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夕方5時の捜査会議。今回は本部長である河北署長が最初から最後まで会議に居続けたおかげもあって、朝の会議に比べれば、まだ少しはまとまったものになった。まとまったのはいいのだが、その分、会議は不可解さが増している。
まず本部長である署長の態度。どんなに凶悪な殺人事件が起きても沈着冷静さを脱ぎ捨てることはないのに、今日はやけに落ち着かない。しきりに顔をしかめては、貧乏揺すりをしてみたり、腕組みをしたかと思うと、すぐに両手をテーブルに置いて軽く指でたたいてみたり……朝のあの不可解な中座といい、今日の署長はまるで別人のようである。
さらには丸出為夫が会議に参加している。相変わらずこの時期にトレンチコートを着たまま、「暑い暑い」としきりに不満をいいながら。大会議室の冷房は異様なほど涼しすぎて、寒いぐらい。新田を始め、少数の女性刑事たちが異様に寒がっていた。おそらく丸出に気を利かせているのだろう。海老名を始め池袋北署の刑事たちは、丸出のバカ面を見ながら不快感を全身に浴びていたが、なぜか本庁の刑事たちはそれを異様とも思わずに、相変わらず会議の主導権を握っている。
まず会議は、ホテルの防犯カメラの分析に関する話から始まった。一部の刑事の指摘通り、カメラのスイッチが切られていた時間帯があったのだ。18時半ごろから約30~40分ほど。おそらく犯行時刻はこの時間帯と判断された。
「防犯カメラの操作の仕方に通じてるのは従業員、それも正社員以外にはいないはずです」と本庁の刑事の1人が言った。「よって、当時ホテルの事務室にいた山田洋太が犯人である可能性が高いものと思われます」
「ところでカメラの分析は、ガイシャの2人がいた部屋の前の通路だけか?」と本庁の別の刑事。
「今のところはそこだけです。現在フロントの前とか他の場所の分析も行っています」
「仮に山田が犯人ではないとしても、何か重要なことを知ってるのは間違いないでしょう」と河北署長が、相変わらず落ち着かない口調で言った。「今すぐ山田洋太を重要参考人として任意同行させましょう」
「いや、さすがにそれはまだ早すぎるでしょう」と本庁の刑事の1人が言った。「山田を犯人と断定するのは、カメラの分析が完全に済んでからでも遅くはないと思います。それまで山田を徹底的にマークして、自宅の張り込みをしましょう。確か自宅は池袋本町1丁目でしたよね?」
次に本庁のサイバーセキュリティ対策本部の報告。被害者2人のスマートフォンを分析した結果、2人はSNSでやり取りをしていたことが判明した。その内容は、死にたい、私を殺してください、というもの。それなら池袋の「ホテル・アムール」という所で待ってます、そこで一緒に死にましょう……と。
「ふうん、自殺志願者が心中するつもりだったのか。それなら、なぜ2人とも第三者によって殺されたんだろう?」と本庁捜査1課の刑事。
「詳しいことはまだ分析中です」とサイバーセキュリティ対策本部の刑事が言った。「ただこの2人は、さらにもう複数人との人物とも同じようなやり取りをしてます」
「ということは、2人だけではなく、3人以上来る予定になってたのかな?」
「それはまだわかりません。詳しい結果はもう少しお待ちください」
殺害された2人について、身元の新たなる詳細が判明。まず西島寿貴について。学校の同級生や教員たちに対する聞き込みの結果、西島は影が薄く、存在しているのかどうかよくわからない奴、とのことだった。真面目で授業には毎回欠かさず出席するが、口数は少なく、見るからに暗い性格で、飲み会で一緒に酒を飲んでも面白くない奴、という評判。当然友達もいないし、ましてや付き合っている女性もいないようだった。
