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梅雨が明け、真夏になった。あまりにも重苦しい暑さが、人を押しつぶす毎日が続く。
池袋北警察署の刑事課のあるフロアは冷房も効いていて、ただ事務的な仕事をする分には快適ではある。窓の外の燃え上がるような暑さなど、その飛び散る火の粉すら見えないほど。あくまでもここにいれば、の話ではあるが。
だがそんな快適さも丸出為夫によって、一気に台無しになってしまう。火の中で長時間熱しておいた石を、冷たい水の入った鍋の中に入れるように。このフロアの快適さも激しい泡をたてて、熱湯のように暑苦しくなってしまうのだ。
自称名探偵・丸出為夫。この厄介者は、すっかり池袋北署に憑りついてしまった。シャーロック・ホームズの生まれ変わりだと公言する、この無能な変人。無能どころか、人の足を引っ張ってばかり。ベレー帽に、おもちゃのパイプ煙草。そしてこの暑い中でもトレンチコートを着込んでいる。
「暑い……もっと冷房の温度を下げられないんですかね?」と丸出は、大の仲良しである立川進刑事課長に小言を言った。
「おい、誰か、もっと冷房の設定温度を下げろ。丸出先生が暑がってるぞ」と立川課長は声をかけた。
相手にする者は誰もいない。丸出はおろか、この課長でさえも。立川課長はみんなから嫌われ、軽蔑され、相手にすらされていないからだ。
刑事として現場に立ったことは一度もない、単なる横滑りの管理職。刑事課の仕事自体をあまりよく理解していない。性格も悪く、自分より立場が上の者には、土下座してでも媚を売る。警視庁本庁の推薦でやってきた丸出とすぐに意気投合し、仲良くなってしまったのもそのためだ。
その一方で、自分より立場が下の者には、常に上から目線で横柄な態度をとる。どうも自分の目よりも下にいる人間は、全て水の中で生えている海草だと思っているらしい。
何をユラユラしてるんだ? だらしがない。下っ端どもが。
だから当然、人望もない。部下たちはみんな「バ課長」と陰口をたたいている。確かに頭も悪く、出世するのに長い年月を要した。50代前半にして、やっと所轄の課長。頭も性格も悪いくせに、出世欲だけは人一倍強い。つまりは掌で揉みクシャにしてしまいたくなるような、人間の屑である。
刑事課を実質的に取り仕切っているのは、課長代理である戸塚明警部である。立川課長も階級は同じ警部ではあるものの、戸塚には出世欲が全くない。あと3年で60歳の定年になる。だが戸塚は、刑事として長年現場に立ち続けてきた筋金入りのたたき上げであり、人心掌握術にも長けているベテラン。性格も明るく、はげ上がった頭も明るく、部下たちの信頼は絶大だ。この戸塚警部に比べて、立川バ課長ときたら……
丸出に密告したのはあいつだろう、このバ課長が。と強行犯捜査係(通称・捜査1係)の刑事・海老名忠義は思う。俺の酒気帯び運転のことも、同僚の大森大輔の本当の身長のことも。丸出は海老名や大森の秘密、というより弱みを握っている。それはなぜか? 立川が密告したに違いない。そうでなきゃ、なぜ丸出のような大バカ野郎が俺たちの秘密を知ってるんだ?
もっとも海老名の酒気帯び運転の件に関しては、署内で知らない者はいないぐらい、公然の秘密ではある。だが大森の身長の件に関してはどうなのか? あのことを知っている者は、署内でもあまり多くはないはず。立川課長も知っているのかどうかは、少し怪しい。
何よりも河北昇二署長や本庁の刑事たちが、丸出を高く持ち上げるのはなぜなのか? 河北署長は立川課長ほど丸出と親密ではない。立川課長に比べれば、丸出とは距離を置いている。だが丸出を「名探偵」として、深く尊敬しているように見えることには変わりがない。
本庁から出向してまだ日の浅いこの署長は、この池袋北署の内部事情にはあまり詳しくはないはず。署長が立川課長や丸出に密告したとは考えられない。考えられるとすれば、この署長も丸出に……
丸出為夫。このとんでもない変人は、とんでもないバカでもあるが、誰も知らないような秘密の情報を収集する能力も兼ね備えているに違いない。つまりは別の意味で、とんでもなく頭がいいのかも。実はバカなふりを装っているだけだったりして。
あいつはいったい何者なのか?
