隷属する伯爵令嬢は騎士の仮面を被る
我がヴェーバー伯爵家は、建国当初から王家に仕える貴族の家柄だ。
そんな我が家では今日、エッシェンバッハ伯爵親子を招くことになったらしい。
つい先日陞爵したばかりのエッシェンバッハ伯爵は、やり手の商人だという話だった。
だけどお父様から、良くない噂も聞いている。
エッシェンバッハ伯爵の商売敵は、不思議と彼に契約を譲ってしまうらしい。
また取引先も、エッシェンバッハ伯爵が有利になるような契約で応じてしまうのだとか。
そこには何か不穏な気配があると、お父様は警戒しているようだった。
そんなエッシェンバッハ伯爵だけれど、王国の力になる有力貴族には違いない。
陛下が承認し伯爵位を授けた隣接する領主、それがエッシェンバッハ伯爵だった。
彼には私と同い年、十二歳の令息もいるらしく、私は彼の相手をするようにと言われている。
私はお茶会で子供だけの席を設け、侍女たちが見ている中でエッシェンバッハ伯爵令息ヴィルヘルムを観察していった。
柔らかなマロンブラウンの髪を少し長めに伸ばしていて、瞳は淡い碧色。
身体つきは鍛えているのか、年齢の割にがっしりして見えた。
だけどその目付きには、どこかギラギラとしたものを感じる――なんだか、近寄るのが怖いくらいだ。
ヴィルヘルムがニコリと私に微笑んだ――その笑みも、どこか上辺だけで心の奥底が見えない笑みだった。
「エリーゼ様、このお屋敷はとても素敵な所ですね。
よろしければ後学のため、見学してもよろしいでしょうか」
私は思わず眉をひそめ、ヴィルヘルムに尋ね返す。
「後学のため? どういう意味ですの?」
「我がエッシェンバッハ伯爵家は成り上がりの貴族、父上が一代で築き上げた家です。
エリーゼ様のヴェーバー伯爵家のように、由緒正しい貴族の家というものを見ておきたいのです」
私はお父様に振り返り、視線で是非を問うた。
お父様は大仰に頷いて応える。
「構わないよ、行ってきなさい」
お父様がそう仰るなら仕方がない。
「では参りましょうか」
私たちが立ち上がると、傍に控えていた新入りの侍女が傍に近づいてきた。ジェインとか言ったかな。
彼女が傍に付いていてくれるらしい。
古馴染みの侍女、フローラも近づいてくると、ジェインが彼女に告げる。
「私がきちんと見張っておりますので、大丈夫です。お任せください」
フローラは一瞬ためらったみたいだけど、こういう経験を新入りにさせるのも大事な事だ。
我が家の中で、子供の私とヴィルヘルムが家の中を見て回るだけ。その後をついて行くだけなら、新入りのジェインでもできる簡単な仕事だろう。
ふぅ、と小さく息をついたフローラが「わかりました、任せましたよ」と告げ、彼女はお父様たちの傍に戻っていった。
私はヴィルヘルムに貴族の微笑を向けて告げる。
「それでは、玄関ホールから見て行きましょうか」
頷くヴィルヘルムとジェインを従え、私は屋内に戻っていった。
****
玄関ホールを案内しながら、私は注意深くヴィルヘルムを観察していった。
「あれが家族の肖像画ですわね。古い家だと、玄関の正面にああして家族の肖像画を飾るのがよく見られますのよ。
お客様に、家族の姿でお迎えしますの」
「ふーん」
……案内してくれと自分から言った割に、なんて気のない返事だろう。
興味がなさそうに家族の肖像画を見上げているヴィルヘルムが、私に告げる。
「エリーゼ様の私室はどのようになっておられるのでしょうか」
私はあからさまに眉をひそめてヴィルヘルムを睨み付けた。
「女性の部屋を見たいと、そう仰ったの? 常識がないのかしら」
途端にヴィルヘルムが軽妙に笑いだした。
「ハハハ! もちろん冗談ですよ!
――ですが、応接間の見学くらいはしても構いませんか」
応接間か。大人が居ないのに応接間なんて行ってもいいのかな。
でもジェインは付いてきてるし、『私の部屋を見せろ』と言われるよりはマシか。
私は小さくため息をついて応える。
「わかりましたわ。付いてきてくださる?」
「ええ、もちろんですとも」
笑顔で頷いたヴィルヘルムの顔は、やはり何を考えているのかわからなかった。
私は彼を一瞥してから廊下に向かって歩きだす――その直前、彼の口角がニヤリと微笑んだような気がした。
****
「ここが応接間ですわ」
静かな部屋に私とヴィルヘルム、そして侍女のジェインの三人で入っていく。
ジェインは入り口付近で足を止め、私たちを見守っているようだ。
部屋の中央に歩み出て振り返ると、ヴィルヘルムは私のすぐ背後に立っていた。
「ちょっと……少し距離が近いのではなくて? 失礼よ」
私は思わず彼から数歩下がり、その顔を睨み付けた。
どうも彼は距離感がおかしい。子供とはいえ貴族子女がこんなに近寄るなんて、親しい間柄でもなければ有り得ない。
私が不審に思ってヴィルヘルムを睨み付けていると、彼の手が持ち上がり、パチンと指を鳴らした。
それと共にジェインが応接間の扉を閉め、外に出て行ってしまった。
「……ジェイン、何をしてるのよ」
私の唖然とした言葉に、ヴィルヘルムがニヤリと口角を上げて不敵に微笑んだ。
「彼女は邪魔なので退出してもらった。
あなたと二人きりで話をしたかったんだ」
私は両腕を抱え込み、さらに数歩、後ずさって応える。
「……ヴィルヘルム。私たちが子供とはいえ、貴族子女が二人きりになるのが禁忌だという認識はあるんでしょうね?」
婚前の男女が二人きりになる――とんでもない醜聞だ。
ヴィルヘルムは大仰に両腕を広げ、にこやかに告げる。
「もちろんだとも! だからジェインに命じて二人きりの時間を作ったんだ!」
私はヴィルヘルムが怖くなり、急いで彼を迂回するように駆け出した。
――このまま、この部屋の中に居ちゃいけない!
その私の足が、あと数歩で応接間の扉に辿り着くというところで止まった。
驚いて足を見ると、黒い影が私の足を縛り付けるように絡みついている。
なんとか振り払おうと藻掻くけれど、影はねっとりと絡みついて、私の足から自由を奪っていた。
「――なんなの! これは!」
「ククク……≪影縛り≫、魔法だよ。愚かなエリーゼ」
その冷たい声に、背筋がゾクリとして振り返った――そこには、すぐ目の前に冷たい笑みを浮かべたヴィルヘルムの姿。
足元の影は大きく伸びあがり全身を縛り上げ、私は自分で身動きが取れない状態にされていた。
「――ちょっと! なにをする気!」
藻掻く私の胸の上に、ヴィルヘルムが右手のひらを置いて私に告げる。
「いいかエリーゼ、これから告げる言葉をよく聞け!」
ヴィルヘルムの手のひらが、黒い光に包まれた。
その黒い光が、私の胸の中に沁み込むように入ってくる感覚を覚えた。
「――一つ! この魔法のことは絶対に他人に口外するな!」
ずくん、と私の心臓が強く痛んだ。思わず顔をしかめ、歯を食いしばって痛みに耐える。
「――二つ! 私の言葉は絶対だ! 私の命令には必ず服従しろ!」
ずくん、と再び私の心臓が強く痛んだ。
「――三つ! ……そうだな、今すぐその服を脱いで、全裸になれ」
ずくん、と三度私の心臓が強く痛み、ヴィルヘルムの手のひらから黒い光が消え去り、全て私の胸に吸い込まれて行った。
私は心臓の痛みに苦しみながら、何が起こっているのかを必死に理解しようとした。
気が付くと、私の手が自分の服にかかっていた。
――まさか、服を脱ごうとしているの?!
「やだ! なによこれ! なんで勝手に手が動いてるの?!」
全身全霊で、私は勝手に動く手を必死に止めようと努力した。
だけどゆっくりとだけど、私の手は服のボタンを一つずつ外していく。
ヴィルヘルムが嗜虐心溢れる笑みで私を見つめていた。
「ククク……伯爵令嬢が白昼堂々、男に裸を見せるか。実に楽しい見せ物だ」
――そんなの、許せるわけがないでしょう?!
だけど、私の意志に反して手が服を脱がそうとしてくる。
混乱しながらも、私は足が自由に動くことに気が付いた。
このままじゃ、ヴィルヘルムの言いなりになって服を脱いでしまいそうだった。
両手が言う事を聞かないんじゃ、閉まっているドアを開けることもできない――だけど!
私は思い切って、傍にあった調度品の大きな壺に向かって体当たりをして床に叩き落とした。
ガシャンと大きな音が響き渡り、その音は廊下の外まで聞こえて居そうだった。
――これじゃまだ足りない!
私はそのまま、手近な調度品に次々と体当たりをしていき、立て続けに大きな音を立てていく。
「――チッ! 小賢しいことをっ!」
ヴィルヘルムが舌打ちをして、慌てて部屋の外に駆け出していった。
彼が扉を開けて部屋から駆け出していくのと入れ違いに、近くに居たらしい侍女たちが部屋の中に駆け込んでくる。
「エリーゼお嬢様! 何をなさっておいでですか!」
私は彼女たちの顔を見た瞬間、安心して気が緩んだのか、そのまま意識が遠のいて行った。
****
目が覚めると、私は私室にネグリジェで寝かされていた。
すぐ傍にはフローラと――ジェイン。
フローラは心配そうな顔を、ジェインは申し訳なさそうに青い顔をして私を見つめていた。
「エリーゼお嬢様、お気づきになられましたか」
「……フローラ、少しジェインと話があるの。
二人きりにしてくれるかしら」
フローラは静かに頭を下げ、部屋を辞去して扉を閉めた。
二人きりになった私は、ジェインに告げる。
「ジェインあなた、どういうつもりだったの?」
ジェインは蒼白な顔で私に応える。
「……エリーゼお嬢様と同じ、と言えばおわかりになりますか」
――あの、心臓に沁み込んでくる黒い光の魔法。
つまり、私の手が意思に反して服を脱ごうとしたように、ジェインもヴィルヘルムの命令に逆らえなかったと言う事?
