12.あなたのアイラ
応接室の扉を開けた瞬間、微かな花の香油の香りが漂い、椅子に腰かけていた淑女がゆっくりと立ち上がった。
少し震える指先。期待と不安のまじった眼差し。
緊張しやすいティアナのその仕草を、忘れるはずがなかった。
「……ア、アイラ?」
か細い声が聞こえた。
「ええ、アイラよ。あなたの親友のアイラよ」
その瞬間、ティアナの瞳が大きく揺れた。
「っ……本当に? 本当に……私のアイラなの……?」
言い終える前に力が抜けたように、そのまま椅子へ崩れ落ちるように座り込み、ティアナは泣き出してしまった。
「もう、立派な淑女なのに、泣いたりなんかして」
私まで泣きそうじゃない。
ティアナは涙に濡れたまま顔を上げる。
「だって、あなたのお母様から昔のアイラに戻ったと聞いて信じられなくて……。でも、本当だったらいいなって、期待して……」
ゆっくりと歩み寄り、ティアナの手をとる。
「ティアナ……。覚えている?」
ティアナが涙をぬぐい、戸惑うように首をかしげた。そっと彼女の手の甲に触れ、人差し指でやわらかく“円”を描いた。
ティアナの肩がびくりと震える。
「これ……」
「ええ。二人だけの“秘密の合図”。みんなにバレないように“こっそり抜け出しましょう”のしるしよ」
その言葉に、ティアナの表情がゆっくりとほどけていく。
幼い日の記憶が、一気に流れ込んだのだろう。大人同士の退屈なお茶会で、二人でこっそり抜け出すための合図。二人だけの秘密。
ティアナの震えていた唇が、かすかな笑みの形になった。
「アイラ……っ……!!」
椅子から飛びつくように抱きつき、私の胸の中でまた泣いた。
私は優しくその背中を撫でる。子供の頃、ティアナが泣き止むまで何度もしていた、あのリズムで。
「今度はもう、どこにも行かないわ。あなたを置いて行ったりしない」
「……ほんとうに……?」
「ふふ、これから一生、階段から落ちないように気をつけるわ。今まで交わしたものの中で、ずっと強い約束よ」
応接室が、安堵と笑顔で満たされていく。
「ティアナ、実はね、日記を見たの」
「日記?」
「そう。十年間、私の記憶がなかった間に“ララ”が書いてた日記。まだ二冊だけど」
「まあ……わたしのことも、書いていたんでしょう?」
「ええ。きっと、ものすごくあなたを泣かせて、傷つけてしまったのね……本当に、ごめんなさい」
ティアナは、ふっと肩をすくめ、庭の噴水のほうへ視線を逃がした。
「ふふ。今日はちょっと、うっかり泣いちゃったけどね。でも意外と私も強くなったのよ。学生時代も泣いてなんかいないし、傷ついてなんかいないわ」
――そんなわけない。
その横顔を見て、胸が痛んだ。
昔、けんかしたあと、泣き腫らした目で笑って見せたティアナとまったく同じ表情だった。
「ふふ。でもアイラ。許してほしいって言うのなら、お願いしようかしら。行ってみたいパティスリーがあるの。あなたのおごりで、ね?」
「いいわね。パティスリー……学院に入ってから行くの、楽しみにしていたわ」
「そうよ。二人で行きましょうって言ったのに。でもね、今はもっとあなたが好きそうなお店が増えたの。あなたといつか一緒に行きたいって思って……ずっと、調べてたんだから」
その言葉に、胸が痛んだが、気付かれないように笑う。
「ねえ、ティアナ。覚えてる? 小さい頃の“秘密のケーキごっこ”。紙を丸めて、木の実を飾って、あれをケーキだって言い張ってティアナ食べようとしていたじゃない」
ティアナの目が、ぱちんと瞬いた。
「あっ……あれは、内緒って、忘れてっていったじゃない! でも、本物よりおいしそうだったじゃない? ふふ。あれ、覚えてるの私たちだけよね」
「そうね。あれは、わたしたちだけの秘密の一つ」
ティアナの微笑みは、さっきよりずっと柔らかかった。
「今度こそ本物のケーキを食べに行きましょう。昔みたいに二人で。いい?」
「ええ。今度は、本物のパティスリーへ」
ティアナがいたずらっぽく笑う。
「これから、ドレスもアクセサリーも、あなたと一緒に楽しみにしてたこと全部やるんだから。覚悟しなさいよ? 私を十年も待たせたんだから」
「はいはい……覚悟しておくわ」
ひとしきり笑った後で、ふと気になる。
「ティアナ……お兄様は? どうしてる?」
「ん? ああ、もうすぐ来るわよ。手紙を残して出てきたから、そろそろじゃない?」
「……もうすぐ来る?」
ティアナは肩を揺らして笑う。
「そう。お父様とお母様にね、あなたが“十年分の記憶をなくして、前のアイラに戻った”って聞いて、一番そわそわしてたのはあの人なのよ」
そこで少し顔をゆがめた。
「なのに『いや、人間そんな急に変わるわけがない。きっとまた、だまそうとしてるんだ。私のアイラはもう思い出の中にしかいない』って、ぶつぶつ文句ばっかり言ってたの」
「……お兄様らしいわね」
「でしょ? 挙げ句の果てには『どうせ悲しむだけだ』って、私にも『行くな』なんて言ってきて。そんなの知らないふりして出てきたけど」
まあ、ティアナったら。
「大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。あの人、自分が来る“理由”を探してただけなんだから。私を迎えに来るって名目ができて、ようやく踏ん切りが付くと思うわ。だから、そろそろ来ると思うわよ」
お兄様が来る。思わず手をぎゅっと握る。
「……お兄様、変わっていないかしら?」
特に髪の量が。
「うーん、変わっていないと思うわ。でも、私は毎日一緒だから、どうかしら?」
「それ、安心していいのかしら……」
ティアナがくすくす笑ったちょうどそのとき。
トン、トン、トン。
控えめなノック音が室内に響いた。
「奥様、ラングフォード子爵が面会を求めております」
「ほら、来たでしょう」
早いわ。心の準備がまだできていない。
「ここに連れてきてちょうだい」
「かしこまりました」
ティアナが目だけで「がんばって」と笑う。私は胸がどくん、と跳ねるのを感じた。
……緊張してきたわ。
扉をノックする音が響く。扉の向こうに、十年越しの時間が立っているように感じられた。