次に鈴谷沙織。これに関しては本庁捜査1課の東邦晴という刑事が報告した。
「鈴谷沙織は独身で1人暮らし。結婚歴もありません。半年ほど前まで大手ゼネコンの広報課に勤務してましたが、退職した後は今までずっと仕事らしい仕事をしてません。身内には妹が1人います。すでにその妹が姉の遺体と対面して、鈴谷本人であることを確認しました。以上、報告を終わります」
やけに短い報告。まるで何かを隠すかのように。
「鈴谷は妹以外に身内はいないんですか?」と海老名が東に質問してみた。「それにSNSでのやり取りが事実だとしたら、鈴谷はなぜ自殺を考えるようになったんですか?」
「鈴谷は1年ほど前に両親を亡くしてます」と東は言った。「奥多摩の山の中をドライブ中に、ハンドル操作を誤ったのか、車ごと崖から転落したそうです。それ以来、鈴谷は気持ちが落ち込んでた、ということです」
「鈴谷の妹が、そう証言したことを確認したわけですね?」と、すかさず河北署長が発言した。「それなら鈴谷が自殺を考えるのも無理はないでしょう」
この時、いきなり丸出が大きな声でくしゃみをした。
「すいませんな。やっと冷房が効いてきたみたいで」と丸出は言い訳をした。
「では次の議題に移りましょう」と署長が突然言った。まるで今の丸出のくしゃみで、それ以前の話が全て終わったと言わんばかりに。「ホテルの建物の構造についてですが……」
話しはさっさと切り替えられてしまった。もう鈴谷沙織に関する話はおしまい。海老名はもう少し質問を続けたかったが、署長の上手な話の切り替えし方や丸出のくしゃみ、さらには本庁の刑事たちの熱気に押されて、言葉がうまく出て来ない。それに言葉を出そうにも何を言ったらいいのか、その内容まで丸め込まれてしまったかのようである。本庁の刑事たちの報告を耳にしながら、ため息とともにやっと小声で出て来た言葉といえば……
「どうも何か怪しい」
「何が怪しいの?」
と隣で新田が、寒さで歯をカチカチ鳴らしながら、海老名に聞いた。
「署長が。何か重要なことを隠そうとしているように見えるな」
「どんなことを隠してるというの?」
「それがよくわからない。おそらく鈴谷沙織のことで、何か知られたくないことを知ってるんじゃないかって気がするんだけど、気のせいかな?」
「その根拠は?」
「まず鈴谷のことを報告したあの刑事。何か一瞬だけ署長と目配せしたように思えるし、報告もやけに短かった。西島のことについては色んな刑事から長々と報告があったのに、鈴谷のことについては、あの東とかいう刑事1人の短い報告だけ。しかもすぐ署長に話を切り替えられてしまった。丸出の邪魔もあったけどな」
「鈴谷の身内が妹1人だけだったら、あまり報告することも多くないんじゃない? 1人暮らしだって話だし、近所でも知ってる人間がいるのかどうか……」
「まあ、それもそうかもしれないけど、それにしては異常に短すぎる。それに2人の遺体、昼過ぎにはさっさと大塚の監察医務院に運ばれただろ? やけに早くないか?」
「そうね。裁判所からの許可も異様に早かったわね」
「署長、朝の捜査会議をさっさと中座して、どっか行っちゃっただろ? おそらく裁判所に出かけたんだと思う。妹が鈴谷の遺体と対面したのは、おそらく大塚でじゃなかったのかな? 俺ら、その妹に会ってないし、名前も知らないし、そこら辺の経緯に関する説明もない。西島の場合は、両親が早朝にここへ来て息子の遺体と対面したのを、俺らも見たじゃん。でも鈴谷の場合は、まだ妹がここに来る前から遺体を大塚に持って行った。いくら鈴谷が1人暮らしで身内を探すにも時間がかかった、このくそ暑さで遺体の腐敗も早いだろうから早いとこ司法解剖しようって言われても、何か不自然なんだよな。俺は納得いかないね」
