4
新田のスマートフォンに海老名が連絡をしてきたのは、その日の夕方のことだった。
「エビちゃん、大丈夫?」新田が心配そうに言う。
「あー頭が痛ぇ。斧でかち割られたように痛ぇ。脳味噌も飛び散ってるんじゃないかな?」と言う海老名の声は、異様なほど元気である。「ところで捜査の方はどうなった? 山田洋太を引っ張って来たんだろ? 何かしゃべったか?」
「山田は別件で逮捕されたの。女物の下着をたくさん盗んでたんだって。でもあの事件で2人を殺したことについては否認を続けてる」
「そっか。ま、下着泥棒に人殺しができる度胸なんかないな。山田は絶対にシロだと思っていいと思うよ」
「それよりエビちゃん、周りが騒がしいけど、今、外にいるの?」
「あ? 今俺はうちで寝てるんだ。夢の世界にいるんだよ。確かに夢の中では、外にいるように見えないこともないな……ま、それはともかく、重要なことがわかった。山田はあの事件の犯人じゃない。それよりも今すぐ……げ、丸出。こんなとこで何やってんだ?」
「え? 丸出もそばにいるの? どういうことよ、エビちゃん」
「新田さん、ちょっと電話代わってくれないかな?」と藤沢係長が声をかける。
「また後で電話する。それじゃ」と海老名の最後の声。
係長が新田の手から引っ手繰るようにスマホを手に取り、耳に当てた時には、すでに通話は切れていた。
「いやー、エビちゃんにおごってもらうなんて、初めてのことですな。どういう風の吹き回しですか?」
丸出が向かい側の席で、うれしそうに海老名に話しかける。
「ま、ここで出会ったのも何かの縁だろうし、それにこの前は殴って悪かったな。せめてもの罪滅ぼしって奴だ」
まだ開店間もない居酒屋で、店員の若い女の子がビールの大ジョッキを2つ持ってきて、海老名たちのテーブルに置いた。丸出を胡散臭そうに見ながら。丸出のコートの下は、相変わらず白いランニングシャツにステテコ姿。こんな格好でよく街中を平気で歩けるな、しかも明らかに俺の後をつけてきただろ。2人で居酒屋に入るまでに、海老名は死ぬほど恥ずかしい思いをした。こんな奴と知り合いだなんて、みんなから思われちゃたまらない。こんな恥ずかしい思いなんて、これで最初で最後だからな。もう2度とごめんだ。
「ささっ、おっさん、まずはグイッと1杯いきな」
海老名に促されて、丸出はジョッキのビールを1口あおった。
「いやー、うまい! 今の暑い時期は格別にうまいですな」丸出は満足そう。「ところでエビちゃん、今日は車でここに来てはいないでしょうな? 刑事なのに酒気帯び運転はいけませんぞ」
「しっ、声が大きい……大丈夫、俺はここまで電車で来たから」海老名も軽く1口ビールを飲んでから、「ところでおっさんさ、ちょっと相談があるんだけど。出世するにはどうしたらいいんだろうね?」
「出世ですか。エビちゃん、出世には興味がなかったんじゃないんですか?」
「そんなことないさ。俺だって出世して、今の安月給から脱出したいよ。どうしたらいいもんかね? 警視総監とか誰か、本庁の偉い役職の娘と結婚して、婿養子になるというのも悪くないな」
「婿養子ですか。40過ぎてバツイチのエビちゃんに、そんな縁談話がくるかどうか」
「そうだよな、俺にはもう無理かもな……ささっ、もっとグッと飲んで……そうそうそう、いい飲みっぷりじゃん。おっさんも俺に負けないぐらいの酒好きみたいじゃんか。本庁のお偉方も、それぐらいの酒好きだといいんだけどな。それで酔っ払ったすきを見計らって、『お宅のお嬢さんを私にください。婿養子にしてください』なんて言えたら……そんな機会あるわけないか。羨ましいな、婿養子なんて……ところでおっさん、婿養子といえばさ、俺、噂で聞いたことがあるんだけど、どうもうちの河北署長も……」
その翌朝、海老名は元気に出勤してきた。
「エビ、二日酔いの方は、もう大丈夫なのか?」藤沢係長が澄ました口調で言う。
「おかげ様で。まる1日爆睡してたら、頭痛いのも海の向こうへ消えて行きましたよ」
「で? 爆睡しながら昨日はどこをほっつき歩いてた?」
