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苦手な方はご注意ください。

乱れ咲く華々~百合短編集~

夜光虫の光を集めて、君に逢おう

作者: an-coromochi

毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。


今回は、この時期にちなんだお話となっております。


終盤に差し掛かるにつれて、シリアスなお話となるかもしれませんが、

時間が許すのであれば、是非立ち寄っていってください!


では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!

(1)



 あてのない後悔を、無理矢理にでも背中を押して、送り出したとする。

 そしたら、その後悔はどこに行くのだろうか。


 やはり、どこにも行けず、戻ってくるのか。


 意識と無意識の狭間に時折顔を出して、

 後悔は私を苦しめる。


 初秋の風薫る昼下がりに、雅峰翠(がほうすい)はぼんやりと、霞んだ空を見上げながら思った。


 暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、外にいるだけで汗をかく季節は、覚えていられない夏の夢のように記憶から過ぎ去っていた。


 祝日だというのに、雅峰は学生服の襟元を正しながら、家の前の塀にもたれかかっていた。


 人を待っているのだ。


 五分もしないうちに、隣の家の開けっ放しの門から、人が現れた。雅峰のものとは違うが、彼女も学生服であるブレザーを身にまとっていた。


 雅峰が、真っ白のシャツの襟元にある赤いリボンを、ピン、と指で弾く。それから、ブレザーの制服を着た少女の元へと駆けた。


「やぁ、遅いんじゃないかい?」気取った口調の雅峰だが、これが彼女の素の喋り方だ。


「いちいち、ケチをつけないで」


 長い黒髪をアップにし、分け目から右の前髪だけを耳にかけた少女――尾羽根理乃(おばねりの)は、眉間に深いみぞを刻んで、そう答えた。


 雅峰は肩を竦めて、「やれやれ」と呟くと、尾羽根に向けて片手を出す。


 黒のショートヘアの毛先が、くるりと緩く巻いている。くせ毛ではない。考え事をするときに、人差し指で髪を巻く癖があるから、こうなっている。


 なるほど、くせ毛ではないが、癖毛ではあると。


 自分の頭の中で、つまらないジョークが生まれたせいで、口元が歪む。

 雅峰は、ニヒルに笑うのも自分の癖だと考えていたが、身長が低すぎるため、格好がつかない。無理して大人ぶっている、としか周りからは見えないだろう。


 ぎりぎり150cm台に届いていないので、身長の高い尾羽根と並んで歩くのは、首に悪い。


「なに、この手は」


「おっと、これは奇妙な質問だね、理乃」


 わざとらしく、目を丸くした雅峰は、一度、尾羽根に背を向けて続けた。


「恋人同士が休日にデート。それなら、手をつないでエスコートするのが、紳士である私の務めだろう?」


 パチリ、とウインクしてみせた雅峰。ただ、これも自分が思っているような、ジェントルな印象を相手に与えるものではなかった。


 呆れたようなため息を吐いた尾羽根は、雅峰の家を見上げてから、素早く出された手を握り返した。


「オッケー、じゃあ行こうか。まぁ、今回のデートも、私に任せてくれ。最高のエスコートを…」

「つべこべ言ってないで、さっさと行くわよ」


 尾羽根は、手慣れた窃盗犯のような動きで、雅峰の手を掴んだかと思うと、ぐっと力を込めて彼女の小さな体を引っ張った。


「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「なに」