「うーん、言われてみれば、エビちゃんの疑念もわかるような気がするけど、でも今回ばかりは考え過ぎじゃないかな? たまたまそういう風に見えるってだけで」
「おいエビ、新田さん、おしゃべりはもうここら辺でやめとけ」と新田の隣にいる藤沢係長が小声で言った。「本庁のお偉方に怒鳴られるぞ」
会議はまだ続く。とりあえずはもっとも怪しい山田洋太の自宅の張り込みと、ホテル中の防犯カメラの分析を進めることで、意見はまとまった。
「最後に丸出先生、何かご意見はありますか?」と署長が丸出に聞いた。
丸出はおもちゃのパイプ煙草を口にくわえたまま、首をコックリコックリ言わせながら舟をこいでいる。
「丸出先生?」と署長がもう少し声を大きくして言うと、丸出ははっと我に帰り、
「あ……すいませんな。今ちょっと考え事をしてまして……」
「おい、おっさん、今寝てたろ」と海老名が野次を飛ばすと、池袋北署の刑事たちの間でどっと笑い声が沸いた。
「おい、あんた確か海老名っていうんだろ」と本庁の刑事の1人が海老名に言った。「丸出先生を悪く言うんじゃないよ。もっと尊敬の念を持て」
その日の夜、海老名は自宅に戻り、軽く350ミリリットルのビールを飲んで、すぐに寝た。前日は事件が起きたことで、署で1時間ほどしか仮眠を取っていなかったから、すぐ眠りに落ち込めると思ったものの、なかなか眠れない。
目を閉じても見えるものといったら、暗闇に満ちあふれたどす黒い雑念ばかり。雑念は黒1色で判別のつかない渦を巻きながら、海老名の眠りを妨げている。飼い猫の「うり坊」が傍らで子守歌代わりに規則正しく寝息をたてているものの、眠りの世界へと導く案内役にはなってくれない。
海老名は起き上がって、うり坊を起こさないように部屋を暗くしたまま、ウイスキーをらっぱ飲みし始めた。こりゃまた明日の朝は二日酔いで仕事にならないな。ウイスキーを飲みながら、今回の事件について考えてみる。
一番怪しいのは、警察に通報したホテルの正社員である山田洋太。30代にして、すでに頭髪がかなり薄い。あの当時、山田は異様なほど酒臭かった。勤務中に酒を飲んでいたのだ。人間の死体を見たことですっかり酔いは醒めていたが、話の内容はあまり脈絡のあるものとは言えなかった。興奮していたせいなのか、酒のせいなのか、ろれつが回っていなかったし、しかも滑舌も悪いから話を聞き取りにくい。おそらく2人の遺体を見る前は、間違いなくかなりの泥酔状態だったのであろう。こんな状態で人を殺せただろうか?
犯行時刻と推定される時間帯に、山田はフロントの隣の事務室で事務作業をしていたと言う。酒を飲みながら。事務作業といってもあまり手間がかかるものではなく、簡単に済ませた後はただひたすら暇な時間ばかり。だから勤務時間の大半はテレビを見ていたり、スマホをいじったり、居眠りしたり……西島の部屋の「休憩」時間が超過したことをフロントにいた楊徳華が告げに来た時、山田は熟睡している最中だった。
山田は鈴谷の顔も西島の顔も、生きている時には直接見ていないと言う。事務室の壁一面に取り付けてある、ホテル中の防犯カメラのモニターでも見たことがないとか。
「ぼ、防犯カメラのモニターなんて、ほ、ほ、ほとんど見ませんから……で、でもまさか、あ、あんなことが起きるなんて……い、今まで、そ、そんなことなかったし……」山田はどもりながら、落ち着かない口調で言った。
実際、モニターの前では伝票や荷物の入った段ボール箱が山積みになっていて、事務机から映像はほとんど見えない状態。明らかにこのホテルの従業員たちはみんな、モニターをチェックすることなどほとんどないのは一目瞭然だった。だがモニターの操作の仕方は、事務室に待機する正社員なら必ず教えられているはず。ましてや事件当時にスイッチが切られていた映像があるのなら、それを操作できる人物は限られている。山田のあのしどろもどろな口調からも、山田は何か重要なことを隠しているのかもしれない。
