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 翌日、捜査1係では、大森大輔が休暇から戻って来た。大森は妻と幼い子供たちを連れて、長野の白馬(はくば)に行ってきたのだ。

 「よ、白馬はどうだった?」と海老名が大森に聞く。

 「いやあ、楽しかったですよ。何しろこの暑いのに雪が残ってましたからね」

 「あの雪は1年中溶けないからね。俺も昔行ったことがあるけど」

 「それにしても僕がいない間に、とんでもない事件が起きてしまいましたね」と大森は決まりが悪そうな顔をして言った。「こんな時に休暇で浮かれてて、すいませんでした」

 「別におまえが謝ることはないよ。俺がおまえだったら、事件が解決されるまで仮病使って、ずっと白馬にいて雪景色でも見ながら、酒に(おぼ)れていたいもんだな」

 「で、捜査の方はどうなってるんですか?」

 海老名がこれまでの事件の経緯について、大森に説明する。

 「うーん、なるほど、特に怪しいのは山田、吉田、阿部ですか。3人とも30代、40代でも独身で独り暮らし……そのホテルって、フロントの前の正面玄関以外に出入りするところってないんですか?」と大森が聞く。

 「非常口があるけど、どの階も開けられた形跡がない」と海老名は言った。「鍵のところにプラスチックのカバーが取り付けてあった。どの階もここ何年も触れた形跡はないし、(ほこり)をかぶってたってさ」

 「ならやはり例の3人が最も怪しいということになりますね。問題は3人のうちの誰が飲み会に誘ったか、事務室で飲み会をしてる時に誰がどの席に座ってたか……席の配置の具合によっては、カメラのモニターがよく見える席もあるはずですからね」

 「そこのところは、まだはっきりとはわかってない。飲み会はあそこで頻繁にやるらしいし、何しろ当時みんな酔っぱらってて記憶もない、ときた。誰がどの席に座ってたかも覚えてないし、しかも頻繁に席が変わるとか言ってたしな。詳しいところはまだ聞き込み中だ」

 大森と海老名がそうやって会話をしている間、海老名の向かい側の席にいる新田は、シャープペンシルを右手に振りかざしながら、考え事を続けている。時々つぶやき声を出しながら。

 「吉田明彦はY・A、阿部勇也はA・Y……どれも当てはまるわね……」

 「お、新田さん、吉田と阿部も紛失したキャンドルとイニシャルが一致するんだ。気づかなかったよ」海老名が感心して言った。

 「キャンドルって、何の話です?」と大森が問いかけると、海老名と新田がバースデーキャンドルのことについて説明した。

 「ま、確かに謎といえば謎ですよね。でも偶然じゃないんですか?」

 「いや、大森君、これは絶対、偶然じゃないって」と新田が力説する。「犯人は自分の犯行を隠すために、自分のイニシャルを持ち去ったのは間違いないんだから」

 「でも山田のイニシャルがY・Yなら、なぜAとTもなくなってるんです? それに3人とも、Tの文字は関係ないじゃないですか」

 「それに吉田や阿部なら、なぜ2つずつあるYとAを2つ全部、もしくは1つずつ持ち去らなかったか、ってこともあるしな」と海老名も大森の肩を持つ。「それよりも、そもそもなぜ鈴谷がバースデーキャンドルを持ち込んだのかが全くわからない。ホテルの従業員に8月生まれの奴はいないしな。俺はそっちの方がよっぽど気になるんだけど」

 その時、またあの不愉快な人物が海老名たちの前に姿を現した。

 「おや、皆さん、何の議論をしてるんです?」と丸出が陽気に声をかけた。

 「やかましい、バカは向こうに行け」海老名は無性に腹が立って、丸出に言った。

 「酒気帯び運転……」丸出がいつもの脅し文句を口にする。

 「ああ、それがどうした? 今ここにいる刑事たちは、みんな俺の酒気帯び運転の件なんて知ってるぞ。さ、どうした? 俺の酒気帯び運転が何だって?」

 「え? このおじさん、エビちゃんの酒気帯び運転のこと知ってるの?」と新田が驚いて言った。

 「そうなんだよ、新田さん。このバカ、バカのわりには……」と海老名はここで絶句しながら、まじまじと丸出を上から下まで見つめた。「おっさん、おまえ、何ちゅう格好してるんだ?」