「それは私の役目であって、理乃は淑女のようにエスコートされてくれれば…」

「私は淑女じゃないし、翠も紳士じゃない」


「私は、紳士だぞ」心外であると言わんばかりに、眉をひそめた翠。「はいはい、まずは喫茶店でいいのよね」


「あ、待って…。これじゃあ、姉妹みたい、いや、それどころか母と娘みたいで、恥ずかしいぞ」


「低い身長を恨むのね」

「おいおい、人のコンプレックスを侮辱するのは感心しないなぁ」


「事実でしょ」


「正論で理論武装する奴は、好きじゃない。分かるかい?正論ってやつは相手に逃げ場を与えないんだ。だから、それで相手を責めるようなことは…」


「でも、好きでしょ?」と尾羽根が振り向きもせず言った。「私のこと」


 自信満々とも取れるその態度に、雅峰は肩を竦めようとするが、相手の勢いに引っ張られて、それどころではない。


 つんのめる形で引っ張られていた雅峰は、慌てて早足になって、尾羽根のペースに合わせようとした。


 ただ、スラリとした長い足から生み出されるストライドの広さには、雅峰も、競歩並みの気分で進まなければ追いつけなかった。


 ううん、この速度で足を動かすと、いくら秋の初めとはいえど、汗をかきそうだ。

 折角のデートで汗だくになるのは、紳士としては避けたいものだが…。


 そうして、ぐんぐん進んでいく二人が追い越した黒猫が、威嚇の声を上げながら飛び上がった。


 背中の毛が逆立ち、警戒心を露わにしている。

 それを見て、雅峰は泣き笑いのような表情を浮かべた。


 私のパートナーに、そんな顔をしないでほしい。

 わがままで、素直になれない女性だが、分かりづらいだけで、中身も外面も麗しい、気品にあふれている人なのだ。


 困ったように笑う雅峰の髪を、路地裏の細い道から吹き込む風が揺らした。

 それが何となく懐かしくて、雅峰は胸の奥がむず痒くなる。


 信号待ちで立ち止まった尾羽根の横顔。

 白い頬に、気の強さを象徴する細く、キリッとした眉毛。

 いつも固くつぐまれている、ふっくらとした赤い唇。


 やはり、今も変わらず私のタイプだ。


 そんな横顔を見つめていると、ついつい彼女の名前を呼びたくなってしまった。


「なぁ、理乃」

「なに」


 目線だけ、すっと、雅峰のほうへ向ける。


 こういうときぐらい、少しはしゃがんでもいいのではないか。これでは、きちんと顔が見えない。


 だが、それを尾羽根に伝えるのは、格好がつかないと分かっているので、軽く腕を引いて、彼女に頭を下げさせた。


 迷惑そうな顔をしたものの、尾羽根はきちんと腰を曲げてくれる。


 魅惑的な大人の雰囲気を醸し出すために、声を細め、囁く。


「人もいないし、ここらでキスの一つでもどうかな?」

「外では嫌」


 ブゥン。大きな風を巻き起こしながら、四トントラックが二人の前を通り過ぎていく。


 全く、バッサリと斬り捨てるものだ。だが、ということは…。


「それなら、室内に入ったら良いということだね?」

「…人のいないところなら、好きにするといいわ」


「私は気にしないんだがね…」

「周りが気にするのよ」


 顔をほんのりと赤く染めた尾羽根は、体を伸ばして、雅峰との距離を元に戻した。一見すると、機嫌を損ねたような振る舞いだったが、そうではない。


 素直になれない尾羽根の、分かりやすい照れ隠しだ。


 相手との心の距離が、ぴったりとくっついていることを確認できた雅峰は、満足そうに笑った。


「それじゃあ、好きにさせてもらうとするよ」

「…限度は守ってよね」


「約束は出来ないが、善処しよう」


 ふふん、と顎を出して自信有りげに答えた雅峰だったが、再び強い力で手を引かれ、躓きながらも、尾羽根に足並みを合わせるのだった。

 



(2)



