ヤグルマギクの温かいお茶
ロォォォー……ォォン。
優しい音色に、私はハッと我に返った。
その時私は、ぐちゃぐちゃになった状態の頭で、答えの出ない考え事にふけりながらやみくもに町を歩いていた。
すごく長く歩いていた気もするが、実際にどのくらいの時間を歩き続けていたのか、よくわからない。
……自分は今、一体どこにいるのだろう?
うろたえ、きょろきょろと辺りを見回す。
後ろには飴色に輝く木の扉があり、扉の上部に設えられた古びた金属製のドアベルが、かすかな余韻を響かせている。
鈍く輝く木の壁に、同じく磨かれて鈍く輝く木の床。
整然と並ぶ骨董品めいたテーブルと椅子。
古めかしい木の窓枠にはまった、どことなく歪みがあるような雰囲気のレトロなガラス越しに、美しい夕焼けの光が差し込んでいる。
風に優しげに揺れる白いレースのカーテンも夕陽に染まり、柔らかな橙色だ。
(……お店? 喫茶店とかカフェ、なのかな?)
だがあまり現実味がない。なんだか、夕映えが作り出した魔法か何かのようなたたずまいだ。
「いらっしゃいませ」
低めのアルトの声。訳もなく心と身体のこわばりが緩むような、そんな声音だ。
目を上げると、見事な白髪をきちんと結い上げた、黒のワンピースに厚地の真白のエプロンを身につけた女性が立っていた。
ひかえめにほほ笑み、彼女は言う。
「おひとりさまですか?」
一瞬詰まったが、私は
「はい」
と答えた。
(そう、『おひとりさま』。それでいいって選んだんでしょう?)
自分へ言い聞かせるように私は、胸の中でひとりごちた。
「はい、そうです」
自分を奮い立たせるようにあえて私は繰り返し、一歩、前へ踏み出した。
私は三人兄妹の末っ子、待望の女の子として生まれた。
家族中に可愛がられたのはとても幸せだったし、ありがたいことだと今でも思っている。
でもそのせいなのか、やたらと『女の子』であることを強制された疎ましい感触が、私の中でとぐろを巻くように居座っているのは事実だ。
特に、私の服や持ち物、インテリア類すべてが、赤やピンクやフリルやレースに彩られた、ガーリーというかフェミニンというかそういうテイストでそろえられてきたのにはうんざりしている。
別に可愛い服が嫌いなのでも、赤やピンクが嫌いなのでもない。
それ以外のテイストや色を、(無意識なのだろうが)選ばせてくれない家族のたたずまいが疎ましかったのだ。
だから学校を卒業して就職する時、わざと実家から離れられるよう、私は密かに画策した。
家族、特に両親は、私が自宅から離れるのに難色を示したが、僥倖だったのはたまたま、よく名を知られている有名な企業に採用されたことだろう。
最終的に両親は折れ、私はついに、赤とピンクの巣窟から合法的?に抜け出せた。
ひとり暮らしをするようになり、ようやく私は自分だけの意思で、服や日常の小物、各種インテリアを買いそろえることが出来るようになった。
今まで自分の許容以上に赤とピンクに囲まれてきた反動なのか、青系統のものに心惹かれた。
最初に買った、鮮やかなターコイズブルーのお皿とマグカップのセットがその始まりだったのかもしれない。
両親がそろえてくれた、赤い花柄のあか抜けない寝具は、淡いブルーのシーツで覆い隠した。
窓を彩るカーテンには、群青に星や月が銀色の糸で刺繍された遮光カーテンを選ぶ。
床に敷くラグは大海原を思わせる深い蒼、ローテーブルは思い切って白。
クッションは微妙に色合いの違う、空色のものを三つ。
こうして、ひとつひとつ念入りに選んだインテリアと小物は、いつしか見事なまでの青のグラデーションになっていた。
私は、生まれて初めて自分の意思だけで作ったこの部屋を、手塩にかけて作り上げた芸術作品のように愛した。
部屋の真ん中で大の字に寝転がると、海と空に優しく抱かれているかのように安らぐ。
ようやく私は、本当の私になれた気がした。
それからしばらく後。
会社のレクリエーションに誘われ、私は何気なく参加した。