「暑い……とにかく暑い。冷たい麦茶が飲みたいものですな」丸出はコートを着込んだまま不満を口にした。
「おーい、誰か、冷たい麦茶を2つ持ってきてくれ」立川課長は声をかけた。
この2人を相手にする者は誰もいない。
外は相変わらず暑さで燃え上がっているが、だからといって殺人事件が起きないわけではない。その日の夜8時半ごろ、中池袋2丁目にあるラブホテル「ホテル・アムール」の1室で、男女2人の遺体が発見された。
ダブルベッドの上では女の遺体。死因は明らかに両手で首を絞められたものと思われる。そしてユニットバスの入り口の前では男の遺体が。男は入り口の取っ手にドライヤーの電気コードを巻いて、首を吊っていた。
男の首の後ろにはドライヤーの本体が巻き付けてあり、こんな軽いドライヤーでも、死んだ男にとっては重荷であるかのように見えた。取っ手にはコンセントの先端部分が巻き付けてある。
女は年齢30代くらい。男のようなショートカットの髪型に、黒いTシャツと黒いズボン。着衣の乱れは全くない。男の方は年齢20歳前後。白いTシャツに青いジーパン。
「ふうん、無理心中か」と現場の部屋の中で海老名がつぶやいた。「男が女の首を絞めて殺害した後、電気コードで首を吊って自殺を……」
「いや、私はそれは違うのではないか、と思ってます」と真っ先に現場へ駆け付けた、機動捜査隊員の堀内輝之が言った。「おそらく2人とも第三者によって殺されたのではないか、というのが私の推測です」
「ほう、その根拠は?」
「まずこの男の表情を見てください」と言って、堀内は死んでいる男の顎をつまみ上げた。「自殺目的で自ら首を吊れば、普通は眠るように安らかな表情をして死んでることが多いものでしょう? だがこの男の死に顔は……」
「んー、確かにおよそ安らかな表情とは言い難いですな。明らかに苦悶に満ちてる」
「それにこの床のカーペットをよく見てください」と言って堀内は、男の死体の足の部分を輪を描くように指し示した。「明らかに荒れている。おそらくは抵抗して、もがいたものと思われますね」
ユニットバスの入り口の取っ手は、床からわずか1メートルほど。これに取っ手や首に巻いた電気コードの長さを足せば、男の腰がちょうど床に届くぐらいになる。この状態で自ら首を吊ろうとすれば、姿勢を変えることでうまくコードが首に締まり、簡単に死ぬことができるものだ。カーペットにもその痕跡はほとんど残らないはず。だがそれにしてはカーペットの跡は荒々しい。
「確かに不自然な自殺ですね」と海老名が言った。「首にドライヤーのコードを巻いてから、誰かがこのホトケの身体を引っ張って、首を吊るようにみせかけた、ということも考えられますね」
「私もそう思います」と堀内も言った。
「それにこの2人、どうも恋人同士とは思えない。2人ともちゃんと服を着てるし。ここへ入って来たまんまの服装じゃないんですかね? 一度脱いだ形跡とかはあるんですか?」
「私もそれは怪しいと思ってます」
ラブホテルで恋人同士が1つの密室に閉じこもれば、当然やるべきことは決まっている。事が済んだ後であろうと、その前であろうと、2人の格好は全裸かそれに近いものであるはず。だが2人とも、きちんと服を着たまま死んでいた。室内にはコンドームなどの避妊具も発見されなかったのである。
「それから、お気づきですかね? 2人とも顔に殴られた痕があるんですよ。」と堀内。
「なるほど。確かに言われてみれば……」海老名が言った。「殴り合いの末、男が女を絞め殺し、その後に自殺?……いや、間違いなく第三者がいる。2人は誰かに殺されたとみて間違いないでしょう。あるいは男が女を殺した後、男が第三者によって、自殺を装って殺されたのかもしれない」
後の処理は鑑識に任せることにして、海老名と堀内はホテルのフロントの前にある狭いロビーに戻った。当時ホテル内にいた従業員や客を集めて、聞き込みをしている場所だ。そのロビーでは、男と女が大きく言い争っている声がする。
