12話
「な、なんで凌太がいるのよっ」
目の前に立つ凌太に驚いて、声も裏返ってしまう。
「なんでって、沙耶に会いたかったし見せたいものもあったからだけど?」
「今日、げ……月曜だよ。と、突然来ないでよ」
「何慌ててるんだよ。もしかして俺が来たらまずかったのか?他に男でも来るのかよ」
「な、来るわけないでしょ。凌太じゃないんだから、簡単に部屋に男なんか呼ばないわよ」
「俺がいつ呼んだんだよ」
「呼んだでしょ、女の子っ……すごいかわいい女の子と一緒に部屋で寄り添ってたじゃないの……あ」
「……あ、じゃねえよ。今更そんなつらそうな顔するなよ」
ついつい言葉の勢いで、言ってしまった七年前の時間が、二人の間に重く漂う。
再会してからも、なかなか言い出せなかった別れの原因となったあの瞬間の女の子の事。
聞きたくて聞けなかったのは、単に私に聞く勇気がなかったからで、凌太に気持ちが残っているからだけど。
今日一日ずっと凌太の事を考えすぎていたせいか、感情が麻痺してしまったかのように飛び出してくる。
「……仲良さそうに手をつないでたし、凌太だって私よりもあの女の子を大切にしてる目をしてた」
「だから、そんなつらそうな顔するなって……」
そういう凌太も顔を歪めてつらそうにしてる。
私があの日どれだけのショックを受けて傷ついて、ずっとずっと引きずってたのか、理解してないくせに。私が凌太に裏切られた後、どんな男の人にも気持ちを揺らす事が出来なかった事、わかってないくせに。
「……悪かった……」
凌太は、私を抱き寄せて、その胸に収めた。
一瞬、その胸に手を突いて離れようとしたけれど、凌太の腕はそれを許さない。
凌太は私の背中に腕を回すと、息苦しくなるくらいに密着させた。
凌太の鼓動がとくとくと聞こえてきて、目の奥が熱くなる。
抑えていた感情が、涙になってこぼれてしまう。
我慢してたのに、泣かずに我慢して過ごしていたのに。
一瞬気持ちが緩んだせいで、熱い涙が目から流れていく。そして、凌太のスーツを濡らしていく。
でもその瞬間に、微かな甘い香りに気づいてしまった。顔を埋めた凌太のスーツから、甘い香りを感じる。
少し爽やかで、軽い甘さは七年前に感じていたものとは違うけれど、確かに凌太のスーツには香水の香り。
女性用に違いない香りが、凌太のスーツから感じて、体中が強張った。
嗚咽に似た声も出ないまま、あっという間に硬くなってしまった私に気付いたのか、それまでひたすら私の体を抱きしめていた凌太の腕が緩んだ。
そっと私の体を離した凌太は、不安そうに私の目を覗き込むと
「どうした?」
「……まただ。また、甘い香りがする」
「え?甘い香り?ってなんだ?」
「凌太のスーツから、女物の香水の香りがする」
「……は?香水?俺香水なんて使わねえぞ」
「だから問題なんでしょ。普段香水なんて使わない凌太が女物の香水の香りをさせてるってのが問題でしょ。
スーツに香りが移るほど女の子と近くにいたって事なんだから。女の子と寄り添って、今私とこうしてるみたいに抱き合ってたりして。それともまだ、あの女の子と続いてるのかな」
「……あの女の子?」
「私を裏切ってまで選んだあの女の子とは、今でも続いてるの?
