番外編 守るべきもの sideレオナール
sideレオナール
ーアイラが記憶をなくす少し前ー
執事のジェフリーが腕にコートを掛け、静かな足取りで玄関へと先導する。
「もうすぐですね、旦那様」
そうだ、もうすぐ。ララが、この邸に正式に迎えられる日まで、あとわずか。
あとは書類にララの署名があればいい。それだけで、ようやくララは私の妻になる。二人で語り合った未来が、現実のものとして手を伸ばせば届くところにある。
そう、思っていたはずなのに。このところ、不安になることがある。
「浮かぬ顔、そうお見受けしますが」
小さな頃からこの邸に仕えてきたジェフリーには、どうやら隠し事は通じないらしい。年を重ねた穏やかな視線が、私の内心を静かに射抜く。
「……ララは、伯爵夫人として、大丈夫だろうか。それに、クラリスとも」
口にした瞬間、後悔した。
伯爵夫人になるための教育を、ララは受けてきたわけではない。いや、それでいいはずだった。私が彼女に求めたのは、ふさわしい振る舞いではない。
守りたい。ただ、それだけだった。
それでも――。
それに、クラリスのことを、私はきちんとララに聞いたことがなかった。どう思っているかなんて、聞かなくても察していた。
あちらの邸の侍女、メリッサが、ふとした拍子に口を滑らせたのだ。ラルが「あの女の娘」とクラリスのことをそう呼んだ、と。
使用人たちが、そんな言葉を教えるはずがない。
だとすれば――ララ自身の言葉だ。
六年。六年も彼女を待たせてしまった私が、ララを追い詰めてしまったのだろうか。
「アイラ様を選んだことを、後悔なさっているのですか?」
かつて、ジェフリーに苦言を呈されたことが脳裏をよぎる。
「そんなわけはない。ただ……いや、聞かなかったことにしてくれ」
あの頃のララは、私を支えたいと、屈託なく笑っていた。
その記憶を信じたい。だが、今、部屋から出てこなくなった彼女に、どんな言葉を掛ければいいのか分からない。これから始まる生活を思い浮かべても、先が見えず、暗い気持ちになる。
「では、仕事に行ってくるよ。クラリスを頼んだ」
「はい。お気を付けて」
玄関を出た、その直後だった。
息を切らして、あちらの邸の使用人が血相を変えて駆け込んでくる。
「大変です! 奥様が階段から落ち、意識がありません!」
「なんだって!!」
思考が追いつく前に体が動いた。急ぎ馬車に飛び乗る。
「ジェフリー、仕事場に連絡を。あと、クラリスは――」
「大丈夫ですから、旦那様。お急ぎになって」
馬車の中で、指先がひどく冷たくなる。邸に着くなり飛び降り、廊下を駆け、部屋へと向かう。
ベッドの脇で、ラルが小さな体を震わせ、泣きじゃくっていた。
「お、お父様……お母様が、目を覚ましません……」
「ああ、ラル。大丈夫だ、大丈夫……」
そう言い聞かせるように抱き寄せながら、視線はベッドの上のララへと吸い寄せられる。
ララの顔には、痛々しい痕が残っていた。
――私が、あんなことを思ったせいだ。
そばにいてくれるだけでいいと願っていた日々を忘れ、伯爵夫人としての役割を果たしてくれないだろうか、クラリスを愛してくれないだろうかと、心のどこかで望んでしまった。
目を覚ましてくれたら、今度こそ何も望まない。望みを心で思うことさえしない。
だから、目を覚ましてくれ。
三日経っても、ララは目を覚まさなかった。
沈黙の朝。
ラルと向かい合い、言葉もなく朝食を取る。食器の触れ合う音だけが、やけに大きく響く。ララの家族には、すでに連絡を入れてあった。
そのとき、侍女のメリッサが慌ただしく駆け込んでくる。
「お、奥様が……お目覚めになりました!」
ラルと視線を交わし、同時に立ち上がる。
部屋に入ると、ララはぼんやりと天井を見つめていた。少し様子は違うが、確かに彼女だ。ああ、よかった。頭痛はあるようだが、意識ははっきりしている。言葉も、問題なく交わせる。
――だが。
「私の名前は、アイラ・ラングフォード。ララは愛称でしょうか? どうにも聞き慣れませんので、今後はアイラとお呼びくださいませ」
