14話
すっかり機嫌が悪くなった凌太を気にしながら、モニターに映る飯島さんに返事をした。
「飯島さん、どうしたんですか?まだ帰ってなかったんですか?」
モニター越しに見える飯島さんは、まだスーツ姿だ。夕方私を家まで送ってくれてからは既に2時間は経っているのに、まだ家に帰ってなかったのかな。
『車に忘れ物してたから、持ってきたんだけど。ほら。』
飯島さんが軽く笑いながら、モニターに見せた物は、
「あ、IDっ」
モニター越しに映るのは、事務所に入館する時に必要なパス。真面目な顔をしている私の写真がぼやけて見える。
『助手席の下に落ちてたから、持ってきたんだ。ないと、明日事務所に入れないだろ』
「すみませんっ。気付かなかったです。今から下におりますのでしばらく待っててもらえますか?」
『部屋まで持って上がろうか?』
「そんな、申し訳ないので私がおります。じゃ、いったん切りますね」
モニターをオフにして、慌ててエプロンを外しながら凌太を見ると、不機嫌さをあからさまに見せるその表情に驚いた。眉を寄せて顔を歪めるその表情は、これまでになく険しい。
「助手席って、どういう事だ?俺以外の男の車に乗ったって事だよな。やっぱり、突然俺が来て驚いたのは、沙耶に後ろめたい事があるからか?」
「違うよ。今日は仕事の後たまたま乗せてくれて、買い物に付き合ってくれただけ」
私を責めるような凌太の口調にも態度にも、過去の凌太の事が浮かんできて
『凌太が言うのはおかしいでしょ』
と反論したくなるけれど、さっきまで凌太が見せていた心細げな様子が浮かんできて強く言い返せない。
本当、ずるいな。
私が凌太に対して強く出られないように、まるで計算してるみたいだな……。
「とにかく、下におりてくるね。すぐに戻ってくるから」
「無理。俺も一緒に行くから」
「は?なんで?」
「沙耶はもうすぐ俺の嫁さんになるって牽制しておく。止めても無理だから。俺以外の男が沙耶に近づくのはむかつくんだ。さ、とっとと終わらせるぞ」
私の気持ちなんてお構いなしに、さっさと玄関に向かう凌太の背中からは強い意思が感じられる。
ぐっと結んだ口元からは、苦しげな気持ちも伝わってくるようで、どうしても下におりるらしいとわかる。
慌ててその後ろをついて行くと、突然立ち止まった凌太は、振り返ると同時に私を抱き寄せた。
はっと思った瞬間、唇に感じる熱にびっくりしたまま動けない。
「何があっても、沙耶が何を考えていても、俺はもう沙耶から離れる事はないから。
7年前の事で俺を信じ切れなくてもいい、7年前みたいに心から愛してくれなくてもいい、だけど俺の側からいなくならないでくれ。他の男にかっさらわれないでくれ」
つらそうな言葉が耳元に響いてるけど、今この瞬間に凌太がこんな風に切羽詰まってるのがよくわからない。
「かっさらわれないし、とりあえず今は凌太の前からは消えないよ」
何故か真剣に悩んでいるような凌太に同調しないように、敢えて軽く言った私は凌太からそっと体を離すと。
「飯島さんが待ってるから行くよ。凌太は部屋にいて」
「だから無理だって。行くから」
忘れ物取りに行くだけだから、私一人でいいのに、そんな私の気持ちをくみ取ることなんてまるでありえないように私の手を掴むと、玄関へと向かった。
あーあ。結局飯島さんに会うわけね。
飯島さん、驚かなきゃいいけど。
小さくため息をついて、凌太の手に引っ張られるまま、飯島さんの待つ一階へと向かった。
* * *
「わざわざすみません」
一階におりると、マンションの入り口の脇に立つ飯島さんがいた。さっき別れた時と同じスーツだから、やっぱり家には帰らなかったのかな。
私の声に振り向いた飯島さんは、私に気づくと笑顔を見せてくれたけれど、それはほんの一瞬で、すぐに怪訝そうな顔に変わった。
あ……やっぱり。
そりゃ、凌太と手をつないで現れたんだから、驚くよね。私に恋人がいるのかを聞かれて、はっきりと否定してなかったことも思い出して、少し気が重くなった。
「飯島さん、まだスーツですけど、家に帰らなかったんですか?」
「ああ、事務所から呼び出しがあって、いったん事務所に戻ったんだ。で、今度こそ帰ろうと車に乗った時にこれに気付いたんだ。……はい」
飯島さんが差し出してくれた私の入館証を受け取ろうとした時、凌太の手が素早くそれを手に取った。
まるで早く返せよとでもいうような素早い動きに、伸ばしかけた私の手はしばらく宙に浮いていた。
飯島さんも驚いた様子で凌太をじっと見たまま。
「わざわざありがとうございました。沙耶は慌て者で時々忘れ物をしたり、頼りないですし、仕事では何かとご迷惑をおかけすると思いますが、結婚後もよろしくお願いします」
「は?」
突然言い出した凌太の言葉に驚いたけれど、既に遅く。
「あ……沙耶さん、結婚するんだね。あれ……君、たしか……」
驚きながら呟く飯島さんは、何かを思い出したような表情で私と凌太を交互に見た。
「結婚なんて……ち、ちがいま」
「結婚式には事務所の先生たちにも来てもらおうと、千絵さんとも話してるんで、ぜひ来てくださいね」
棒読みに近い口調は威圧的で、凌太が話す内容全てを否定したいのに、それができない空気を作ってる。
必要以上に飯島さんにくってかかる様子は、再会してから今までのふわふわとした掴みどころのない凌太の一年を覆すくらいに厳しい雰囲気を出している。
それでも、そんな厳しい様子の凌太を目の前にして、流されに流されている自分の今の立ち位置の曖昧さに気づいてしまう。
結婚を、受け入れた記憶はないし、凌太への猜疑心を完全に捨てきったわけでもない。
飄々としていた凌太が一変して、飯島さんにきつい言葉を投げる様子によって、自分の不安定さに気づかされる。
仕事でお世話になっている飯島さんと私の関係さえも揺るがすような一方的な凌太の態度には、違和感すら覚える。
そんな凌太からの冷たい視線に戸惑いながらも、飯島さんは小さく笑って
「沙耶さんが結婚したら、事務所でも残念がる男が結構いるね。ま、俺もその一人だけど」
寂しそうに肩をすくめた。そんな飯島さんの誤解に、私は焦ってしまって。
「あ、違います。結婚なんて、しません」
思わず、そう叫んでた。
隣の凌太が、はっと息をのむのを感じながらも、思わず大きな声でそう言っていた。