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【完結】記憶にありませんが、責任は取りましょう ~目覚めたら、見知らぬ夫と息子――ヒロインだった黒歴史が待っていました~  作者: 楽歩


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35.風を切る気配

 朝の厩舎には、干し草の匂いと、まだ冷たい空気が満ちていた。


 私は袖をまくり、馬の首筋にブラシを当てる。毛並みに沿って丁寧に動かすたび、馬は気持ちよさそうに小さく鼻を鳴らした。


 今朝、朝食の席でお父様が必死に弁明していたことを思い出す。


「違うんだ。アイラが学院で揉めた仲だとは知らなかったんだ。馬は売り込まれたわけではなく、本当に偶然だ。仲の良い貴族から紹介してもらってーー」


 思わず小さく息を吐く。



 偶然もまた運命。運命とは、なんて残酷なのかしら。




 ブラシを動かす手を止めずにいると、少し離れた場所で、リズがルーシーと手をつないだまま、こちらをじっと見ているのが目に入った。


 大きな馬と私とを、交互に見比べている。




「リズ、お馬さんに触ってみる?」


 声をかけると、リズはびくりと肩を揺らした。


 馬に乗ることを楽しみにしていたのだが、やはり実物を前にすると少し怖いらしい。



「噛まない?」


「噛まないわ? 抱っこしてあげるから少し撫でてみる?」


 私は腰が引けているリズをそっと抱き上げ、馬の傍へ連れて行く。

 大きな体に近づくたび、リズの指先が緊張で強ばっているのが伝わってくる。


 それでも、恐る恐る小さな手を伸ばすリズ。この子はおとなしいから、きっと大丈夫。



 ふわりと毛並みに触れた瞬間、馬は静かに瞬きをした。


 その様子に安心したのか、リズが、私に向かってにっこりと笑う。


 


「リズどうする? 馬に一緒に乗ってみる?」


 問いかけると、リズは一瞬考え込むように目を瞑り、それから首を横に振った。




「明日にする」



 そう言い残すと、くるりと身を翻し、ティアナとエレナが座っている場所へと駆け出していく。


 ふふ、やっぱり絵本のお馬さんと違うことに、ちょっと怖くなったのね。


 ここに居る間には、一緒に乗れるといいわね。



 視線を巡らせると、エルとラルは、お父様とお兄様に挟まれるようにして馬に跨り、指導を受けているところだった。真剣な表情と、どこか誇らしげな様子が微笑ましい。



「お父様、ラルをお任せしてもいいかしら? 私、少し遠乗りをしてきたいと思いますの」


「ああ、いいぞ。気をつけて行ってきなさい」



 許しを得て、私は馬に跨った。今はただ、気分転換に風を受けて走りたい。鞍に乗り、手綱を整える。合図とともに馬が動き出し、そのまま駆け出した。


 頬をなでる風、遠ざかる厩舎の音。懐かしい景色が次々と流れていく。



 そのとき――。



 背後から、先ほどまで聞こえていなかった、私の馬とは違う馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。

 

 一定の間隔で刻まれるその音は軽やかで、しかも速い。風を切る気配が、すぐそこまで迫っている。



 あら? 誰かしら?



 そう思った瞬間、横合いから一頭の馬が鮮やかに視界へ飛び込んできた。


 黒々した毛並みを揺らした馬に跨がりながら、その人は迷いのない手綱さばきで並び、そして一気に前へと出る。




「アイラ・ウェストレイね。いいところで会ったわ。私は、ディアーヌ・ライクスバートよ。さあ、付いてきて」



 言葉と同時に、相手は速度を落とすどころか、さらに勢いを増して駆け抜けていく。


 振り返る気配すらないその背中に、思わず目を奪われた。




 ディアーヌ・ライクスバート。


 え? ライクスバート辺境伯夫人?



 胸の内で名前を反芻した瞬間、遅れて驚きが押し寄せる。


 本当に?

 

 今、私を呼んだ?


 付いてきて?


 なに? どういうこと?