当時ホテルにいた従業員は山田以外に、あと2人。フロントで客対応していた楊についてはどうか? 楊は客対応をする時以外はスマホゲームに夢中になっていた、とのこと。時々ゲームに夢中になり過ぎて、客が来ても気づかないことがよくあるとか。そのことで店長にはよく怒られるらしい。
ちなみに楊徳華のイニシャルは、日本語読みではY・T。しかし後で池袋北署の組織犯罪対策課・国際犯罪捜査係の中野竜太に聞いたところ、中国語読みではヤン・ドーファ(Yang De-hua)。したがって楊徳華の中国語のイニシャルは、Y・Dとなる。「HAPPY BIRTHDAY」という例のバースデーキャンドルには、YもDも含まれているが、欠けているのはYのみ。Dは残っていた。まだわからないが、楊が犯人である可能性は山田より低いだろう。
第一発見者である手塚敦子についてはどうか? 手塚は清掃の勤務以外の時間は、ホテル内の倉庫で待機していると言う。そこでテレビでも見ながら、暇をつぶしたりしているらしい。
もう男から女として相手にされない年頃なのに、海老名や男の刑事に対するあの媚びるような目付き。同性の新田には見せなかった。若い頃は風俗嬢だったとか。このような老婆に、人を殺せるだけの力があったのかどうか。同性である鈴谷を殺すだけならともかく、男である西島を殺せるとは思えない。仮にその力があっても、いくつになっても貪欲な男好きの嗜好の持ち主には、その意志すらないはず。
だいたい、この3人とも鈴谷と西島を殺す動機がさっぱりわからない。当時は他にも客がいたが、そもそもなぜ鈴谷と西島なのか。確かに鈴谷も西島も自殺を考えていた。放っておいても、あのホテルから死体が沸いて出てきて、ホテルの評判に大きな傷を付ける手助けにはなっていただろう。だがこの2人の自殺志願者を、なぜわざわざ殺害する必要があったのか。真犯人は鈴谷と西島とは顔見知りだったのか。
今のところは、まだ何もさっぱりわからない。海老名は少量の酒が入ると、むしろ素面の時よりも頭の働きがよくなるのだが、少し飲み過ぎたようだ。でもこれでやっと少しは眠れるかもしれない。
その時、うり坊が大きくあくびをしながら起き出した。そして海老名の顔を見つめると、少し心配そうな様子で小首を傾げながら、ニャ?と鳴いた。
翌朝の捜査会議。海老名は予想通りのひどい二日酔いで、本庁の刑事たちの声がまるで地平線の向こう側から聞こえてくるようだった。新たな情報と言えば、ホテルの防犯カメラの分析結果。遺体の見つかった部屋の前の通路のみならず、同じ時間にフロントの前にあるロビーのカメラも、スイッチを切られていたことがわかった。このロビー全体を映し出すカメラは、同時にモニターが設置してある事務室の扉やフロント、正面玄関も映している。
そのカメラの映像を見ると、夕方5時過ぎに1人の男が事務室に入って行った。その約10分後、もう1人の男が事務室へ。カメラのスイッチが切られるのは、その1時間以上後の6時半ごろ。そして約30~40分後の7時過ぎにスイッチがまた入って、さらに数十分後、7時半ごろに2人の男は泥酔しているのか、少し足元をふらつかせながら事務室から出て来て、ほぼ2人同時にホテルを出て行った。
例によって、本庁の刑事たちが主導権を握って議論を始める。
「この2人の男が何者なのかは現時点では不明ではありますが、事務室に入って行ったところから、従業員である可能性が高いと思われます。2人とも山田洋太とは違って私服姿ではありますけど」
「あるいは山田の友達かもしれない。1人でボーっとしてても暇だから、友達でも連れて来て飲み会やろう、と」
「だろうな。従業員なわけがない。勤務中に飲み会なんてありえんよ」