「あんた、誰がここに入っていいって言ったのよ? 関係者じゃないんだから、今すぐ出て行って」捜査1係の女性刑事・新田清美の声である。
「私は署長お墨付きの名探偵でありますぞ」明らかに丸出為夫の声。「だいたい、私の方が先にここへ駆け付けたのですぞ。後からノコノコやって来た人に、出て行けなんて言われるのは心外ですな、おばさん」
「何ですって? あんたにおばさんなんて呼ばれたくないわよ、おじさん」
「新田さんの言ってることの方が正論だな、おっさん」と海老名が割って入った。「ここは関係者以外、立ち入り禁止。あんたは関係者じゃないんだから、ここにいる資格はない。さ、帰った帰った」
「そうですか。酒気帯び運転のことを、ここにいる皆さんの前で話しましょうか?」と丸出がホテルの従業員や客たちがいる前で言った。
「またその手かよ……そういえば、あんた、新田さんよりも早くここに駆け付けた、とか言ってたな? 誰があんたをここに入れたんだ?」
「すいません。実は私です」と堀内が言った。「丸出先生のお知恵を拝借しようと思いまして……」
海老名は思わず呆気にとられてしまった。この堀内までが丸出を先生呼ばわりするなんて……機動捜査隊は、ベテランの元刑事たちで構成されている組織であるはずである。堀内のことについて詳しいことはあまりよく知らないが、年の頃は50歳前後。先程の話しぶりでも、なかなか経験豊富な優れた隊員だと思っていたのに……海老名の堀内に対する尊敬の念は、すっかり床に落ちて割れてしまった。
「堀内さん、まさかこのおっさんを現場の部屋の中に入れたりしてないでしょうね?」と海老名は堀内に問い詰めた。
「ちょっとだけ中を見させてもらいましたぞ」と丸出が正直に言った。「人間の死体を見るのは、あまり気持ちのいいものではありませんな」
「ま、あくまでも少しだけです。特に遺体とか遺留品とかには触ってません」と堀内は言い訳をした。
何か嘘臭いな。海老名の頭の片隅で嫌な予感が鈍い光を放った。
当時ホテルにいた従業員に対する聞き込みによると、まず男が先にホテルに入って、4時間の「休憩」を選択してチェックイン。時間は午後3時半過ぎ。女が入って来たのが、その2時間後の夕方6時前。女は男の名前を従業員に告げて、同じ部屋に入室した。夜8時過ぎ、「休憩」の4時間が過ぎてもまだ2人が部屋から出て来ないので、フロント係のアルバイトが隣接する事務室に待機していた正社員にその旨を告げ、その正社員が部屋の内線電話をかけてみたが、応答なし。正社員は清掃係の女性に様子を見に行くように言い、その清掃係が合鍵を使って部屋を開け、2人の遺体を発見した。
被害者の遺留品から、2人の身元はすぐに割れた。女は北区在住の鈴谷沙織(35歳)。免許証を持っていたが、現時点で職業は不詳。男は埼玉県朝霞市在住の西島寿貴(22歳)。所持していた学生証から、✕✕大学の4年生であることが判明。
鈴谷はハンドバッグを所持。中には現金3万円ほどの財布やスマートフォンなどが入っていた。西島の所持品は、やはり1万円ほどの現金入りの財布やスマホが入っていたリュックサック。部屋の中で発見された眼鏡は、学生証の写真から西島のものであることも判明。あとは誰が所持していたのか、そして何に使うつもりだったのかは全く不明だが、部屋の小さな丸テーブルの上にはバースデーキャンドルが置かれていた。
「バースデーキャンドル……って、そもそも何だ?」と海老名がうちわで自分を扇ぎながら、疲れに満ちた表情で聞いた。
すでに日付は変わって、深夜。とりあえず一連の処理は終わって、捜査1係の刑事たちは署へと引き上げていた。もはや徹夜は覚悟の上。
「誕生日のケーキに飾る、ろうそくのことじゃない?」と新田が冷たい缶コーヒーを片手に言った。 「でもそのバースデーキャンドルがなぜそこにあったの?」