 状況を整理する暇もないまま、彼女の背中はどんどん遠ざかっていく。考えるより先に、体が反応していた。手綱を握り直し、馬腹を軽く蹴る。


 よく分からないけど、付いて行くしかなさそうね。







 



 ***ララの日記***



 次は、コリン・ライクスバート。


 攻略対象者も、もう残り少ないじゃない……。絶対にここで終わらせる。


 婚約者は、剣術と戦闘が大好きな幼なじみの婚約者。確か、小さい頃からの付き合いだったはず。


 コリンは彼女のことを、妹のようにしか思っていない、だったはず。



 他の攻略者に手間取り、もうだいぶ時間も経った。


 あと三ヶ月でディアーヌは、入学してくる。ひとつ下の学年だから。


 でも、それはつまり、この三ヶ月間は邪魔されないってこと。


 楽勝じゃない。



 感情をストレートにぶつけ、危険な場面では無茶をする婚約者は、確か、相手を認めたら、あっさりと身を引く、さっぱりしたタイプ。


 いわゆる脳筋、とも言うわね。


 コリンは、責任感が強く、感情表現が不器用で、言葉足らずなところもあるけれど純朴、と言ってもいい性格だわ。


 野蛮な婚約者と違って、女の子らしいところを見せれば、簡単に攻略。



 さあ、やるわよ。




 *



 今日も順調。


 朝の中庭で偶然を装って声をかけたら、コリンは少し驚いた顔をして、それから律儀に礼をしてきた。


 感情が顔に出やすい。隠しているつもりなのが、また可愛い!



「あなたって責任感が強いのね」と言ったら、耳まで赤くして黙り込んだ。



 効果抜群。


 昼食は一緒に取ることになった。


 ほんの少しだけ距離を詰めて座ったら、背筋を伸ばして落ち着かない様子。



 野蛮な婚約者とは正反対でしょう?



 この手のタイプは、“守りたい”と思わせたら勝ちよ。


 デートまで持ち込みを、夕方夕日を見ながら言われたわ。



「君にも、辺境伯領の夕日を見せたい。いつか、きっと」



 はい、完全に私に落ちたときに言う台詞をいただきました。



 このままいけば、ディアーヌの入学式の頃には、もう答えは出ているはず。




 *




 最悪。


 ついに来た。脳筋にして剣バカ、コリンの婚約者ディアーヌが入学。




「コリンを私から奪いたいのなら、正々堂々剣で勝負しなさい」



 ……初対面でそれ?



 しかも場所は中庭。周囲には見事なまでのギャラリー。私、剣なんて振ったこともないんですけど?



 ディアーヌは背が高く、姿勢がよく、無駄のない動き。そして声が大きい。とても大きい。



 問題はコリン。


 彼はその場で完全に固まっていた。視線があっちへ行ったりこっちへ行ったり、助けを求める子犬みたいな顔。何か言おうとしては、口を開いて、閉じて、また黙る。



 ……オロオロしすぎ。



 何とか逃げたけど、明日からは、ディアーヌに“つきまとわれる日々”になりそう。




 *



 疲れた。


 ディアーヌは今日も言った。「勝負しろ」と。昨日より声が大きく、昨日より距離が近いのよ。


 ディアーヌに、認められるって剣しか方法はないの?


 そんなの無理よ。




 コリンはディアーヌを止められない。止め方が分からない、という顔をしている。


 なによ、簡単じゃない。


「野蛮な婚約者なんて、もううんざりだ。私は、アイラを選ぶ」


 そう言ってくれればいいのに。


 そしたら、「コリンがそこまでいうなら」と、身を引きそうじゃない?



 筋肉はあっても、全く頼りにならない。




 ディアーヌに剣を取れと言われても、取れるわけがない。やったことがないし、そもそも持っていないのだから。



 こんな展開、あった?


 ……ああ、本当に面倒。




 攻略者は、レオナールあと一人しかいないけど、今の状況を続けるよりずっといい。


 ーーもうやめよう。



 そうね、


「私はあなたの隣に立って、共に戦えない。でも、生まれ変わったら必ず強くなってみせるわ」



 そう言って、もう終わりにしよう。



 ああ、本当、うまくいかない。





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