24話
「沙耶だってちゃんとわかってるんでしょ?このままこの男とずるずる一緒にいても、完全には幸せにはなれないって。早く縁を切って、飯島先生でも誰でも、沙耶を気に入ってくれてる男見つけて幸せにならなきゃ」
「飯島……って、あの弁護士だよな。すごいできるって感じの」
凌太が力なくそう呟いて、苦しげに息を吐いた。
ソファに座って膝の上にひじを乗せ、手のひらで顔を覆うようにしている姿に、なんだか切なさを感じる。
再会してからずっと見せられてきた強引な凌太の姿は見る影もない。
「飯島先生だけじゃないよ。事務所の中には沙耶に好意を持ってる先生は何人かいるし。
見た目も整ってる沙耶なんだから、合コンでも行っちゃえばすぐに彼氏なんて作れるのに。
あんたがいるから沙耶は気持ちにふんぎりがつかないの。
沙耶は、将来幸せにしてくれるかもしれない男に気づかないまま。……いい加減、沙耶を解放してあげなさい」
凛花が切々と訴える言葉は厳しくて、凌太に向けられたものだとわかっているにも関わらず、私の心も次第に痛くてたまらなくなる。
立ちすくんだままの私の体はどんどん固くなって、体温も下がっていくように感じる。
凌太が責められて、何も言わないまま俯いている。
いつも、言葉や態度から溢れる勢いで私を動かしていた威圧的な凌太がいなくて。
ただ心配げに私を見つめている。
高校時代、何度も見つめ合って笑い合った。
片想いが成就した先にあった幸せの日々を忘れられなくて、何かにつけて心のどこかからその思い出は現れた。
本当に楽しくて幸せだったから、完全に忘れるなんてできなかった。
凌太との思い出は私が一生抱えていく至福のもの。
だって、確かにあの頃の凌太は私をちゃんと愛してくれたから。
それを、私は確信してる。
そんな喜びの日々に見せてくれた凌太の瞳が、今私の目の前にある。
心配そうに苦しげに、私を気遣う凌太から、あの頃の時間がよみがえる。
「私……凌太に振り回されてるけど……無理矢理合鍵使って押しかけられて、驚いたけど……」
過去の明るい時間が私の中によみがえる。笑顔の私と凌太がそこにいる。
「凌太がどうして今更私の事を縛ろうとするのかも、結婚しようとするのかも、よくわからないし……」
そして、凌太が私を裏切って、私以外の女の子と寄り添っていたあの日だってよみがえる。
「会社の同僚の女の子と腕を組んで、女物の香水の香りをつけたまま帰ってきたりするけど」
凌太の側で、驚いたように私を見た彼女の顔は、もうおぼろげだけど、それでも不安げだったのは覚えてる。
「本当は、私が凌太から離れなかったのかもしれない。無理矢理振り回されてる被害者の振りして、結局は私が凌太の未来を潰してるのかもしれない」
止まらない涙が頬を濡らす。
こんなに涙がたくさんこぼれるなんて、妊娠しづらいって宣告された時以来だ。
声もなく、ただ流れる涙と一緒に、感情も溢れてくる。
凌太が立ち上がって私の側に来ると、その涙を手で拭ってくれる。
それでも止まらない涙と嗚咽が部屋に響いてどうしようもない。
凛花も慌てて駆け寄ってくると、私の顔を覗き込んだ。
「沙耶?別にこの男に気を遣う事はないんだから。……あ、もしかして脅されてる?