「じゃあ、ヴィルヘルムは何がしたかったの?」
「私は室外に居たので聞いておりませんが、彼から言われた事が全てだと思います」
……ヴィルヘルムから言われた事。
確か、『魔法を口外するな』と、『命令に服従しろ』だったかな。
口外しちゃいけないけど、同じことをされたなら、ジェインは何か知ってるんだろうか。
「ねぇジェイン、あれはなんなの?」
ジェインは青い顔のまま、唇を噛み締めて応える。
「彼の言葉には逆らえません。私にわかるのは、それだけです」
そんな魔法、あるんだろうか。
だけどその魔法について質問をしようとすると、なぜか声が喉から出てこない。
……そう、あの言葉に私はもう、縛られてしまっているのね。
ヴィルヘルムは三つの命令を私に下した。
だけど三つめは、まるで思い付きの命令を下したかのようだった。
本命はその前の二つ、『魔法を口外するな』と『絶対服従』。三つめは何でもよかったのだろう。
となると、あれは相手を三つの命令に従わせる魔法だとでも言うのだろうか。
答えを聞きたいけれど、言葉は出てこない。
筆談を試してみても、手が字を書くことを拒絶するかのようだった。
私は小さく息をついて、ジェインから魔法のことを聞くのを諦めた。
「ねぇジェイン、昼間のことをお父様たちは何て言ってらっしゃるの?」
「大変お怒りです。エッシェンバッハ伯爵令息が、お嬢様に何かをしたのではないかと。
エッシェンバッハ伯爵はまだ邸内におります。旦那様が事情を直接聞きだしているところです」
そう言ってジェインが一枚の紙きれを私に差し出してきた。
「何よ、これ」
私は訝しみながら、何か文字が書かれている紙片を受け取った――それを見た途端、また私の心臓が強く痛みだす。
――何だって言うのよ、これは!
胸を強く押さえながら紙片にかかれている文章を目で追っていく。
『私たちに非がないことを証明し、私に婚姻を申し込め――ヴィルヘルム』
――はぁ?! なにを考えてるの、あの三流貴族?!
だけどその文面が確かにヴィルヘルム直筆のものだったのか、私の身体は起き上がり、私の口が勝手に言葉を発していく。
「着替えます。手伝って頂戴」
私の空虚な言葉を受けて、ジェインが頷いて新しいドレスを取り出した。
****
私はお父様たちのいる応接間まで行き、中で真剣に話し込んでいるお父様に対して口が開く。
「よろしいでしょうか、お父様」
お父様がこちらを見て、私を心配するような顔つきで眉をひそめた。
「ああ、無事だったかエリーゼ。
――さぁこちらへおいで。何があったか、説明しておくれ」
私の身体が勝手に頷き、足が前に進んでいく。
くっ! 逆らおうとしても、手も足も言う事を聞かない!
私の身体はお父様の横に座り、お父様の顔を見上げて口が開く。
「あの、お父様。この度は私が取り乱してしまい、ご心配をおかけしました」
お父様が私の肩を抱きしめながら応える。
「何があったか、ゆっくりと教えておくれ。
何故お前の服がはだけていたのか、その理由をね。
お前は必ず私が守る。だから真実を口にするんだ」
私の顔が勝手に頷き、再び喉から声が出ていく。
「あまりにもヴィルヘルム様が素敵だったので、思わず私が誘惑しようとしてしまったのです」
お父様が驚きの余り、口を開けて唖然とした。
私の口が、続けて言葉を紡いでいく。
「そのまま恥ずかしさの余り取り乱してしまい、つい周囲の物を壊してしまいました。
ヴィルヘルム様は私の奇行に驚かれて、そのまま部屋から逃げ出してしまったのです。
服は私が自分から脱いでしまったの。これは本当よ、ヴィルヘルム様は何も悪くないの」
気が付くと私は、大粒の涙をボロボロとこぼしていた。
由緒正しいヴェーバー伯爵家の娘が、男性の前で自ら服を脱ぐ――そんな恥知らずな真似、する訳がないでしょう?!
こんなことを口走っている自分が恥ずかしくて情けなくて、私は真っ赤に火照る顔で声も立てられずに泣いていた。
お父様は困惑したまま、強く私を抱きしめてくれた。
「――ヴェーバー伯爵、息子が言った通りでしょう?」
この声、エッシェンバッハ伯爵か。
「ですから、先ほどからそう言っているではないですか。
『エリーゼ様が突然、服を脱ぎだしたのだ』と。
いやはやしかし、これは酷い醜聞ですね」
この声は――ヴィルヘルム。
私はお父様に抱きしめられながら、声のする方向に憎悪を向けていた。
だけど私の喉は、再び私の意志に反して声を出してしまう。
「……ねぇお父様、私はヴィルヘルム様と婚姻をしたいと思うの。
こんな不祥事を起こしてしまったのだし、ヴィルヘルム様には悪いと思うのだけれど、責任を取ってもらえればと」
お父様が私を身体から離し、目を覗き込んできた。
「……エリーゼ、それは本気で言っているのか」
私は必死に視線で否定しながらも、顔は頷いてしまう。
「ええお父様、私は本気ですわ」
お父様は私の視線を受け止め、困惑しながら迷っているようだった。
「……そうだな、婚約までなら応じよう。
だが婚姻は、私がヴィルヘルムを見定めた結果で決める。
それで構わないかい?」
――嫌! 婚約だってしたくないよ、お父様!
「ええお父様、ありがとうございます」
私の意志と反する言葉が口から飛び出て行き、私は絶望的な気分になっていた。
ヴィルヘルムが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私に告げる。
「いきなり服を脱ぎだす令嬢だ、もう少し恥というものを教え込んでいただけませんか。
このままでは、いつ浮気をされるかわかったものではありません」
――あんたが、それを言うの?! お父様の前で!!
私が憎しみを込めた強い視線で睨み付けていると、ヴィルヘルムが私に優しく告げてくる。
「どうしたんだいエリーゼ嬢、そんなに私の顔を見つめて。
そんなに一緒に居たいなら、私の横に座るがいい。
しなだれかかるくらいはしてもいいぞ?」
私が心の中で、言葉にならない怒声を上げる中、私の身体が勝手に動き、お父様の腕からするりと抜け出した。
そのままヴィルヘルムの横に座り込み、彼の胸の中に身体を預けていく。
――あんな言葉すら、命令として受け止めてしまうというの?!
私の様子に、お父様のあきれる気配が伝わってくる。
私はもうどうしていいかわからず、ただただ涙を流していた。
****
その日の夕食の席、私は無言でフォークを進めていた。
今日有ったことは、悪夢であって欲しい。
だけど現実として、私とヴィルヘルムの婚約は締結する方向で話を進めることになってしまった。
これから私の将来は、どうなってしまうのだろう。
私が黙々と食事を食べ進めていると、お父様が私に告げる。
「エリーゼ、何があったのか、私にだけは教えられないか」
私は顔を上げ、お父様の瞳を見つめた。
その視線は私を思いやる優しい眼差し――お父様は、私の異常に気が付いてくれている!
そのまま様々な感情が迸ってきて、私の目からは大粒の涙がこぼれ落ちて行く。
「……助けて、お父様」
お父様が深刻な顔で立ち上がり、私の傍にやって来て抱き締めてくれた。
「……なにがあったか、教えてごらん」
言いたい、伝えたい! だけど、喉からは全く声を出せなかった。
私が必死に喉を押さえ、言葉を発しようとしていると、お父様は優しく背中を撫でてくれた。
「そうか、言いたくても言えないのか。
エッシェンバッハ伯爵令息め、エリーゼに何かをしたんだな?」
私は何度も頷こうとしたけれど、顔はピクリとも動かない。
心臓がきつく痛んだけれど、構わず私は胸を押さえながら、必死に意思を表そうと努力し続けた。
「――ああ、無理をしてはいけないよ、エリーゼ。
何かよくないことをされたのはわかる。
だが、何をされたのかわからないと、対処のしようがないね」
お父様は少し考えるように黙り込んだ後、再び口を開いた。
「仕方ない、エッシェンバッハ伯爵令息との婚約は予定通り進めよう。
――それとジェイン、お前は今日付けで解雇だ。
今夜のうちに荷物をまとめ、屋敷から出て行きなさい」
青い顔をしたジェインは、泣きそうになりながら頭を下げ、ダイニングから去っていった。
……彼女だって被害者だ。お父様も、おそらくそれは勘づいてる。
だけどお父様は、彼女をこの家から遠ざけることを優先した。
おそらく、私を守るために――
私はジェインにも申し訳なくて、ようやく嗚咽を上げながら泣くことが出来た。
お母様も私を抱きしめてくれて、私は二人に慰められながらその日の夕食の時間を終えた。
****
その後まもなく、私とヴィルヘルムとの婚約が締結された。
月に一度の頻度で彼は我が家に訪れ、私を逢瀬に誘ってくる。
お父様は私に侍女を三人付け、私がなにかされないか、しでかさないかを厳重に守るようにしてくれた。
ヴィルヘルムが私に何かを告げようとすると、侍女がそれを遮り「お嬢様にお伝えしたいことは、我々が承ります」と応えていた。
それで気勢をそがれたのか、ヴィルヘルムはつまらなそうに「フン、それなら別に構わん」と、鼻を鳴らして馬車の外を眺めていた。
町を散策していてもそんな風に侍女が守ってくれていたので、私は奇行をせずに済んだ。
侍女三人が周囲を固めて、ヴィルヘルムとも距離を作ってくれた。
私は変なことを命令されずに済んで、ほっと胸をなでおろして逢瀬を終わらせていった。
そんな生活が半年ほど経過したころ、お父様が私を書斎に呼び出した。
人払いがされた書斎で、お父様は神妙な顔つきで私に告げる。
「エリーゼ、心を強く持って聞きなさい。
どうやらエッシェンバッハ伯爵は、元は魔導士の家系だったらしい」
「魔導士、ですか? 商人ではなく?」
お父様が頷いて応える。
「ああ、そうだ。本家筋ではないらしいのだがね。
元々は他国から流れてきた魔導士の分家筋、といったところだそうだ。
だからおそらく、お前にも魔法で何かをしたのだろうと推測した」
――その通りです、お父様!
