いつ私がくるのか緊張しながら待ってて。とはいっても、その鍵を使わないまま一生を終えるかもしれないけどね」
「一生って、それは困る。鍵ならいくらでも渡すから、ちゃんと使ってくれ」
慌てた凌太はそう言うと、再びキーケースを取り出して、一本の鍵を抜くと。
まるで人生を賭けるかのような真剣な表情で私に手渡した。
「あとで、凌太の住んでるマンション、教えてね」
「あ、ああ……。せっかく沙耶が俺の住んでるところに興味持ってくれたのに、こんな状況って」
はあ、と大きなため息。その姿に私はちょっと調子にのってしまう。
「この鍵使って部屋に入った時に、女の子連れ込んだりしてたらそれで終わるからね」
そう言って、大きく笑った。
いつになったらこの鍵を使って凌太の部屋に行けるのかわからないけど、その時が早く来て欲しいと思う。
やっぱり凌太の事が好きだと思う。離れる事に思った以上の悲しみと寂しさを感じる。
それでも、その感情が愛情なのか、単なる情なのか。
ちゃんと自分で探ってみたい。
だから、しばらく離れようと決めた。
手の中にある合鍵をぎゅっと握りしめた。




