第1話 気だるい探偵と消えた足音
その探偵事務所は、神影町の古書店街にある雑居ビル「月光ビル」の二階、その一番奥にあった。磨かれることのない木の床。乱雑に積まれた古書の塔。窓から差し込む午後の光が、宙を舞う無数の埃を、星空のように照らし出している。
ソファに液状化したかのように沈み込みながら、探偵・黒宮奏は、天井のシミの数を正確に数えていた。二百十二個。昨日より増えてはいない。変化のない、平穏な世界。それが彼の望むすべてだった。
彼の傍らでは、艶やかな毛並みを持つ黒猫の「ヨル」が、規則正しい寝息を立てている。奏はその背中にそっと触れる。伝わる温もりと、その規則的な振動だけが、彼の乱れがちな世界の調律を合わせる、唯一の音叉のような存在だった。
「…お前の寝息は、規則的でいい。……世界の他の音は、すべて不規則で疲れる」
奏はふと目を開けると、ローテーブルに置かれた数本のペンを手に取り、その先端が一直線に揃うよう、ミリ単位で調整を始めた。完璧な平行。彼の指先には、気だるげな様子とは裏腹の、冷たいほどの精密さが宿っていた。
長く伸びた前髪が、奏の顔の半分以上を隠していた。彼の世界は、この事務所とヨル、そして彼自身の思考だけで完結している。それ以外のすべては、彼の鋭敏すぎる感覚を摩耗させるノイズでしかなかった。
その完璧な静寂を破ったのは、遠慮がちな、しかし確かなノックの音だった。
奏は無視した。留守だ。居留守ではない。彼の心は、常に外部に対して留守なのだから。
だが、ノイズは執拗に繰り返される。奏は眉間のしわを深くし、ヨルの眠りを妨げないよう、ほとんど音を立てずにドアを開けた。
そこに立っていたのは、高校生くらいの少女だった。
柔らかな茶髪に、少し大きめのメガネ。紺色のブレザーの上から、体のラインを隠すダボっとしたパーカーを羽織るという、少しちぐはぐな着こなしをしている。計算された「普通」を演じることで、周囲の注目から逃れる。それが彼女の処世術だった。
「…黒宮探偵事務所で、お間違いないでしょうか」
凛とした、落ち着きのある声だった。
「人違いだ。ここは猫と昼寝をするための場所だ」
奏はドアを閉めようとした。だが、少女は一歩も引かない。
「お願いします。愛犬を探してください。警察にも届けましたが、『現時点では事件と断定できる証拠がない』の一点張りで、本格的な捜査はできないと断られました。ですが、状況から見て、ただの迷子ではありません。これは、専門家の力が必要な事件だと判断しました」
その少女、白石琴羽は、理路整然と語る。しかし、主を失ったリードを握るその手は、白くなるほど強く握りしめられていた。その冷静な言葉とは裏腹に、今にも張り裂けそうな心を必死に抑え込んでいるのが見て取れた。
奏はスマートフォンの画面を彼女に見せられた。そこには満面の笑みで写る柴犬。奏は内心で深くため息をつく。犬は、苦手だ。予測不能な動き、甲高い鳴き声、過剰な感情表現。すべてが彼の思考の純度を著しく下げる。
「警察がそう判断したなら、それが事実だ」
「いいえ。現場には不自然な点が多すぎます」琴羽はきっぱりと言った。
「コタロウの首輪についていたGPSが、破壊されて捨てられていました。偶然ではありえません。どうか、話だけでも…」
その声の「色」が、冷静さを装うとする強い意志を示す鋼色と、隠しきれない悲しみの暗い青色に揺れているのを、奏は感じ取っていた。そして、その奥に、何かを言いよどんでいる鈍い灰色も。
「…成功報酬は現金一括。経費は前払い。それと、俺は犬には触らない。それでよければ、中へ」
「…感謝します」
琴羽は深く頭を下げた。その落ち着いた所作に、奏はわずかな違和感を覚えた。この少女は、ただの女子高生ではない。
ソファに座るよう促された琴羽は、背筋を伸ばして浅く腰掛けた。奏は彼女の向かいではなく、少し離れた自分のデスクチェアに座り、まるで診察でもするかのように、淡々と質問を始めた。
「名前」
「コタロウです。オスで、二歳です」
「失踪時刻と場所を、より正確に」
「昨日の午後四時十五分から、二十五分の間。場所は月読坂神社の境内、本殿へ向かう石段の途中にある広場です」
「最近の行動に、異常は?」