心臓が痛むのを無視して、必死に私は声を出そうとした。
お父様が慌てて手を上げて私に告げる。
「エリーゼ! 無理をしちゃいけない!
……そのように相手の言動を縛る魔法、そんなものがないか、私は調べさせた。
その結果、禁断の魔法≪隷属≫ではないか、と友人が教えてくれた。
この魔法ならば、お前が自由に言葉を発せないのも、お前が意志に反した言動をするのも説明が付く」
私は痛む心臓を押さえながら、お父様に応える。
「その魔法、解除はできないのですか」
――今度は言えた。私にかかった魔法を口外したわけじゃないから、なのかな。
お父様は眉をひそめ、厳しい顔で私に告げる。
「これは呪いのような魔法だ。術者が死ぬまで、その効果は残り続ける」
そんな――それじゃあ、相手が死ぬか、私が死ぬまでずっとこのままだというの?!
ヴィルヘルムを殺そうとしても、彼の命令に私は逆らえない。
だとすればもう、私が死ぬしか逃れる道がないじゃないか――
お父様が強い声で私に告げる。
「だが、一つだけ希望はある。
お前の精神力が術者の魔力を凌駕すれば、命令に抗うことはできる。
なんとかして、お前の心が魔法に負けないように鍛えれば、望みはあるんだ」
私は暗い気持ちで、呆然としながらその言葉を聞いていた。
「そんな方法、あるのですか?」
お父様も悔しそうに唇を噛み締めた。
「わからない。どうすればお前の心を鍛えられるかなど、私には思いつく事もできないよ」
「そう、ですか……」
望みはあるようで、それは雲をつかむような話。
どうすれば強くなれるのか。伯爵家の娘でしかない私が、強くなるにはどうしたらいいのか。
それまで考えたこともない難題に、私は頭を悩ませながら、お父様の書斎を辞去した。
****
それから一年が経過した。
今はまだ、ヴィルヘルムの魔手は私を陥れていない。
だけど周囲には『私からヴィルヘルムに婚約を申し込んだ』として知れ渡り、ヴィルヘルムは私の婚約者として社交界で顔を売っているようだった。
あんな男を私が望んだと思われるなんて、なんて屈辱なの?!
暗い気持ちになって部屋でふさぎ込んでいると、入り口からお父様の声が聞こえた。
「エリーゼ、少しいいかい」
顔を上げると、お父様が私を思いやる眼差しで告げてくる。
「これから王宮の騎士団が近くで模擬戦を行うらしい。
気晴らしに見に行かないか」
「……私がそのようなものを見て、何か意味があるのですか?」
「彼らは心身を鍛える人間たちだ。
その行動に、お前の心を鍛えるヒントがあるかもしれない。
私だけではなく、お前自身がその姿を見て、何か感じ取れないか考えておくれ」
ヒント……今の苦境を脱するヒントが得られるのか。
私はのろのろと立ち上がり、侍女たちに着替えを指示していった。
****
騎士団の模擬戦は、大勢の見物客が見に来ていた。
ヴェーバー伯爵領は平地が多く、王宮にほど近い。
こうして模擬戦闘を行うのは、よくあることだそうだ。
百人ぐらいの集団が二組に別れ陣形を組み、馬を駆って衝突する。
本番さながらに鎧を着込み、剣を振るう騎士たちの姿を、私は食い入るように見つめていた。
その中の一人、まだ若い騎士が特に活躍が目覚ましく、次々と相手の騎士たちを馬上から叩き落としていく。
結局、彼の属する組が勝利を収めたようで、勝鬨を上げていた。
「……お父様、あの方たちの傍に行ってもよろしいでしょうか」
私の口が、思わず言葉を紡いでいた。
お父様が嬉しそうに頷き、私の背中を押して彼ら――いえ、彼の下へ導いてくれた。
彼はこちらに気付いたようで、兜を脱ぐとぺこりと略式の礼で頭を下げた。
「ヴェーバー伯爵、どうなされましたか」
お父様が機嫌の良さそうな声で応える。
「今日も絶好調だね、フリードリヒ。
君の組は今のところ、負け知らずじゃないのかな?」
彼は照れる様子もなく、静かな表情で目を伏せた。
「いえ、私はまだまだ未熟な身、勝てたのは皆が力を合わせたからですよ」
そうして伏せた目を上げた彼の瞳があらわになる――その金色に近い琥珀の瞳が、私を見つめていた。
私は痺れたように動けなくなり、彼の瞳を見つめ返していた。
お父様の揶揄うような声が聞こえる。
「おや、どうしたんだいエリーゼ。そんなに固まってしまって」
そんなお父様の声すら、今の私の心には届かなかったようだ。
フリードリヒと呼ばれた彼、その艶やかな少し長めの漆黒の髪。
まるで鷹のように鋭い目。
あれだけ活躍をしておいて、功績を褒められても謙遜し、表情を出すこともない整った顔。
十三歳の少女でしかない私は、ただ彼の姿を見つめていた。
「……ははは、どうやら娘は君に見惚れてしまったらしい。
紹介しようフリードリヒ、娘のエリーゼだ。もうじき十四歳になる」
フリードリヒが私に目礼で挨拶をしてくれた。私はそれで慌てて頭を下げながら告げる。
「――エリーゼです! 初めましてフリードリヒ様!」
フリードリヒがわずかに口元を緩めて微笑んだ。
「フッ、私は侯爵家の者だが、あなたから敬称で呼ばれるような人間でもない。
家格ではヴェーバー伯爵家と我がシュレーダー侯爵家はほぼ対等、そう畏まる必要はない」
お父様がフリードリヒの肩に手を回し、大きな声で笑った。
「ハハハ! 騎士団長を代々受け継ぐ騎士の家柄でありながら、何を言うのか!
この王国を守る剣であり盾が君たちシュレーダー侯爵家だろう?」
フリードリヒが少し困ったように微笑んだ。
「私はまだ若輩者、他に騎士団長に相応しい騎士が居れば、その者が騎士団長を受け継ぐでしょう」
「だが、君に勝てる騎士が今は居ないと聞いているぞ?
シュレーダー侯爵は体を悪くして、近々引退を考えているとも聞く。
そうなればフリードリヒ、君が騎士団長の最有力候補だろう」
お父様の言葉に、フリードリヒが顔を引き締めて応える。
「いえ、そうと決まったわけではありません。
『騎士団長が世襲だ』などと言われぬよう、私は精進を続けるだけです」
私は彼の為人に、心を打たれていた。
身体を鍛え上げた人は、ここまで心が強いものなのだろうか。
真っ直ぐ将来を目指し、歪むことなく進むべき道を邁進する姿。
その高潔な姿勢に、私は感銘を受けた。
「……お父様、私もフリードリヒ様のようになれるでしょうか」
お父様が驚いて私を見ていた。
そして私の目を見てから――すべてを悟ったかのように表情を引き締め、頷いた。
「そうか、それはやってみる価値があるかもしれないな」
私たちの会話の意味が分からないフリードリヒ様は、困惑するように私たちの表情を交互に見やっていた。
****
翌月、王国騎士団に一人の少年が騎士見習いとして入団した。
「エル・ハワードです! よろしくお願いします!」
長い髪の毛を後頭部にシニョンで留めた少年は細い体つきで、まるで女性のようだと周囲が囁いた。
だが騎士団に女性は入団できない。騎士団長が入団を認めた以上、『彼は少年』なのだ。どれほど顔が女性のように美しくても。
エルはフリードリヒの付き人になった。
彼の世話係をやりながら、体力訓練や武術訓練を他の騎士見習いたちと共にこなしていった。
騎士団でも指折りの勤勉さで訓練をこなしていくエルは、見る見る武術の腕を上げていった。
だが週の半分は自宅に帰るエルを、皆は密かに『何者だろうか』と噂した。
普通の騎士見習いなら、騎士団の兵舎に住み込み、騎士の世話をしていくものだ。
エルには気品があり、教養もある。
そしておそらく、シュレーダー騎士団長に縁故がある人間。
その正体は謎に包まれていたが、シュレーダー騎士団長の信頼は厚く、『彼が何も言わないのであれば』と、騎士たちも黙認した。
――ふぅ、騎士見習いも大変ね。
私は日課の体力訓練を終えると、フリードリヒの武具の手入れをするために兵舎に戻った。
彼の鎧を武器庫の隅に座り込んで磨きながら、鎧に映りこむ自分の顔を思わず見つめてしまった。
なんだか、ずいぶん日に焼けちゃったな。貴族令嬢失格かもしれない。
だけど! 私はフリードリヒのように強くなりたいんだ!
私が小さくガッツポーズを取ると、武器庫の入り口から笑みがこぼれる声が聞こえた。
――え?!