この男のせいじゃないって言えって脅されてるの?この一年の事考えたらそれもあり得るでしょ」
「違う……」
「私がいるんだから、怖くないよ。この男が脅してるのなら、ちゃんと言って大丈夫だよ」
本気でそう思っているのか、厳しく凌太を睨みつける凛花は、私をかばうように凌太との間に割って入った。
「沙耶がこんなに泣いて苦しんでるのは、全部あんたのせいだから。この一年、沙耶の時間は止まったままでちっとも動いていないの。それは全部あんたが沙耶の側で自分勝手なことばかりしてたからでしょ。沙耶を解放してあげて」
「違う。違う。っていうか、私の時間を止めてくれたのが凌太なの」
「だから、沙耶の時間を止めちゃったんでしょ?つらい時期から抜け出して、前に進んでいけるように動かなきゃいけないのにこの男がいるせいで、止まったままでしょ」
私の事、心配しすぎるくらいに心配してくれた凛花の怒りは尋常じゃなくて、まっすぐに凌太に向けられた鋭い視線と言葉にたじろいでしまう。
そんな厳しい言葉にも、凌太は表情を変える事はなく、私の様子をうかがったまま。
「沙耶の時間を進めるためにも、今日限りで沙耶の前から消えて。じゃなきゃ、沙耶は幸せになれない」
凌太は、凛花の背後に立つ私を見つめたまま、そっと首を傾げた。
『……そうだな』
と、諦めにも似た思いが凌太の視線から伝わる。
そんな凌太の気持ちを受け止めた途端に首を横に振ってしまったのは、私自身。
「沙耶?」
凛花の怪訝そうな声。
「違うよ……。凌太が私の側にいたから、私の時間が進まないままで、一年前傷ついた気持ちもそのままかもしれないけど。きっと、凌太が側にいてくれなかったら、私の時間は進むどころか逆行してたと思う」
ようやく落ち着いた涙だけど、声はくぐもっていて歯切れが悪い。
思う様に言葉にならない気持ちにもどかしさを感じながらも、今まで気付かない振りでいた事をちゃんと言わなきゃと、妙な焦りすら大きくなる。
「凌太が、私につきまとって離れなくて、自分の気持ちをがんがん押し付けてきて。
理由がわからないし怖いしどうしていいのかわからなかった。
ただでさえ体に傷を負って、そして自分で命を絶とうとした後で気持ちは沈み切ってたし……」
一旦言葉を切ると、じっと私の話を聞いてくれている二人の顔。
二人とも、『自分で命を絶とうとした』と私が言った時にはつらそうに顔を歪めていた。
本当、申し訳ない……。
「どこまでも落ち込んで、私の中の感情全てが悲しみになってしまったようだった。
千絵おばさんが悲しんだ顔を思い出して、もうバカな真似はしないでいよう、とにかく生きていようって。
それだけ考えて生きてた。
そんな状態だったから、生きているにしてもそのうち何の感情も感動も持たない人間になってたと思う。
それくらい……将来子供がもてないかもっていう現実は大きくて、きっと、沈んでいく気持ちは際限なかったと思う」
相変わらずの涙声は、さっきまでの涙のせいなのか、今話しながら目の奥が熱くなってきたのが原因なのかわからないけど。
あいかわらずの歯切れの悪い言葉で気持ちを伝えてみる。
「沙耶……」
凛花の切なげな声に、へへっと小さく笑って見せると、彼女は更につらそうに目を細めた。
「それまで飲めなかったお酒を飲まないと眠れなくなって、毎晩ビールとかチューハイを飲んでしまうくらいだめになってた。
でも、凌太が突然私の前に現れて、無理矢理自分の気持ちを押し付けられて。
その事への驚きとか怖さの方が大きくなったから……私の体の事とか、モノクロにしか考えられなくなった未来の事を考える余裕がなくなったんだ」
ちゃんと、自分の気持ちを言葉にできているのか、そして確かに伝えられているのか。
たどたどしい自分の口調で、大丈夫なのか。
不安だけど。浮かぶ気持ちを順番に言葉に変えて。
「凌太がいたから、私の時間は進めなかったかもしれない。
でも、いてくれなかったら、もっともっと後ろ向きで、沈んでしまって。私の時間はもっともっと幸せな未来からは遠ざかってたと思う」
少しの間、誰も言葉を発しないまま。
静かな緊張感に包まれていた。
その沈黙を最初に破ったのは凌太だった。心細い、そして探るような声で、私に
「俺が、沙耶の側にいた意味はあったか……?」
その声音を感じて、やっぱりと思った。
凌太は、私を再び人生の流れの中に呼び戻す為に側にいてくれたんだと、それはきっと間違いないと思った。




