47.最後の一冊を燃やす夜
二人が帰った後、控えめなノックがあった。
「どうぞ」
ゆっくりと扉が開き、小さな影がのぞく。
「……お母様」
クラリスだった。
ルーシーに連れられて部屋へ行ったはずの彼女が、そっと抜け出してきたのだろう。不安そうに、けれど真っ直ぐに、私を見つめている。
「どうしたの?」
そう聞くと、クラリスは少し迷ってから、ゆっくりと近づいてきた。
「さっきの人……こわかった」
「……ええ」
小さな手が、私のドレスの裾をぎゅっと掴む。私は立ち上がり、膝を突いて、目線を合わせる。
「怖かったわね」
クラリスは、こくりと頷いた。小さな声で、はっきりと言う。
「わたしのお母さまは、お母さま?」
「もちろん、そうよ。世の中には変な人がいるのね、さっきの人のことは気にすることないわ」
「はい」
そう返事をすると、クラリスは抱きついてくる。
私は、もう何も言えなくなって、ただクラリスを抱きしめた。
小さな腕が、背中に回る。
「……ずっと一緒?」
「ええどこにも行かないわ」
声が震えないよう、静かに答える。その背中を撫でながら、私は心の中で、そっと決めた。
この子が迷わないように。この子が“母”という言葉を、恐れないように。
私は、この子の母であり続ける。
あんなことがあったからだろう。ラルとリズは、なかなか離れようとしなかった。小さな手が、きゅっと私の袖を掴む。その様子を目にしてしまえば、無理に引き離す気にはなれなかった。
結局、二人は私の部屋で寝かしつけた。
緊張がほどけるまで、そう時間はかからなかった。やがて呼吸はゆっくりと揃い、小さなまつ毛が静かに伏せられる。ほどなくして、かすかな寝息が部屋に溶けていった。
時折、寝返りのたびに擦れるシーツの音。
昼間の出来事の名残はなく、代わりに夜の静けさが、ゆっくりと部屋を満たしていた。
私はそっとベッドを抜け出す。
二人を起こさぬよう、シーツの端を持ち上げ、足を床に下ろした。
クローゼットの前に立つ。扉の奥、鍵のついた箱の鍵を回すと、かちり、と小さな金属音が鳴った。
中から取り出したのは、最後の一冊――。
***ララの日記***
演劇も、オペラみたいで、正直つまらない。
刺繍とか、ほんと趣味じゃない。リバーシなんて子供の遊びでしょう。本当に、この世界、娯楽がなさすぎる。
夜会も同じ。
正式な招待なんて来るわけない。レオに頼んで、無理やり連れて行ってもらっただけ。
でも、友達いないし。レオがいなかったら、絶対楽しめない。そもそも私、愛人だし。
もう別に行かなくていいかも。
料理だって、好きに食べちゃダメとかマナーうるさいし。だったら最初から並べなきゃいいのに。あんな、ほぼバイキングみたいな置き方してるくせに。
じゃあ、何を楽しんでいるの。
ダンス? 私には無理よ、できないもの。大体、こういうのって体が勝手に覚えてるもんじゃないの? 全然踊れない。
ラルも、勉強が始まってから、完全に自分の世界を持ってしまった。私の知らない話をして、私の知らない未来の話をする。もうすぐ学院に入ったら、新しい人生。ラルの人生。
学院、いいな。私、どこで間違えたんだろ。
私、こんなに美人なのに。
学院の頃は楽しかったな。毎日ちょっとドキドキしてた。
今はもう、自分の手入れをするくらいしか楽しみがない。鏡を見て、まだ大丈夫って確認するだけ。でも、この先はどんどん老けていく。
伯爵夫人になったら、社交とかしなきゃだめだよね。何を話すんだろ。正直、想像つかない。
やっぱり、勉強しておけばよかった?
……やり直せないかな。
そうよ、やり直せないかな!
もう一回、階段から落ちたら、回帰とか? 別のゲーム世界とか? ありえなくないよね。そういう運命の人、いるわ。私も、たぶんそのタイプ。
いける気がする。
でも、失敗して大怪我はさすがに嫌。痛いのも怖いし。階段の半分くらいから、試してみるのはセーフじゃない?
よし、明日、試してみる。うまくいったら、この退屈な世界ともお別れ。
“アイラ”とも、さよなら。
*****
ええ、さよなら“ララ”。
その名を心の中で静かに呼び、私は日記を閉じた。
あなたにとって“つまらない世界”は、私にとっては確かな色を持つ世界。
庭に咲く花の香り、誰かが誰かを思って発する言葉の重み。それらは決して物語の背景ではない。触れれば温度があり、選べば結果が残る、取り返しのつかない現実だ。
ラルも、レオナール様も彼女にとっては、ただの登場人物だったのだろう。
感情を持つ人間ではなく、筋書きを進めるための登場人物。必要なときだけ現れ、不要になれば押しやられる存在。
“ララ”は最後まで、現実に足をつけることのない世界で生きていた。だからこそ、この世界を簡単に捨てられるのだ。
その魂が今も私の中に沈んで眠っていようと、この世界のどこかで行き場を失い、漂流していようと、どちらでも構わない。
私が生きているのは、彼女の物語ではない。
――かわいそうな人。
そう思った瞬間、胸に浮かんだのは憐れみ。
二度と、取って代わられないように。
二度と、誰にも入り込まれないように。
文献を調べなければならない。古い記録も、禁書庫の写本も。教会にも足を運ぶわ。祝福も、結界も、祈りも。やれることは、何でもやる。私の人生は、私のものだから。
最後の一冊を手に取り私は立ち上がった。そのまま暖炉へ放り込み、火を付ける。
炎はすぐに紙を捉え、縁からゆっくりと食らいつく。インクで書かれた文字が熱に歪み、意味を失い、黒く縮れていく。
物語も、感情も、役割も、すべてが等しく燃え、灰になる。
私はただ、それを見届けた。終わりを、最後まで。やがて炎は落ち着き、暖炉の中には黒い灰だけが残った。
そして私は机に戻り、新しく買った日記を開く。
まだ何も書かれていない、白いページ。未来だけが広がる場所。
さあ、何か書き始めましょう。
愛にあふれた、溢れた言葉から。それがいいわ。ね。