思わず振り返るとそこには、艶やかな黒髪と琥珀の瞳――フリードリヒが口元を緩めてこちらを見つめている姿が在った。
「私の従者は随分と可愛らしいな。
もう少し気を付けていないと、女性だとばれてしまうぞ」
フリードリヒは近づいてきて、私の横に腰を下ろした。
私は止めていた手を再び動かして、彼の鎧を磨いていく。
「なんとなくですけど、皆さん気が付いてる気がします。
でも何も言われないんですよね。
これもシュレーダー騎士団長の人徳なんでしょうか」
「そうだろうな、父上は人を率いる力がお有りだ。
私もあのような騎士になりたいと、幼い頃に誓ったものだ」
私は笑顔でフリードリヒに振り向いて告げる。
「フリードリヒ様ならなれますよ! 大丈夫、私が太鼓判を押して差し上げますわ!」
「フッ、口調が戻っているぞエル」
おっと、思わず素が出てしまった。
慌てて口元を押さえた私の手を、フリードリヒが優しく掴んだ。
ドキッとして彼の目を見ると、柔らかく微笑んでいた。
「汚れた手で顔を押さえるから、口元が汚れてしまってるぞ」
そうして懐から取り出したハンカチで、彼の手が私の口元を拭っていく――なんだかそれが恥ずかしくて、思わず目を逸らした。
「……ほら、綺麗になった。
ん? どうしたエル。なんで赤くなってる?」
「……なんでもありません」
ほんと、なんで赤くなってるんだろう? 私は。
クスクスと笑うフリードリヒが、立ち上がって私に告げる。
「あまり遅くなるなよ。飯を食いそびれるぞ」
そう言って身を翻し、武器庫から出て行ってしまう背中を、私は見えなくなるまで見つめていた。
****
私が『エル・ハワード』として騎士団に入団して三年近くが経過し、私は十六歳になっていた。
騎士見習いと貴族令嬢の二重生活は大変だったけど、それなりに充実した時間だったと思う。
貴族令嬢としての時間は主にヴィルヘルムの相手をすることが多く、憂鬱な気分にさせられた。
だけどその鬱憤を晴らすかのように騎士見習いの訓練に打ち込むと、気分が晴れやかになっていった。
ついでに武術の腕も上がるのだから、お得というものだろう。
今では騎士見習いでも一、二を争うくらいには剣術の腕が上がっていた。
フリードリヒと共に馬で草原を駆けながら、彼に告げる。
「今日はどこまで行くんですか!」
「いつもの高台までだ!」
毎週、馬術の訓練で連れて行かれる王都近くの高台は、王都を一望できる見晴らしの良い場所だ。
高台に到着すると二人で馬を止め、遠くに見える王都を静かに眺める。
「ふぅ、ここはいつ来ても良い眺めですね」
フリードリヒがクスリと笑みをこぼした。
「エル、お前も馬に随分と慣れたな。
技術だけなら、立派な騎士として通用するだろう。
――それに、その口調もすっかり板に付いたようだ」
私は苦笑を浮かべてフリードリヒを見つめた。
「この三年、危ない場面は何度もありましたけどね」
フリードリヒは小さく息をついて応える。
「その度に私はハラハラさせられた。
まったく、世話の焼ける従者だよ、お前は。
――ところで、十六のお前は婚姻をしなくても大丈夫なのか」
そのことか。それを考えるとちょっと憂鬱なんだけど。
「今はまだ、父上の権限で待ってもらっています。
ですがいつまで誤魔化せるかは、私にもわかりません」
あのヴィルヘルムが、お父様の『待った』にいつまでも大人しく従っているとも思えない。
何か動きがないか、お父様と一緒に彼らエッシェンバッハ伯爵親子の動向には注意を払っている。
貴族令嬢としても、十六ならそろそろ婚姻をしないとまずい時期だ。
だけど今までヴィルヘルムを婚約者として据えてきた。
なんとか彼との婚約を白紙にできたとしても、これから新たに婚約者を探すのは大変だろう。
私は剣ダコでごつごつになってしまった自分の手のひらを見て、再び苦笑をした。
――こんな手を持った伯爵令嬢を娶ってくれる人なんて、居るとも思えないしな。
憂鬱な気分を吹き飛ばすように、私は大きな声でフリードリヒに告げる。
「フリードリヒ様は、婚姻なさらないんですか?
今は侯爵の跡を継いで、新しい騎士団長なんですよ?
言い寄ってくる女性なら、いくらでもいらっしゃるんじゃないですか?」
フリードリヒは、退屈そうに王都を見やって応える。
「婚姻か。私は女性の扱いが下手だからな。
一緒に居ても楽しませることが出来ず、会話が続かない。
彼女たちの会話に、巧く応えることもできない。
近寄ってくる女性は多いのだが、すぐに逃げてしまうんだ」
「……意外というか、しっくりくるというか、フリードリヒ様なら、そんな事も有り得そうですね。
でもフリードリヒ様の良さがわからないなんて、その令嬢たちは見る目がないんですよ!」
フリードリヒが意外そうな顔でこちらを見てきた。
「私の良さだと? どんなところだ?」
私はフフンと胸を張って応える。
「まず、誠実です! 次に優しくて、なによりお強いです!
心身ともに健やかで強い騎士なんですよ?
これほど立派な男性は、王国中を探してもフリードリヒ様だけです!」
私が断言すると、しばらく沈黙が続いた。
あれ? 私、変な事言っちゃった? なんで黙ってるんだろう?
おそるおそる横目で見ると、フリードリヒがとても優しい眼差しで私の顔を見つめていた。
私は顔から火が出るほどの熱を感じ、そのまま慌てて顔を隠すように目を逸らした。
「フ、フリードリヒ様?! なぜこちらを見るのですか?!」
「……いや、私の従者は可愛らしいことを相変わらず言うものだと思ってな」
ほんとに、あの優しい笑顔は反則だよ?!
普段は仏頂面みたいに無表情な癖に、なんで二人きりの時間では度々あんな優しい表情を見せてくるわけ?!
私は高鳴る胸を抑えながら、自分の気持ちに戸惑い、持て余していた。
――この気持ちは、一体なんなの?
とても心地良いような、逃げ出したいような、彼の胸に飛び込みたいような、とても複雑な気分だ。
恥ずかしくて居たたまれないのに、彼の傍が心地良すぎて離れたくない。
そんな不思議な時間を黙って過ごしていると、フリードリヒが私に声をかける。
「そろそろ帰るぞ、飯の時間が近い」
彼が馬首を巡らせる気配がしたので、私も黙って馬首を巡らせる。
私たちは二人並んで、王都に向かって馬で駆けていった。
****
夜の王宮、その大ホールでは舞踏会が開かれていた。
私はヴィルヘルムに連れ出され、渋々彼に従っていた。
――そう、今夜の私はエリーゼ・ヴェーバー。伯爵家の娘として来ている。
クリームマロンの髪をシニョンで留め、シンプルな淡い水色のドレスに身を包んでいた。
……久しぶりに夜会用のドレスなんて着たけど、騎士見習いの服と比べると窮屈だなぁ。
男性はいつもあんな楽な服装で良いだなんて、なんだかずるくない?
ヴィルヘルムの様子をこっそり盗み見ると、彼は友人らしき貴族子女と会話を楽しんでいた。
彼の周囲にはどうにも胡散臭い人たちが集まり、まともな貴族子女は彼と距離を取ろうとしているようだ。
だけど中には私のように、彼に魔法で従わせられてる様子が見て取れる、怯えた貴族子女も混ざっている。
彼らは一様に青い顔をして、人生に絶望した表情をしていた。
……騎士見習いをしてなければ、私もきっと彼らの仲間になっていたのだろう。
だけど! 今の私ならヴィルヘルムの命令にだって逆らってやる! ……逆らえる、よね?
ちょっとまだ怖いのは否めない。だけど、いつまでもやられっぱなしなんて、私らしくない!
密かに意気込んでいると、ヴィルヘルムがこちらに振り向いて私に告げる。
「ちょっとハイデンベルク辺境伯令嬢と踊ってくる。
お前はここで一人、大人しく待っていろ」
「はい」
私の口が勝手に受け答えをした。
……今のは別に、逆らっても私に得はないし。しょうがない。
だけどやっぱり、不意を打たれると駄目かと、自分に少し落胆した。
ふと気が付くと、周囲のひそひそとした会話が聞こえてくる。
「あれ、踊ってるのはハイデンベルク辺境伯令嬢とエッシェンバッハ伯爵令息だろう?
あいつ確か、ヴェーバー伯爵令嬢と婚約してなかったか?
なんだか随分と親し気に踊っているが、大丈夫なのか?」
「何だお前、知らないのか?
最近あいつはハイデンベルク辺境伯令嬢と親しくしているらしい。
近々婚約するんじゃないかって噂だよ」
「おいおい、じゃあ――あそこに居るヴェーバー伯爵令嬢はどうするんだよ?」
「さぁな、婚約破棄するんだろう? 相手が頷くかは知らんがな」
――婚約破棄してくれるの?! 本当に?!
私は思わず、期待を込めてヴィルヘルムの踊る姿を見つめた。
ヴィルヘルムと踊って居るのは、ハイデンベルク辺境伯令嬢――確か、ヴィオラだったかな。
爵位は上だけど、我が家よりも家格が一段下の家だ。
彼女は楽しそうに笑みを浮かべあい、くるくるとワルツを踊っていた。
親しそうに言葉を交わす二人は、先入観なしで見れば恋人同士にしか見えないだろう。
……信じられないけど、『あの』ヴィルヘルムと、心から親しくなっている女性ということ?
それが本当なら、私は解放してもらえるかもしれない。
私の視線に気が付いたのか、ヴィルヘルムがこちらに視線を向けてニヤリと嫌らしく笑った。
それに続くように、ヴィオラもこちらを見てクスリと笑ったように見えた。
……なんだか嫌な予感がする。
逃げ出したい。だけどさっきの『大人しく待っていろ』という命令が、私の足を床に釘付けにしていた。
動かしたくても動いてくれない足に、必死に『動け!』と命令しても、足はビクともしてくれない。
――私は、まだ弱いというの?!
