23話
部屋に入ってきた途端に凌太を確認した凛花は、少し息があがっていた。
早退して帰って来た私を心配してここまで来たせいなのか、凌太が部屋にいると知って急いできたせいなのか。
そんな事が気になったけど、それを聞く雰囲気なんて生み出せないような凛花の鋭い空気に、私は何歩も後ずさった気分。
リビングに移っていた凌太は、ソファに腰掛けたまま凛花の厳しい視線をしっかり受け止めていた。
まるで今から裁判でも始まりそうな凛花と凌太の間には、まあ、特に凛花が。
怖いくらいに鋭い緊張感が漂ってる。
「例の?」
リビングに入った後、荷物を投げ出すように床に置いた凛花は、胸元で腕を組んで低い声でそう言った。
例の……。って、『例の疫病神』って意味だとすぐに理解できる。
きっと、凌太だってわかったはず。思わず浮かんだ苦笑交じりの表情からそれがわかる。
そんな余裕ありともとれる凌太の様子にイラっときたのか、
「いつまで沙耶につきまとうのよ」
大きな声で凌太をなじった。
もともとはっきりとした性格の凛花だから、感情を露わに出す事も多く見てきたけれど、今の凛花の声には苦しみや切なさすら込められているようで、単純に凌太を怒っているだけには聞こえなかった。
「はっきり言って、おかしい。自分の勝手でつきまとって沙耶を縛り付けて。
沙耶の気持ちなんてまるっきり無視してるでしょ。沙耶がこの先幸せになるのに、あんたは不要だからとっとと消えなさい」
震える怒りって、今の凛花から漂うものなのかと気付く。
体中から溢れる熱い感情には、どんな弁解も許さないような密な怒りしか感じられない。
顔を真っ赤にしている凛花の気持ちがここまで私を気遣うものだったと知って、自分の考えの甘さに情けなくなる。
きっと、今日も私を心配して心配して、仕事もそこそこに駆けつけてくれたはず。
私がばかな事をしでかさないか、それだけを心配して駆けつけてくれたに違いない。
本当に不安でいっぱいになった時には、携帯で連絡を取る時間すら惜しいと、前に言われたことを思い出して更に切なくなる。
「ごめん……凛花」
小さく呟く私をキッと睨んだ凛花は
「そう、沙耶も悪い。昔の恋に未練持ってるのは仕方ないとしても、これからの自分の未来に何が必要かを考えなさい。何が沙耶を麻痺させてるのか知らないけど、この男がしてる事は犯罪として警察に訴えられても仕方ない事で、沙耶は被害者なんだよ。どうしてそれに気づかないの」
凌太に対する言葉と同じ冷たさで私を責めた。
分かってる。頭では私もわかってる。凌太が私の側に居座る事を容認しているせいで、更に凌太も私から離れないという悪循環。私がはっきりと凌太を拒否しなかったのも原因だから。
凛花の言うこともわかる。
「警察……考えた事、あるよ」
ぽつり。呟いた。
「凌太が、『俺の事が本当に迷惑で、二度と会いたくないって思うなら警察に連れて行っていい』って最初に言ったから……何度も考えたよ」
私の部屋に合鍵を使って押し入ってきたあの夜、無理矢理私を抱いた後でそう言った凌太。
私を抱いている間中『生きてるだけで、それだけでいいから。俺を憎んでも生きててくれ』と何度も声にして私を揺らした凌太は必死だった。
お酒が回っていた私の体は抵抗する力もなく凌太のなすがままだったけど、それでも意識ははっきりとしていて、凌太が単に私を好きに弄んでいるだけだとは思えなかった。
まだ恋人同士としての気持ちを通じあわせていた頃の抱き方とはまるで違う切羽詰まった抱き方は、恐怖を覚えるものでもあったけど、それだけではない何かも感じた。
だからか、どんなにしつこく凌太がまとわりついても、私の気持ちを無視した行動をとっても、警察に連れていくなんてできなかった。
「凛花の言う通り、私も悪いんだ。凌太の行動を受け入れて助長して。ほんと、だめだね。裏切られた過去を忘れたみたいに一緒にいて……」
肩を落として、自分のこの一年を思い返す。裏切られた事をどこかに追いやって、凌太に振り回されるだけ振り回されてる私に、凛花があきれるのも無理はない。
気付いてはいた。自分でも気付いてたけど、それでも凌太を突き放せなかったのは、過去への回顧とやっぱり未練なのかもしれない。
そんな自分への言い訳になるとわかりながらも、凌太が私よりも当時側にいた女の子を選んだ理由を話した。
お互いの両親に私達の付き合いを知られていた事や、特に凌太の両親は私との結婚までをも期待していた事。
……凌太にとってはわずらわしくて仕方なかった干渉。
そんな私の言葉にため息を落とした凛花は、凌太と私二人に視線を投げると。
「裏切りなんて、どうでもいいの」
そう言い放った。
「え?どうでもいい?」
驚いた私に小さく舌打ちした凛花。あ、本気で怒って呆れてる……。
「恋愛なんて出会いと別れを幾つも繰り返すものなんだから、裏切りだって時にはあって当然なのよ。
そりゃ、裏切りに正論は通用しないし人を傷つけるものだけど、初めて好きになった人とそのまま一生を終えるなんて事は、滅多にないんだから。
気持ちが他の人に揺れるなんて、仕方ないしどうしようもない。
この男が沙耶ではなく、他の女に気持ちを持って行ったとしても、それは仕方ないよ。
この男を繋ぎとめる魅力が沙耶に欠けてたってことだから」
一気に言葉を落とした凛花は、凌太が昔私を裏切った事については責めなかった。
私を裏切って、他の女の子を選んだ凌太の行動が自然な事のようにも聞こえたし、私に魅力がないから他の女の子を選んだってそう言ってる。
これまで散々凌太を責めて『疫病神』だと言ってたのに、どうして今更凌太の行動を肯定するんだろう。
「違う、沙耶に魅力がなかったわけじゃない。俺が……両親への面倒くさい気持ちから逃げたくて、それで裏切ったんだ……沙耶は悪くない」
それまで苦しそうな表情はしていたけれど、黙って凛花の話を聞いていた凌太が口を開いた。
私の事を悪く言われたと思ったのか、反論する口調は強かった。
でも、そんな凌太の言葉にも動じることなく、凛花はふっと軽く笑い
「誰が沙耶の事悪いって言った?悪くはない、魅力がなかったって言っただけ」
「それも違う、沙耶には魅力があった……俺は、あの時沙耶が好きだった」
「確かに好きだったかもしれないけれど、周りのしがらみやら面倒くささやらを超えるくらいの魅力はその時の沙耶にはなかったんだよ。どんなにややこしくていらいらする状況だったとしても、それを含めても尚沙耶を側に置いておきたい、愛し合いたいって思わせるくらいには、沙耶に魅力がなかったんだ。
……その時のあんたには、沙耶という面倒くさい状況こみの女よりも、単純に恋愛を楽しめる女の子の方が魅力的だったんだよ。
だから、裏切った事自体は誉められた事じゃないけど、別にどうでもいい」
大きく息をついた凛花は、相変わらず冷たい視線のまま凌太を睨みつけると。
「でも、沙耶の未来を潰すようにつきまとってる今のあんたの行動が、私は許せない」
低く力強い声が部屋中に響いて、私の心を刺したように感じた。