「いや、あのホテル、かなり規律がたるんでるから、ありうるかもよ」
「もし従業員だとしたら2人とも、あるいは1人だけでもカメラの操作の仕方は知ってるはずだよな?」
「だとすると山田ではなく、この2人のうちのどちらかがホシということか」
「いや、山田を含めて3人全員、あるいは3人のうちの2人……いずれにしても怪しい奴が2人増えた。合計3人、いや5人か。5人全員グルかもしれないし」
この事務室に出入りした2人の男の身元を従業員たちに確認することで、意見はまとまった。それ以外に新たな収穫はなく、会議も短めに終了。
海老名は、当時出勤していなかった3人の正社員への聞き込みに回ることになった。ひょっとしたら他の正社員が、例の2人の人物を知っているかもしれない。この時期は長期休暇をとる刑事も多く、人手が足りないので、二日酔いで今にも気を失いそうな海老名も狩り出されることになったのだ。
海老名と同行したのは、大門匠という本庁捜査1課のまだ20代の若い刑事。
「海老名さんのことはよく存じ上げてます」と大門は覆面パトカーを運転しながら言った。「とにかく優秀な刑事だとか。うちでも偉く評判ですよ」
「へえ、俺って本庁でもそんなに有名なの?」助手席の海老名は生気のない顔で言った。
「何しろ池袋北署管内で凶悪事件が起きても、検挙率が異様に高いのは海老名さんのおかげだという話ですからね。期待してますよ」
まず2人が訪れたのは、池袋4丁目に住む吉田明彦(43歳)。「ホテル・アムール」の正社員の1人。身長180センチを超える大柄の人物で、右の頬に大きなほくろがある。事件当時は夜勤で、朝6時過ぎには仕事を終えて帰宅していた。その後はずっと部屋の中にいたとか。
吉田のアパートの部屋の中は、壁一面に女のヌードポスター。山積みのエロ本にアダルトビデオのDVDが所狭しと床を占めていて、敷きっぱなしの布団の上には全裸のダッチワイフ。足の踏み場もない。部屋全体が女性に対する激しい欲望に満ちあふれていて、うっかりライターの火を点けたら爆発しそうだった。
「今日ここにうかがったのは、ちょっとある人物に見覚えがあるかどうかを確かめるためです」と言って大門は吉田に、ホテルのカメラのスイッチが切られる前後に事務室へ出入りした2人の男の画像を、小型のタブレットで見せた。
もっとも画像など見せるまでもなかった。画像に映っている2人のうち、1人は目の前にいたからだ。
「この人、どっかで見たことあるな。何か目の前にいるような気がするんだけど」海老名は、ある人物の顔の拡大画像を指差して言った。画像の人物の顔には、右の頬のほくろまで正確に映っている。今目の前にいる吉田の顔そのままに。
「あなたなんですね、吉田さん」大門は厳しい口調で、狼狽する吉田に聞いた。
「吉田さん、本当のことを言うのなら、今のうちですよ」と海老名が少し優しめに説得しながら言った。「後で自分が殺しましたなんて言っても、もう遅いですからね」
「お、俺は殺してませんよ。あの時間、ホテルにいたのは事実ですけど」吉田は白状し始めた。「でもちょっとトイレに立った以外は、ずっと事務室にいました。客室まで行ってません」
「事務室で何してたんです?」大門は相変わらず厳しい口調で質問した。
「実は……」吉田は少しためらいながら、「山田と阿部と3人で飲み会やってたんですよ」
「なるほど、もう1人は阿部という人なんですね?」
阿部勇也(36歳)もあのホテルの正社員で、これから海老名と大門が聞き込みに行こうと思っていた人物である。
「前に別の刑事たちがあなたに事情を聞きに来た時、あなたはあの時間帯はずっとこの部屋にいたと話してましたけど、なぜ嘘をついたんです?」大門の厳しい詰問が続く。
「だって……勤務中に酒飲むことは禁じられてますからね。あそこでみんなで集まって酒なんか飲んでたら、店長に怒られるし……」
