26話
気持ちをどうもっていけばいいのか、わからない。
千絵おばさんが私にしてくれたことを、どう受け止めていいのかがわからなくて足元が揺れた気がした。
近くのソファにゆっくり腰をおろして、息を吐くと、凌太は私の前に膝をついて、私の顔を見上げた。
その凌太の方が倒れそうなくらいに表情を失っていた。
「沙耶が、自分の人生を悲観したままなのを千絵さんは心配してたんだ……」
「うん……」
「沙耶がまた自分の命をどうにかしてしまうんじゃないかって……千絵さん自身が壊れそうだったよ。
俺の両親が励まして支えて、どうにか……沙耶の前でだけは普段と変わらない千絵さんを演じてた。
沙耶と別れてからもずっと、離れたままでしつこいくらいに沙耶を思ってた俺も限界だった……。
この腕に抱きしめたくてたまらなかった。
……千絵さんは、そんな俺の気持ちを沙耶がどう受け止めるのか不安だったみたいだけど、とにかく一度会ってもいいと、時期をみて連絡するからもうしばらく待って欲しいと言ってくれたんだ」
一語一語が重い。ゆっくりと確かめながらの凌太の言葉がずっしりと私の中に落ちてくる。
私が知らなかった事実がどんどん明るみに出てくる展開は、全く予想していなかった。
凌太にしても、ここまで真実を露わにしてくことに不安はあるんだろう。何度も顔をしかめては、口にする言葉を咀嚼している。
それだけ、私に気を遣ってくれてるとは思うけど、それでもやっぱり、予想外の過去の出来事が私の心を暗く沈ませていく。
その時、言葉が出ないまま凌太を見つめる私を代弁してくれるかのように、凛花が声を上げた。
「で、沙耶と会ってもいいと千絵先生から連絡があって、合鍵使ってこの部屋にきて無理矢理抱いたの?
それって、結局沙耶の為じゃなくて自分の気持ちを優先させただけでしょ?最低」
凌太に対する厳しい声は変わらないんだな……。
ぼんやりと思っていると、凌太は悲しそうに首を振った。
「違う。沙耶と会ってもいいと言われたわけじゃないんだ」
「は?我慢できなくて押しかけてきたって事?さらに最悪じゃない」
「……千絵さん、半狂乱になってたんだ。あの日」
「え?」
凌太は思い出す事もつらそうに眉を寄せて、口を閉じた。
それまで私の膝の上に置かれていた凌太の手が、私の頬に触れると、その手の冷たさに驚いた。
緊張しているのが、それだけでわかる。
「千絵さんは毎日沙耶に電話をして、沙耶の様子をうかがっていたのに、あの日……沙耶に電話が繋がらなかったから、思い出したんだ。血まみれで倒れていた沙耶を。
まだ事務所にいて駆けつけるのに時間がかかる千絵さんは、俺の携帯に連絡してきたんだ。
『沙耶が、沙耶がまた……』って狂ったように泣き叫んでた。
慌てて俺が駆けつけて……合鍵で入って。酒なんて飲まなかった沙耶が酒に酔ってるのを見て。
俺も、狂ったんだと思う。無理矢理抱いて……止まらなかったし、二度と手放すもんかって……。
生きてくれって、生きて俺の側にいてくれって。
……怖かったよな……俺の事、怖くて泣いてたんだよな。
でも、この一年、俺は沙耶がはっきりと拒まない事をいいことに、ずっと沙耶にしがみついてた」
「なんで千絵先生はあんたに連絡してきたのよ。事務所からここまでだって遠くはないのに、どうして自分が真っ先にこないのよ」
凛花の声に、私もそうだなと、他人事のように考える。
「千絵おばさんは、どうして凌太に……?」
凌太は、相変わらず私の頬を優しく撫で続けている。
「俺は、沙耶が住むこの部屋から……歩いて1分くらいのマンションに住んでるんだよ。
興味なかったか?どれだけ俺が沙耶にしがみついていても、沙耶は俺にはなんの興味も持ってなさそうだったもんな」
「そんな事……」
ない、とはっきりは言えないけれど、凌太に全く興味がなかったわけじゃない。
凌太の考えている事がわからなくて、いつもいつも探ってた。
凌太の本当の気持ちが知りたくてたまらなかった。
「気持ち悪いよな。別れた男が近くに住んでて……」
「ううん……」
だから、だから千絵おばさんは凌太に連絡をして、この部屋に来させたんだ……。
過去の裏側にひっそりと隠されていた事が私の気持ちを揺らす。
あの日突然この部屋に来た凌太の顔が浮かんできて、切なくなる。
「気持ち悪くても……俺の事、怖くても。俺の側にいてくれないか?
裏切るような事は、もうしないし、沙耶が幸せな人生を送れるように、ちゃんと愛するから」
掠れた声。悲しそうに細められた瞳。震える唇。
全てが凌太の本当の想いだと、わかる。
自分の気持ちがどう動いているのか、混乱しきっている今の私の心はつかみきれていなくて。
どう答える事もできない。
目の前の凌太に、私は何を求めているんだろう。
どこまでを凌太に託せばいいんだろう。
混沌として何も言えないままの私の言葉を、凌太も凛花も黙ったまま待っているようで、更に戸惑ってしまう。
凌太……。
その時、凌太のズボンのポケットから、携帯の着信音が鳴り響いた。
はっとして、その場の空気が変わる。
一瞬無視しようとした凌太は、しつこく鳴り続ける携帯の音にうんざりとしたように息を吐くと、ポケットから携帯を取り出した。
「え……?千絵さん……」
凌太の驚いた声が、私にも届いた。