『銀猫』と、おしゃれなフォントで書かれた看板の前、ヴィンテージ風な扉に手をかける。


 扉にくくり付けられていた銀のベルが、扉の開閉に連動して、高い音を鳴らす。もう、何度も耳にした美しいメロディだ。


「いらっしゃいませ」とハスキーな声を上げ、雅峰らを迎え入れたのは、二十代後半ぐらいの女性だった。


 髪をポニーテールに結い上げ、明るい茶髪に染めた彼女は、雅峰と目が合うと、苦笑いを浮かべた。


「やあ、こんにちは。マスター」

「また来たの?翠。今週は今日でもう三回目じゃない」


「マスターの顔を見に来たのさ。奥、使わせてもらうよ」


 気障な台詞と共に片手を上げた雅峰は、後ろから、じっとりとした視線を向けてくる尾羽根に気付いて、咳払いをしながら奥に進んだ。


「どうぞ、注文さえしてくれれば構わないわ」


 店主の許可が出る前から、雅峰は一番奥の座席に足を踏み入れていた。


 腰に巻いたブラウンのウエストバックを外す。たいして物は入っていない。手帳と、携帯、財布ぐらいのものだ。


 彼女らが選んだ座席は、奥まった角の席で、秘密の話をするにはちょうど良い場所だった。ステンドグラス調の窓の向こうには、七色の景色だけが見える。


「どうだい、ここなら誰も来ない」頬杖をつき、体を斜めに倒す。「恋人たちの逢瀬にはピッタリの場所だ」


 ウインクをして、自分の粋なところを褒めてもらおうと考えた雅峰だったが、対する尾羽根のほうは、つんとした表情を崩さないままだ。


「そういうの、誰にでも言ってるのね」


 どうやら、先ほど店主に向けた発言のことを咎めているらしい。


 なるほど、可愛い女性だ。


 ここは一つ、プレイボーイ…ではないか。プレイガール?なところもアピールしたい。


「いいや、私が愛を囁くのは、本当に、心から愛している者たちだけだよ」


「あっそ」


 折角格好良く決めたのに、雅峰は、可愛らしい鼻先を尾羽根につまみ上げられて、悲鳴を発した。


「い、痛い、痛い」周りに気を遣ってか、雅峰はずっと小声で喋っていた。


「ばーか。何を気取ってるのよ、チビのくせに」

「あ、また私の身長を嗤うのか」


 ムッとした表情をしていた雅峰の視界に、オーダー用紙を持った店主の姿が映った。それを機に、彼女は襟首のリボンを整え、準備完了、と言わんばかりに指先で弾いた。


 オーダーを確認される前に、左手を出して、どうぞ、と無言で示してみる。これに意味があるかというと、正直、そうではない。


「注文決まった?」と店主が尋ねる。


「ああ、ブレンドコーヒーと――」雅峰は、ちらりと視線を対面の尾羽根に向けた。「…私はいいわ」


 無愛想にそう呟いた尾羽根に、雅峰は困った表情をしてみせた。それで言いたいことが伝わったのだろう、渋々、といった感じで彼女は言い直した。


「…じゃあ、カフェオレで」


「オッケー、マスター。ブレンドコーヒーとカフェオレを頼む」

「え?」と不思議そうな顔をするマスター。


 何かを問われる前に、先手を打つように雅峰は口元を歪める。


「いいんだ。今日は、そういう気分だから」


「…そう。別々?」

「いや、一緒に頼むよ」