「色んな所へ行きましたよ。インドとか、アフリカとか、ムー大陸とか……」
「そうか。それで、そのムー大陸で何を見つけた?」
「見事なお宝を発見しましたよ、フジさん。うちのうり坊が『ここ掘れニャンニャン』と言うから、そこを掘り返してみたら金銀財宝がザックザク。おかげで億万長者になれましたよ。ま、夢の中での話ですけどね」
「エビ、本当のことを言え!」係長が海老名を見据えながら言った。「仮病を使いながら、昨日はまる1日どこへ行ってた? 何をしてた? こっちはちゃんと知ってるんだぞ。単独で何かを探りに行ってただろ。何を探ってた? 言え!」
「あ、あ、ちょっと待ってくれませんか? その前にションベンが漏れそうなんで」
と言って海老名は席を外し、トイレには行かずに、そのまま直接署長室へノックもせずに入って行った。
仕事中の河北署長が驚いて顔を上げると同時に、入って来たのが海老名だとわかると、急に渋面を作り始めた。
「何だ、あんたか。せめてここへ入る時には、ノックぐらいしたらどうなんです?」
海老名は扉を閉めてから、笑顔で部屋の扉を内側からノックした。
「そうじゃなくて……ま、いいや。それよりいったい何の用ですか?」と署長は不機嫌な顔で言った。
「署長、ちょっと重大な話があるんですけど」と海老名が言う。
「もうすぐ捜査会議の時間ですよ。そんな暇はないと思うんですけどね」
「まあ、そんなこと言わずに。この話次第では署長が出世するどころか、ホームレスに転落して、ゴミ漁りの達人になってしまうかもしれないんで」
「ゴミ漁りの達人ね……で、どんな話です? 手短かに願いますよ」
「まずは簡単な社交辞令を。署長、一昨日のことは大変失礼しました」
「そうですか。でもだからといって、あなたをまた捜査に加え直してくれ、と言っても無駄かもしれませんけどね」
「別に捜査に加えてくれとは言いませんよ。あの事件はもう解決したも同然ですからね。俺の勘が正しければの話ですけど。もっとも別件で逮捕された山田は、自白を強要しない限りは、あの事件について絶対に口を割ることはないでしょう。あいつはクロじゃない」
「ほう、では誰がクロだと言うんです?」
「それよりまずは俺の話を聞いてくださいな。とある男と女の悲恋話。この話を思い出すと、かわいそうで涙が止まりませんよ」
そう言って海老名は指先で涙を拭くふりをしながら、署長の広い事務机の角に腰をかけた。
「昔々……といっても、今から10年ほど前の話ですが、あるところに……といっても、間違いなく東京都内の話ですが、付き合ってる男と女のカップルがいました。2人は結婚することを約束し合い、互いの両親や家族に紹介し合うほどの仲でした。ところが結納の直前になって、その結婚は破談。その理由は、男の方に別の縁談話が持ち上がったから、ということでして。男は結局、その別の縁談で知り合った女と結婚し、幸せな家庭を築きましたとさ。一方のふられた女の方は、その男のことが忘れられずに、何度もやり直そう、今の奥さんとは別れてくれ、別れなくてもいいから会いたいと、しつこく何年にもわたって、男にストーカーのごとくつきまとっていたそうで。でもそれは男の方が許さない。もうその女に対する愛情もなくなったし、今の奥さんを愛してるから……かどうかは知りませんが。少なくとも絶対に別れる気はない。何と言っても男の奥さんは結婚当時、警察庁長官だった河北浩太郎の娘ですからね」
署長の表情が変わった。不機嫌さに大さじ1杯分の驚きが加わって。誰のことを話しているのかが明らかにわかったようだ。海老名は話を続ける。
