10話
その後、頼まれていた本を買ったあと、お目当てのシュークリームも手に入れて。
事務所に戻った私はこまごました雑用を一気に片付けた。
「お疲れ様でした」
就業時刻を過ぎて、担当している音科先生に挨拶を済ませると急いで事務所を出た。
春先の夕方は、まだまだ明るくて仕事あとでも活動するにはもってこいだ。
駅に向かって歩いていると、歩道横の道路にすっと車が一台止まった。
何気なく視線を向けると、助手席側の窓がすっと開いた。
「乗っていくか?」
「あ、飯島先生」
「俺も今日はこのまま帰るんだけど、良かったら送ってくぞ」
そう言うと、私の返事を聞かないうちに車を降りてきた。
「ありがとうございます。でも、これから行くところがあるんで、いいですよ。
飯島先生、普段忙しいんですから、こんな日こそ彼女とデートでもしてくださいよ」
からかうように話す私の目の前に立つ飯島先生は、小さく笑って
「普段忙しすぎて、彼女なんていないよ。弁護士っていう肩書があっても、なかなか会えない恋人ならいらないんだってさ。そう言われて何人の女に捨てられたか」
「えー、飯島先生が捨ててるんじゃないですか?結構もてるって聞きますよー」
「誰からそんなでたらめな噂聞くんだよ。いっつも取り残されて泣いてるのは俺なのにな」
肩をすくめて私を睨んだ飯島先生は、気を悪くした風でもなく軽く聞き流したように見える。
きっと、私以外にもそんな事言われたことがあるんだろう。
見た目が整った若手弁護士なんて、女が放っておくわけないもんね。たとえ会える時間が少なくても、手離すなんて惜しいだろうし。
きっと、飯島先生から女の人との距離を作ってるんだろうな。
「じゃ、私行きますね。お疲れ様でした」
軽く頭を下げて、駅へ向かおうと歩き出した途端、ぐっと腕が掴まれた。
は?
振り返ると、飯島先生が私の腕を掴んで笑っていた。
「あの、飯島先生?」
「だから送る。彼女もいない俺は暇だから、どこへでも送ってくぞ。さ、乗って」
そう言うと、私が抵抗する間も与えずに強引に助手席のドアを開けて、一気に私を押し込んだ。
「ちょ、ちょっと飯島先生、困ります……先生?」
「いいから座っとけ。ちゃんと送っていくし、悪さはしないから。だっておれ、弁護士だし。
合意じゃない事は無理矢理しないから安心しろ」
どうしてこんな展開になったんだろう。
強引に助手席に座らされた私は態勢を整えると、運転席に座った飯島先生を睨みつけた。
「ほら、シートベルトして。ここ長く車停められないから出すぞ。……早く」
「あ、はい」
私が慌ててシートベルトを着けたのを確認すると、飯島先生はゆっくりと車を出した。
「で、沙耶さんはどこに行こうとしてたわけ?」
最初の信号に止まった時、私を見ながらそう聞かれたんだけど。
どう答えていいやら。
「えっと、もうすぐ見えてくると思うんですけど、雑貨屋さんなんです。
結構大きなお店なのですぐわかると思いますけど」
「は?すぐ着くのか?」
「はい。電車で一駅なんで、歩いてでもいけるくらいに近いんです。……すみません、せっかく気を遣ってもらったのに」
信号が青になって、車がゆっくりと動き出した。
左手にお目当てのお店の外壁が見えてきて、『あのお店なんです』と指さすと、飯島先生はそっと車を寄せて止めてくれた。
「ほんと、近かったな。で、今から買い物でもするのか?」
「はい、『せいろ』が欲しいんです。家で使ってたのが小さいので、大きめのがあればいいなって思って」
「『せいろ』って、あの蒸したりするやつ?」
「そうです。シューマイ作る時に必要なんで、欲しいんですよね」
「へー。料理、ちゃんとしてるんだな。……恋人にでも作るのか?」
……。恋人?……じゃない。元カレだけど。
凌太がシューマイ食べたいって言ったのがきっかけで、我が家でそれまで使ってた小さめのせいろではなく大きめのものが欲しくなったんだ。
週末は結局ホテルにお泊りして散々外食を楽しんだから、リクエストされたシューマイを作らなかった。
日曜日の晩、自分の部屋へと戻る凌太が思い出したように
『今度こそ、沙耶のシューマイ食べたい』
言い残して帰って行った。
凌太に縛られる週末がこの一年続いていて、いつの間にかそれが当たり前になっている。
単なる元カレだというのに、この状態だけを考えると、私達って付き合ってるようにも思えてしまう。
そうじゃないんだけど……。凌太は単なる元カレ、それも私を裏切った最悪の男だってわかってるんだけど、凌太の言葉が私を侵食していくから。
小さなお願いだとしても、気付けばその凌太のお願いの為に体も気持ちも動いてしまうんだ……。
今日の昼間、偶然目にした仕事中の凌太の顔や、凌太の傍らにいた女の子達を思い出すと切なくなるけれど、それでも。やっぱり凌太の言葉が私に影響を与える。
『シューマイ食べたい』
っていう些細な言葉でさえ、それが凌太の言葉なら、私には大きいんだ。
本当、凌太に振り回されてる私って一体どうなのよって情けなくなるけど、何度悩んで迷っても、結局大きな
『せいろ』
を求めて仕事もさっさと終わらせる自分に気づくだけだ。
大きな『せいろ』を使って、美味しいシューマイを週末作ろうって思ってしまう自分に、苦笑以外浮かばない。
「沙耶さんの恋人って、蒸し料理が好きなのか?」
飯島先生の低い声に、私は意識を戻すと肩をすくめた。
「蒸し料理っていうか、シューマイが食べたいらしくて、それで」
恋人って聞かれた事には答えずに、あっさりとそれだけを言った。
凌太が私の恋人だとは、どうしても思えないししっくりこないけれど、最近揺れている自分の気持ちがどんなものなのか掴み切れていないせいか、あえて言葉にはしなかった。
単なる元カレだと、そう思ってこの一年間過ごしていたけれど、なんだかそれもあやうい自分の真意は、一体どこにあるんだろ。
ハンドルの上に置かれた腕に載せた顔を私に向けている飯島先生に、曖昧にほほ笑みながら。
ぐるぐると私の気持ちは揺れに揺れていた。