改悪"死神"
「そうら消えるよ。消えるよ。消えるよ」
死神の枯れた声はか細く、唾を呑む音に塗られてゆく。
「早くしないと消えるよ。消えたら命は無いよ。ほら消えるよ」
手が震える。額から汗が滴り、目に入る。沁みる眼も余所に、手に持つ蝋燭を火へと近づける。
「火が小さくなってきたんじゃねぇのかい?消えちまいそうだよ」
衰え行く火に応ずるかのように、息が徐々に苦しくなる。
頭が痛い。胸が熱い。手が痺れる。
「消えるよ。消えるよ。消えるよ」
死神の口角が吊り上がる。
「このろくでなしが」
大音声とともに振りかぶられた拳が、与作の頬へとめり込んだ。
「今日の食い扶持も稼いで来れないのかい?あんたってやつは」
「いや違ぇんだ。稼いだにゃ稼いだが、帰ってくる途中に擦られちまって」
拳がもう一発、与作の頬へと入る。
「嘘はもう聞き飽きてんだよ。毎回毎回、よくもまぁそんなにぽんぽんと作り話が出てくるもんだ。草双紙でも書いてちっとは家に金を入れたらどうだい」
女房は、与作と顔を合わせる度に口癖のように言う。そして手元にあった茶碗を与作めがけて投げつけた。
「今日中に三両稼いどいで。金作るまでうちに入れないからね」
「おいおい。三両だなんて大金、今日だけで作れるわけないだろ。こんな冬に亭主を野ざらしにするってのはどういった了見だい」
すると女房は、与作の頭を包丁の峰で叩いた。そして、与作を外へと叩き出し、木戸を締めた。
「何が亭主だ。最後に家に金を入れたのはいつだい」
吐き捨てるように言葉が続く。
「太郎ももう六つになるってんだ。あたしの内職だけじゃ、育ち盛りの餓鬼食わすのもままならないんだよ」
与作は何か言い返そうとしたが、口を開きかけてやめた。金を家に入れない亭主如きが、家を切り盛りする女房に意見する事など出来る筈も無い。
女房は言い捨てた。
「さっさと金作ってきな。それが出来ないってんなら死んでおしまい。穀潰しの体でも、どこか売れるところがあるかも知れないからね」
家を追い出された与作は、隅田川のほとりを歩いていた。肩は落ち、その眼は暗い。金を作ってこいと言われたものの、見当などつくはずもなかった。
いっそ本当に死んでやろうか。
水面に目を落とす。水は濁っており、底は見えない。
溺死は苦しいよなぁ。餓鬼の頃、川で溺れたことがあったな。あれはえれぇ酷かった。
橋の上を歩く侍を見る。皺なく整えられた裃と袴に身を包み、腰には一対の刀が据えられている。
首を切ってもらおうか。でも間違ぇなく痛いよなぁ。
辺りを見渡す。様々な死に方を頭に浮かべてみる。
与作の目に、立派な松の木が入った。しっかりとした幹、冬でも青々とした針のような葉、広く伸びた枝
そうだ、首を吊るのはどうだろうか。紐で首を括ってもう片方を枝に結わえ付けてぶら下がるだけで、こんな糞みてぇな世ともおさらばだ。
そうと決まれば紐をどこからか借りてくるか。与作は近くの民家へと向かい、家の者に頼んで麻紐を調達した。それを自分の首へと結び付け、もう片方を枝へと結ぼうとしたとき、台が必要だという事を思い出した。
また借りてくるかと思った与作に、皺枯れた声がかけられる。
「死にてぇのかい?」
声の方へと目を向けると、一人の老爺が立っていた。泥で汚れた着物は冬だというのにはだけており、頭には白い髪が所在無さげにしがみついている。背は小さく手足は酷くやせ細っており、肉がほとんどついていない。
「あんた死にてぇのかい?そいつで首を括る気かい?」
口角は釣り上げられ、黄ばんで欠けた歯がのぞいている。
「生きてるだけで儲けもんって言葉を知らねぇのかい?死んじまったら、それまでさ」
「うるせぇぞ、爺ィ。俺は死ぬって決めてんだ」
与作は老爺に背を向ける。老爺はその背に向けて言った。
「あんたはまだ死ねないよ」
「てめぇに何が分かるってんだ。俺が死ぬって言ったら死ぬんだよ。文句を言われる筋合いは無い筈だぜ」