吉田に対する聞き込みが終わり、続いて海老名と大門は池袋本町2丁目に住むホテルの店長の自宅を訪れた。店長に画像を見せると、事務室に出入りしていた2人が吉田と阿部であることを認めた。
「まったく、俺に隠れて酒飲んで飲み会なんかやりやがって。けしからん奴らだな。みんなクビにしてやろうか? 俺だけ仲間外れにしやがって」店長は立腹していた。
次に2人は、上池袋2丁目にある阿部のアパートへ行こうとした。店長の自宅から出たところで人影に出くわしたが、それは何と丸出……この暑い中、相変わらずトレンチコートを着て、玉のような汗をかいている。
「おっさん、こんなとこで何やってんだ?」海老名がうんざりしながら言う。
「あ、丸出先生、ご無沙汰してます」と大門は丸出に向かって、丁寧にお辞儀をした。
「うむ、若いのにご苦労様……それにしても暑いですな。エビちゃん、かき氷おごってくれませんかね? メロンのシロップがかかったのがいいですな」
「そういうことは大門君に頼め。だいたいこの暑いのに、コートなんか着なきゃいいだろうが。本当にバカだな、あんた」
「私はシャーロック・ホームズの生まれ変わりですぞ。コートを着なきゃシャーロック・ホームズらしくないじゃありませんか」
「あんた、シャーロック・ホームズを読んでるわりには何も知らないんだな。シャーロック・ホームズがトレンチコートを着てる、ベレー帽をかぶってる、いつもパイプをくわえてる、なんて格好は、みんな後世で勝手に1人歩きして出来上がっただけのイメージだよ。ちゃんと本読んでるのか? シャーロック・ホームズのかぶってる帽子は別にベレー帽じゃないし、トレンチコートだって着ない。何か他のコートを着るのも寒い冬だけだ。パイプだって……あ、そうか、おっさん、パイプの吸い口を嚙んでないと落ち着かないんだっけ? でも、そんな誰かが勝手に作り上げた見てくれにこだわってる暇があったら、もっと本読め。本読んで、もっと頭の方を鍛えな」
「それよりエビちゃん、2人だけでは仕事がはかどらないでしょう。私も仲間に加えてくれませんかね?」
「断る。プールにでも行って、そのふやけた頭でも冷やしに行け」
「ねえねえ、そこのお若いの。エビちゃんのこと知ってますかな? エビちゃんは酒気帯び運転で……」
結局2人は丸出を覆面パトカーに乗せる羽目になってしまった。後部座席に座った丸出は、冷房の効いた車内でも相変わらず「暑い暑い」と、この時期に誰もが言って聞き飽きた流行語を口にしている。こいつを捜査に加えるわけにはいかない、邪魔だ。何とかして奴を門前払いしないと。助手席の海老名はそう考えていた。
阿部勇也の住むアパートの前に着き、3人は部屋の中に入ろうとした。まず大門が入る。次に海老名が入り、最後に丸出が入ろうとした時、海老名は、
「あ、床にパイプが落ちてる。おっさんのじゃないのか?」
丸出が下を向いて油断しているすきを見計らって、海老名は阿部の部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
「酒気帯び運転のことを、ここの住人に言いふらしますぞ!」
部屋の外で丸出のわめき声が聞こえる。
言いふらせるのなら、言いふらしてみろ。おまえみたいな変人が何を言ったところで、誰も相手にはしないさ。海老名はほくそ笑んだ。
吉田とは違って、阿部の部屋は驚くほど物がなかった。6畳ほどの広さの部屋で目立つものといえば、ブルーレイの録画機能が付いた大画面の液晶テレビぐらい。
「俺は今流行りのミニマリズムみたいなことをやってましてね。必要な情報とかは、みんなスマホで済ませちゃいますから。あとはこのテレビぐらいでして。女のヌードを見るにしても、紙に印刷されたのなら、すぐに色落ちしちゃうでしょ。それに比べりゃ、デジタルなら永久に色落ちしませんからね」