それとも、『逃げ出したい』という後ろ向きの願いが、心から力を奪ってしまっているのだろうか。
周囲からはわからない、私の必死の抗戦の時間が続いた。
――動け動け動け!
足を見つめて必死になっている私に、ヴィルヘルムの声が降ってくる。
「おいエリーゼ、何をうつむいているんだ。顔を上げろ」
「はい」
その『命令』に従い、私の身体が顔を上げてヴィルヘルムを見た。
そこには満足そうに笑みを浮かべるヴィルヘルムと、同じような笑みを浮かべるヴィオラの姿。
「あら、本当に言った通りに動くのね」
私はヴィオラをキッと睨み付ける。
「あなたとは初対面のはず。
せめて挨拶をするのが礼儀ではないのかしら」
クスリとヴィオラが笑みを浮かべ、カーテシーで告げる。
「ハイデンベルク辺境伯家の娘、ヴィオラよ」
私は棒立ちのまま応える。
「……ヴェーバー伯爵家、エリーゼよ」
ヴィルヘルムがニコニコと気味が悪い笑みを浮かべて私に告げる。
「まぁまぁ、そう興奮するなよ。
大人しく『跪いて挨拶しろ』。エリーゼ」
――ただの辺境伯令嬢相手に、跪けって何様なの?!
私の身体が勝手にかがもうとするのを、私は意志の力を総動員して止めていた。
わずかに頭を下げた状態で動きを止めた私を、ヴィルヘルムは嗜虐心溢れる笑みで見つめているようだった。
「ほう、頑張れるようになったじゃないか。
だがまだ理解が浅いな。重ねて命じる。『ヴィオラに跪け、エリーゼ』」
さっきよりも強い力が私の身体を動かし、心臓が酷く痛んだ。
「――うぐぁ?!」
痛みで悲鳴を上げているうちに、私の身体はヴィオラに対して跪く恰好を取っていた。
周囲がざわつき、私の姿を見ているようだった。
それはそうだろう。王国内でも有数の家格を持つヴェーバー伯爵家が、辺境伯家とはいえ家格が下の家の令嬢に跪いているのだ。
――こんなの、お父様の、我が家の名誉が傷つけられる!
今まで何のために厳しい騎士の訓練を受けてきたの?! こんな暴力に抗うためでしょう?!
私は歯を食いしばり、騎士の意地でゆっくりと立ち上がっていった。
肩で息をする私を、ヴィルヘルムとヴィオラは楽しそうに見つめていた。
「へぇ、これでも抗えるのか。
だがお前が彼女に跪いた事実は、今夜来ている皆が見ている。
今さら遅いという話だ。ご苦労な事だな」
そう言いながらも、ヴィルヘルムは私に対する命令を解除していない。
身体が再びヴィオラに跪こうとしているのを、私は懸命に耐えていた。
脂汗を流す私を見て、ヴィオラがクスリと笑う。
「本当に必死になっちゃって。滑稽ね。
それになんだか日に焼けていて、とても名門伯爵家の令嬢には見えないわ。
――ねぇヴィリー。もういいんじゃない? この玩具、捨てちゃっても」
人間を玩具扱い?! なんて人なの?!
ヴィルヘルムがニヤリと笑いながら頷いた。
「ああ、そうだな――聞いてくれみんな!
私は今夜、ヴェーバー伯爵令嬢エリーゼとの婚約を破棄する!」
――え?! いいの?!
思わず気が抜けて跪きそうになり、慌てて気張って身体を起こす。
ヴィルヘルムが続けて口を開く。
「彼女はハイデンベルク辺境伯令嬢ヴィオラに跪いた。
自分で彼女に負けを認めたのだ!
ならば私はヴィオラと婚約を結ぼう!」
周囲が再びざわついた。
確かに、家格が下の人間に跪くなんて、貴族子女として有り得ない失態だ。
貴族が跪くのは仕える主君、王族のみ。それを格下の令嬢に跪いたのだから、貴族子女として失格ものだろう。
お父様の、ヴェーバー伯爵家の顔に泥を塗った私は非難されても仕方がない。
周囲が私に白い目を向ける中、ヴィルヘルムが私の耳に近寄ってきて囁いて行く。
「婚約は解消してやるが、代わりに父上の愛人の座をプレゼントしてやろう。
お前は父上の愛人として、私の弟や妹を好きなだけ生むといい。
もちろん私生児としてな」
――ここに来て、なんておぞましい命令をしていくんだ、この男は?!
そんな人生、何が何でも抗ってやる!
だけど身体は勝手に大ホールの外に向かおうとする――まさか、エッシェンバッハ伯爵に会いに行こうとしてるの?!
「――やだ、やめて!」
「ハハハ! 無駄だよ、お前が望んだことだ。
お前は私の命じた人生を好きに歩むがいい!」
――そんな人生、望むわけがないでしょう?!
ヴィルヘルムの嘲笑を背に受けながら、私はボロボロと大粒の涙をこぼしつつゆっくりと、ホールの外に歩いて行った。
****
私の足が、ゆっくりと王宮の廊下を歩いて行く。
必死に足を止めようとするのに、足は王宮の外、待たせている馬車に向かっていた。
泣きながら歩く私を、周囲の人たちは訝しんで眺めているようだった。
――あれほど鍛錬をしたのに、まだこの魔法に抗う力が足りないというの?!
懸命に身体を押しとどめようとする中、私の脳裏に不意にフリードリヒの優しい笑顔が浮かんだ。
――そうだ、あの人に顔向けできない真似なんて、騎士にあるまじき真似なんて、できるわけがない!
「はあああああっ!!」
騎士見習いの鍛錬で身に着けた、裂帛の呼吸を全力で行った。
この際、体裁なんて気にしてられるか! 私の人生がかかってるんだ!
周囲の兵士や使用人が突然の咆哮に驚く中、私の足はようやく歩みを止めてくれた。
肩でぜいぜいと息をして、脱力した私は廊下の壁にもたれかかった。
……疲れた。そうか、あそこまでやれば、命令を跳ね返す事もできるのか。
騎士見習いの鍛錬、無駄じゃなかったんだな。
妙な感慨にひたりながら、私はゆっくりと壁から離れ、今度こそ自分の意志で馬車に向かい歩いて行く。
疲れた足取りの私に、背後から聞き覚えのある声が投げかけられた。
「……大丈夫か、エリーゼ嬢」
その声に胸が高鳴り、振り向く私の目からは涙がこぼれ落ちていた。
「……フリードリヒ様」
私の身体は知らずのうちに、フリードリヒの胸に飛び込んでいた。
****
私はフリードリヒと馬車に乗り、自宅に向かっていた。
……疲労感で体が重たい。だけど、魔法による命令を跳ね除けたという事実と、今この空間にフリードリヒが居てくれる心強さで、心は羽のように軽かった。
私は気が付くとフリードリヒを見つめていたようで、彼と目が合った。
「どうした? 不安なのか?」
「いえ、そんなことはありませんわ。
むしろその逆、フリードリヒ様が居てくれることが、とても頼もしいのです」
フリードリヒが、不安そうに眉をひそめた。
「だが今夜のエリーゼ嬢は、どこか様子がおかしかった。
辺境伯令嬢にあのように跪くなど、何があったというのだ」
「それは――」
再び、私の心臓が痛いほど締め付けられた。
呼吸もままならない苦しみの中、私はもう一度、裂帛の気合で声を上げる。
「はあああああっ!」
私は肩で息をした後、驚いて声をかけてくる御者に対して「なんでもありませんわ!」と応えてから、フリードリヒに向き直って告げる。
「私は≪隷属≫の魔法で自由を奪われてますの。
あの卑劣なヴィルヘルム・エッシェンバッハによってね。
さきほどまでは抗いきれず、『跪け』という命令に従ってしまいました。
お父様に恥をかかせてしまったので、帰ったら謝らなければなりませんわね」
フリードリヒは驚いたように目を見開いていた。
「その魔法は――禁呪。我が国で禁じられた魔法のはず。
そのような魔法を使えば、懲役刑は免れないだろう」
「そうらしいですわね。でも証拠がありませんの。
私の身体にも、それらしい痕跡はありませんし。
今なら私は自分を宮廷魔導士に鑑定してもらうこともできるかもしれませんが、魔法をヴィルヘルムがかけた証拠がない。
ですから、なんとしても証拠を確保したいところですわね」
フリードリヒが険しい顔で考えこみ始めた。
「そのような魔法を、なぜヴィルヘルムのような若者が使えるのだ」
私はその独り言に応える。
「お父様がお調べになったのですが、≪隷属≫は元々、エッシェンバッハ伯爵の生まれ故郷に伝わる魔法なのだそうです。
彼はそこの魔導士の系譜。その息子であるヴィルヘルムは、おそらく父親から魔法を伝授されたのだろうと」
フリードリヒの目が、どこか怒りを湛えているかのようだった。
「つまり、エッシェンバッハ伯爵が目覚ましい躍進を遂げたのも、全て魔法の力だったと?」
私は頷いて応える。
「ええ、お父様はそう推測してらっしゃるようです。
でも解呪するには術者の命を奪うか、先ほど私がやったように魔法の力を精神力で上回るしかない。
どうやら一つの命令に付き、毎回抗う必要があるみたいですわ」
「厄介な……」
私はニコリと微笑んで告げる。
「ですがもう、私は抗うコツを掴みました。
少々騒がしいですが、先ほどのように気合で魔法に抗えます。
被害者がこれ以上増える前に、私が何とか致しますわ」
フリードリヒの目が、不安そうに私の目を見つめた。
「何とかとは? まさか、これ以上危険な目に遭おうとしていないか」
私は微笑んだまま頷いた。
「そのまさか、ですわ。
あの男が、ただ意味もなくヴィオラに近づいたとも思えません。
共犯者になれる、家格の高い貴族令嬢――そんな人間を求めていたのではないでしょうか。
ヴィオラは共犯者になれる女。彼女ならば、もっと恐ろしい計画を推し進められます」
だから私は捨てられたのだ。彼にとってさらに美味しい『餌』が視野に入ったから。
フリードリヒが真剣な眼差しで私を見つめて告げる。
「その『恐ろしい計画』とは?」
「おそらくですが……ヴィルヘルムは王族を隷属させるつもりではないでしょうか。
ヴィオラは王族とも親しくしていると聞きます。
彼女なら、王家の人間を外に呼び出すことが可能ではないかと。
第一王子のローレンス殿下は、ヴィオラにご執心という噂も聞きますしね。
まさにおあつらえ向きの『餌』だと思いますわ」
フリードリヒの顔が歪み、厳しい表情で唇を噛んだ。
「そのような真似、決して許すわけにはいかぬ!