「私にもよくわかりません」と鑑識係の大原拓也が答えた。「そのバースデーキャンドルは『HAPPY BIRTHDAY』と、アルファベットが1文字ずつ別個になったものが1セット、袋の中に入ってました。しかもそのうちYの文字が2つとTとAの文字が1つずつ、紛失してたんですよ。部屋中どこを探しても見つかりません」
「そりゃまた、ますますわけがわからん」海老名が嘆いた。「こりゃ酒飲んで、よく寝てからでないと謎が解けないな。しかもこの暑さだし。勘弁してくれよ」
「それより第三者による殺人だとしたら、犯人は誰か、ということよね」と新田が言った。
「ああ。それもそうだけど、殺害時刻がいつごろか、ということにもよるな。従業員たちの話をまとめれば、女が入ってきた午後6時ごろから、従業員が部屋に電話をかけた8時ごろということになる。でもその間にあの部屋を出入りした者はいない。他の客があの部屋の鍵を持ってるはずがないとすれば、当時あのホテルにいた従業員が一番怪しい、ということになるな。第一発見者である清掃係の婆さんに、フロントにいた中国人留学生のバイト。それに事務室にいた正社員の男。この正社員が110番通報。今のところ、この3人が最も怪しいということになるのかな」
「他の従業員はどうかしら? 勤務時間外でもホテルに出入りしてた可能性とか」
「ま、現時点ではまだ何とも言えないな。それにしてもバースデーキャンドルのAとTと2つのYだっけ? これが欠けてるってのは、何か理由があるのかな? まったく、このくそ暑い時に厄介な事件が起きちまったもんだな。丸出も押しかけてくるし。しかも俺らより先にだぜ。腹が立つな」
朝8時。池袋北署に捜査本部が設置され、捜査会議が始まった。本部長に任命された池袋北署の河北署長は、別件で重要な用事があるという理由で、30分程で退席し、外出。
会議は早速混乱を極めたが、鈴谷沙織だけではなく、西島寿貴も間違いなく誰かに殺害された、これはどう弁解しようのない殺人事件である、という意見だけでは、とりあえずまとまった。問題は誰が犯人か? このことを巡って、警視庁本庁の捜査1課から派遣されてきた刑事たちの議論は、どんなにまとめようとしても、手で乾いた砂をつかむように1つの塊も形成することはなく、次から次へと崩れていくばかり。
特に防犯カメラの分析結果は、ただでさえまとまりのない会議に、爆弾を落とすようなものだった。ホテルから押収されたカメラのハードディスクを分析し、2人の遺体が見つかった部屋の前の廊下に映っていた映像を見ると、フロントのバイトの証言通り、まず西島がチェックインした時間の数分後に部屋へ入った後、その約2時間後に鈴谷が同じ部屋に入って行った。その後、清掃係が2人の遺体の発見時刻に部屋へ入るまで、誰も部屋を出入りした形跡はなし。
「ということは、第一発見者である清掃係の婆さんが最も怪しい、ということか?」
「いや、あの婆さんに人を殺したり殴ったりする力があるかどうか」
「第二発見者の正社員も怪しいな」
「でも一度部屋に入ってから、割とすぐに部屋を出て110番してるし、その間に殺す時間があったのかどうか」
「ひょっとして、一度カメラが切られてる可能性があるんじゃないか?」
「あの中国人のバイトも怪しいぞ。怪しくない中国人なんか、いるわけないからな」
本庁の刑事たちの議論は踊るように続く。されど1歩も進まず。
その間、池袋北署の刑事たちは口をあんぐりと開けたまま、馬鹿みたいに黙って見ているだけ。何か口を挟もうとしても、無能な所轄の連中は黙ってろ、と言わんばかりに本庁の刑事たちは話を聞いてくれない。海老名は睡眠不足で眠たいのと同時に、腹立たしさのあまり、やけ酒が飲みたくなってきた。