それとも今は、この香水の女の子とどうにかなってるのかな」
空気が冷たくなった。私の肩に置かれていた凌太の手がすっと離れて、私の体温も下がったように思えた。
私を見つめる凌太の瞳はどう見ても翳りを帯びた。
「やっぱり、そうだよな。沙耶じゃなくて、あいつを選んだのは俺だからな。
何を言われても、仕方ないか……。
でも、今感じる香水の香りはきっと、会社の同期の女の子から移ったと思う。一緒にいる時間が結構長かったから、俺のスーツに残ってるんだろう。……どう言えば、信じられる?」
真摯な言葉に、私の気持ちも落ち着いてきて、必要以上に興奮した言葉を口には出さなくなったけれど。
私の言葉に傷ついたように顔を歪めた凌太の口から『あいつを選んだ』とはっきり言われると、思い出さないようにしていた苦しみと悲しみが強くよみがえる。
凌太が女の子と部屋で寄り添っていて、思わず合鍵を返して部屋から私物を持ち出したわたし。
そんな私が、凌太を捨てたと、私の方から凌太に別れを告げたと思っていたのに、凌太からすれば私ではなく
『あいつを選んだ』という事になると。
今ようやく気付いた。
私が凌太から離れたんじゃない。凌太が私を捨てたんだと。
気持ちの奥では気付いていたのに、気付かないふりをして気持ちの平衡を保っていたのに。
「やっぱり、凌太は私を捨てたんだね……」
改めて実感した私は、体中に悲しみが満ちていく。
あの日よりもずっと前から、凌太の心が私から離れていくつらさをちゃんと受け止めていたし、覚悟もしていたのに。凌太に捨てられた事実によって私が壊れないように、逆の現実にすり替えてどうにか生きてきたんだ。
他に好きな女の子ができた凌太を見限って、私の方から凌太にさよならを告げたと、そう思い込んで生きてきたと気付いた。
「沙耶……?」
「今日、凌太が会社の人達と大通りを歩いてるのを見たよ」
「大通り?」
突然私が口にした話題に、凌太は首を傾げた。今までの話題とどう繋がるのか理解できないようだ。
「みんなとすごく楽しそうに歩いてたよ」
「あ、ああ。新規の会社にプレゼンしに行ってたんだ。同期何人かでチーム作って頑張ってたんだけど。
見たなら声かけろよ」
「ん。大通りの反対側にいたし。なんだか凌太が凌太じゃなかったから、声かけられなかった」
「は?」
「いつも、私しかいらないとか、私を愛してるとか言うし、すごく優しく私を抱くのに。
女の子と腕組んでた。全然振り払う様子もなくって自然に腕を絡めて歩いてたから、声かけられなかった」
熱い、熱い涙が頬をつたう。どうしてだろう、凌太の事で気持ちを揺らすのはやめようって思っていたのに言葉が止まらない。高揚した感情のままで、こぼれるように落ちる言葉が自分を傷つけていく。
……もちろん凌太の心も傷ついてるはず。
「今、凌太のスーツに残ってる香水の香りは、昼間に腕を組んでいた女の子から移ったものかもしれないし、そう思い込めば自分も楽だけど、やっぱり、だめなんだ」
涙声になる私を、哀しげに見つめる凌太。
ずるいよ。傷ついてるのは私の方なのに、そんな悲しい顔しないでよ。
「今日腕組んでたのって、深い意味はないし、彼女とは同期として仲はいいけどそれだけだ」
『信じろよ』と言外に意味をこめて、言い聞かせるように必死な表情で離す凌太の表情には怪しさもなく、嘘をついているようには思えない。
本当に、今日腕を組んでいた女の子とは、特に何もないんだろう。
女の子の本当の感情はわからないけど。
「今日は、たまたま女の子と腕を組んでるところを見たから、そのせいで香水の香りがするって言われたら信じるけれど、この先、また同じように凌太から香水の香りがしたとすれば。私が凌太を疑ってしまう自信あるんだ」
「疑うって、俺が浮気するって……?」
低く暗い声音は、普段の凌太からは聞いた事のない絶望の声。
「凌太から、香水の香りを感じる度に、私はあの日凌太に捨てられた事を思い出すんだよきっと。
凌太に何も非はなくても、それを私がわかってても、やっぱり疑ってしまうんだよ。
いつかまた、私じゃない他の女の子を選ぶんだろうなって、疑ってしまう。
そんな私は、やっぱり凌太とは……」
「それでも俺は、沙耶と結婚するから」
私の言葉を遮るように、凌太の固い声がキッチンに響いた。