君へつづる
『好きです』
という言葉から始まって、
『好きです』
という言葉で終えらている、手書きのラブレター。
おおよそ二十五年に及ぶ人生において、そういったものを僕はたったの一度だけ手に入れたことがある。
それは今から十年前の出来事で。
それは直接、彼女から僕へと手渡しされたものだった。
当時、しがない男子高校生だった僕には浮いた話の一つもなかった。
周りの友人たちが着々と青春をものにしていく様を見せ付けられるばかりの悲しい日々で、同年代の女性とは縁がないどころか、要領の悪い僕などはクラスにおいて段々と目立たぬポジションへと落ちぶれていった。
そうこうしているうちに引け目を感じていたのかもしれない。
あるいは、ひょっとすると自分でも気が付かないうちに毎日が充実している他人への嫉妬心をむき出しにしていたのかもしれない。
自然と僕の周りには、人が寄り付かなくなっていた。
……とはいえ、友達がいないならいないなりに、一人きりでも高校生活をやり過ごすことはできる。
孤立していたって生きていける。
そう思い込んでいた僕は、そうならなくなるときが来るのではないかと毎日が怖かった。
いつしか僕は学校そのものが怖くなってしまったのだろう。いつもいつも放課後を迎えると、わき目も振らずに教室を飛び出していたものだった。
「あの、さ……」
「え?」
前触れもなく呼び止められた僕は、さぞかし不思議な顔をしていたことだろうと思う。
なにしろこうして他人から声を掛けられること自体、母親や教師以外の女性から話しかけられること自体、僕にはほとんど久しぶりの出来事で、まるで理解が追いつかなかったのだから。
そこは、放課後の校門付近だったと思う。
その時、僕らの周囲には呼び止めた少女の他に人影はなく、まるで時間の流れがせき止められてしまったかのように静寂が広がっていた。
声をかけられた僕は誰かに声をかけられたのだという事実に対する驚きを隠しきれず、言葉を忘れた馬鹿な人間みたいにポカンと口を開けたまま彼女の顔を見つめ返した。
何をしゃべるでもない。ただ会話や言葉の必要性というものを、すっかり忘れてしまっていたのだ。
こうして真正面から誰かと一対一で向き合う。
そんな経験、悲しいかな、高校に入学してからは初めてだった。
「久しぶり、だよね」
そこに立っていた少女は、たまたま僕と同じ高校に入学していたものの、いつの間にか顔を合わせて話すことのなくなっていた幼馴染だった。
小中学生のころは男女の性別の垣根を越えて、僕と彼女は仲良くつるんでいたのだと思う。よく二人で馬鹿をやりあっていたし、仲がいいなりに登下校もともにしたものだ。
そんな僕らも時を経て気まずさを覚えたのか、高校への入学を境にして接点を失ってしまった。
どちらからということもなく、お互いに望んでそうなったのだと僕は考えていた。少なくとも彼女の中における僕の優先度は下がったのだろうと。
だからこそ、僕には目の前に立つ彼女の顔が、どうしても不思議でならなかった。
恥じらうように顔をうつむかせてしまう彼女の、まるで勇気を振り絞ってそこに立ち続けているのだというような、今にも緊張でつぶれてしまいそうな彼女の様子を目にした僕は、なぜそこまでして僕のことを呼び止めたのか理解することができなかったのだ。
だから僕は彼女を待った。
黙って待つことしかできなかった。
なにしろ、なにがなにやら全く事情がわからなかったから。
一体彼女がこれから何をするつもりなのか、対する僕はどんな反応をするべきなのか、まるでわからなかったから。
「その、これ……」
そう言った彼女の手には、折りたたまれた一枚の便箋があった。
わずかに震えつつも差し出された、一通の手紙。
「ん?」
「受け取ってくれない?」
「う、うん。じゃあちょっと待ってて、すぐに読むから」
何が書かれているのか予想することができなかった僕は、彼女から受け取った手紙をなんのためらいもなく開いた。
最初に僕の目に入った言葉は、『好きです』という言葉。そして最後に目に入った言葉も、やはり『好きです』という言葉。
その場で一息に手紙を読み上げた僕には、やはり何も理解することができなかった。
なんとか理解しようにも、すぐには信じることが出来なかった。
それが、どうやら本物のラブレターであること。
それが、どういうわけか僕へと向けられた好意であるということ。
何度も何度も読み返すうちに、やっとのことでそれを理解することができた僕は、その瞬間に便箋を握り締める両手が震え始めた。
つづられた文字を追っていたはずの両目は左右へとせわしなく泳ぎ、つづられた内容を理解したはずの頭の中はすぐさま真っ白となり、さらにはあまりに高鳴る胸の鼓動により、ただの呼吸にさえ苦しみ始めた。
何故か?