そこで、真夏の太陽のようにきっぱりとした赤のTシャツが良く似合う彼と出会い、惹かれた。
彼も私が気になるそぶりだった。
私たちはどちらからともなく近付いていた。
お茶やお昼ごはんから始まり、デートと呼べるものを繰り返し……やがて彼は、私の部屋へ来るようになった。
初めて彼が私の部屋の扉をくぐった時、ハッと小さく息を呑んだのを覚えている。
ややあって、全然隙がない見事な部屋だね、と、彼は言ってほほ笑んだ。
ちょっと引っかかる褒め方だなとは思ったけれど、好きな人を初めて部屋へ招いた興奮に、些細な引っかかりはすぐに消えた。
青のグラデーションはすごく心が落ち着く、でも……すごく、寂しかったんだ。
彼の体温に包まれて眠り、私は、初めてそれを自覚した。
最初の頃、私は彼の存在がとにかく嬉しかった。
もちろん私も、彼の部屋を訪れることがあった。
だけど付き合いが深まって三か月ほど経つと、なんとなく息切れしてきた。
不思議な話だ。
青のグラデーションの中ひとりきりで暮らすは寂しかったのに、青のグラデーションの中の彼は違和感でしかなく、私は、時間と共にイライラし始めた。
でも、彼が彼なりに組み上げた雑然とした部屋は、自分の居場所がないような気がして心細く、青のグラデーションの中へ帰りたくなってくる。
外で会ってもそういうささやかな違和感が積み重なるようになり……お付き合いを始めて半年後の、今日。
些細なことから激しいやり取りになり、デートの途中で私たちはわかれた。
頭を冷やしたかったのもあり、スマートフォンの電源を落とした。
そして、ぐちゃぐちゃの頭で考え事をしながらやみくもに歩いてきて……。
いつの間にか私は、このどことも知れないお店へ入っていたのだった。
窓際の席に案内される。
席に着くと、夕焼けに染まった町がよく見えた。
座ってみて初めて私は、自分がひどく疲れていると気付いた。
足の裏がぼうっと熱を持っていたし、いつになく腰もだるかった。
「当店は紅茶とハーブティーを主に扱っております」
こげ茶色の表紙のメニューを差し出しながら、店員さんは言った。
ただの店員ではなく店のオーナーなのかもしれないと、彼女のたたずまいから私は思い直す。
「もちろん、コーヒーやココアもございますが。ただ、本日はヤグルマギクのいいものが入荷いたしましたので、店としてはそちらをお勧めいたします」
そう言った後、彼女は再びほほ笑んだ。
「お客さま。当店は光と影の距離が限りなく近づくたそがれで、長く魔法を売り続けて参りました。今のお客さまにぴったりの魔法は、ヤグルマギクのお茶だとお見受けいたします。もちろんお選びになるのはお客さまご本人ですので、参考程度にお聞き下されば……」
「……はい? (え? まほう?)」
何だか変な言葉というか言い回しが聞こえた気がしたので、私は彼女へ視線を当て、首を傾げた。
しかし彼女は訓練された穏かなほほ笑みを浮かべているだけで、それ以上何か言う訳でもない。
(うーん、聞き間違い、かな?)
あるいはひょっとすると。
ハーブティーの愛好者特有の言い回し――ハーブの薬効を『魔法』と表現するとか――が、あるのかもしれない。
そんな風に解釈し、私は彼女のお勧め通り『ヤグルマギク』をいただくことにした。
キッチンブースへ下がってゆく彼女の後姿をぼんやり見送った後、わたしはのろのろと窓の外へ目をやった。
夕映えの町並みは、ノスタルジックな影絵のようにも見える。
橙色のあたたかな光の中、家々は黒い影になっている。
とてもやさしい風景なのに、何故かどことなく、恐ろしい。
優しいものと恐ろしいものが無造作に隣り合っていて……どちらが前に出てくるのかは、その時の気分次第。
夕映えの町は気まぐれなのだと私は思う。
「おまたせいたしました」
声と共にテーブルにサーブされたのは、ガラス製のティーセットだ。
クラシカルな曲線を描くポットの底に、ハッとするほど鮮やかで美しい、乾燥した青いものが重なっていた。
(これが、ヤグルマギク……?)