老爺は、含み笑いをしながら答える。
「わかるさ。儂は死神だからね」
それを聞いて与作は、老爺の方へと顔を向けた。
「死神だからね。わかるんだ。あんたはまだ死ねないよ」
「死神だって?じゃ聞かせてもらおうじゃねぇか。なんだって俺は死ねないんだい?」
「まだあんたの命が燃え尽きないからさ。まだあんたの命の火は燃えている。首を括ろうとしても枝が折れて助かっちまうし、刀で斬られようとも傷が浅くて助かっちまう。川に身投げしたとしても助け出されてしまうのさ」
聞いた俺が馬鹿だった。与作は無視して立ち去ろうとしたが、老爺が呼び止める。
「あんた、金に困ってるんだろ?」
「だったらなんだ爺ィ。恵んでやるってか?何様だてめぇ」
「だから言っただろ。儂は死神だよ」
死神だと名乗る老爺は、続けた。
「あんたに一つ、仕事を紹介してやろう。医者ってのはどうだい?」
それを聞き、与作は吐き捨てた。
「俺に医者やれってか。出来る訳ねぇ」
「なにも難しいことやれってんじゃない。ちっと呪文を唱えて手を叩く。これだけで治っちまうのさ」
老爺は、咳を払って手を構えた。
"アジャラカモクレン ナナツノマエ テケレツノパァ"
そう言って手を二回叩いた。
「これがその呪文さ。こいつを唱えて手を二回叩くと、それだけで病が治っちまう。でも、覚えて欲しい決まりがあってね」
老爺の口角が吊り上がる
「病を患っている人間にはな、必ず死神が憑いているもんだ。あんたにもこれからは見えるようになるよ。それで、死神が病人の枕元にいたならそれはもうご愁傷様。助からねぇ。こいつにゃ手を出しちゃいかん。じゃが死神が足元にいた場合、この時に呪文を唱えて手を二回叩くと、死神を追い払うことができるのさ」
間の抜けた顔をする与作を見て、老爺の口から笑い声が漏れる。
与作は老爺の襟首を掴んだ。
「黙って聞いてりゃ人を馬鹿にしやがって、この爺ィ。そんなんで病が治るとなっちゃあ、世の医者は全員廃業だ」
老爺は、笑った。
「まぁいっかい試しでやってみな。もし上手くいったら、儂が消えてる筈さ」
与作は手を老爺から離し、投げ槍に呪文を唱えた。
"アジャラカモクレン ナナツノマエ テケレツノパァ"
手を二回叩く。すると老爺の姿は消え、ただ木枯らしが吹きすさぶだけであった。
不可思議な老爺と別れた与作は、川べりを離れて行きつけの茶屋へと足を運んだ。すると、茶屋がどこか騒がしい。
「誰ぞ、医者はおらぬか」
若い侍が、叫んでいる。傍には年の若い娘が横たわり、苦しそうに胸を押さえている。
「姫、何事にございますか。姫、返事をなされよ」
若侍は慌てふためき、医者を呼べと喚き散らしている。姫と呼ばれた青白い顔の娘の額には汗が滲み出ている。
与作は、娘を見た。すると横たわる娘の足元に、みすぼらしい恰好の爺が立っている。
あれが死神か?確かに先程の爺ィそっくりだ。
試してみるか。そう思った与作は、若侍に近づいた。
「もしもし、お侍様」
「其の方、医者か?姫様をお助けできるか?」
「医者で御座ぇます。あっしに任しておくんなされ」
若侍は訝しげに与作を見ている。
「薬箱も持っておらぬではないか。誠に医者であるのか?」
「まぁ任せておくんなさい。たちどころにお嬢様の具合はよくなりましょう」
そういって与作は、呪文を唱えて手を叩いた。
"アジャラカモクレン ナナツノマエ テケレツノパァ"
娘に憑いていた死神が消えた。娘の顔はだんだんと赤みがかり、清々しい面持ちで起き上がった。
若侍は驚き、与作に言った。
「其の方、名を何と申す」
「はい、与作と申します」
「姫様の病を治すために江戸中の医者に見せたが、皆治せぬと言いおった。姫様の健やかな姿を見るのは随分と久しい」
「あっしはつい最近医者になったもんでございます。また何か御座いやしたら、あっしにお申し付けくだせぇ」
若侍は深く頷き、小判を五枚取り出して与作に渡した。