「男は当時、警視庁本庁の捜査1課の刑事。しかも東大卒のキャリア組。出世欲は人一倍旺盛で、ひたすら上を目指したい性格のようでして。警察庁長官の娘との縁談話を持ちかけられたら、それを断らない理由などない。長男でもないし、たとえ自分の名字を捨てて婿養子になっても、逆の玉の輿。十分なお釣りがくるわけですからね。ま、見方によっては、おのれの出世のために女を捨てた、といえなくもありませんな。別に責める気はありませんけどね……ここまで話して、いったい誰のことを言ってるのかは、頭のいい署長ならもうお気づきでしょう? 男にふられても、しつこくその男につきまとってた女の名前は、鈴谷沙織。ついこの前、哀れにもお亡くなりになられた例のガイシャです。そして警察庁長官の婿養子になって、幸せな家庭を築いて今に至っている男の名前は、旧姓・大和田昇二。今は名字を変えて、河北昇二。つまりは今、俺のすぐ目の前にいる人物だ」
沈黙。にらみ合い。この話を聞いて、署長はどんな感想を口にするのだろうか? 海老名は数秒間待った。
……とそこで、外から誰かが扉をノックした。
「後にしてくれませんかね? 今取り込み中なんで。すぐ終わりますから、勝手に入らないでくださいよ」と署長の代わりに、海老名が大声で扉の外へ向けて言った。そして署長の事務机にさらに深々と腰掛けながら、声を落として、「たぶん今、外でフジさんが立ち聞きしてるかもしれないんで、あまり大きな声じゃ言えませんが……今の俺の話、どうです? 事実であることを認めますか?」
「どこにそんな証拠があるんです?」署長は澄ました口調で言った。
「とぼける気ですか? その程度のことは少し調べればわかることですよ。署長があれ程まで俺たちに会わせることを避けていた、鈴谷沙織の妹の上峰薫……」
「まさか、あの女に会ってきたんじゃないでしょうね?」
「それの何が悪いんです? 貴重な証言を聞いてきましたよ。これで全てがわかりましたからね。署長がいったい何を隠そうとしてたのか。ま、確かにこんな情報がマスコミにでもリークされたら、それをねじ曲げられて、どんなひどい書き方をされるかわからないし、署長の出世もパーになるどころか、一気に地獄落ちにもなりかねませんからね。どうなんです? 今俺が話したことは全て事実ですね?」
署長は海老名から目をそらして、小さくうなずいた。
「確かに少し僕のやり方もまずかった……」署長は小声でつぶやくように言った。そして海老名を見据えながら、「でも1つだけ、これだけは言っておく。僕は鈴谷沙織を殺してなんかいないし、殺すように頼んだわけでもない。沙織が殺された、しかも自殺願望を持っていたと聞いて、少しパニックになっただけだ。違法なことは何もしてない」
「わかってますよ、署長。あんたは少し余計なことをしてしまいましたね。焦り過ぎですよ。今回の事件と署長は全く関係がない。上峰薫の話によれば、姉の沙織はとっくの3年ほど前に署長のことは諦めていたようです。彼女が自殺願望を持つようになったのも、1年前に両親が交通事故死してからですよ。ま、不幸な女だった、といえばそれまでですけどね」
「海老名さん、頼む。このことは誰にも言わないでくれ。ぜひとも内密に……」
「もちろんですよ。こんなの他の誰かに話したって、犬の餌にもならない。署長が出世しようが左遷されようが、俺の知ったことじゃないし……秘密は厳守します。この秘密を知ってるのは俺と丸出だけですから」
「何? まさか丸出から全部この話を聞いたのか?」
「あくまでも全て俺が自分で調べた結果です。もっとも丸出の奴も同じことを知ってましたけどね。あいつに酒飲ませたら、署長に関する秘密をベラベラとしゃべりましたよ。おかげで半分裏が取れたようなものです」
「丸出め……本当に腹が立つ」署長が怒りをこめて言った。
「署長が丸出を『先生』呼ばわりして持ち上げてたのも、結局はそういうことだったんですね? 自分の出世に関わる弱みを握られて……」
「ああ、そうだよ。そうじゃなきゃ、誰があんな見るからに変な奴に頭を下げなくちゃならないんだ? 屈辱もいいところだ」
「なるほど、俺もあいつを忌々しいと思ってるのに、ましてや署長のようなキャリア組にとっては、なおさらでしょう。気持ちはわかりますよ」海老名はそう言いながら、机に腰掛けるのをやめて床に立った。「それより署長、署長が怪しい行動をとったせいで、捜査は必要以上に長引いたんですよ。もっと早く上峰薫から詳しい話を聞いてたら、もっと早くに事件は解決してたのかもしれないのに……真犯人の手掛かりがわかりました」