 丸出はズボンを履いていなかった。いつものコートの下は、白いランニングシャツに白いステテコ。コートを脱いだら、単なる中年男が家の中でくつろいでいる姿そのものである。逆に背後から見たら、そのコートの下は全裸でもおかしくはない、とも想像できた。つまりは露出狂かもと……

 「これで少しは暑くなくなりましたぞ」丸出は誇らし気に言った。

 「そういうことじゃないだろ、このバカ」海老名があきれ果てながら言う。「コート脱げばそれで解決できる問題なのに、物事の順序が完全に間違ってるぞ。本当にここの屋上から突き落としたくなるぐらいのバカだな。だいたいそのヘドロよりも汚いすね毛をさらけ出しながら、警察署の中を出入りするんじゃねぇよ。この変質者め。今度そんな恰好で現れたら、冗談抜きで逮捕するぞ。少なくとも俺らから半径1万キロメートル以上近寄るな。ほら、あっち行け、しっしっ」

 「エビちゃん、私は名探偵ですぞ。少しは私に優しくしてくれませんかね?」

 「だから、俺のこと『エビちゃん』なんて馴れ馴れしく呼ぶんじゃねぇよ! 今度言ったら、その帽子取り上げるぞ。このハゲ!」

 「何ですと? エビちゃん、言っていいことと悪いことがありますぞ!」突然なぜか丸出が激怒し始めた。激怒した丸出を見るのは、みんなこれが初めてである。「もう頭にきた! エビちゃん、今すぐ私に土下座して謝りなさい。さもなくば、ぶっ飛ばしますぞ!」

 「ああ、ぶっ飛ばしてみろよ。いつでも相手になるぞ、このバカ、ハゲ」

 「私はシャーロック・ホームズの生まれ変わりですぞ。シャーロック・ホームズはボクシングの達人でもあるんですからな」と言って、丸出は両手の拳を握ってボクシングの真似事を始めた。およそボクシングを知っているとは思えないぐらいの、砕けた屁っぴり腰ではあるが。

 「へ、そんな基礎の基の字も知らないような姿勢で、俺をボクシングでぶっ飛ばす気か? 面白いや。じゃ、それでかかってこいや。どうした? この腰抜け」

 丸出が海老名に殴りかかる。海老名は丸出のパンチをあっさりとよけたかと思うと、拳で丸出の(あご)を軽く()でた……つもりだった。が、この一撃で丸出は床に引っ繰り返ってしまい、気を失ってしまった。

 と同時に丸出がかぶっていたベレー帽も脱げて床に転がり、はげた後頭部が露出する。丸出がいつも帽子をかぶっている理由がみんなの前で公開されてしまい、たちまちその秘密は署の中を駆けずり回ることとなってしまった。

 「噂は本当だったんだ……」大森が勝ち誇ったような笑顔でつぶやく。

 「おいおい、エビ、ちょっとやり過ぎだぞ」と藤沢係長が言った。

 「やべ……手加減したつもりだったんだけどな」と海老名が、倒れている丸出を上から見下ろしながらつぶやいた。

 「手加減なんてもんじゃないだろ。おまえ、ボクシングができるんだから、そもそも素人の丸出をけしかけるなよ。もし万が一このまま意識を取り戻さなかったら、正当防衛だって言い訳しても通用せんぞ……ほらほら、丸出を起こして介抱しろ」

 係長に指示されて、捜査1係の面々は丸出の介抱に乗り出す。海老名と大森で丸出の身体を起こしながら、コートを脱がしにかかった。椅子を並べて簡易のベッドを作り、その上に丸出を横たえながら、新田が水に浸した冷たいタオルを丸出の額に乗せる。

 トレンチコートもベレー帽もパイプ煙草もなく、白いランニングシャツにステテコ姿の丸出は、ただのだらしがない中年男である。息も脈もあるので、意識を取り戻すのにそれほど時間はかからないだろう。