「五両も頂けるんですかい?これはこれは」
「姫様を治した礼だ。とっておけ」
そう言ってすっかり元気になった姫君を連れ、若侍は去っていった。与作は、その背に何度も頭を下げた。
「母ちゃん。今日も飯こんだけ?」
人中で鼻水が固まった少年が、空になった欠けた茶碗を母のおさよに突き出す。
「我慢おし。文句言うようだったら飯抜きにするよ」
そう言うと少年は口を尖らせながらも押し黙った。そして、不機嫌そうに席を立ち、敷いてある薄い煎餅布団に潜り込んだ。
少年が眠りにつくと、おさよは部屋の隅から裁縫箱を取り出し、破れた着物に継ぎを当て始める。
この家の亭主である与作は腕の良い鳶職人であるものの、昨年に親方と喧嘩して追い出された。その後は日雇いで稼ぐもののこの半年はそれすらもほとんどしなくなり、外でつけで酒を呑んできては家に帰るなりずっと寝ている始末である。
そのつけはおさよが払っているが、おさよの内職による稼ぎだけで、一家全員の食い扶持とつけを払いきることなど出来ず、借金がいくらか溜まっている。大家に頭を下げて三両ほど借りてはいるが、明日までに返さねば長屋を追い出すと言われている。
「今帰ったぞ」
亭主の与作の声が聞こえる。今日の朝、一晩中呑んで帰ってきた与作を叩き出して働きに行かせたが、どうせまた呑んで帰ってきたのだろう。
木戸が開かれる。入ってきた与作の顔はほんのり赤い。おさよはその赤ら顔を、拳で勢いよく振り抜いた。
「全く、あんたに恥ってもんはないのかね。てめぇの餓鬼が喰うや食わずやの時に一銭も稼がねぇで吞んだくれて」
「違うんだって、今日は稼いできたんだって」
「あんたは何回嘘つけば気が済むんだい。どうせ金は泥棒に盗られたとでも言うんだろ。あんた、我が家の状況わかってんのかい」
「いや、今日だけは本当なんだ。信じてくれよ」
まだ言うかと怒鳴り、おさよは拳を振り抜いた。与作の体が倒れる。すると、懐から五枚の小判が転がり出た。
「あんた、これどうしたんだい?」
「だから言ったろ。嘘じゃねぇって」
「どこから盗んで来たんだい?正直に白状しな」
「盗んだんじゃねぇよ。ちゃんと俺が働いて手にした全うな金だよ」
まったく信じないおさよに、与作は経緯を伝えた。おさよはなおも信じなかったものの、嘘にしては随分と細かく、手を叩いたら病が治る等という荒唐無稽であり、与作ならもう少しましな嘘をつくだろうと思って半信半疑ではあるが金を受け取る事にした。
「俺は明日から医者をやる。おめぇや太郎には今まで苦労欠けた分、これからきっちり働いて腹いっぱい飯食わしてやるからよ」
そう言って与作は、台所に転がっていた蒲鉾板に「医者」と書いて家の前にぶら下げた。
「これで貧乏ともおさらばだ。今度伊勢参りでも行こうじゃねぇか」
そういって与作は笑い、なおも怪訝な顔をするおさよの背中を強く叩いた。
一晩明けて朝が来た。
稼いだ金で大家への借金も返した。
「いい日だね。御天道様も笑っていやがる」
医者としての門出として酒屋で大量の酒を買い込み、長屋へと帰ってきた。
「今帰ったぜ。江戸一番のお医者様が」
そう言って木戸を開けると、おさよの他に一人、若い女が立っていた。
「どこ行ってたんだいあんた。大家に金返しに行くって出て行ってから随分と遅かったじゃないか」
「いやぁね。俺も医者としてやっていくってなってよ。まだ祝いの一つもやってなかっただろうが」
与作は手に持っていた酒甕を見せつけた。
「景気付けだよ。久しぶりに二人で呑もうじゃねぇか」
おさよはその言葉を無視した。
「金が入った途端に酒かい。あんたって奴はどこまでも。それよりあんたにお客様だよ」
おさよはこれがうちの亭主に御座いますと、女に紹介した。女は頭を下げて言った。
「お医者様でいらっしゃいますか。診て頂きたい方が居られますのでお願いできますでしょうか」