「どんな手掛かりです?」
「おっと、それはまず戸塚さんに話すことにしますよ。署長に先に話すと、本庁の刑事たちに手柄を取られそうなんで……ご心配なく。署長の名誉は守ります。事件が解決したら、署長の過去のことは全て忘れることにしますよ」
海老名が署長室から出ると案の定、扉の前には藤沢係長と戸塚警部が立っていた。
「エビ、トイレに行ったんじゃなかったのか? 署長室に便器はないぞ」と係長。
「わかってますよ。今、署長の顔にションベンを引っ掛けてやったところです」と海老名は澄ました顔で言った。
「いい加減に本当のことを言え!」係長の怒鳴り声が廊下に響く。「今署長と何を話してた? いったい何を隠してる? 俺たちにも話せないことなのか?」
「ま、そのことについては後でゆっくり話しますよ。それよりも戸塚さん、一刻も早くやってもらいたいことがあるんですけどね」
ここで海老名は口調を改めて、端的に言い放った。
「今すぐ阿部勇也を重要参考人として、ここへ連れて来てください」
阿部勇也は鈴谷沙織と西島寿貴の殺害容疑で逮捕された。
ホテルの店長を困らせてやりたかった、というのがその理由の1つ。人手が足りないから、という理由で無茶なシフトを組まされ、長時間労働を余儀なくされた。それなのに給料は安いままで、上げてくれない。それでホテルから変死体が出て、ホテルの評判に傷を付ければ、少しは考えを改めてくれるのではないかと思った、と言う。
もう1つの理由は、鈴谷沙織に対する個人的な恨み。阿部は3年ほど前から、鈴谷に対してストーカー行為を繰り返していた。家宅捜索の結果、一見何もなさそうな阿部の部屋の押し入れから、鈴谷に関する大量の物的証拠が発見された。鈴谷の画像や動画を収めたロムやメモリーカード、鈴谷のものと思われる服や下着などなど……
「鈴谷沙織、誰とでも寝る女」
そんな書き込みがインターネットの某大型掲示板に書き込まれたのが、3年前のこと。そこには続けて、鈴谷が当時住んでいたアパートの住所や携帯電話の番号まで書き込まれてあった。こんな顔写真もない、文字だけのおいしそうでもない釣り針に、阿部は見事に食らいついてしまったというのだ。それから阿部の鈴谷に対するストーカー行為は始まった。
この書き込みが誰の仕業であるのかは、今さら誰にも知りようがない。ただ丸出が酒に酔った勢いで海老名に話したところによると、この書き込みの主は今の河北署長であるという。当時、河北昇二には待望の長男が、つまり河北家の跡取り息子が生まれたばかり。ちょうどその時期と重なる。鈴谷による度重なる復縁の訴えにうんざりしていた河北は、ネットの某大型掲示板にこんな卑猥な書き込みをすることで、鈴谷との関係を完全に断ち切り、我が息子と河北家を守ろうとしていたのではないか? 実際にそれ以来、鈴谷は河北につきまとうことをやめた。本当にこれが河北の仕業なら、目論見は成功したと言えるかもしれない。丸出の言うことが正しければ、河北署長は鈴谷の殺害に関して間接的に関わっていたことになる。もっとも証拠はないし、今さら調べても意味のないこと。後に海老名が作成した報告書にも、この事件に関して河北署長のことを一言も触れていない。
一方、阿部は例の書き込みを見て、早速鈴谷に電話をしたり、部屋に押しかけたりして、いきなり不躾にも直接「やらせてくれ」と迫ったが、当然のことながら鈴谷は拒否。だがそれで阿部は諦めたわけではなかった。鈴谷が拒否すればするほど、阿部は鈴谷に電話したり、部屋にやって来たりを頻繁に繰り返すようになる。やがてそれは露骨な嫌がらせにまで発展。「さおりの部屋♡」「SEX0円」「私を犯して」そんな卑猥な落書きまで部屋の扉に現れ始めた。
鈴谷はその後、電話番号を何度も変え、何度も引っ越しを繰り返し、髪型も頻繁に変えるようになり、最後は男のようなショートカットにまでなった。だがそれを何度繰り返しても、阿部は鈴谷につきまとい続ける。鈴谷の趣味や好きな食べ物、好きな芸能人、身長や体重、スリーサイズに至るまで、阿部は鈴谷に関することなら何でも知っているとか。鈴谷はそのストーカーの名前すら知らないのに。