――無論、舞い上がるほどの嬉しさと、それをすっかり覆い隠してしまうほどの恥ずかしさ、緊張ゆえにである。
「あ、えっと、あの……」
手紙から顔を上げた僕には、まともな言葉を発することすらもできなかった。
ただあまりの衝撃に、やはり彼女の言葉を待つことしかできなかった。
「私の、気持ちだから」
そう言った彼女は照れるでもなく、とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。
気持ちを伝えることができたのだと満足してしまったのか、彼女はどこか達観したような爽やかさで、すがすがしさで、僕へと媚びるような雰囲気はまるで感じ取ることができず、ゆえに彼女の笑顔はどこまでも清純だった。
目が合ったその瞬間に僕は、たちまち胸を締め付けられた。
あまりの気恥ずかしさに、僕は彼女に答えらしい答えを伝えることができなかった。頷くことも、首を振ることも、微動だにすることもできなかった。
そのラブレターに対する回答を、とうとう僕は彼女に伝えることができなかった。
情けない話が、僕はその出来事をずっと濁し続けてきたのである。
彼女からラブレターを受け取ったのだという事実そのものさえ、ずっと誤魔化し続けたのだ。
答えたいと、思わなかったわけではない。当時の僕はただ単純に、はっきりと答えることができなかっただけである。
そして僕はそのまま高校を卒業してしまう。彼女のラブレターについて答えを出すこともなく。
そして、その答えを彼女から求められることもなく。
高校を卒業しても、大学を卒業して就職しても、僕はずっとそのラブレターのことが頭の片隅から離れず、うやむやにしてしまった答えを探し続けてきた。
たぶん、今ならそれを後悔によって見つけることができるのだと思う。
あの日から十年間、ついに僕は彼女以外の女性を好きになることができなかった。
これからも、きっと彼女以外の女性を好きになることはないだろう。
なぜならば、そう、きっと、あの彼女のラブレターは僕の心を射抜いたのだ。見事に射抜かれてしまったのだ。
思えば純粋に、あの時の僕は彼女に好きだと答えてしまえばよかったのかもしれない。
こうして今、改めて彼女のことを想うたび、僕はどうしようもないほどに恋をしているのだと思い知らされる。
思い知らされて、打ちのめされる。
打ちのめされて、言葉を失う。
言葉を失った僕は、それが名状しがたい不思議な感情なのだと、胸の痛みとともに噛み締める。
それが恋か。
ああ、これが愛情か。
今更ながら恋愛感情を胸に抱いた僕は、この気持ちを伝えたいと願った。
書くしかない。
いつしか、僕はそう結論付けていた。
だから僕はペンを取り、ひたすら自分の気持ちに向き合ったのだ。
そして彼女に向けて書き上げたその手紙は、
『ありがとう』
という言葉で始まって、
『ありがとう』
という言葉で締めている。
もちろんこれは、あの日のラブレターに対する答えとしてしたためたラブレターだ。
もしこの恋文を手渡すことができるのなら、彼女はあの日の笑顔をもう一度浮かべてくれることだろう。
……けれど。
僕は深いため息をつく。
けれど、今の僕にはこの手紙を彼女に手渡しすることなんてできないのだろう。
……なぜなら、あまりに気恥ずかしいからだ。
いくら愛しているとはいえ、面と向かった状態で直筆のラブレターを手渡しするなんて、もう十年以上も幼馴染のまま隣にいてくれている彼女を相手にすると、恥ずかしいってもんじゃない。
照れくさくて、気恥ずかしくて、それ以上にどんな顔をしていいのかわからなくて難しい。
それでも僕は、彼女へつづる。
いつ渡せるかもわからないラブレターを、何度も何度も読み返す。
もちろん、手紙の文頭と文末に書き記した『ありがとう』という二つの言葉の間には、その数十行に及ぶ長ったらしいラブレターの文面には、馬鹿正直なくらいストレートなプロポーズの言葉を添えている。