そう言って与作の返事も待たずに手を引いて外へと連れ出した。与作は転びそうになりながら買ってきた酒をおさよに渡し、手を引かれるままに家を出た。
「ちょいとお前さん。随分と忙しねぇな」
女は何も答えず、与作を連れて足早に進んでゆく。
「あんた、よく見りゃかなりの別嬪さんだねぇ。堪忍しとくれよ。俺には女房も子供もいるんだぜ」
与作の口角が少し上がる。
女は口を開いた。
「私は反物屋の和泉屋で女中をさせて頂いております。この度、和泉屋のお嬢様が病に伏せられました」
そう言って女は、与作へと顔を向けた。
「先生が先日、肥後藩の姫様の病をお治しなさったと聞きまして。お嬢様をお救いして頂きたいと伺った次第に御座います」
女に連れられ、和泉屋へと辿り着いた。番頭が血相を変えて走り寄り。先生、どうかお嬢様をお救いくださいと言って頭を下げて手を握る。
案内を頼むと、苦しそうに荒い息を吐く娘が床に伏せている。その脇には恰幅の良い男が泣きそうな顔で娘の顔を覗き込んでいる。
「お医者様でいらっしゃいますか。和泉屋を仕切っております、和泉新左エ門と申します。先生、娘をどうか、どうかお救い下さい。今朝から床に伏せておりまして、私としては不憫で不憫でならないのです」
店主は与作に縋り付いて訴える。
与作は伏せている娘を見た。顔は青白く、冬だというのに脂汗が額に滲んでいる。
娘の足元に、一人の老爺が立っていた。酷く陰気でみすぼらしい風体のそれは、先日茶屋でも見た死神と同類のものであった。
「安心して下せぇ。あっしにかかればちょちょいのちょいでっせ」
与作は手を構え、呪文を唱えた。
"アジャラカモクレン ナナツノマエ テケレツノパァ"
手を叩くと風が吹き、娘の足元の死神は跡形もなく消えた。そして娘の汗が引き、伏せていた体が起き上がった。
「お父様、これは一体?たちまち悪いところが無くなりました」
先ほどまで泣いていた店主は娘の顔を見た途端、先ほどよりも大きな声で泣いて娘に抱き着いた。
良かった。本当に良かったと叫び抱き着く父の姿に、娘は困惑している。
「先生、ありがとうございます。あちがとうございます」
番頭と女中は幾度と与作に頭を下げた。そして番頭は紫色の包みを手渡してきた。
「こちらは御礼に御座います。少ないですがどうぞお受け取り下さい。本当にありがとうございました」
包みを開くと、おおよそ二十両もの小判が入っていた。与作はそれを恭しく懐へとしまって言った。
「例には及びませんや。医者として当たり前のことをしたまででさ」
ありがとうございます。ありがとうございますと幾度も礼を受けながら、与作は帰路へとついた。
その後も与作はあちらこちらへと呼ばれ、行く先々で病人を治した。
呪文を唱えて手を叩くだけであっという間に病を吹き飛ばしてしまうと評判になり、その度に金が入る。
貧乏長屋を出て一軒家を買い、使用人を雇える程にもなった。
金も大分と溜まったという事で、与作はおさよと太郎を連れて伊勢へと向かった。人で溢れる神宮への参拝も済み、茶屋で饂飩を頼んだ。
その饂飩は、随分と柔らかかった。
「しかしあれだね。伊勢の饂飩ってのはちと柔すぎるね」
おさよは器に口をつけて汁を飲み、答えた。
「それはそうさ。疲れてる時分に堅い麺なんて食べられやしないよ」
「どうもこしが無くていけねぇ。俺ぁ食い応えのある饂飩の方がいいや」
太郎は麺を勢いよくすすり、飛び散った汁が服に付いている。
「でもおっ父。この饂飩も旨いよ」
与作は太郎の頭を掴み、乱暴に撫でた。髪が乱れて太郎の目にかかる。
「お前ぇは落ち着きが無くていけねぇ。誰も取りやしねぇからゆっくり食いな」
そういって与作は大きく笑った。太郎はまた麺を勢いよくすする。汁が跳ねる。
伊勢からもどった与作は、また医者稼業を始めた。
ある日、泣き腫らした顔の老婆が訪ねて来た。
「先生はおられますか。どうか、どうか助けてくださいまし」
皺は多いが髪は整えられている。薄紫色の羽織がよく似合う。