 その間に海老名は、丸出のコートのポケットの中を探ってみた。ろくなものが入っていない。自分の名前が書かれた名刺数枚に虫眼鏡。あとはただのゴミの数々……ペットボトルの蓋に、つぶれたジュースの空き缶。福島会津産の赤べこの頭だけの部分。沖縄のシーサーの顔だけの破片。精液入りの使用済みコンドーム。血が乾いて茶色く変色している使用済みの生理ナプキン。干からびたヒキガエルの死骸。それから……

 「こんなもん集めて、どうしようというのよ?」新田が顔をしかめながら言った。

 丸出は10分ほどで意識を取り戻した。

 「こ、ここは……?」丸出が放心した状態でつぶやく。

 「ここはあの世の入口でございます」と海老名が陽気に言い放った。「今からあなたは閻魔(えんま)大王様との面談に臨んでいただきます。ま、地獄行きは間違いないだろうけどね」

 丸出は寝ていた椅子から起き上がると、すぐに頭を手で撫でながら、「それより帽子! 私の帽子はいったいどこですか?」

 「ほらよ」と言って、大森が丸出のベレー帽を投げて寄こした。「あんたの後頭部、バッチリ見させてもらったぞ」

 丸出は素早くベレー帽をかぶると、「あとパイプは? コートは?」

 「それよりおっさん、これは何だ?」

 海老名はビニール袋の中に入れたある物を、丸出の目の前に突き出した。「T」のローマ字の形をした、赤紫色の小さなろうそく。

 「あんたのコートの中に入ってたぞ。バースデーキャンドルって奴だろ? 現場で押収された他のキャンドルと、大きさも形もほぼ一致する。Yが2つとAとTのキャンドルが紛失してた。なぜあんたがTのキャンドルを持ってるんだ? 説明してもらおうか」

 「あ、いや、そのろうそくが奇麗だったんで、これは何か重要な手掛かりになると思って、持ってたんです」と丸出は言い訳をした。

 「勝手なことするんじゃねぇよ!」海老名が怒鳴った。「そもそも俺らより先に現場に入ること自体が間違ってるのに、ガイシャの遺留品にまで手を付けやがって。あんたがホシだと疑われても文句は言えんぞ。あとのAと2つのYのキャンドルはどこにある?」

 「それは始めからありませんでした。私が興味があるのはタメオのTだけでして……残念だったのは、マルイデのMの字がなかったということですな」


 機動捜査隊員の堀内輝之が急遽(きゅうきょ)、池袋北署に呼び出された。最初に現場に足を踏み入れ、ついでに丸出まで中に入れてしまった男だ。丸出が「T」のバースデーキャンドルを勝手に持ち去ったことで、堀内の初動捜査に重大な疑義が生じたのである。

 堀内の証言によると、丸出を現場となったホテルの1室へ入れたのはいいが、2人の遺体を見て丸出は気分が悪くなったらしく、部屋の中でよろけ出して、床に転がっていた西島寿貴の眼鏡を踏んづけた挙句、丸テーブルを倒してしまった。その拍子にテーブルの上に乗っていた灰皿は割れ、キャンドルも床に落ちた。

 「丸出先生、このキャンドルを見て、どうしてもこのTの奴が欲しいと言い出しましてね」堀内は肩を落としながら言った。「私は反対しましたが、先生がどうしてもと言うんで、要望をかなえることにしたんです」

 灰皿と西島の眼鏡の件はどうにもしようがなかったので、そのまま床に放置しておいたが、倒れたテーブルを元の場所に起こし、その上にキャンドルが入った袋だけを置いた、とのこと。

 「ということは、ホシは2人を殺す前に暴力を振るったけど、部屋の中の物品を荒らすほど激しいものではなかった、ということですね?」と海老名が聞く。

 「おそらくその通りだと思います。誠に申し訳ございませんでした」

 「堀内さん、他に何か隠してることはないでしょうね?」と藤沢係長も問い詰める。

 「今言ったことが本当のことです。他の遺留品には一切触れてないし、ましてや2人の遺体には全く触れてません」

 「堀内さん、これは重大な職務違反ですな」戸塚警部も立腹して言う。「上の方にはちゃんと報告させてもらいますよ。追って何かしらの処分が下るでしょう。十分反省しておいてください」