会議は司令塔も不在のまま、本庁の刑事たちが時間を滅茶苦茶にかき回した挙句、ひとまず終わった時には正午前。とりあえず防犯カメラの更なる分析と、従業員たちへの更なる聞き込みを強化することで、結論が付いた。
「やれやれ、本庁の刑事たちは毎度のことだけど、騒々しいもんだな。逸る気持ちもわからんでもないが、もう少し落ち着いて議論できないものかな」と戸塚警部は嘆いた。
本庁の刑事たちを交えての捜査会議後、池袋北署の刑事課による小さな会議が始まった。先程の捜査会議があまりにもまとまりのないものだったため、刑事課の一部の刑事だけでもう一度冷静になって今回の事件を検証してみよう、と課長代理でもある戸塚が提案したのだ。部下の若い刑事たちは、そのほとんどが本庁の刑事たちに借り出されて関係者への聞き込みに回ってしまったため、静かな小会議室には戸塚と捜査1係の藤沢周一係長、その部下の海老名と新田、そして鑑識係の大原の5人だけ。先程の大会議室での渦を巻くような騒々しさとは対照的に、こちらの方は直線的な落ち着きがあった。
「ま、署長がすぐに席を外して、外出してしまいましたからね」と藤沢係長が言った。「混乱するのも仕方がないことではありますけど、それにしても、あれほどまとまりのない捜査会議というのも初めて見ましたよ」
「署長、どこ行っちゃったんでしょうね? こんな大事な会議の始まりなのに」と新田があくびを噛み殺しながら言った。
「何か嫌な予感がするぞ。今回の事件に署長が関わってるんじゃないか?」と海老名が、いかにも眠そうに言った。
「エビ、その根拠は何だ」と係長。
「根拠はありません。ただの勘です。気にしないでください」
「でもエビちゃんの勘って、よく当たるから……」と新田。
「ま、そんなことはどうだっていい」と戸塚。「とりあえず今回の事件で、今までわかってることを、もう一度おさらいしておこう」
まずは鑑識の結果。鈴谷が誰かに両手で絞め殺されたのは一目瞭然だが、鈴谷の首に残っていた指紋は西島のものだけ。鈴谷を殺害したのは、西島であることは確かである。その後で西島も自殺を装って殺害された。問題は、西島を殺害した第三者が鈴谷を殺害するよう指示したのか、それとも第三者が部屋に入って来る前に、西島自身の意志で鈴谷を殺害したのかがわからない。殺害された2人とも顔に殴られた痕があることから、おそらくは第三者が、始めから西島に鈴谷を殺害するよう命じた可能性が高いと思われる。
その証拠に、どちらかが殴られた拍子に、部屋にあった小さな丸テーブルを引っ繰り返してしまったらしく、丸テーブルの上にあった陶器の灰皿が床の上で割れていた。その近くに、フレームごと踏みつぶされてレンズも割れた眼鏡が転がっていたことから、おそらくは西島が殴られた拍子にテーブルを倒し、吹き飛んだ眼鏡は第三者に踏みつぶされたものと考えられる。その殴り方はかなり激しかったようだ。
「ただ、いくつか奇妙な点がありまして……」と大原が報告した。「まずそのテーブルが明らかに一度倒された後、また元にあった場所に置き直されていたんですよ」
「テーブルの上には、バースデーキャンドルが入った袋が置いてあったのよね? 一度倒れた後に、また袋もその上に置き直された、ということ?」と新田が質問した。
「初めからあのテーブルの上にあったかどうかはわかりませんが、一度床に落ちていたのをあの上に置いた、ということはわかってます。床の埃が付着してましたから」
「ところでそのキャンドルは、誰が持ってた物なの?」
「鈴谷の指紋があったことから、おそらくは鈴谷の所持品だったのではないか、ということはわかってます。ただ、そのキャンドルの入った袋はそもそも未開封だったのでは、と思われます。見ての通り、透明のポリ袋で、開封部分が糊付けされてるものなんですが、その糊付けの部分に鈴谷の指紋はありませんでした。その代わり、明らかに軍手と思われる繊維が付着してます」
