27話
凌太の声に驚きながら、私と凛花は何も言わないままその様子を見ていた。
慌てて携帯に出た凌太は、何かを感じて焦っているようにも見える。
「千絵さん、何か……え?なんですか?えっと……沙耶なら、今一緒ですけど……。
は?だから俺と一緒にいますって。千絵さん、大丈夫ですから、落ち着いて下さい」
凌太の必死の声と表情からは、何か大変な事が起きたのかと感じられて、じっと次の言葉を待ってしまう。
凛花にしても同じようで、私と凌太を交互に見遣りながら、不安げに立っている。
「大丈夫です。ちゃんといつも通りの沙耶がここにいますから、心配する必要なんてないですから」
言い聞かせるように、大きな声ではっきりとそう言う凌太。
携帯を耳に当てたまま、天井を見上げて大きくため息をついた。
「だから……いつも俺が見てますから、沙耶は大丈夫です。
今の沙耶は、もうあんな馬鹿なことはしないと……だから、千絵さんは安心して下さい」
馬鹿な事……。
思い当る事は一つしかない。私が命を絶とうとして周りの人みんなを悲しませた事だ。
今ならば、『馬鹿な事』という言葉でその当時の自分の行為を悔やむ事もできるけれど、その瞬間の私にはそれしか……苦しみから自分を逃がす事はできないと、思い込んでいた。
唯一の身内である千絵おばさんの悲しみを考える余裕もなく、自分一人を楽にする事しか考えていなかった。
けれど、今はもうそんな馬鹿な事はしない。そう言い切る事ができる強さが自分にはあると思える。
自分の体が負った傷と、子供が持てないかもしれない将来を忘れたわけじゃない。
けれど、そんな悩みを後回しにせざるを得ない状況だったこの一年のおかげで、私は強くなったのかもしれない。
強くなったというよりは、その状況を柔軟に受け入れて、次の悩みを解決するための時間が、新しい私を作ったんだと思う。
今、目の前で千絵おばさんと話している凌太がその元凶だった。
「じゃ、沙耶には変わらなくていいんですね?……はい、ちゃんと携帯には出ろって言っておきます」
携帯の向こうの千絵おばさんはようやく落ち着いたのか、凌太の表情にも安堵の色が見える。
緊張感が見えていた身体から、少し力も抜けて、ほぐれたように感じる。
それにしても、千絵おばさん……どうして凌太の携帯を鳴らしたんだろう。
どれほどの親密さで二人は繋がっているのか、気になった。
今凌太から聞いた言葉からは、私の事を心配しているようだったけれど、結局私と話す事は望んでいないようだったし……。
じっと凌太を見ながら、納得できない感情を逡巡させていると。
「携帯。また充電切れてるのか?」
呆れたような凌太の声に、意識は凌太に引き戻される。
「え、携帯?充電?……あっ」
そう言えば、事務所を出る時に見た携帯は、充電切れ寸前だったような。
家に帰ったら即充電しようと思ったまま、すっかり忘れてた。
部屋の片隅に置きっぱなしにしてあるかばんから携帯を取り出すと。
「うわ。真っ黒。……充電しておかなきゃ」
充電切れのせいで、携帯の画面は真っ黒になっていた。慌てて充電器に放り込むと、凌太の疲れたようなため息が聞こえた。
「頼むから、携帯だけはいつでもつながるようにしておいてくれ。
今だって……あの時も、千絵さんは狂ったように泣き叫んで俺に電話かけてきたんだ。
千絵さんだけでなく、俺だって心臓に悪いんだ。だから携帯は肌身離さず持って、いつでも沙耶の声を聞けるようにしておいてくれ」
「うん……ごめん」
それほど強くなく、そしてただ切ない凌太の声からは、普段から私を気にかけている気持ちが伝わってくる。
凌太が毎日私の携帯を鳴らすのもそのせいなんだろうと、ようやく気付く。
毎日、私がちゃんと生きているのかを確認するために電話をかけてくるんだろうな……。
どうして毎日毎日、と不思議に思う気持ちが確かにあった反面、凌太のそんな隠された想いに気づいていた自分もいる。ずっと、凌太の電話から漂う私への不安な気持ちに気づかなかったわけじゃない。
安否確認のつもりで私に電話していたに違いない。
毎日毎日。ちゃんと私が生きているのかどうか、きっと緊張しながらの電話。
『週末まで会えないから寂しいだろ』
と言う軽快な口調で私をからかっていた凌太の気持ちの裏側にはいつも、私が馬鹿な事をしていないかどうかの不安を隠す強さがあったのかもしれない。
「千絵おばさんは、しょっちゅう凌太に電話してるの?」
ふと気になった事を口にすると、凌太はすっと表情をなくして