「かしこまりました。お客様」


 店主は、雅峰に合わせるかのように、芝居がかった高い声を上げた。しかしながら、くるりと体を回転させて、雅峰のほうを振り返ると、眉間に皺を寄せてこう言った。


「あ、翠。貴方そのマスターってのをやめなさい。そんな呼び方、翠しかしないんだから」


「ほう、それなら尚のこと、特別感があっていいじゃないか」


「…尾羽根さんに怒られるわよ」


 それを聞いた雅峰は、おそるおそる真正面に座る尾羽根を見やった。


 確かに、あからさまに機嫌が悪い。彼女の言い分も、一理あるようだ。


 肩を竦めた雅峰は、「分かった、しばらくはやめとくよ。でも、それなら、何と呼べばいい?」と女性に問いかけた。


「何とって…。きちんと紗綾(さや)さんって呼ぶか、昔みたいに、紗綾ねえって呼びなさい」


「分かったよ、白銀殿」と、雅峰は、店主である白銀紗綾(しろがねさや)に向けてウインクしながら応じる。


「いい加減にしないと、つまみ出すわよ」


 真剣な怒気を孕んだ声に、うっ、と言葉を詰まらせた雅峰は、恐れをなしたと悟られないための微笑を浮かべた。


「…了解、紗綾ねえ」

「よろしい。じゃ、待ってなさい」


 離れていく白銀の背中を見送ると、雅峰はやれやれと肩を竦めてみせた。しかしながら、尾羽根はそれを見ても、嘲るような顔しか彼女に向けていなかった。


 格好つかないな、と内心で苦笑いしながら、飲み物が来るまで、適当な世間話を進める。


 この一年、どんなことがあったかを中心に、思い出深いエピソードたちを、多少の脚色を交えて、尾羽根に語る。


 彼女は、半信半疑といった様子で雅峰の話を聞いていたのだが、ややあって、無言になると、窓の外へ視線を移した。


 当然ながら、外の景色は見えない。この窓の趣旨は、外の景色を眺めるためのものではなく、その表面に描かれた、極彩色の模様を楽しむためにあるのだ。


 つまり、尾羽根の思考は、窓とは無関係のところにある、ということだ。


 彼女は、何を考えているのだろう。


 変化の乏しい尾羽根の表情から、それを読み取ることは、いくら雅峰とはいえ難しかった。


 ただ、その疑問もすぐに無用のものとなった。尾羽根自身が、口を開き、言葉にしてくれたのだ。


「…妹は、元気?」


 一瞬、どう答えるか迷う。


 正直に、今の彼女について語るか。それとも、適当にはぐらかすか。


 くるり、と髪を自分の指に絡めていることに気づき、ふっと、笑みがこぼれる。


 きっと、尾羽根はそれを望まない。

 誤魔化しなど、何の慰めにもならない。


「心配無用。元気に、仲睦まじくやっているよ」

「そう」


 ぽつりと、一粒の雨のように、尾羽根がそう答えた。


 知りたかったことを、知りたかった形で答えられたのかは分からない。


 それは、しょうがないことなのだ。

 どのみち他人の心など、予測することしか出来ないのだから。


 妹の話は、それきりだった。


 二人は、注文した飲み物が来るまで、そうして他愛のない話を続けていた。やがて、白銀がお盆にカップを二つ乗せて持ってくるのが見えると、二人は示し合わせたかのように口を閉ざした。