おそらく、ヤグルマギクの花を乾燥させたものだろう。
私の部屋の、白いローテーブルに映えそうなハーブティーだとふと思う。
ティーセットを置いた後、彼女は再びキッチンへ戻り、直前まで火にかけていたらしい鈍い銀色に輝くやかんを手に現れた。
しゅんしゅん音がしていて、ミトン越しでもすごく熱そうだ。
「失礼いたします。熱いですからお気をつけください」
そう言うと彼女はヤグルマギクの花びらの上に、沸騰したお湯をゆっくり注いだ。
「あ……」
思わず声がもれる。
鮮やかな青は湯に触れた途端、力を失くしたように色を失い……、白い、繊維屑のような植物片へ成り果てた。
思い出す、今日の別れ際。
『私はやっと私になったの! 私から私を、奪わないで!』
心からの叫びだったのに、彼には理解できなかったらしい。
『君は君だよ、初めから。俺だろうと誰だろうと、変えたり奪ったり出来る訳ないじゃない』
不可解そうに彼は言う。
それはあなたが強いから。
あなたは誰と関わっても、変わらずあなたでいられるから。
でも私は違う、『今の自分』を必死で守らないと赤とピンクのお人形に戻ってしまう!
誰にも何にも負けない彼の、愛用するシャツの色はきっぱりとした強い赤。
この赤の鮮やかさ・暖かさに圧倒され、私が築いた青の城は色を失くす。
彼は気付いていないけど、それが私は恐ろしい。
自分が自分でなくなりそうで、恐ろしくてたまらない。
あなたが悪い訳じゃない。
それはちゃんとわかっている。
けれど私は、私を変えるあなたが、最後には憎んでしまいそうで恐ろしい!
恐ろしいのよ!
「……お客様?」
物問いたげに響く、遠慮のにじむアルトの声。
私は我に返る。
ティーセットのそばに添えられた砂時計の砂は、とっくに落ち切っている。
お茶の蒸らし時間は過ぎてしまっていたらしい。
私は慌てたようにティーポットを取り上げ、やはりガラス製のカップへお茶を注いだ。
ガラスのカップの中で、ごく淡い金色のお茶がゆらめく。
添えられていた蜂蜜を少し、カップの中へ落とし、銀のスプーンでまぜる。
ティーカップを口に運ぶ。
……拍子抜け。
淡い金のお茶は、かすかに蜂蜜の甘みと香りを感じさせるだけの、お湯のようにしか感じられなかったから。
それでも私は、少なくともカップに注いだ分は飲み干すことにした。
いくら口に合わないお茶だったとしても、一口だけで放置するのは忍びないし、有体に言ってもったいない。
次からは『ヤグルマギク』を注文しなければいい。
言い訳のようにそう心でつぶやきながら、私は、二口三口とヤグルマギクのお茶を飲んだ。
不思議だ。
美味しいとは思えなかったお茶が、口をつける度にかすかな滋味を拾い上げる。
ほんのかすかにとろみのある金色のお茶は、胃に落ちると穏かな熱に代わった。
二口、三口、四口。
ティーカップ一杯飲み干した頃には、私は、この何ということもないお茶のお陰で身体中がじんわりと温まっていた。
そして同時に、やり場のない荒れた気持ちも少し、なだめられていた。
お茶を飲み干した後、私は再び窓の外を見た。
宵が深まり始めた空は、深い蒼と澄んだ淡い緑に染まり……ひしがれたように残映の深い紅が、地平線に残っていた。
(……理不尽なのは私の方)
わかってる、わかってる。
涙が不意にあふれてきた。
地平線ににじむ紅が、訳もなく悲しかった。
涙をぬぐい、気持ちを落ち着け、立ち上がる。
レトロな雰囲気のレジスターへ、私は伝票を持って近付く。
結い上げた白髪にエプロンの女主人は、穏やかな表情でレジスターの前に立っていた。
お会計を済ませ、お釣りとレシートを受け取った時、まるで何かに操られたように私は、
「魔法のお茶、ご馳走様でした」
と、彼女へ言った。
彼女はひかえめにほほ笑み、
「お気に召していただきましたか? ようございました」
と、なんともレトロな言い回しで答えた。
「後はお客様がお決めになることです。良いご選択を」
ほほ笑む彼女の瞳は澄んでいて、あまりにも澄んでいて……何故か、背が冷えた。
宵闇の町を歩きながら、空を見上げた。
星が瞬き始めている。
隣に彼がいないのが残念だと思った瞬間、私はスマートフォンの電源を押していた。
発光し、立ち上がるスマートフォンの画面。
彼と話そう。
もしかすると手遅れかもしれないけれど、話そう。
お湯に溶け、金色に変わったヤグルマギクの青が、私の身体を温めているうちに。