 残ったバースデーキャンドルのうち、Tの文字が新たに加わった。

 「HAPP☐

  BIRTHD☐☐」

 「残りはAと2つのY」新田はそうつぶやいた。「ということは、これで手塚と楊がホシである可能性はなくなったということね」

 「いや、まだわかんないですよ。そもそもこの紛失したキャンドルに意味があるのかどうか」と大森が言う。

 「でも一番怪しいのは山田、吉田、阿部。いずれもAかYかのどちらかだ」海老名が言う。「意味があるとは完全には言い切れないが、偶然として隅っこに片づけるのもどうだろうと思う。無駄骨かもしれないけど、真面目に考えてみる意味はあると思うな」

 「山田がY・Y。吉田がY・A。阿部がA・Y……」新田がまたつぶやくように言う。「もし山田が犯人だとしたら、なぜAの文字を1つだけ取ったんだろう?」

 「Yのすぐ隣だからじゃないかな? ついでに、みたいな感じで」と海老名。

 「なら吉田や阿部だとしたら、なぜAを2つ取らないんです?」と大森。

 「俺の推測だけど、ホシはこのバースデーキャンドルを右から読んでたんじゃないかな?」海老名は言う。「人殺して焦ってて、こんなもんゆっくりと見てる暇はなかったと思うんだ。たまたまテーブルの上にキャンドルがあって、右側からチラ見したら、そこに自分のイニシャルがあった。自分のイニシャルがあったらまずい、ってんで、YとAを持って行ったのかもしれない。ちょうどYの字は2つとも右端にあるだろ? 2つ目のAは最後のYのすぐ前だ。もう1つのAが残ってたのは、右からチラ見したら、左から2番目の文字がAだということに気づかなかったと思うんだよ。あくまで俺の推測だけど」

 「さすがエビちゃん、名推理ね」新田が感心して言った。「まだわかんないけど、これで山田がホシである可能性は薄くなったんじゃない? 問題は吉田か阿部か……2人ともYとAだから。捜査の方は進展したのかな?」


 捜査はあまり進展していなかった。なぜか署長の苛立ちは日増しにひどくなっていく。

 「もうそろそろ結論が出てもいい頃なんですけどね」河北署長が言った。日頃の沈着冷静さも、どこへ行ったのやら。日ごとに表情が険しくなっていく。

 捜査会議に参加する本庁の刑事たちも、日増しに減っていく。他の事件が発生して人を取られていくし、またこの時期は長期休暇をとる者も多いから、ただでさえ人が足りない。本庁の刑事たちの数が減る一方、池袋北署の刑事たちは、むしろ活気づいている。

 これまでに新たに判明したことといえば、サイバーセキュリティ対策本部の報告結果。SNSを分析した結果、事件当日、殺害された鈴谷沙織と西島寿貴の他にあともう1人、ホテルへ来て一緒に自殺しようと連絡している人物がいることが判明した。しかもこのもう1人の人物が、事件の起きた「ホテル・アムール」へ最初に誘い込んでいたらしい。昔彼氏とこのホテルへ行って、嫌な思いをして別れたから、どうせ死ぬならこのホテルがいい、と。

 その人物は、板橋区に住む神谷法子(かみやのりこ)(70歳)という女性であることも判明している。ホテル・アムールの元清掃係で1人暮らし。1カ月ほど前から職場に全く来なくなり、連絡も取れないので店長が解雇したとのこと。現在、行方不明中である。

 「でも事件当時、あのホテルの部屋に入ったのは、鈴谷と西島の2人だけなんですよね?」と新田が質問する。「他にいないということは、山田か吉田か阿部が、その行方不明の女性に成り済まして、鈴谷や西島と連絡をとっていた、ということですか?」