「お待たせ」


 待っていないよ、と声を出そうと思ったものの、結局はやめた。


 カップもおしぼりも、二つとも自分のほうに寄せて置かれたことで、どこか辟易とした気持ちになってしまったためだ。


「ごゆっくりどうぞ」と形式的な――言い換えると、無粋な言葉を残した白銀は、そのままカウンターのほうへと戻っていった。


 しょうがないので、雅峰のほうでカップなどを尾羽根に渡す。


 彼女はお礼も言わなかったが、別に今に始まった態度ではないので、気にもならない。


 何か、話題を変えたい。


 雅峰は、店内の様々なものに意識を張り巡らせた。


 まず目につくのは、先代の頃から、一切変更がなされていないという、ヴィンテージの内装だろう。


 どれだけ合わせても狂う、古時計の針。

 白銀の祖父が、妻と一緒にバイクに跨っているセピア調の写真。

 苦労が傷と共に刻まれている、年代物のカウンター。


 そのどれもが、ずっと小さい頃、それこそ、白銀紗綾が受け継ぐ前のことを思い出させるのだが、どうしても、薄ぼんやりとした、おぼろげな印象が拭えない。


 想い出は、色褪せるものだ。

 記憶を永遠に留めておく、風化させない術を人間が見つけ出せない以上、それが自然の摂理だ。


 過去を置いて、私は前進している。だが、自分の意思で歩いているのではない。


 エスカレーターに乗ったときと同じだ。


 時間に押し流されて、時には、押しつぶされそうになりながら、私は勝手に日々を重ねる。


 諸行無常、という言葉の重みを、生まれて初めてきちんと味わうことの出来た一年だった。


 そこまで考え、雅峰は目を強くつむった。そうすることで、お呼びでない過去の残影が消えることを知っている。


 ゆっくりと目蓋を開きながら、雅峰は尾羽根に尋ねた。


「昔、ここで初めてブラックコーヒーを頼んだときのこと、覚えているかい」


「…結局、白銀さんに飲んでもらったときのこと?」


 ここでいう、『白銀さん』は、白銀紗綾の祖父だ。


「そう。あれは苦かったなぁ…。とてもではないが、人の飲めたものではないと思ったよ」

「何よ、その言い方。まるで今は飲めるみたいじゃない」


 小馬鹿にするような言葉を尾羽根に向け、ニヤリと笑う。彼女が不審がったのを確認してから、人差し指で自分のカップを示した。


 カップやソーサーの周りには、ミルクや砂糖の空はない。そして、ブレンドコーヒー自体も、汚れなき黒に染まっていた。


 尾羽根が、今日一番の驚きに満ちた表情を浮かべた。


「まさか…」


「そのまさかだ。人は、日々成長している。もちろん、私もその例外ではない」


「…生意気。身長は止まったくせに」

「だから、度々身長を引き合いに出すのは、やめないか」


 ムキになって言い返すと、尾羽根は珍しく朗らかに笑った。雅峰がいじけたからではない。きっと、雅峰の成長を感じたからだろう。


 くるりとカップを回転させ、それを口元に運びながら、雅峰は尾羽根を見つめた。


 雅峰は、尾羽根と違って物言いたげで、納得のいっていない表情だった。


「貴方でも、日々、成長しているのね」

「ああ、身長以外は、だが」


「バストもね」

「…せ、セクハラだぞ、それ」


 尾羽根は、また、くすくすと笑った。彼女が笑うことは喜ばしいことだったが、こればかりは、素直には喜べない。


 カップに口をつける瞬間、あ、と雅峰はキスの約束を思い出して、ソーサーの上にカップを置き直す。


 それを訝しんだ目で見ている尾羽根に向かって、雅峰は、仕返しだと言わんばかりに意地悪い表情で言う。


「キスの約束がまだだった」

「…別に、約束してないけど」


「おい、ずるだぞ、それ」

「ずるって…。翠がそれを言うと、小学生ぐらいに見えるわ」


「どうしてだい?そもそも、失礼だよ。私はれっきとした高校生だよ」

「知ってるわ。そういうことじゃないの」


 このままでは、はぐらかされそうだ。


 そう判断した雅峰は、ぐっ、と体をテーブル越しに乗り出しながら、尾羽根に顔を寄せた。座っているので、二人の距離は、さっきよりもいくらか近い。


 少し唇を突き出して、指先で尾羽根に、こちらへ近づいてくるよう伝える。


「…それ、飲んでからでも、いいんじゃないの?」

「コーヒーの苦味をより深く味わうためにも、先に甘いデザートは頂いておきたいのさ」


「気障な人」


 初めは渋っていた尾羽根だったが、表情自体は満更でもなさそうである。すぐに、彼女も体を雅峰に寄せて、その赤い唇を雅峰のそれと重ねた。


 予測通り、無味無臭だった。

 ただ、心の奥はじんわりと熱くなる。


 体を素早く離した尾羽根は、拗ねたように窓のほうを向くと、「これで満足?」と頬杖をつきながら尋ねた。


「ああ。これで心置きなくコーヒーを楽しめるよ」


 それから雅峰は、カップを持ち上げた。

 今度こそ、ずずっ、と苦味と渋みだけの液体をすする。


 ――…やはり、美味しくはないな。


 口の中に広がる、苦味と、渋味。それから、気づかぬうちに胸にまで侵食してきた虚しさに、雅峰はぎゅっ、と瞳をつぶるのだった。

 



(3)