「はいはい、私がその医者でさ。どうなされましたかい?」
「どんな病も治されるとお聞きして伺いました。主人をお助け頂きたいのです」
さめざめと泣く老婆を、与作は軽く見まわした。簡素な出で立ちであるが、上等な着物を身に着けている。顔に塗られている白粉も、安物ではないだろう。
「あっしにお任せを。すぐに治して見せますんで」
老婆に連れられ、与作は大きな屋敷へと辿り着いた。今まで与作が行ったどの家よりも立派な門構えで、大きく「紀伊国屋」と書かれている。
紀伊国屋と言えば、泣く子も黙る豪商である。主に果物や材木を扱う商屋で、御上の御用達も請け負う程である。
「こちらでございます」
奥の間へと連れられると、息も絶え絶えの老人が咳込みながら伏せている。
「主人の紀伊国屋又座衛門に御座います。近頃ずっとこの調子でして、どうでしょうか先生」
他の医者は全員匙を投げたという。医者としては素人同然の与作から見ても、助かりそうに無いと思われた。
与作は目を凝らして、周囲を見渡した。すると、死神が憑いていることが観察された。
そして死神は、枕元にいた。
与作は奥方へと向き直り、告げた、
「奥方様。こればっかりはどうしようもねぇ。大旦那様にはお迎えがいらしたんで御座ぇます」
奥方は酷く狼狽し、与作へと縋り付いた。
「そんな。御無体ではありませんか。先生はどのような病も治されるとお聞きしました。どうか主人を助けてやって下さい」
「こればかりは、神も仏も匙を投げやしょう。ましてや一介の医者なんぞに出来る事なぞありませんや」
与作は首を横に振った。
奥方は涙を拭き、そして伝えた。
「三百両お支払い致します」
与作は目を見開いた。三百両もの大金、町人が見る事の出来る額ではない。
与作は考えたが、また首を振った。
「申し訳御座ぇませんが、手前にはどうすることも」
「では五百両、五百両お支払いいたします」
与作は先ほどよりも大きく目を開いた。しかしまた首を振り、伝えた。
「いくらお金を頂こうと、無理なもんは無理でして」
すると奥方は、傍にいた図体の大きな使用人に何か命じた。使用人は部屋を後にして、箱を担いで持ってきた。そしてその箱を与作の前に置き、こう伝えた。
「千両ございます。前金にてお支払いいたしましょう。いかがで御座いましょうか」
与作は深く唸った。千両もの大金を手に入れたならば、一生遊び暮らすことが出来る。自分ばかりではない。おさよやそして太郎も、今よりももっと贅沢な暮らしを送ることが出来る。
ふと、与作にある考えが浮かんだ。千両を運んできた使用人へと一瞬目を移し、また奥方へと向かう。
「わかりやした。御受け致しましょう」
途端に奥方の顔は明るくなった。
「四人ばかり、力自慢の男衆はおられますかい?ちと頼みたいことが御座いますんで、集めて下せぇ」
奥方に頼んで四人の大男を集めると、その四人に耳打ちした。
「じゃ、手筈通り頼んまさ」
そういって与作がそれと声を掛けると同時に、四人の男が大旦那の伏せている布団を一気に回した。憑いていた死神が気づかぬうちに、死神を大旦那の足元へと持ってくることができた。
そして与作は間髪入れずに呪文を唱える。
"アジャラカモクレン ナナツノマエ テケレツノパァ"
そして手を叩いた。すると風が吹き、死神は消えた。
大旦那の顔に生気が戻った。
「おい、腹が減った。誰か飯を持ってきてくれぬか」
使用人が急ぎ、台所へと駆け出した。奥方は涙を零しながら、与作の手を握って言った。
「先生、有難う御座います。有難う御座います。なんと御礼を申し上げたらよいか」
「今回ばかりはあっしも駄目だと思ったんですがね。大旦那もこれですっかり元気になられたようで」
千両は後日、家に届けて貰うように頼み、与作は紀伊国屋を後にした。
帰路にて。
与作は隅田川のほとりを歩いていた。胸が張られ、その顔は上がっている。