この王国を好きに操ろうと、そんな大それたことを考えているのか!」
私は慌ててフリードリヒの口元を手で押さえた。
「フリードリヒ様、声が大きすぎますわ。御者に聞かれます」
慌ててフリードリヒ様が窓越しに御者を見る――御者は特にこちらを気にする様子もなく馬を操っていた。
ふぅ、と二人で息をつき、改めて私は告げる。
「今はともかく、彼らの動向を注視する時期です。
不穏な動きがあれば、必ず食い止めなければなりません」
フリードリヒが厳しい表情のまま頷いた。
「そうだな、お互い油断をする事の無いよう、気を配ろう。
だが殿下たちにこの事を伝えた方がいいかは、悩ましいな」
私はため息をついて応える。
「そうですわね。ここでヴィルヘルムたちに警戒されると、証拠を押さえることが難しくなってしまう。
それに私が秘密を漏らしたとばれたら、必ず報復が待っているでしょう。
ただの命令なら抗えると思いますが、それ以上のことを魔法でされてしまえば、私の人生も終わりです。
それ自体は怖くありませんが、私が原因でお父様にこれ以上のご迷惑をおかけするのは避けたいと思います」
既に今夜、ヴェーバー伯爵家の家名に泥を塗ったばかりだ。
いくらお父様が許して下さったとしても、名家に生まれた女子の一人として、これ以上家名が恥辱にまみれるのを許すわけにはいかない。
私が膝の上で握りしめた手を、フリードリヒが片手で握りしめてきた。
「あなた一人で戦ってはいけない。
エリーゼ嬢もまた、守られるべき人だ。
何かあれば、すぐに私を頼って欲しい」
私はフリードリヒの目を見つめ、ニコリと微笑んだ。
「いいえ、『騎士見習いエル』は、決して守られる存在ではありませんわ。
自分でも戦える、強い騎士を目指す少年。
その心、魂を私は持っているのです。
そうでなくては、ヴィルヘルムに勝つことはできませんから。
――でも、ありがとうございます、フリードリヒ様」
フリードリヒは、私の目を見つめたまま柔らかく微笑んだ。
「そうか、だが決して無理はしないで欲しい。
あなたに何かがあれば、ご家族だけでなく、ここにも悲しむ人間が居ることを忘れないでくれ」
えっ――と思った時には、馬車の速度が緩やかになっていった。
間もなく停車した馬車の御者席から、御者が大声で告げてくる。
「お嬢様! 着きました!」
……もう、ムードの分からない御者ね。
私は苦笑を浮かべ、両手でフリードリヒの手のひらを包み込み、告げる。
「今夜はありがとうございました、フリードリヒ様」
「いえ、私は特に何も」
「そんなことはありませんわ。
あなたのおかげで、今こうしてここに居られるのですから」
私は彼の手を借りて馬車から降り、その手を惜しみながら離した。
御者には彼を自宅に送り届けるように指示を出し、私は伯爵邸に入っていった。
****
その後、社交界には私の醜態が噂としてすっかり広まったらしい。
私は婚約者も居なくなり、社交場に行く必要もなくなったからと、週の大半を騎士見習いエルとして過ごしていた。
伯爵邸に帰宅した時にお父様から様子を伺い、打ち合わせをする日々だ。
『ヴィルヘルムの狙いは王族だろう』という私の推測を、お父様も頷いて肯定した。
お父様の伝手を使い、ヴィルヘルムやヴィオラ、そしてローレンス殿下の周囲にも、様子を見張る人間を配置していった。
二週間ほどして、週末に伯爵邸へ帰宅した私をヴィルヘルムが訪ねてきた。
……最後に下した命令に私が応じなかったので、様子を見に来た、といったところかしら。
お父様が心配そうに私を見つめて告げる。
「エリーゼ、どうするつもりだい」
私は毅然とした態度で応える。
「どうもこうもありませんわ。彼の命令を跳ね除けたのは事実。
そのことを弁明するつもりはありません。
正直に『抗った』と宣言し、彼の出方を窺います」
お父様が私の手を握り、不安そうに告げる。
「いや、今日は会うのを止めておきなさい。
彼は私が追い返しておこう。
会えばきっと、また良からぬことをお前に仕掛けてくるに違いない」
私はやんわりとお父様の手を押し返し、微笑んで応える。
「それではヴィルヘルムの悪事の尻尾を捉えることなんてできませんわ。
多少の危険は覚悟して、彼から情報を引き出しませんと。
――でも万が一、私が失敗して家名に再び泥を塗ってしまったら、どうか私を勘当してください。
これ以上ヴェーバー伯爵家の娘として恥の上塗りをするなんて、私自身が耐えられませんから」
お父様は難しい顔で私を見つめてきた。
「……そこまでの覚悟か。
だが決して危険な真似をするんじゃないよ。
そしてお前は何があろうと私の娘だ。
家名にどんな泥を塗ろうと、それだけは絶対に変わらない。
どうか忘れないでおくれ」
私は笑顔で頷くと、お父様の書斎を辞去し、ヴィルヘルムを待たせている応接間へと向かった。
****
応接間では、ヴィルヘルムがヴィオラと共にソファに座り、私を待っていた。
入室した私を見てニヤリと微笑んだヴィルヘルムが「人払いをしてくれ」と告げると、私の身体が勝手に頷き「人払いを」と従者に告げた。
従者たちが辞去していき、扉を閉める。
私は密室になった応接間で、ヴィルヘルムとヴィオラに対峙していた。
ヴィルヘルムは興味深そうに私を眺めながら告げる。
「どうやら、≪隷属≫が解けた訳でもないらしい。
だがどうして父上の愛人になって居ないのだ?
お前にはそのように命じたはず。
あのままなら、お前はあの晩父上に身体を預け、父上の妾の一人となって居ただろうに」
私はヴィルヘルムを睨み付けて応える。
「そんなの、絶対に嫌だからに決まってるでしょう。
お父様と同年代の男性の愛人だなんて、死んでも嫌よ。
そう思ったら、なんとか足が止まってくれたわ」
「ふむ……少し反抗的だな。
今一度、自分の立場を思い知ってもらおうか――私の前に来て跪け」
私の足が勝手に歩きだし、ヴィルヘルムの前で膝を折り、彼に跪いた。
その様子を見たヴィオラが楽しそうに私に告げる。
「あら、やっぱり言う事を聞いちゃうのね。
この程度は死ぬほど嫌って訳じゃないのかしら」
「なに、こいつは私に屈するのに慣れている。
今さら抵抗したくてもできないさ。
父上の愛人は、それだけ嫌だったのだろう――今度は私の靴に口づけしろ」
――こいつ、調子に乗りやがって?!
だけどここで無害な命令に逆らうより、大人しく従っておいた方がいいだろう。
密室で誰も見ていないなら、屈辱的な扱いを受けても私が耐えれば済む話だ。
私の身体が動き、ヴィルヘルムが組んだ足、そのつま先に静かに唇を落とした。
――だけど、やっぱり屈辱だわ、これは!
怒りで頭が燃えるように熱い。
だけど私の身体は彼の靴に口づけしたまま、動かすことが出来なかった。
ヴィルヘルムの楽し気な声が降ってくる。
「そうかそうか、それほど私の靴は美味いか。
悔しそうに顔を歪めるお前の姿は、いつ見ても美しいな。
次はその服を脱いでもらおうか。全裸で外にでも走り出すがいい」
――またそれなの?! どんだけ女に恥をかかせれば気が済むんだ、この人間の屑は!