 『銀猫』を後にした二人は、次の目的地である花屋を目指した。これもまた、地元の知り合いがやっているお店だ。


 秋晴れは、空の果てまで続いている。

 雅峰は、この澄んだ昼下がりが、いつまでも自分のそばにあるのではないか、という錯覚を覚えた。


 その麗しい幻影に身を委ねたまま、尾羽根と共に歩いていく。

 すれ違う人もまばらだ。


 片田舎なこの町を雅峰は愛していたが、今日ほど、その閑静な佇まいに感謝した日はなかった。


 おかげで、尾羽根の存在をひしひしと感じられる。


 柔らかな日差しを跳ね除けるまつ毛や、難しいことを考えていそうな眉間の皺。雅峰は、それらを胸にそっとしまうように、静かに盗み見ていた。


 この時代に怪盗や大泥棒がいたら、彼女は迂闊にうたた寝も出来なかったかもしれない。


 やがて、川沿いの小径に出た。流れの緩やかな川の水面がキラキラしていて、思わず目を逸らす。


 美しいものは、光り輝いていることが多い。だが、時にそれは拒絶的なふうに、雅峰の目には映っていた。


 だって、眩しすぎて見られないから。

 目を逸らすほうが、楽なことが多い。情けないが、そういうものだ。


 二人の行く先に、色とりどりの花が見え始める。目指していた花屋だ。


 尾羽根は足を早め、雅峰と並んで歩いていたラインを踏み越えると、すっと、店内に入っていった。


 恋人を置いていくのは、些か配慮に欠ける気もしたが、花が好きな彼女ははやる気持ちを抑えられなかったのだろう。


 雅峰にとって、今は、尾羽根が喜んでくれることが無上の喜びだった。


 彼女に遅れる形で店先に足を踏み入れる。


 ダリア、コスモス、カトレア、菊、ワレモコウ…。秋の匂いが鼻先まで香るようだ。


 無数の鮮やかさが凝縮された店内においても、尾羽根がどこにいるかはすぐに分かった。彼女は、花に勝るとも劣らない華やかさを持っている。


 目線の先で、嬉しそうな尾羽根の後ろ姿を見守っていると、不意に横から声をかけられた。


「うわぁ、時間ぴったり。珍しいこともあるものですね、雅峰さん」


 いらっしゃいませ、の代わりに余計な言葉を選んだのは、花屋の娘である、紺野小百合(こんのさゆり)である。


 可愛らしい童顔(高校生なのだから、当然だが)のわりに、毒舌な彼女は、胸元にたっぷりのコスモスを抱えて目を丸くしていた。


 年下のくせに、自分を見る視線が上からなのが気に入らないときもあるものの、物理的に見下されるのは慣れているので、大人の対応を心がけている。


「ご挨拶だね、店員さん」

「あ、あー。いらっしゃいませ?」


「どうして疑問形なんだ、小百合」

「だって、雅峰さんがお客さんって、なんか笑える」


「…相変わらず生意気だな、君は」


 ふふん、と鼻を鳴らした彼女は、作業場に引っ込もうとしていたが、すぐにくるりと体の向きを戻し、意味ありげに笑って尋ねた。


「そうだ、愛しの彼女とは上手くやってる?」


 何が、愛しの彼女、だ。わざとらしい。

 私の彼女とは旧知の仲のくせして…。


「やってますかぁ、だろ。年上は敬え」

「うわ、雅峰さんからそんなつまんない言葉が出るなんて…」


 確かに、と言葉を詰まらせる。


 年上だから敬え、というのは、それ以外で敬われるべきポイントのない――つまり、魅力も腕もない、能無しの台詞である。


 ごほん、とわざとらしく咳払いをした雅峰は、手を振ってから、「失言だった。忘れてくれ」と呟いた。


「で、どうなんです?」

「…彼女とは、上手くやってるよ。多分…」

「え、何か歯切れが悪くないですか?もしかして…」


 ふざけていた憎らしい顔つきが一転、紺野は心配するような表情を浮かべた。尾羽根と知り合いである紺野は、雅峰の心配、というよりも尾羽根の心配をしているのだろう。


「駄目ですよ、ちゃんと大事にしてあげないと、っていうか、今日だって――」

「あぁもう、いいから、とっとと頼んでいたものを渡してくれ」

「でも…」


 老婆心がすぎる、と雅峰は眼尻を吊り上げる。


 あまり時間がないのだ。こういうところで時を無為にしたくはない。


「二度は言わないぞ、早くしてくれ」


 雅峰は手のひらを、紺野を追い払うようにひらひら動かした。


 不服そうに唇を尖らせた紺野だったが、出過ぎた真似をしたとでも思ってくれたのか、無言で奥へと引っ込んだ。


 あれは、混じりけのない善意なのだろう。しかし、だからといって、それが全て相手のためになるとは限らない。現実とは、得てしてそういうものだ。


 嫌なことを考えている、と雅峰は眉をしかめた。