「時々……沙耶の事を気にかけて電話してくれたりはするけれど。こんなに切羽詰まって狂ったようにかけてくる電話は二度目だ」
凌太の言葉尻から感じられる怒気は、気のせいなんかじゃない。
本当に気分を害しているのがわかる。
「今日で二度目ってことは、一度目は、いつの事だったかわかるよな」
ソファに腰かけている私の横に凌太が座ると、膝に置いていた手をぎゅっと握られた。
温かい手だけど、微かに震えているのが伝わる。この震えは私のせいなんだ。
「一度目は、あの日だねきっと……凌太が合鍵使ってこの部屋に侵入してきた日」
「侵入か……ま、間違いないな。侵入でも犯罪でも、どうでもいいって思えるくらいに俺だって切羽詰まってたから、あの日はそんな事どうだって良かった」
「どうでもって……」
「そう、どうでも良かったんだよ。あの日、千絵さんから『沙耶が電話に出ない』って叫び続ける今みたいな電話をもらったあと、この部屋で酔っぱらってる沙耶を見るまでは俺だって死にそうに心臓が痛かった。また自分を傷つけてるんじゃないかと思って体中が震えてた」
私の隣で苦しそうにそう呟く凌太の体は、今もまた震えていて、じっと閉じた瞳も同じ。
ふるふると震えるまつ毛からは、凌太の悲しい感情が簡単によみとれる。
「傷ついた後、必死で生きている沙耶にはまだ会える時期じゃないってわかってたけど、それどころじゃなかった。ただ生きていてくれって、それだけでいい。たとえ今俺の事を受け入れてもらえなくても、生きていてくれって、それだけを考えてこの部屋に飛び込んできたんだ……あ、沙耶から見れば侵入なんだな……だけど、そんな事はどうでも良かったんだ。
沙耶が生きていてくれれば、それだけでいいって……思ってた。
だから、沙耶が生きている姿を見た途端、ある意味俺は壊れたんだ。
絶対に沙耶を生かしてみせるって誓って、たとえ俺を憎んだり拒否したりしても、いいって思って。
無理矢理抱いたんだ。
俺の勝手な行動が、沙耶の恐怖や憎しみ、不安を募らせることになれば、自分の体の事、少しは忘れるんじゃないかと、そう思って。……浅はかだったよな」
決してまとまっているわけではない凌太の長い言葉だったけど、彼の苦しかったあの日の気持ちだけは私にちゃんと理解できた……。
そして、今まで凌太の本当の気持ちに気付かなかった自分が情けなくて、ぐっと唇をかみしめた。
何も言えず俯いていると、それまで黙って凌太の話を聞いていた凛花が口を開いた。
「本当、浅はかだね。ただでさえ心身ともに傷ついていた沙耶に新たな不安や悩みを与えるなんてどういう男だと思う。無理矢理抱いたり、一年間自分の手元に縛り付けたりして沙耶を振り回して、本当馬鹿な男だね。沙耶に未来への執着心を持たせるならほかにいくらでも方法はあったはずなにに。本当に、馬鹿な男としか言いようがない」
「凛花……」
「でも、沙耶が今こうして生きているのはもしかしたらあんたのおかげかもしれない。
あ、調子にならないでね。許してるわけじゃないから」
最後まで厳しい口調で凌太を責めた凛花は、私を優しく見つめて小さく肩をすくめた。
「じゃ、帰る」
「え?」
あっさりそう言って、鞄を手にした凛花はすたすたと玄関へと向かった。
その凛花の後ろを慌てて追いかけた私は、どうしてこう簡単に凛花が帰ろうとしているのかわからなくて戸惑ってしまう。
決して私と凌太を二人きりにはしないだろうって、そう思っていたのに。
「凛花、もう帰るの?」
「うん、帰るよ」
私を見ないまま、なんてことないようにそう言い切る凛花。
声は普段聞いているそれと同じで、その様子が更に違和感を感じさせるんだけど。
私のそんな気持ちをわかっているのか、玄関に荒々しく脱ぎ捨てられていたパンプスを履き終えた凛花は
私のほうへ振り返った。その顔には、何かがふっきれたような明るさも浮かんでいて、さらに違和感。
「これまでのあの疫病神の行動全てを認めたわけでも許したわけでもないけど、少なくとも、これからは沙耶が傷つくような事はしないだろうって思えるから、帰る。
二人きりにしても大丈夫でしょ?あれだけ落ち込んでるあの男の顔を見られただけで、私はもう帰ってもいいやって思うし。
……私だって、沙耶がちゃんと生きていてくれるだけで、いいから。
その思いはあの男と一緒。……じゃ、帰るね」
凛花はそう言って、ふふふっと笑うと。
軽やかに帰っていった。
これからの凌太が私の事を傷つける事はしないと、そう判断した凛花と同じ気持ちを抱えながら、リビングで肩を落としている凌太の元へと戻った。
心は不思議と落ち着いていた。




