22.ここまで、わずか一週間
あちらの邸には最小限の使用人しかいないということで、こちらの使用人たちも全員同行できることになった。
ラルも彼らに懐いていたし、本当に良かった。
もともと引越しを見越して、双方の使用人同士を少しずつ交流させていたらしいので、関係の不安もない。どうりで、ルーシーが邸の間取りを把握していたはずだ。年が近そうなメリッサとも仲がいい。
ラルのお気に入りの庭の花々も、根を傷めないよう丁寧に掘り返され、鉢に移されて運ばれるという。
あの子のお気に入りの小さな世界を、そのまま連れていけるのは嬉しいわ。
「さあ、二人とも準備はいい? お父様がお待ちだわ」
玄関先で声をかけると、ラルとリズが揃って元気よく頷いた。馬車の扉が開き、朝の柔らかな光が差し込む。御者の掛け声とともに車輪がゆっくりと動き出した。
王都の端にある今の家は、周囲も比較的静かで、行き交うのは市場へ向かう商人や農民の馬車が多い。道は石畳だが場所によっては欠けもあり、馬車は小さく揺れながら進んだ。
揺れる馬車の中で、私はそっと窓に手を添えた。
視界の端で、ラルとリズが外に流れる景色を楽しげに眺めている。
目覚めたら息子と夫がいた。娘ができ愛人だった身から、妻になった。記憶のない十年間は、別の“私”がやらかしていたらしい。家族はそれぞれに歳を重ね、新しい形を築いていた。
そして今は引越しの最中。
……ここまで、わずか一週間。
怒涛の日々ね、本当に。
馬車はゆるやかに速度を上げながら、王都の中心部へ続く大通りへ出る。途中、道幅がどんどん広がり、周辺の建物の質も変わっていく。商店の数が増え、看板は華やかになり、街行く人々の身なりも洗練されていた。
馬のいななき、商人たちの声――王都の中心へ向かうほど、街は活気に満ちていく。
もちろん、あの“日記”は厳重に鍵をかけ、誰の目にも触れさせぬよう運んでもらっている。新しい家に着いたら、また向き合わなくてはいけない。
やがて大通りを抜け、伯爵家が並ぶ高貴な一角、中心部でもさらに静けさを湛えた地区へ入る。
馬車が止まり、御者が扉を開ける。
邸の白壁が陽を受けて眩しいほどに輝き、広い前庭には整えられた芝と石畳が続いていた。
――ここが、これからの“家”。
「みんな、さあ、こっちだよ」
先に到着していたレオナール様が、少し得意そうな笑みを浮かべて手を振る。さすが伯爵家の本邸。門構えからして圧倒されるほど立派だ。
「奥様、ラファエル様。初めまして、執事長のジェフリーでございます」
落ち着いた声が響き、ずらりと整列した使用人たちの先頭で老齢の男性が頭を下げる。
「ええ、これからよろしくね」
「ラファエル・ウェストレイだよ。ねえ、ジェフって呼んでいい?」
「光栄です」
ラルの無邪気な問いかけに、執事は口元をほころばせた。
邸に入るとレオナール様自ら、主要な部屋を一つずつ丁寧に説明してくれる。
「さあ、休憩にしようか」
庭に出ると、既にティーセットが美しく並べられていた。もうすぐ春なのが感じられる花壇の間を抜ける心地よい風が、茶の香りを運んでくる。
「あ、僕のベンチがある」
ラルが目を輝かせる。彼のお気に入りだったあの木製の小さなベンチが、まるで最初からここにあったかのように置かれていた。
リズも嬉しそうに隣へと座る。
「二人の分のお菓子はそっちに用意しようか」
使用人たちが軽やかに動き、子どもたちの前にテーブル、そして小皿が並べられていく。ラルとリズは嬉しそうに顔を見合わせ、お菓子をつまんで笑い合った。
私は紅茶を一口飲み、ほっと息をつく。
「以前お話があった王太子妃様とのお茶なのですが、まさか近日中ではないですよね」
不安を飲み込むように尋ねると、レオナール様はすぐにこちらを見て、穏やかな目で私を捉えた。その視線は、答えよりも先に私の様子を確かめるようだ。
「アイラは平気そうにしているけど、君が心配だから、近々は無理だとそう言っておいたよ。早くても二か月後かな」
よかった……。でも、二か月か。
「断ろうか?」
即座に続いたその一言に、思わず瞬きをする。いやいや、王太子妃殿下の誘いを断る?
「そんな、大丈夫ですわ。王太子妃殿下、直々ですもの。お気遣いありがとうございます」
どの道、避けては通れない。
「レオナール様、王太子妃殿下は、ハーブティーがお好きでいらっしゃるとか」
「よく知っているね。飲んだことのない種類はないんじゃないかな。だから王宮の薬師が、品種改良しているって噂だよ」
やはり、安易に手を出してはいけないということね。私はそっと息をついた。
「手土産にしようかと思いましたが、かえって難しそうですね」
「王太子妃殿下への手土産か。そうだね、うちの商会に相談してみたらどうかな?」
……うちの商会?
「商会をお持ちなのですか?」
「あ、ああ。“ララ”がね、作って売りたいものがある、成功させるからって言って作った商会があるんだ」
……視線が泳ぎに泳いでいるわね。
「うまくいかなかったのですね」
「……そうなんだ。でも一度作った商会を簡単に廃業するわけにはいかず、細々と輸入業をやらせている」
その口調には、責任だけは手放さない真面目さががあるが……。従業員たちは、きっと苦労しているに違いない。
「私に言われたからと言って、何でも聞いてはいけませんよ」
そう釘を刺すと、レオナール様は、怒られた子どものように肩をすくめ、けれどどこか複雑で、照れたような笑みを浮かべた。
「気をつけるよ」
素直すぎる返事が、かえって怪しい。
「とにかく、もしよければ明日呼ぶから、相談してみるといいよ」
「ありがとうございます。そういたしますわ。ちなみにいつ、商会を作ることになったのです?」
「ラルが生まれる前の年かな」
なるほど、そのあたりの日記を読み返してみなければいけないわ。
新居に来たばかりだというのに、また忙しくなりそうね。