「特にありませんでした。食欲も旺盛で、いつも通り、元気で…」
奏の質問は、感情を一切挟まない、データの収集に徹したものだった。琴羽は一つ一つに的確に答えながらも、時折、コタロウとの思い出が蘇るのか、言葉を詰まらせた。
一通りの聞き取りを終えると、奏は言った。
「調査経費として、まず三万。成功報酬は、発見後に別途請求する」
「はい」
琴羽は迷うことなく頷くと、学生鞄から財布を取り出し、丁寧に数えた三枚の一万円札をテーブルに置いた。その準備の良さに、奏は僅かに眉を動かす。
「…明日の朝九時、月読坂神社の鳥居の前だ。遅れるな」
「はい!ありがとうございます!」
ようやく一筋の光が見えたことに、琴羽の表情がぱっと明るくなる。彼女は何度も深く頭を下げると、少しだけ軽くなった足取りで事務所を後にして行った。
一人残された事務所に、再び静寂が戻る。奏は、テーブルに置かれた三万円と、琴羽が座っていたソファを、まるで異物でも見るかのように眺めた。そして、ソファの傍らで眠るヨルの頭を、そっと撫でた。
面倒な「ノイズ」が、正式に彼のテリトリーに侵入してきた。彼は心の中で、今日一番の大きなため息をついた。
翌朝、約束の九時きっかりに月読坂神社の鳥居の前に着くと、琴羽はすでにそこにいた。奏の姿を認めると、彼女は緊張した面持ちで駆け寄ってきた。
「おはようございます、黒宮さん!よろしくお願いします!」
奏は無言で頷くと、蟬の声が降り注ぐ、長い石段へと足を踏み出した。
「ここでボールを投げて…。コタロウが、あの木の裏に走って行ったんです。ほんの数十秒でした。私がボールを拾って、振り返ったら、もう…」
琴羽が指差す場所を、奏は無言で観察し始める。地面に残された無数の足跡、落ち葉、人々の往来の痕跡。彼の脳が、全ての視覚情報をスキャンし、三次元空間に再構築していく。
「…コタロウの好きだったおやつは?」
唐突な質問に、琴羽は戸惑いながらも答えた。
「え?…ササミジャーキーです。いつも散歩の時に、少しだけポケットに入れていて…」
「犯行があったと思われる時刻、風向きは?」
「南の方からだったと思います。神社の幟が、社殿の方へなびいていましたから」
的確な答えに、奏は少しだけ目を見張った。この少女は、ただ感情に流されているわけではない。
奏はしゃがみ込み、落ち葉を一枚、指先でそっとどけた。その下にあったのは、ごく微かなタイヤの痕。そして、そのすぐそばに、銀色に光る数ミリの金属片が落ちていた。
さらに、奏の視線が、地面のもう一点を捉えた。台車のタイヤ痕のすぐそば。落ち葉に半分隠れるようにして、指の先ほどの大きさの、赤みがかった乾いた肉片が落ちている。
奏はピンセットでそれを慎重に拾い上げると、琴羽に無言で差し出した。
「あっ…!これ、コタロウにあげようとしていた、ササミジャーキーです…!たぶん、ポケットから落ちたんだわ…」
琴羽ははっとした。先ほどの、何気ない質問の意味を、彼女は瞬時に理解した。奏は、ただやみくもに探しているのではない。コタロウがその場にいたという、物的で確実な証拠を。そして、犯行の瞬間を再構築するための、あらゆる可能性の欠片を拾い集めているのだ。この肉片の存在が、コタロウがまさにこの場所で、何者かに連れ去られたことを示している。
事務所に戻ると、奏はホワイトボードを引っ張り出し、記憶の中の神社の地図を描き始めた。犯行現場、GPSの発見場所、琴羽が立っていた位置。そして、テーブルの上には、現場で採取した証拠品が小さなビニール袋に入れられて並べられた。
「…さて、始めようか」
奏は椅子に深く座り直し、ホワイトボードに書き出した情報を指でなぞった。
「まず、犯人像からだ。琴羽さん、君のポケットからササミジャーキーが落ちた時、君とコタロウは犯人とかなり接近していたはずだ。それでも犯人は、この証拠品に気づかず、現場に残した」
「はい…夢中で、全く気づきませんでした」
「犯人も同じだ。犬が抵抗し、焦って無理やりケージに押し込もうとした。その結果、ケージの留め金が壊れ、これも現場に残した。つまり、犯人は『計画的だが、詰めが甘い素人』だ。そして、犬の扱いに全く慣れていない」
奏は「素人」「動物の扱いに不慣れ」とボードに書き加える。