 そう、考えても仕方のないことだ。それを考えている時間は、ナンセンスだと知っているのに、やめられない。


 もしも、あのとき…。


 無数の、『もしも』のために、私たちはどれだけの時間を無駄にし、どれだけ傷付けば気が済むのだろう。


 ふう、と無意識にため息がこぼれたところで、後ろから尾羽根に声をかけられる。


「へぇ、上手くやってないの?」

「おい、理乃まで…。勘弁してくれ」


 シニカルな笑いを浮かべた尾羽根。自分よりも、よっぽどそういうダーティな感じが似合う女性だ。


「駄目なんじゃない?大事にしてあげなくちゃ」


 意地の悪い言葉を真似した尾羽根に、雅峰は大仰なため息と共に肩を竦める。目線だけで、この話は終わりだ、と伝え、奥へと消えた紺野を追った。


 本来、関係者以外は立入禁止であろう、バックヤードに足を踏み入れる。まあ、全くもって無関係という間柄でもないし、構わないだろう、と楽観的な予測を立てたのだ。


 我が物顔して姿を見せた小さな客人を見て、紺野はあからさまに嫌な顔をした。だが、そんな表情よりも、紺野が胸元に抱えている花束に目がいった。


「見事だ」と思わず感心する声がもれる。


 自分が想像していたものよりも、何倍も綺麗な花束が完成していた。


 こくり、と満足そうに頷いた雅峰が花束を受け取ろうと手を伸ばした。すると、紺野はさっと花束を守るようにかき抱いた。


 紺野は、じっ、と何かを言いたそうに雅峰を睨みつけていた。


 雅峰は、くるり、と前髪を指に巻きながら尋ねた。


「どういうつもりなのか、聞いてもいいかな?」


 代金は注文したときに払っている。その金額いっぱいで出来る最高の物を、と伝えていたのだが。


 紺野はしばし無言のまま、じぃっと、雅峰を見下ろした。その瞳には、彼女を責めるような色が宿っている。


「さっきの話ですけど」と紺野が話を切り出す。


「もういいだろう、その話は」


「よくない」


 きっぱりと断言した彼女からは、言うか言うまいか逡巡している様子が見て取れた。


「雅峰さん、もしも、まだあの人のことを引きずっているのなら――」

「くどい」


 チッ、と舌打ちしながら、雅峰はそう呟いた。声は大きくなかったが、しっかりと相手に聞こえていたはずだ。


「私たちのことを、所詮は他人でしかない君に、とやかく言われる筋合いはない。そんなことまで言わないと分からないのかな?」


「私たち…?」紺野は顔をしかめる。「それは、どっちのこと?」


「どっちもだ。…余計なことに口を出さないでもらいたい」


「でも、それじゃあ、あの子が可愛そうですよ!」

「彼女がそう言ったのか」


「…それは、いえ」


 ふぅ、と雅峰は呆れたようにため息を吐いた。


「予測だけで誰かの心情を決めつけ、自分勝手に行動に移してしまう。君はそれを、『優しさ』だと勘違いしているかもしれないがね、そういうのを世間では、『余計なお世話』と呼ぶのさ」


「…あんまりです。そんなの」


 不服そうだが、それはお互い様だ。


「その言葉、そのままそっくり君に返すよ」


 これ以上、話すことはない。そういう意思を込めて、雅峰はすっと、手を伸ばし、花束を催促した。


「注文の品を。店員さん。それとも、返金してくれるのかい?」

「…っ!」


 紺野はほとんど押し付けるようにして、雅峰に花束を渡した。


 こうなった彼女は、しばらくはこうして鼻息荒くしていることだろう。今後数日ほどは、尾羽根から、散々愚痴を聞かされるハメになりそうだ。


「ありがとう。素敵な花束だ」形ばかりとはいえ、一応、礼は伝えておく。「それじゃあ、今後ともよろしく」


「…哀れみで付き合ってるんですか、あの子と」


 去り行く背中に、紺野がぼそりと問いかけた。

 立ち止まるかどうか迷ったが、さすがに無視は不味いと考え、体を反転させる。


「そんなことはない」

「嘘」

「なぁ、くだらないやり取りじゃないか。もうやめよう」

「逃げるの」


 挑発するような口調と、視線。一つしか変わらないが、青いな、という感想が浮かんだ。


「見え透いた挑発だな、出直してこい」


 紺野が自分の唇を強く噛んだのが分かった。それは、白旗を振ることに似ている。


「…格好つけないでよ。私、貴方のそういう割り切ったフリをするところ、嫌い」


 ずばり言ってくれる。


 紺野のそれは、紛うことなき正論だった。


 精神的な青さ、未熟さとは、こういうときに本領を発揮するからたちが悪い。


「…ああ、そうだね。私も同意見だ」

 



(4)