と阿部は言った。海老名の同僚の大森大輔と同じぐらい背が低く、少し太り気味。太っているとはいえ、脂肪ではなく筋肉の塊といった感じの健康的な太り方。左の頬に大きな青い痣がある。
阿部は事件当日、久しぶりの休日だったので1日中この部屋にいた、と当初は話していたと言う。しかし大門がまた防犯カメラに映っていた2人の画像を見せ、阿部はがっくりと肩を落としながら、この2人が自分と吉田であることを認めた。
「勤務先でみんなで集まって飲み会なんてやってたら、店長に何て言われるか……これで首切られたら、そっちの方が怖いですからね」
「ほう、殺人事件なんか怖くない、とでも言うんですか?」大門は相変わらず厳しい口調で阿部に詰問した。「犯行時刻と思われる時間帯に、ホテルの防犯カメラのスイッチが切られてたんですよ。それを操作できるのは、あなたたちが飲み会をやってた事務室だけでしょう。しかも3人とも正社員なら、カメラの操作方法を知ってるはずです。誰が操作したんです? あなたですか?」
「いや、俺じゃないですよ。酔っぱらっててあまり記憶がないんですけど、防カメのスイッチを動かしてないことだけは覚えてます。防カメのモニターなんて通路だけしか映らないから、見てても面白くも何ともないし。ま、客室の中にも設置されてるんなら、話は別ですけどね。だいたい何のためにスイッチを動かさなきゃいけないんです?」
「2人の客を殺すため、じゃないんですか?」
「なぜ俺が見ず知らずの客を殺さなくちゃならないんですか?」
「まあまあまあ、わかりました。ちょっと話題変えましょうか」と海老名が割って入った。「阿部さん、そもそもなぜあんなとこで飲み会なんかやってたんです?」
「いや……あそこで仕事してても暇なんですよ。あの夜は店長も来ないことになってたから、あそこで仕事ついでに飲み会やろうってことで」
「誘ったのは誰ですか?」
「誰って言っても……よく覚えてないんですよ。しょっちゅうやってますからね。お互い✕✕✕でやり取りして、じゃあ今から3人で集まろうかって流れになって……」
「あなたたち3人は仲がいいみたいですね。もっともあのホテル、シフト勤務であなたたち正社員は勤務時間帯には1人ずつしか勤務してない。せいぜい仕事の始めと終わりに顔を合わせる程度でしょう。それにしてはずいぶん仲がいいじゃないですか」
「ええ、まあ……共通の趣味があるもんでして、馬が合うんですよ」
「趣味って……女?」
「そうなんです。俺たち風俗通いが趣味なもんでして。あとAVとかも……」
その日の夕方の捜査会議。犯行時刻と思われる時間帯に、ホテルの事務室を出入りしていた2人の正体を突き止めたということで、大門はすっかり会議の主役になってしまった。本庁の刑事たちが大門を褒めそやす。大門はみんなの褒め言葉に飾り立てられて、すっかり舞い上がっている。海老名のことは一言も言及なし。
一直線に相手に押し迫る大門1人で聞き込みを行なっていたら、吉田も阿部も口を割らなかった可能性があるのに……海老名が曲線を描きながら相手に迫ったからこそ、捜査は進んだのだ。それなのに海老名は全くの蚊帳の外。ま、所轄の刑事なんてこんなもんさ。本庁から見れば、俺らなんて空気みたいなものなのだろう。別に海老名からしてみれば、どうでもいいことだった。大門を褒める声が近くで聞こえるはずなのに、相変わらず遠くで聞こえる。海老名の二日酔いはまだ治っていない。
事件の解決もまだまだ遠いように思える。犯人と思われる怪しい人物はどんどん増殖していくばかり。署長の苛立ちはますます激しさを増している。
とりあえず山田のみならず、吉田と阿部についても刑事を張り込ませて監視しよう、ということで意見はまとまった。