「だから、最近のペット失踪事件も、扱いきれない大型犬ではなく、小型犬や猫ばかりが狙われている。プロの窃盗団なら、もっと手際がいいし、こんな痕跡は残さない」
「じゃあ、犯人は、お金に困った普通の人…?」
「可能性は高い。そして、それを裏付けるのが、君が感じた『匂い』だ」
奏は「甘い鉄の匂い」という文字を丸で囲んだ。
「パソコンで照合した結果、この特徴を持つ匂いは、特定のインスリン製剤の揮発成分と酷似している。つまり、**犯人は糖尿病を患っているか、その家族である可能性が極めて高い。**高額な治療費。金に困窮し、安易なペット転売に手を出した、という動機と繋がる」
琴羽は息をのんだ。奏の推理は、断片的な情報から、犯人の生活背景までをも描き出し始めていた。
「そして、最後のピースだ」
奏は、台車のタイヤ痕から採取した油の分析データを示した。「この油は、古い型の潤滑油だ。環境規制で、今ではほとんど使われていない。この油を今も使っている町工場は、月読坂市には三つしかない」
彼は、ホワイトボードの地図上に、三つの工場をマークした。
犯人の人物像、動機、そして潜伏場所の候補。全ての駒は、盤上に揃った。
奏は、そこで一度、思考の海に深く沈むように、目を閉じた。バラバラだった情報が、彼の頭の中で一つの楽譜を形成しようと蠢いていた。
やがて、彼の指がゆっくりと持ち上がり、長く垂れていた前髪を、無作法に、しかし確信に満ちた仕草でかき上げた。
――その瞬間、彼の意識に、世界のあらゆる音が流れ込んでくる。それは音楽ではない。琴羽の声に含まれる微かな周波数の揺らぎ、地面を擦るタイヤの軋み、インスリンの匂いが持つ化学的な音階、三つの工場の位置情報――。彼にとって、世界とは、意味をなさない音の洪水に過ぎなかった。
だが、彼が意識の焦点を絞ると、その洪水の中から、あるべき響きを持つ音だけがフィルタリングされていく。無関係なノイズは沈殿し、偽りの響きは減衰する。散らばっていた音の断片が、最後の決め手である「風向き」という指揮者のもと、正しい音程とリズムを見つけ出し、静かに一つの線へと収束していく。
そして、すべての音が調和した瞬間、彼の頭の中に、ただ一つのクリアな答え(トーン)が、静かに響いた。
伏せられていた瞼が開き、その下に隠されていたのは、鋭い知性を宿した、驚くほど涼やかな目元だった。すっと通った鼻筋と、固く結ばれた薄い唇。前髪で隠されていた彼の素顔は、ぞっとするほど完璧に整っていた。あまりの変貌ぶりに、琴羽は言葉を失う。彼の周りの空気そのものが、変わった。もうそこには、気だるい探偵の姿はなかった。
奏はペン先で、マークした三つの工場のうち、一つを力強く指し示した。
「新月地区の湾岸……その北側にある第三廃倉庫だ」
琴羽は、彼の超人的な推理に圧倒されながらも、その論理の筋道を必死に追っていた。
「行くぞ」
その声には、もう気だるさのかけらもなかった。
人けのない湾岸の倉庫街は、錆びた鉄と潮の匂いに満ちていた。奏が指し示した第三廃倉庫のシャッターは、固く閉ざされている。だが、脇にある小さな通用口の鍵が、こじ開けられていた。中からは、複数の動物のかすかな鳴き声が聞こえる。コタロウも、この中にいる。琴羽は、覚悟を決めて息をのんだ。
奏は静かにドアを開ける。薄暗い倉庫の中には、案の定、五つのケージが並べられていた。その一つの中で、コタロウが不安そうな顔でこちらを見ている。
そして、そのケージの前に、痩せた中年の男が立っていた。その顔には、絶望と焦りが浮かんでいた。
「…なんで、ここが」男が呟く。
「お前の出す音が、多すぎた」奏が返す。「心臓の音、呼吸、筋肉の強張り。全部、耳障りだ。そのインスリン、一日三回か?金のためにやったんだろうが、やり方が雑すぎる。動物たちは怯えている。お前には向いていない」
奏の言葉に、男は逆上した。
「うるさい!お前なんかに何がわかる!」
男が、そばにあった鉄パイプを掴んだ。奏が直接対決するには不利だ、と琴羽は一瞬で判断した。奏さんを援護しなければ。大きな音で、怯ませるしかない。
「やめなさい!」
叫びと同時に、琴羽はそばにあった空のドラム缶に全体重をかけて突き飛ばした。
ガッシャーン!