千両もの大金を稼いだばかりではない。枕元に死神が居る時でも追い払うことが出来ることがわかった。
病が重ければ重い程、得られる額は大きい。枕元に死神がいる程の病であれば、また大きく稼ぐことが出来るだろう。
途中にある酒屋に寄り、一番上等な酒を買った。そしてそれを一口呑んで一息ついた。
「止まりな」
皺枯れた声が聞こえた。
こんな良い気分の時に呼び止めるとはなんだ。与作は苛つきながら辺りを見渡す。
「こっちだよ。聞こえてんだろ?」
松の木の下から聞こえる。与作はそちらに目をやった。
するとそこには、死神が居た。
「あんた。覚えてるかい?儂のこと」
「あんたみてぇな汚ぇ爺ィなんざ知らねぇよ。とっとと失せな。今の俺は気分が良いから、今なら見逃してやらぁ」
死神の表情に笑みは無い。冷えた目で与作を見つめている。
「酷いねぇ。初めてじゃぁ無いはずだよ」
与作は死神の顔をじっくりと見た。
「あぁあんたか、すまねぇな。去年の今頃に医者のやり方を教えてくれた死神さんだったか。随分と久しぶりじゃ無いかい」
あんたのおかげで今日は千両も儲けたんだ。一杯奢ってやるよ。そういって与作は、手に持った酒瓶を死神に突き出した。
「あんたに会うのはこれで三度目さ。それも二度目はついさっきだ」
死神は、与作の手の酒瓶を叩き落とした。瓶が地面へと落ちて割れる。
何すんだと喚く与作を無視し、死神は言葉を続けた。
「紀伊国屋の大旦那の枕元にいた死神、あれは儂さ」
手を与作へと翳した。
「あんたは掟を破った。今からその沙汰が下るよ」
すると晴れていた空が暗く覆われてゆく。道行く人々の姿も見えなくなり、暗闇に呑まれてゆく。
「おいあんた、何だってんだ。こりゃ一体どういうことだい」
与作は首を振る。太陽はすっかり隠れ、目の前の死神の姿すらも曖昧になる。
「今から面白いものを見せてやろう。儂の手を掴みな」
暗闇から、潤いのない手が差し出された。与作はその手を両手で掴む。
「そら行くよ」
死神は呪文を唱えた。
"アジャラカモクレン シニゾコナイ テケレツノパァ"
すると、死神の後に幾千もの幾万もの火の玉が現れた。
見渡す限りの数多の火の玉。向こうまで広がっている。
よく見るとそれが蝋燭であることが分かった。長いもの、短いもの、太いもの、細いもの、様々な蝋燭が燃え、死神の顔を照らしている。
「なあ死神さん。これはなんだ」
「これかい?これはね、人の命さ」
「命?」
死神は、初めて笑みを浮かべた。
「人の命ってのはこの蝋燭さ。この蝋燭が燃えている間は生きてられるが、消えちまったら命も消えちまう」
死神は一つの蝋燭を指した。すると蝋燭が折れて地へと転がり、火が消えた。
「おや、あいつは斬られでもしたのかねぇ。あんなに威勢よく燃えてたのに、すっかり消えてしまった」
死神はまた、別の蝋燭を指した。長いとは言えないが安らかに火が燃えている。しかしその火が途端に強くなった。それに応じて蝋が勢いよく溶けてゆく。そして残り三寸程になったところで火がまた安らいだ。
「あれは重い病気をしたんだねぇ。寿命が一気に縮まっちまった」
他にも様々な蝋燭が火を強めたり弱めたり、中には消える物もいる。
「こいつをごらんよ」
死神は手前にある一つの蝋燭を指した。その太い蝋燭は、衰えずに火を燃やしている。
「これはあんたの女房の命さ。喜びな、まだまだ死なないよ」
そして死神は、その左にある蝋燭を指さした。その蝋燭はもう二寸も残っていない。火も衰え、今にも消えそうである。
「じゃ、これは誰の命だかわかるかい」
死神が与作を向いて口を横に大きく開いた。
「あんたのだよ」
「これが俺だって?」
震える声で与作は問うた。
「俺にもうお迎えが来るってのかい?俺はまだ死なないってあんた言ってたじゃねぇか」
「掟を破らなければね。あの蝋燭をごらんよ」
そういって死神は、遠くに灯る一本の蝋燭を指した。その蝋燭は長く、火も安らいでいる。