 「おそらくそういうことになるでしょうね」と本庁の刑事の1人が言った。

 「犯人は山田なのか、吉田なのか、阿部なのか……」署長が苛立ちを隠さずにつぶやく。「丸出先生はどう思われます?」

 「犯人は山田で間違いないでしょうな」と丸出は得意そうに言った。相変わらずコートの下は、白いランニングシャツに白いステテコ姿のまま。「なぜ山田が勤務中に事件が起きたと思います? なぜ山田が勤務してる時間帯に吉田と阿部を呼んで、事務室で飲み会を開いたと思います? 自分の勤務時間に飲み会を開いたのは、アリバイ作りのためですよ。山田は少しは酒を飲んでましたが、私が見た時には、それほど酔いつぶれていませんでしたからな。間違いありません。山田が犯人です」

 ほう、あのバカの丸出にしては、割とまともな推理じゃないか。海老名は初めて丸出に感心した。俺に殴られて、少しは頭の働きが良くなったのかな? でも……百点満点中60点、辛うじて合格点、といったところ。この程度の推理なら誰にだって思いつく。

 「丸出先生がそう言うのなら、間違いないでしょう」署長が結論付けるように言い放った。「事は急を要します。山田洋太を重要参考人として任意同行させましょう」

 「確かにそろそろ潮時かもしれませんね」本庁の東邦晴刑事が納得したように言った。「仮に山田が犯人ではないにしても、何か重要なことを知ってるのは確実です。ここへ呼んで、たっぷり油を搾ることにしましょうか」

 「ちょっと待ってください。山田をここへ呼ぶのは、まだ早すぎると思いますが」と海老名が異議を唱えた。「確かに山田も十分に怪しいです。丸出のおっさんが言うことにも一理ありますよ。でもここへ呼ぶのに決定的と言える証拠は、まだ見つかってません。変死体を見慣れない人間なら、どんな酔っ払いでも一気に酔いが醒めますからね。もう少し時間をかけましょうよ。最も怪しい3人とも今張り込みを続けてることだし」

 「海老名さん、2人もの人間が殺されてるんですよ」署長がむきになって言った。「そんな悠長なことを言ってる暇はないんです。山田を引っ張ります。これはもう決めたことなんですから。命令には従ってください」

 「署長、なぜ今回の事件でそんなに慌ててるんですか?」海老名は冷静に言い続ける。「少しは頭を冷やした方が良くはないんですかね? ま、この暑さじゃ、頭を冷やせと言う方が間違ってるのかもしれませんが。俺が思うに、山田はただの小心者ですよ。むしろ吉田か阿部の方がもっと怪しい。おそらく犯人は冷静に2人……いや、3人かもしれない。行方不明中の神谷法子も含めて、3人も殺しておいて平然としていられるような、サイコパスのような奴だと思いますね。もう少し張り込みを続けましょう。あと、それから……」

 「山田をここへ連れて来てもらいます。これは署長として、捜査本部長としての私の命令です。よろしいですね、海老名さん」

 「それから、今回の事件の鍵を握ってるのは、殺害された鈴谷沙織ですよ。情報があまりにも少なすぎる。鈴谷の唯一の肉親である彼女の妹から、もっと色々な情報を聞きこんでみる必要があると思うんですけど、なぜかそれも異様なほど少ない。なぜなんです? こっちは鈴谷の妹の顔はおろか、名前すら知らないのに」

 「鈴谷の妹には、もうこちらで十分に聞き込みました」と東が割って入った。「これ以上、聞き込むことはもうありませんよ。だいたい鈴谷の妹は門前仲町(もんぜんなかちょう)に住んでるんです。あなたが所属するここの署の管内じゃない。あまり出過ぎた真似は慎んだ方がいいですね」

 「ああ、そうですか。そりゃ本庁の方は偉いですよね」海老名が言葉に猛毒を噛みしめながら言い放つ。「本庁出身の署長も偉い。偉い方は、どんなに都合の悪いことも隠せるわけですからね。実は自分が犯人だとしても、偉い方ならそれを隠し通して知らん顔。で、別の無実の人間を代わりに犯人に仕立て上げて、自白を強要して、事件は一件落着というわけですか。いいな。そんなに悪いことし放題なら、俺も出世したいもんだ」