ヴィオラがその言葉を遮るように声を上げる。
「やだ、私こんな汚い人間の裸なんて見苦しいもの、見たくありませんわ。
それより、今度の計画の手駒に加えましょう。
殿下を呼び出すのに、この女を使うのよ。
何かあっても、こいつが『自分がやりました』と自供すれば、罪は全て被ってくれますわ」
ふむ、と一瞬考えこんだ様子のヴィルヘルムが、私に告げる。
「よし、服を脱ぐのは止めだエリーゼ。
お前は来週、町を散策するローレンス殿下を呼びつけろ。
詳しい場所を指示するから、紙とペンを持って来い」
私は必死に服を脱ごうとする自分に抗っていたのだけれど、ヴィルヘルムの新たな命令で立ち上がり、紙とペンを彼に手渡した。
それが済むとすぐさま、外してしまっていたボタンを留め直した。
ヴィオラが私に嗜虐的な笑みを向けてくる。
「フフフ……殿下が手中に納まったら、今度こそあなたを全裸で外に放り出すのも悪くないかもね。
そうやって恥ずかしいのに抗って苦しむ姿、中々に悪くないわ」
私はヴィオラを睨み付けて応える。
「あんたも本当にいいご趣味をお持ちのようね。
貴族令嬢として、ヴィルヘルムに思う所はないの?!」
きょとんとしたヴィオラが、私を見つめて応える。
「思う所? 『便利な男』ってぐらいかしら。
私に面白いものを見せてくれるし、付き合ってて退屈はしないわね」
どうやらこの二人は、似た者同士という所らしい。
馬が合った二人は意気投合し、共犯者として生きていくことを決めたのだろう。
こんな身勝手な人間たちに、王国を好き放題させちゃいけない。
私が固い決意を心に刻み込んでいると、メモを書き終わったヴィルヘルムが私に折りたたんだ紙を差し出した。
「このメモにある通りに動け。
決してしくじるなよ」
私の身体が勝手に頷き、「はい」と返事をした。
悔しさで顔が紅潮するのがわかる。
そんな私を見て、目の前の二人は手を叩いて喜んでいた。
「ハハハ! 今度も抗えないか。
そんなザマで、よく父上の愛人を拒絶できたな。
心に決めた男でもいるのか? 言ってみろ」
そんな人、いる訳が――
「はい、フリードリヒ・シュレーダー様です」
勝手に私の口が告げた名に、私自身が驚いていた。
――え?! フリードリヒ?! なんでその名前が出てくるの?!
一瞬ぽかんと口を開けたヴィルヘルムが、再び楽し気に笑いながら手を叩いた。
「はっはっは! そうかそうか、あの不愛想な騎士に憧れていたのか!
父上ほどではないが、奴も二十代半ば、立派に中年に片足を突っ込んだ男だろうにな。
お前は存外、趣味が悪いと言う事か?」
私はキッとヴィルヘルムを睨み付け、声を上げる。
「フリードリヒ様を悪く言わないで!」
「その反抗的な口を閉じろ」
「はい」
またしても、私の身体は彼の命令に従った。
その様子に満足した様子のヴィルヘルムたちがソファから立ち上がり、私に告げる。
「私たちが帰るまで、そこで這いつくばって跪いているがいい。
――ああ、あのメモの内容は、決して他人に知られるなよ」
「はい」
私の身体が跪き、這いつくばるように頭を下げた。
ヴィルヘルムの足が私の後頭部を踏み付け、踏みにじってから去っていく。
ヴィオラも同じようにヒールで私の頭を踏み付けたあと、楽し気な笑い声を残して応接間から去っていった。
****
二人の気配が遠のくと、私の身体に自由が戻ってくる。
――ふぅ、なんとか耐えきったわ。
それに、罪を被せるためとはいえ、殿下を陥れる計画に加えてもらえることにもなった。
私はメモを広げて中身を読んでいく。
どうやら、町を散策している途中で町はずれの広場に立ち寄る予定らしい。
そこに指定された時間に姿を見せて、ローレンス殿下一人を森の中に誘き出せと書いてあった。
……これで殿下に何かあれば、私は少なくとも共犯者の一人に見える。
その後はヴィルヘルムが姿を見せずに殿下に隷属の魔法をかけるか、失敗しても私が単独犯で行ったと自供すればいいわけだ。
そこには自供内容まで丁寧に書いてあった。
『ヴィルヘルムと付き合っているうちに禁呪の存在を知り、興味本位で殿下に隷属の魔法をかけたと言え』と記されている。
誘き出す手口も『色仕掛けを使え』とか、本当に下劣な人間だ。
だけど悲しいかな、ローレンス殿下は少々、女性に弱いらしい。
良くない女性に言い寄られては、側近が追い払ったという噂をよく聞いた。
だけど近寄るのが、ヴェーバー伯爵家の令嬢だったなら? ――そう、側近が追い払う事なんてできない相手だ。
なるほど、よく考えられていること。
私はふぅ、と小さく息を吐く。
――これで、ヴィルヘルムの尻尾を押さえる機会を得た。
この貴重な機会を逃さず、確実に仕留めないと。
……でも、私ってフリードリヒを慕っていたのか。今さらながら恥ずかしくなって、思わず赤面していた。
そんな自覚はなかったのに、命令で恋心に気付かされるなんて。なんて情緒のない話なのだろう。
彼は『私を頼って欲しい』と言ってくれてたっけ。
その言葉を、今は頼もしく感じていた。
「エリーゼ、大丈夫かい」
お父様の声に振り返る。心配そうな表情のお父様が、応接間の入り口に立っていた。
「ええ、問題ありませんわ」
私の身体がメモを懐にしまい込もうとするのを、裂帛の気合で押し留めた。
「……お父様、これが彼らの計画ですわ」
私が差し出したメモを受け取り、お父様がそれに目を通していく。
険しい表情のお父様が頷き、私に告げる。
「これだけでは物証として弱い。
お前や殿下には、多少の危ない橋を渡ってもらう必要があるだろう。
なんとしても奴の犯行現場を取り押さえ、陰謀を白日の下にさらす必要がある」
私も頷いて応える。
「ええ、わかってますわ。
王家の人間を守るのは、臣下である私たちの務め。
必ずヴィルヘルムたちを追い詰め、悪の根を絶ってみせましょう!」
私たちは頷きあうと、応接間を後にした。
****
翌週末、私は命令された時間、町はずれの広場に馬車で向かった。
馬車を降りて噴水の傍にあるベンチに腰を下ろす。
しばらく待っていると、噴水の傍に王家の馬車がやって来て停止した。
中から出てくるのは、ヴィオラとローレンス殿下。
二人が微笑みあって噴水に近づいてくると、私の身体も立ち上がり、殿下に近づいて行く。
一瞬、遠くに控えている護衛騎士たちが反応したけれど、私がヴェーバー伯爵家の娘だと理解したのか、手をかけていた剣の柄から手を離した。
ゆっくりと勝手に微笑む私の顔から、意識せずに言葉が紡ぎ出されて行く。
「ローレンス殿下、今日は良いお天気ですわね」
殿下が私に目をやり、その視線が私の胸元に吸い寄せられた――ああ、これじゃあ駄目だわ。悪い女性にいいようにされても仕方がない。
「君は確か、ヴェーバー伯爵令嬢、エリーゼだったね。
今日はどうしたんだい?」
私の顔がニコリと微笑んで、胸を強調するような仕草で殿下の腕にまとわりついた。
「少し、秘密のお話がございますの。
森の中なら、他の人に見られることも聞かれることもありませんわ。
……よろしいでしょうか」
私の口が紡ぐ誘惑の言葉と、女性の魅力を前面に押し出した仕草に、ローレンス殿下の頭は真っ白になってしまったようだ。
その視線は私の胸元に釘付けになりながら、殿下が護衛騎士たちに告げる。
「少しここを離れる。お前たちは付いてくるな。
――ヴィオラ嬢、すまないが少しの間、一人にする」
ヴィオラはニコリと楽しそうに微笑んで頷いた。
「ええ、ごゆっくりお楽しみくださいませ。
私は馬車の中で待っていますわ」
私の身体は殿下の腕を胸に挟み込み、森の奥へと誘導していく。
殿下は変わらず視線を私の胸元に釘付けにされながら、ふらふらと私に付いてきた。
そのまま私は殿下を連れ、公園に隣接する森の中へ足を踏み入れた。
****
昼間でも薄暗い森の奥、炭焼き小屋のある辺りまで行くと、私の足は歩みを止めた。
そのまま殿下の腕を胸に抱きしめたまま、私の口が殿下に告げる。
「殿下、少し目をつぶって居てくださらない?
私からお送りしたいものがありますの」
ローレンス殿下は何かを期待するように頬を紅潮させ、従順に目をつぶった。
その背後から音もなく忍び寄る、一人の影――ヴィルヘルムだ。
その手が黒い光に包まれ、ローレンス殿下の背後に忍び寄った時。
「――殿下! 下がってください!」
私は大声を上げ、命令を振り切って殿下を横に突き飛ばし、ヴィルヘルムの手から殿下を護った。
驚いている殿下を背後にかばい、それ以上に驚愕しているヴィルヘルムを睨み付けて対峙した。
「……どうやって命令に抗った?
お前はこの後、殿下の前で服を脱ぎ棄てろと書いておいた気がするが」
「フン! そんなの、気合と根性よ!