「ということは、鈴谷は新品のままの状態でキャンドルを持ってきた、そして軍手をはめた犯人が最初に開封して、キャンドルの一部分を持ち去った、ということかな?」
と今度は藤沢係長が大原に質問する。
「そう思われます」
「ところで根本的な疑問なんだけど、なぜ鈴谷はバースデーキャンドルなんか持ってきたんだ?」
「今のところは、さっぱりわかりません」海老名が投げやりに答えた。「鈴谷は4月生まれ。西島は11月生まれ。日にちどころか、月が違いますからね。誰かの誕生日を祝うにしても、誰の誕生日を祝うつもりだったのか……まず自分の誕生日じゃないことは確かだろうし。犯人の誕生日かな? 鈴谷が犯人と面識があれば、の話だけど」
次に殺害された2人の身元確認について。まず西島寿貴の身元は、早朝に署へ駆け付けた両親によって確認済み。西島は国家公務員の総合職の試験を受けて、不合格だった。それ以来、落ち込んではいたが、自殺まで考えている様子ではなかったとのこと。大学では法学部でサークルには加入せず、内気な性格で友達も少なかったとか。
一方の鈴谷沙織の身元については、まだほとんどわかっていない。赤羽のアパートに1人暮らしということぐらい。現在、彼女の部屋を捜索しているところである。
「あの2人、どう見ても恋人同士には見えない。30代半ばの女と20代前半の男。ひょっとしたら初対面だった可能性もある。どういう関係なんだろ?」と海老名が言った。
「別に女が10歳以上年下の男の子と付き合ったっていいじゃん。私だって機会があればやってみたいわよ」と新田が言う。「まあ、それはともかく、この2人が付き合ってないとしたら、その関係は例えば元教師と生徒。鈴谷は西島の担任だった、とか」
「それなら、なぜラブホで密会するんだ? もっと堂々と人の多い喫茶店あたりでコーヒーを飲んだって、恥ずかしがることないじゃん」
「そっか……ま、2人ともスマホを持ってたから、あとは本庁のサイバーセキュリティの分析結果を待つしかないのかな?」
次に犯人に関する議論。現時点でもっとも容疑が深いとにらんでいるのは、当時ホテルにいた従業員の3人。遺体の第一発見者である清掃係の手塚敦子(66歳)に、正社員の山田洋太(39歳)。そしてフロントの受付にいたアルバイトの楊徳華(24歳)。
「ねえねえ、皆さん、お気づきですか? この3人のイニシャル」と新田が言った。「手塚敦子がT・A、山田洋太がY・Y、楊徳華がY・T。いずれもバースデーキャンドルのなくなっていた文字と一致するんですよ」
「なるほど、いいとこに気づいたな、新田さん」と係長が感心して言った。
「でも楊徳華に関してはどうなんだろうな?」と海老名が首を傾げながら言った。「日本語読みではY・Tとなるかもしれないけど、中国語読みでは別なんじゃない? 日本語は理解できても、頭の中では中国語でものを考えるんじゃないかな? そこは国際(犯罪捜査係)の中国語ができる奴に聞いてみないと、わからないと思うよ。それに手塚が犯人なら、なぜYのキャンドルを持っていかなきゃならないのか。山田なら、なぜAとTのキャンドルを持っていかなきゃならないのかが理解できない」
「んー……それもそうよね」と新田は残念そうに言った。「それに『HAPPY BIRTHDAY』の文字の中にYとAが2つずつあるけど、なぜYは2つもなくなってるのに、Aだけ1つなんだろう」
5人の目は、テーブルの上に置かれた遺留品であるバースデーキャンドルに注がれていた。いずれのキャンドルも全く同じ赤紫色。ラメが入っているらしく、金属的な輝き方をしている。透明なポリ袋の中で残っている文字は、厚手のボール紙を加工した台に、指定席に座るようにそれぞれ規則正しく刺さっていた。「HAPPY」と「BIRTHDAY」が2段に分けられている。さらに欠けている文字を除けば、
「HAPP☐
BIR☐HD☐☐」
謎は深海の底へと落ち込んで行くだけだった。