左の頬に痣のある小太りの男。ストーカーの特徴はそれだけ。鈴谷が妹にその男の特徴を話していたのを、海老名は妹の上峰薫から聞き込んだ。それが事件の解決につながったのである。
妹は鈴谷に警察に相談するよう勧めたが、鈴谷はそれを拒否。警察官なんて信用できない、1人の女の幸せすら守ることもできないから、とか。もっとも鈴谷自身も、元婚約者の警察官に対して同じようなストーカーじみたことをしていたから、罰が当たったのかもしれない、と諦めていたと言う。
鈴谷が河北署長のことを本当に諦めていたのかどうかは、少々疑問である。彼女が殺された日は、ちょうど署長の誕生日であることに海老名は気づいた。他に該当者はいない。死のうと決めたあの日に、そして実際に死に場所となったあのホテルに、バースデーキャンドルを持ち込んでいたのも、署長に対する未練がまだ残っていたからではないか? 少なくとも海老名はそう思っている。
ストーカーからの嫌がらせに悩まされ続けた上に、突然の両親の死。このころから鈴谷は、妹に自殺を何度もほのめかし始めたと言う。妹の上峰薫は結婚をして、夫と2人の子供に恵まれていたが、独身のままの沙織に耐えられることではない。やがてSNSで一緒に死んでくれる人物を募集し始めた。
それはすぐ阿部の目に留まることになった。阿部は鈴谷のことなら何でも知っている。鈴谷が頻繁にアカウント名を変えても、すぐにそれが鈴谷のものであることがわかったとか。阿部は神谷法子から盗んだスマートフォンを使い、顔の見えない他人に成り済まして、SNSを通じて鈴谷や西島と連絡を取り始めた。8月✕日の夕方に池袋のホテル・アムールでお会いしましょう、そこで一緒に死にましょう、と。
ちなみに阿部は鈴谷と西島の殺害は認めたものの、行方不明中の神谷法子に関しては、ただスマホを盗んだこと以外の容疑は一切否認している。神谷も殺しただろ? 遺体はどう処理した? との刑事の問いかけにも、阿部は平然とした顔で、
「さあ、俺は何も知りません。あの婆さん見つけてから聞いてくださいよ」
神谷を殺害した証拠も見つからず、そのまま拘留期限は過ぎ、阿部は検察へ送致された。
ホテルでの犯行当日、3人の正社員はホテルの事務室に集まり、酒を飲み始めた。山田と吉田が泥酔する中、阿部だけは泥酔するふりを装って、酒などほとんど飲んでいなかった、と言う。他の2人が気づかない間に防犯カメラのスイッチを切り、それからしばらくして、トイレに行くと言って事務室を中座し、フロントの楊徳華がスマホゲームに夢中になっている間に、鈴谷と西島がいる部屋の合鍵を持って、例の部屋に向かった。
阿部が部屋に入って来た時、初対面の鈴谷と西島は2人ともまだ生きていた。鈴谷はベッドに腰掛け、西島は椅子に座っている状態で、本当にこれから自殺するのかどうか、悶々と迷っていたらしい。阿部の顔を見て、鈴谷は恐怖に震えた。自分にストーカーを続け、自殺を考える地慣らしをしてきた男が現れたのだから、当然である。鈴谷はすぐさま部屋から逃げ出そうとしたが、阿部に顔面を拳で殴られ、ベッドに倒れこんだ。
「この時を待ってたぜ。死にたいんだろ? だったら手伝ってやるぜ」
阿部の鈴谷に対する歪んだ恋愛感情は、このころには殺意にまで発展していた。
阿部は西島に対して鈴谷を殺すよう命じる。西島が拒否すると、阿部は西島の顔も拳で殴った。西島はベッドの上で倒れこんでいる鈴谷の上に、折り重なるように倒れこんだ。阿部はすぐに西島を起こして、西島の両手を後ろから軍手をはめた手でつかむと、鈴谷の首を無理やり絞めさせる。鈴谷の首に西島の両手が絡み付き、その上に阿部の両手が絡み付く。2人の男に上から全身を覆いかぶせられた状態で、鈴谷は抵抗しようにも抵抗できない。