妙齢の女子が、男性の前でホイホイと服を脱げるわけがないでしょう!」
私の大きな声に呼応するように、周囲の茂みから皮鎧を着込んだ騎士たちが姿を現す。
周囲を取り囲まれ、剣を突き付けられたヴィルヘルムが悔しそうに顔を歪めた。
「――どういうことだ?! 何故騎士たちがこの場所を知っている?!」
ヴィルヘルムはすっかり混乱し、どうしたらいいのかわからなくなっているようだ。
取り囲む騎士の一人、フリードリヒが声を上げて私に剣を投げ渡した。
「エリーゼ嬢、積年の恨み、ここで晴らしてしまえ!」
剣を受け取った私は、頷きながら鞘から剣を抜き放ち、ヴィルヘルムに突き付けた。
「年貢の納め時って奴ね。これだけの人間が、あなたが禁呪を殿下に使おうとしているところを見ていた。
もう言い逃れはできないわよ! 覚悟しなさい!」
私が上段から斬りかかろうと飛び掛かると同時に、慌てたヴィルヘルムが声を上げる。
「止まれエリーゼ! その剣で騎士たちの相手をしろ!」
一瞬、命令に従いそうになる自分を裂帛の気合で跳ね除ける。
「――止まるか馬鹿!」
私は剣の腹で、思いっきりヴィルヘルムの頭を引っぱたいた。
ぐらりと傾いだヴィルヘルムの顔を、二度、三度と剣の腹で殴り続けた。
ついには倒れ込んだヴィルヘルムの腕を踏み付け、私は彼を見下ろしていた。
「――ふぅ、最近体を鍛えるのを怠っていたのかしら。
騎士見習いたちの方が、まだ耐久力があるわよ?」
私の代わりに騎士たちが気絶したヴィルヘルムを捕縛していくと、私は彼らから距離を取り、担がれて連行されて行く様子を視界に納めていた。
……ようやく、私の悪夢のような日々が終わったんだ。
膝から力が抜け、ガクンと倒れ込みそうになるところを、横からフリードリヒが支えてくれた。
「――危ない! まったく、令嬢の身で無茶をする。
計画を知らされた時は、心配で堪らなかった」
小さく息をついたフリードリヒを見上げ、私は心からの微笑みで応える。
「何かあっても、必ずフリードリヒ様が助けに来てくださると信じていましたから」
彼に剣を返しながら、私はフリードリヒの目を見つめた。
そんな私の視線から逃れるように、フリードリヒは目を逸らした。
「そうか……それはもちろん、そうするつもりだったが。
そこまで信頼されるというのも、気恥ずかしいものだな」
私はクスクスと笑みをこぼしながら立ち直し、横目でローレンス殿下の様子を窺う。
どうやら他の騎士たちが事情を説明し、殿下は目を白黒させているようだった。
ローレンス殿下は、一芝居打てるタイプではないらしい。
なのでお父様や国王陛下と相談した結果、今回の作戦は殿下に内密で実行することになっていた。
そりゃあ女性の色香にあれほど簡単に惑わされるようでは、腹芸なんてできるとも思えない。
第二王子はしっかり者らしいので、この国は第二王子に担ってもらう方が良いのだろう。
フリードリヒが私の肩を抱いて告げる。
「さぁ、もうこんな場所から出よう」
「ええ、そうですわね」
私はまだふらつく身体を支えてもらいながら、噴水のある公園へ向かった。
****
フリードリヒは騎士たちに指示を飛ばした後、馬車の中に居たヴィオラも捕縛させていた。
彼女の共犯は、ヴィルヘルムが自供するだろう――彼らに『かばい合う』だなんて心はないだろうから。
殿下をここに連れて来るまでがヴィオラの役目。それははっきりしているので、彼女が逃れる道もない。
私はまだ力の入らない膝で、公園のベンチに腰を下ろし、ヴィオラが捕縛されて行くのを眺めていた。
悔しそうに顔を歪めるヴィオラと一瞬だけ目が合い、たっぷりと憎悪のこもった視線を頂いた。
私は満面の微笑みでそれに応え、彼女に手を振った。
「ずいぶんと晴れやかな笑みを浮かべているな」
私の横に腰を下ろしたフリードリヒが、私の顔を見つめながら告げた。
その優しい視線に気が付き、今度は私が恥ずかしくなって目を逸らした。
「それは、三年間も服従を強制させられていたんですもの。
そんな悪夢の日々がようやく終わりを告げ、悪党どもと縁を切れて、せいせいしていますわ。
――ねぇフリードリヒ様、ヴィルヘルムとヴィオラはこれからどうなるのかしら」
ギシリ、とベンチを軋ませて背もたれに体重をかけたフリードリヒが応える。
「王族に対する禁呪の使用、まず極刑は免れまい。
エッシェンバッハ伯爵の余罪も追及され、彼の爵位と領地も没収されるだろう。
一族郎党、処断されるかもしれん」
「まぁ……さすがに使用人たちまでは、可愛そうではありません?」
フリードリヒが無表情で応える。
「それは調査次第だ。不可抗力で従わされていたなら、厳しい求刑にはなるまい。
だが調査が済むまで、身柄は拘束されるだろうな」
そっか、それはさすがに回避できそうにないな。
私は晴れ渡った青空を見上げ、ぽつりと呟く。
「あーあ、今日で騎士見習いのエルもお終いですわね」
視界一面に広がる青空の中に、「そう……か」と意外そうな声が響いた。
ふと気になって横を見ると、フリードリヒは呆然と地面を見つめていた。
「エリーゼ嬢が騎士見習いをする理由が……なくなったのか」
「ええ、そうですわ。
私もじきに十七歳となります。結婚適齢期ですわね。
家名に泥を塗るような女を娶ってくれる男性が居るかはわかりませんが、婚姻相手を探しませんと」
あの舞踏会でヴィオラに跪いてしまった醜態は、社交界中に広まっている。
そんな失態をする貴族令嬢との婚姻を認める親なんて、おそらく居ないだろう。
たとえ不可抗力だと説明されても、一度作り上げられてしまった私の虚像を崩すのは簡単な話じゃない。
……できれば、私は横に居る男性の下に嫁ぎたかった。
だけど、今の私がその心を打ち明けても、フリードリヒやシュレーダー侯爵家の迷惑になるだけ。
この初恋はそっと胸にしまって、大切に思い出にしていこう。
私がそんな想いでフリードリヒの横顔を見つめていると、彼が真剣な眼差しを私に寄越してきた。
「……エリーゼ嬢、一つ頼みを聞いてくれないか」
「なんでしょう? フリードリヒ様の仰ることなら、出来る限り応じて差し上げますわよ?」
一瞬、私から視線を外して口をつぐんだフリードリヒが、意を決したように私を再び見つめた。
「その、よければ、私に婚約を……だな。申し込ませて、もらえないだろうか」
私はその言葉を理解できず、ぽかんと口を開けてフリードリヒを見つめていた。
「……今、なんて仰ったのかしら」
フリードリヒが私の膝に置いた手を握り、今度は力強い言葉で告げる。
「私と婚姻して欲しい。必ず幸せにすると誓おう。
少し年の差があるから、応じてもらえなくても仕方がないと、覚悟はしている」
私と婚姻したいと、そう言ったの? フリードリヒが?
その事実を認識した私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちて行った。
急に泣き出した私に慌てたのか、フリードリヒが懐からハンカチを取り出して謝り出した。
「すまない、こんな年上の男では、君も嫌だっただろう。
決して泣かせたいと思ったわけじゃないんだ。この話は忘れて――」
言葉を続けようとするフリードリヒの口を、私の唇が塞いだ。
すぐに離れたけれど、フリードリヒは時間が停止したかのように動きを止め、呆然としていた。
私は泣きながらクスリと笑みをこぼす。
「フフ、嫌で泣いたのではありません。嬉しくて泣いたのです。
八歳の年の差なんて、それほど珍しいことではなくてよ?
フリードリヒ様のお申し出、お受けいたしますわ」
フリードリヒの指が、自分の唇をなぞっていた。まるで私の唇の感触を名残惜しむかのように。
「……本当に、構わないのか? 私のように不愛想な男でも」
「あら、三年間もあなたの従者をしたのですよ? 私は。
あなたとの付き合い方なんて、充分存じ上げてますわ」
この不器用な人は、騎士としての自分しか知らない。
だから騎士として振る舞う事しか、女性に対してもできないんだ。
それなら、一緒に剣術や馬術の稽古に付き合ってあげればいい。
口数が少なくても、彼が私に思いやりを向けてくれることを、私は充分知っている。
私が泣きながら微笑んでいると、フリードリヒは恥ずかしそうに頬を染め、頭を掻いていた。
「そうか……では、このままヴェーバー伯爵に婚約の許可をもらいに行くか」
「えっ?! 今からですか?!」
フリードリヒがニヤリと微笑んだ。
「もちろんだとも。エリーゼ嬢の気が変わる前に、婚約を締結してくる」
立ち上がったフリードリヒが、私に手を差し出した。
「さぁ行こう。あちらに馬が留めてある」
こうなったフリードリヒは行動力の塊だ。もう止めても止まらないだろう。
私は笑顔で彼の手を取り、立ち上がった。
「望むところですわ。早く婚約者として、共に馬を並べて走りたいですわね」
フリードリヒが優しく微笑み、私をエスコートしながら応える。
「そうだな、私にはそんな付き合い方しかできない。
そんな私の相手など、エリーゼ嬢にしか務まらないだろう」
「当たり前ですわ! 他の女性が並ぼうとしても、阻止してみせましてよ?」
クスクスと笑いあう私たちは一頭の馬に相乗りになり、伯爵邸に向かった。
****
その後、エッシェンバッハ一家は爵位を剥奪され、極刑となった。
ヴィオラも極刑となり、彼女の家は辺境伯から伯爵に降爵された。
それだけ王族に対する反逆罪は重たい罪なのだ。
幸い、使用人や従者たちは無理やり従わせられていた者ばかりだったらしい。彼らは解放され、新しい職場を求めて散っていった。
こうして隷属魔法の秘儀を知る者は居なくなり、王国には平和が訪れた。
私は婚約者のフリードリヒと共に、毎週馬で駆け、高台で逢瀬を繰り返した。
時には相乗りをして、恋人らしい時間を味わったりもした。
シュレーダー侯爵夫妻は私のことを理解してくれて、侯爵家の嫁として歓迎してくれた。
幸せな半年が経過する頃、高台で夕日を眺めながら、フリードリヒが告げる。
「……なぁ、そろそろ良い頃合いだと思わないか」
私は心地良い春風を受けながら、微笑んで応える。
「何が頃合いなのですか?」
「その……婚約者から、夫婦になるには良い時期ではないかと、そう思ってな」
私はニコリと微笑みながら応える。
「あら、たった半年の婚約期間で大丈夫ですか?
もう少し二人の関係を見極めてからでも、遅くはありませんわよ?」
少し不貞腐れたようなフリードリヒが、私に告げる。
「意地悪だな。もう私はお前を手放す気などない。
ならば、婚約者で居る必要もないだろう」
本当にこの人は不器用で、ロマンティックの欠片も出せないんだから。
私はクスクスと笑いながら応える。
「ええ、そうですわね。
私もあなたを手放す気などありません。
お互い手放す気がないなら、夫婦になってしまいましょうか」
私たちは夕日を浴びながら、馬を寄せあい、静かに唇を重ねた。