「あれは、紀伊国屋の大旦那の命さ。あんた、大旦那の蝋燭と手前の蝋燭とを入れ替えちまったんだ」
与作の物であった紀伊国屋の大旦那の蝋燭は、赤々と燃えている。
「冗談じゃねぇよ。俺はまだ死にたくねぇんだ」
「おや、去年は首を吊ろうとしてたろう」
「あんときは死にたくって仕方なかったけどよ。今は死にたくねぇよ。千両稼いだのだってついさっきじゃねぇか、いくら金あったって死んじまったら仕舞だ」
すると死神は少し口を噤み、また口を開いた。
「そうかい。なら一つ賭けをしようか」
死神は懐から一つ、真新しい蝋燭を取り出して与作に放った。
「あんたの命の火、これに移してみな。それが出来たらあんたの勝ち、その蝋燭の分だけお迎えを伸ばしてやろう。出来なかったらあんたの負けだ、火は消えて命も消えるよ」
与作は蝋燭を拾い上げた。
「さぁやってみな。移せなかったら命は無いよ」
拾い上げた蝋燭を、今にも消えそうな火にゆっくりと近づける。その間にも、火は少しづつ衰えてゆく。
「そうら消えるよ。消えるよ。消えるよ」
死神のか細く枯れた声は、唾を呑む音に塗られてゆく。
「早く付けないと消えるよ。消えちまったら命は無いよ。ほら消えるよ」
手が震える。額から汗が滴り、目に入る。沁みる眼も余所に、手に持つ蝋燭を火へと近づける。
「火が随分と小さくなってきたねぇ?消えちまいそうだよ」
火が衰える。同時に息が徐々に苦しくなる。
頭が痛い。胸が熱い。手が痺れる。
「消えるよ。消えるよ。消えるよ」
死神の口角が吊り上がる。蝋はもう殆ど熔けきり、液体の中心にほんの小さく火がしがみついている。それもまた小さくなってゆく。
まさに消えるというその時、与作の手の蝋燭に火が移った。同時に、古い蝋燭は燃え尽き、蝋は完全に熔けて消えた。
「点いた、点いた。点いた。死神さん、これで、これでいいんだよな」
死神は答えた。
「よかったねぇ。それがあんたのこれからの寿命さ」
火は爛々と燃え、あたりを照らしている。与作には手の中の蝋燭の火が、あたり一面のどの火よりも鮮やかに輝いて見えた。
「その蝋燭じゃ、あと四十は堅いだろう。もう二度と、掟を破るんじゃないよ」
「わかってるって。死神さん、ありがとうよ」
「ところであんた、"七つ前は神の内"って言葉知ってるかい?」
死神がふと、与作に聞いた。
「いや知らねぇな。どういう意味だい?」
死神は暗く笑い答えた。
「七つにも満たねぇ子供ってのはすぐ病になったり死んじまったりするだろ。だから、七つまで生きてられるかってのは神様の手の中って意味さ」
「なるほどねぇ。それがどうしたってんだい?」
すると死神は、吊り上がった口角をより釣り上げて答えた。
「生き死にを決める神ってのはな、儂ら死神のことさ。そんで儂らは、七つまでとそれから後では蝋燭を変えてんだ」
死神の口角がこれ以上無いほど吊り上がった。
「七つを迎える子供はな、その蝋燭の火を新しい蝋燭に点け替えるんだ。それが上手く点いたなら、その子供はそこから先の四十の年を生きられるって寸法さ」
「あんたの寿命は四十伸びた」
黄ばんだ歯がよく見える。
「あんたの所の子供、太郎って言ったっけか。あの子、もうそろ七つになるだろう?」
与作は、近くにある一本の蝋燭を見た。蝋燭は、酷く短くなっていた。
それを見て、与作の膝が震え出した。
無数の火が煌々と照らすというのに背筋はうすら寒く、歯が鳴った。
堪えきれず、膝から仰向けに倒れ込んだ。
手の中の燃える蝋燭が転がり落ちた。
蝋燭が転がる先に水溜まりが出来ていた。
与作は慌てて手を伸ばし蝋燭を掴もうとするも届かない。
消えるよ 消えちまったら命は無いよ ほら消えるよ
死神の声が響いた。
火のついた蝋燭は、火花を撒き散らしながら水溜まりへと転がってゆく。
必死に手を伸ばす。
火が水に触れる。
その刹那、与作の体から力が抜ける。
死神は笑いながら呟く。
「ほぅら。死んだ」