鈴谷が息絶えると、阿部はドライヤーのコードで首吊り縄を作り、西島に首を吊るよう命じた。西島は嫌な顔をしながらもそれに従い、ユニットバスの入口に座り込み、ドライヤーのコードを首に巻き付けられる。そうじゃない、もっと腰を浮かせ、足を引っ込めろ。阿部は上から西島の両肩を強く押した。西島は抵抗して足を床の上でジタバタさせていたものの、やがてそれも止まる。
2人の死を確認した後、阿部は部屋の中を見渡したが、小さな丸テーブルの上にバースデーキャンドルがあった。目に入ったのは「BIRTHDAY」の最後にあるAとYの文字。阿部はここまで比較的冷静に事を運んだものの、このキャンドルの文字を見て初めて気が動転し始めた。AとY、自分のイニシャルがある、まるで自分の名を呼んでいるかのように。こんなものは見たくもない。阿部は透明のポリ袋からキャンドルの台紙を取り出すと、まず「BIRTHDAY」の最後の2つの文字を抜き取り、ズボンのポケットに入れた。これで大丈夫と思いきや、「HAPPY」の方にもYの文字があるではないか。「HAPPY」のYの文字も抜き取って、キャンドルの台紙を再びポリ袋に入れる。結局もう1つのAには気づかないまま。もう時間がない、早く戻らねば。
フロントでは、相変わらず楊徳華がスマホゲームに夢中になっている。合鍵を元に戻して、阿部は事務室に戻った。山田と吉田は相変わらず泥酔状態で、アダルトビデオの話に夢中になっている。カメラのスイッチをまた入れ直し、阿部は2人の酔っ払いの会話に合流。空になった缶酎ハイを飲むふりをしながら。しばらくしてから阿部は吉田の肩をたたき、
「おい、そろそろ帰ろうぜ。店長にでも見つかったら、やばいぞ」
外は相変わらず燃えるように暑い。いったいいつまで続くのか? 誰もがうんざりしている。暑いだけではない。今日も丸出は署へ遊びに来て、立川課長と雑談をしている。相変わらずコートの下は、白いランニングシャツにステテコ姿。
丸出のことを考えただけで、海老名はさらにうんざりとした気持ちが倍加する。あいつはただのバカじゃない。今回の事件で、かなり高度な情報収集力を持っていることがわかった。署長を狂気一歩手前の行動に駆り立てるほどの極秘情報を握って、ゴミと一緒にコートのポケットに入れていることが。あいつはいったい何者なんだろう? 何度も考えて来た疑問が、さらに重みを増して海老名の肩にのしかかる。
「エビさん、元気ありませんね。今日も二日酔いですか?」大森が隣の席から海老名に声をかけた。「もう事件も解決したことだし、そろそろ休暇でも取ったらどうですか?」
「そうだな、そうするか。俺も白馬へ行って、泥だらけの汚い雪でも見に行って来よう。ここで丸出のバカ面見るぐらいなら、一生休暇とってやる」
元気がないのは海老名だけではない。海老名の向かい側の席では、新田が大きくため息をついていた。
「あと5日か……」新田がそうつぶやいた。
「何があと5日なの?」海老名が聞く。
「私の誕生日……」
「そっか、新田さん、もうすぐ誕生日か。そんな暗い顔することないじゃん」
「だって、また1つ年をとるんだもん」
「確か今年で25になるんだろ? まだまだ若いじゃん。もっと本腰入れて男探せば、引く手あまただぜ」
「ま、20年ほど鯖読んでるけどね」と大森がつぶやいた。
「大森君、何か言った?」新田が怒って言う。
「あ、いや、誕生日のプレゼント、何にしようかなと思って……」
「プレゼントなんかいらないわよ。もう放っておいて」
「そんなこと言うなよ、新田さん」海老名が言う。「盛大に誕生日祝ってやるよ。ケーキにバースデーキャンドル挿してさ」
「バースデーキャンドルなんて、本当にやめて。今回の事件でもううんざり。ケーキもプレゼントもいらないから、私の誕生日のことなんか、もう忘れて」
そこへ丸出までやって来た。
「やあ、おばさん、もうすぐ45歳の誕生日ですな」
「どうしてあんたまで私の年のこと知ってるのよ? もういい加減にして」新田は本気で怒り出した。
誰もが丸出にもうんざりだが、署の外もうんざりするほど暑い。
(次回に続く)