一瞬、耳を疑った。
「つきましては、初対面のようなものですし……皆様の自己紹介をお願いできますか?」
ララ――いや、アイラは、十年分の記憶を失っていた。
私と出会ってからの年月、そのすべてを。
これは、罰なのだろう。そうとしか、考えられなかった。
……いや。今はただ、目覚めてくれたことに感謝しよう。
しばらくして、ジェフリーが着替えを抱えて現れる。本来ならこの部屋にも揃っているというのに、私のことを心配したのだろう。
「聞きました。記憶喪失だとか」
「ああ。医者にも、元に戻るのかと聞いたが……分からないそうだ。それに、人が変わったようになってしまっていた」
「記憶をなくしただけでなく、人格が変わったと?」
「ああ。似たような事例がないか、調べさせている。早く元に戻ってほしい」
ジェフリーは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「――旦那様。この先のことに憂いがあったことは存じております。それに、記憶のない奥様に、これ以上の負担を強いるのは……。クラリス様のためにも、結婚についてはご再考なさった方が」
「そんな無責任なことはできない。ラルもいる」
思わず、強い口調になる。
「私は、時間がかかっても待つつもりだ。たとえこの先、愛されなくても。記憶がなくても……アイラの人生に、責任を持つ」
ジェフリーは、この邸に頻繁に来るわけではない。ラルとも、赤子の頃に一度会ったきりだ。思うところがあるのだろう。それでも、代わりにクラリスを孫のように可愛がってくれている。
「……出過ぎたことを言いました」
「いや、いいんだ」
私は静かに首を振った。
この選択が、正しいのかどうかは分からない。それでも、進むと決めたのは、私自身なのだから。
ーーその後ーー
「親はあなただけでしょう? 三歳の子を置いて何をしているのです」
クラリスのことで、アイラに、怒られた……。
かつてのララなら、こんな言い方はしなかったし、クラリスを気にかけるなど、絶対あり得なかった。
*
「そう、そうね。ええと、お母様になる予定? いえ、あなたのお母様よ。そう呼んでくれる?」
初対面のクラリスが迷いなくアイラに抱きついた。
小さな腕でしがみつくように、胸元に顔を埋める。驚くでもなく、アイラは自然にその背を抱き留めた。隣から、ラルがそっと手を伸ばし、クラリスの頭を撫でる。
――なんて、尊い光景だろう。
*
「いや!」
クラリスが私を拒否した……。
こんなこと一度もなかった。そして、アイラから離れない。嬉しいような切ないような。感情を、どう処理すればいいのか分からない。
*
「はい、私たち、早急に結婚いたしましょう。ええ、今すぐにでも」
え? 目覚めて四日だけど?
思考が追いつかない私をよそに、彼女は何の迷いもなく理路整然と結婚する理由を告げる。
*
「ラファエル・ウェストレイだよ。ねえ、ジェフって呼んでいい?」
「光栄です」
ラルの無邪気な問いかけに、ジェフリーは思わず口元をほころばせる。
*****
書類の整理をしながらジェフリーと話をする。
「でね、ジェフリー。王太子妃殿下のお茶会から帰ってきたラルが、友達、二人もできたんだって、嬉しそうでね。その横で、アイラが私もお友達二人、できたみたいです。って、微妙な顔をしていたんだ。はは」
「それはそれは」
ジェフリーが嬉しそうに笑う。執事としてではなく、長くこの家を見守ってきた者としての笑みだった。
「楽しそうですね、旦那様」
「ああ、この毎日を守るために私は何でもするよ。当主の責任、私の役目だからね」
「ええ、そうしてください」
かつて思い描いていた未来とは、きっと違う。
記憶を失い、私を忘れてしまった彼女は、それでも「守るべきもの」として私たちを迷いなく選んだ。
私も守る。誰のことも手放さない。
――責任は取りましょう。
それは、いつかの彼女の言葉であり、いつしか私自身の誓いにもなった。