凄まじい音が響き渡り、男の注意がそれる。その一瞬の隙を、奏は見逃さなかった。彼は男に駆け寄ると、鉄パイプを振りかぶったその腕を取り、驚くほど正確に関節を極めた。
「ぐっ…!」
男が崩れ落ちる。奏はすぐに離れると、琴羽に言った。
「警察を呼べ。匿名で構わない」
琴羽がスマートフォンで通報している間、男は地面に蹲ったまま、何かをぶつぶつと呟いていた。やがて到着した警察官に両脇を抱えられ、連行されていく。そのすれ違い様、男は奏の顔をじっと見つめ、力なく呟いた。
「……『楽譜』と、違う……こんなはずじゃ……」
その言葉は、琴羽の喜びの声や、他の動物たちの鳴き声に掻き消されるほど小さかったが、奏の耳は、その異質な響きを正確に拾い上げていた。彼はその意味不明なノイズを、記憶の片隅に記録した。
男が連行され、倉庫には奏と琴羽、そして解放された動物たちだけが残された。琴羽はコタロウの元に駆け寄ると、その体を力いっぱい抱きしめた。
「コタロウ…!よかった、本当によかった…!」
それまでの張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。彼女の大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出し、嗚咽が漏れる。それまでの理路整然とした姿はどこにもなく、そこにいたのは、大切な家族との再会を喜ぶ、ごく普通の16歳の少女だった。その嗚咽は、ただ愛犬が見つかった安堵だけではない。かつて失ってしまった大切な「家族」の温もりを、今度は失わずに済んだという、痛々しいほどの喜びだった。奏は、彼女の涙の「色」が、単なる喜びのそれとは少し違う、もっと複雑で深いものであることだけが分かった。
事務所に戻る道すがら、琴羽の様子はすっかり変わっていた。コタロウを抱きしめ、何度もその顔に自分の頬をすり寄せながら、興奮した様子で奏に話しかける。
「黒宮さん、すごいです!本当にすごいです!どうして匂いだけで病気のことまで分かったんですか?それに、犯人の気持ちまで!まるで魔法みたいでした!」
「…論理的な帰結だ。魔法じゃない」
「でも、すごいです!ありがとうございました!」
その屈託のない笑顔と感謝の言葉に、奏はどう返していいか分からず、ただそっぽを向くことしかできなかった。
事務所の前で、奏は別れを告げようとした。
「成功報酬は、明日の午前中までに振り込め」
「はい!もちろんです!それと…あの!」
さっさと立ち去ろうとする奏の進路を塞ぐように、琴羽が彼の真正面に回り込んだ。その勢いに、奏は思わず一歩後ずさる。
「私、黒宮さんのすごさを一番近くで見たいんです!だから、助手にしてくれませんか!?何でもします!お掃除でも、おつかいでも!そばにいさせてください!」
畳みかけるような言葉の奔流。彼女の真っ直ぐな瞳が、奏の隠れた顔を射抜こうとする。奏の脳が、彼女の感情的なエネルギーを処理しきれず、警報を鳴らしていた。
「…いや、それは…話が違う。探偵事務所は、君のような学生が来るところじゃない」
いつものように冷たく突き放せない。言葉が、わずかに詰まる。
「どうしてですか?私、足手まといにはなりません!学校の成績もいいですし、体力にも自信あります!それに…」
ぐい、と琴羽がさらに一歩距離を詰める。奏はまた一歩、後ずさった。完全に彼のペースは乱されていた。
「それに、私、黒宮さんのこと、もっと知りたいです!」
その言葉は、どんな難解な事件よりも、奏の思考を混乱させた。彼は観念したように、あるいは逃げ出すように、早口で言った。
「わ、分かった、分かったから少し離れろ…!」
そして、本日何度目か分からない、深いため息をついた。
「…明日、事務所の掃除をして、ヨルの餌を完璧な配分で用意できたら、考えてやらなくもない」
それは、勢いに負けて、半ばヤケクソで口にした、彼の最大限の譲歩だった。
「本当ですか!?やったー!」
琴羽は、その言葉を聞くと、ぴょんと小さく飛び上がって喜んだ。
「約束ですよ!絶対ですからね!黒宮さん!」
そう言って、彼女はコタロウを抱きしめ直すと、嬉しそうに走り去っていった。
一人残された奏は、その場に立ち尽くしていた。
予測不能な、最大のノイズ。論理で解析できない、感情の塊。彼の完璧に構築された静かな世界に、初めて処理不能なエラーが発生した。
面倒だ。心底面倒なはずなのに、なぜか、胸の奥が、そして前髪で隠れた顔が、熱を持っているような気がした。
こうして、やる気のない天才探偵と、決して諦めない女子高生の、奇妙な物語の第一楽章が、静かに、しかし確かに幕を開けた。