 「エビ、いい加減にもうやめんか」藤沢係長が止めに入ろうとする。

 「署長、鈴谷沙織のことを何かご存じですね?」海老名はまだ言い続ける。「最初の会議を中座してまで、鈴谷の遺体をさっさと大塚へ運んで、その妹をここへ連れてくることはなかった。なぜなんです? 鈴谷の素性が明るみに出たら、まずいことでもあるんですか?」

 「海老名さん、全てはあなたの勘違いです」署長は努めて冷静さを保ちながら答えた。「鈴谷の処置に関しては、偶然が重なっただけにすぎません。あなたこそ少し頭を冷やしたらどうなんです? とにかく私の命令には従ってください」

 「従う前に、従うための納得がいく理由を聞きたいもんですね。実は鈴谷沙織は署長の不倫相手だった、今の妻と別れてくれとしつこいから、吉田か阿部に頼んで沙織を殺した、とか……」

 「いい加減にしろぉ! 海老名ぁ!」

 署長の絶叫が会議室中に響く。もはや明らかに理性を失っている。

 「海老名、何か俺に恨みでもあるのか? なぜそうやって俺に盾を突く?」

 「署長の行動があまりにも変だからですよ。これは俺の勘違いなんかじゃない。あんた、鈴谷沙織のことで何か隠してるだろ」

 「だから、あんたの勘違いだって何度言ったらわかるんだ? もうあんたなんか、うんざりだ」と言いながら署長は、気を鎮めようとして大きく深呼吸をした。「海老名、あんたにはこの捜査から外れてもらう。あんたがいると邪魔だ。進むべき捜査も進まない。休暇でも取って、しばらく俺の前にその(つら)を見せるな」

 「ああ、いいですよ。俺もあんたとはやってらんない。明日からしばらく休暇を取ります。それで署長が納得するんなら、喜んで従いますよ。もっとも後で検察ともめても知りませんけどね」


 「エビ、いくら何でも言い過ぎだぞ」

 会議終了後、藤沢係長は自分の席に戻って、海老名を叱責した。

 「確かに最近の署長の様子が少し変だというのは、俺も薄々気づいてたよ。でもだからと言って、ああいう言い方はないだろう。いくら自分より年下だからといったって、お前や俺より階級が上なんだからな。少しは礼儀を知れ」

 「礼儀もクソもないですよ。署長は絶対、何かを隠してる」海老名は改めて不満をぶちまけた。「あんな署長の下では、解決すべき事件も解決しませんよ。ま、いずれにしても俺は捜査から外れたわけですからね。もう何も俺の知ったこっちゃない。明日から休暇を取らせてもらいますよ。これで好きなだけ酒が飲める」

 「それは俺が許さん。難しい事件なんだ。お前が外れてもらっては困る。とにかく署長に謝れ。今日は無理でも、明日になれば署長も少しは機嫌を直すだろう。とにかく明日、署長に謝りに行くんだ。俺も一緒に頭を下げるから」

 「エビ、俺からも頼む。俺も一緒にこのはげ頭を下げるからさ」係長の後ろに立っていた戸塚警部も、自虐的な口調で海老名に頼んだ。

 「2人とも、なぜ俺のために署長なんかに頭を下げなくちゃいけないんですか? これはあくまでも俺と署長との問題ですよ」海老名は帰り支度を始めながら言った。「俺は署長に頭を下げる気なんかないし、署長が休暇を取れって言うんだから、明日から休ませてもらいます」

 「駄目だ。とにかく明日は必ず出勤しろ」係長が言った。「この事件が解決するまでは、休暇を取ることなど絶対許さん。たとえ署長がおまえを許さなくても、ただでさえこの時期は人が足りないんだ。関係のない事務作業も山とある。捜査に加わり直すかどうかはともかく、仕事はたくさん残ってるんだから、明日も絶対来いよ。いいな!」


 だが結局、その翌日に海老名は出勤して来なかった。二日酔いがひどくて、頭が割れそうに痛いから、という理由で。

 「あの馬鹿、どこまでも頑固な奴だ」係長が落胆しながらつぶやいた。


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