 最後の目的地に着いたときには、陽もだいぶ傾いていた。予想していたよりも随分長く、花屋で時間を浪費してしまっていたのだ。


 黄色が濃くなり、次第に橙色に変わりつつある日差しは、真西へと沈みつつあった。


 西の空の隅が、色とりどりのグラデーションに染まっている。


 真東から昇った太陽が、真西へと沈む。

 今日は、昼と夜が、ちょうど半分になる日だ。

 そして、黄泉の門が開かれると言われる日でもある。


 この町の中でも、かなり高い場所に位置する丘の上に、彼女らはいた。


 風が吹いている。肌寒くなりつつある、静謐に満ちた風。

 この風は、世界中を巡り、私の知らないものも記憶している。

 それが、一日の終わりにこの場所へと集束しつつあるのは、ある種の救いにすら思えた。


 雅峰は、大事に抱えていた花束をそっと、地面に下ろした。


 赤一色のギフト、天上の華。

 ノスタルジックな孤独をもたらす夕暮れに、酷く似ている。


「私、その花嫌い」独り言のように、尾羽根が言った。

「どうしてだい?」


「真っ赤で、不気味。彼岸花、なんて名前も嫌い」

「そうか…。私は、美しいと思うがね」肩を竦める。「ただ、理乃がそう言うなら、来年からは変えよう」


「来年も、またここに来るの?」


 言外に、もう来るな、と言っているような気がして、雅峰は胸をかき乱されるような心地になり、強い語調で告げた。


「来るよ、私は。何度でも、いつまででも来る」


「まぁ、翠はしつこいものね」


「あぁ、そうだ。私はしつこい。割り切れたフリをするのに、その実、割り切れていない。青臭い子どもなんだ」


 ぎゅっ、と尾羽根が後ろから雅峰を抱いた。身長差が大きいが、尾羽根は、自分の顎を雅峰の頭のつむじ辺りに乗せるのが、昔から好きだった。


「知ってる」


 あまりに優しく響く、彼女らしくない声音は、雅峰を慰めるどころか、その心にさざなみを立てた。


「君も、割り切れないから、こうしてここにいるんじゃないのかい?」


「どうだろう。私にも、よく分からないから」自分を抱きしめる力がほんの少しだけ強まる。「そういうの、変?」


「いや、おかしくなんてないさ。…人は、自分のことすら分からない、未熟な生き物なんだから」


 この場所にマッチするよう、形を整えられた石の前で、彼岸花の花束が風に揺れている。


 何本もの細い手のように伸びた花の先端が、夕焼けを吸い込んで薄紅色にきらめく。風に色が滲まないのが、不思議でたまらなかった。


 そうして、しばらくの間、二人は口を閉ざしていた。


 何かを口にしなければ、と思う一方で、今は言葉を用いることが無粋にも思えた。


 やがて、町並みをオレンジ色に焼き尽くしている夕日が、遥か遠く、かすんだ山々の向こうに落ち始めた。


 あぁ、今日が終わる。


 雅峰は目を細め、その光景を眺めていた。

 途端に、目頭が熱くなる。夕焼けが眩しすぎたのではない。


 目を逸らしたほうがいい、それは分かっているのに。

 心の目が、胸の奥で理乃を捉えたまま離さない。


 逃げ出すことも、許されないのだ。


 最近、こういうことは滅法減っていたのに。


 歯を食いしばって、首を絞められるような悲しみに耐えていると、頭の上から、おかしそうに尾羽根が言った。


「なんて顔をしているのよ」

「…しょうがないだろう」


 本来、彼女の角度から、こちらの表情など見えるはずもない。だが、もしかすると、今の尾羽根になら見えるのかもしれない。


「寂しいの?」

「本当の別れというのは、往々にしてそういうものなのさ」


「でも、私たちは、とっくに終わってるじゃない」

「…君というやつは」


 雅峰は、自分を包む両腕から身をよじって逃れ、それから尾羽根と正面からぶつかるようにして、彼女の体を抱きしめた。


「終わってなんているものか。私は、そんなふうに割り切れてなんか、いない。君を綺麗な想い出に出来なかったから――いや、そんなことをする自分を、自分が許せなかったから…」


「『考えても仕方がないことが、世の中にはたくさんある』って、翠が自分でよく言ってたのに」

「揚げ足なんて取らないでくれ。正論も、今はごめんだ」


 切羽詰まった懇願に、尾羽根は困ったような、でも嬉しそうな微笑を浮かべて、黙り込んだ。


 徐々に、二人を照らす夕日の光が細く、薄くなってきた。


 もうじき、門が閉じる。


「そろそろ、お別れね」


 分かっていても、聞きたくはなかった言葉だった。返事の代わりに、雅峰は強く彼女の体を抱きしめた。

 ただそれは、どちらかというと、子どもが母に縋るような抱擁に近かった。


「行かないでくれ、理乃」

「無理よ、そんなの」今度は、笑っていなかった。「分かるでしょ、翠」


 まただ。

 私は、そんな正論が聞きたいわけではない。


「後悔なんて、腹の足しにならない。そうよね」


 きっと今のは、相手を勇気づけるためにした、雅峰の物真似なのだろう。普段の彼女なら、あんなことは言わない。


 共にいられないのは分かっている。

 だからこそ、せめて、気持ちは同じだと胸に刻みたかった。


 失意と落胆に顔を俯かせた雅峰の頭を、ゆっくりと、何度も何度も尾羽根が撫でる。

 言葉には出来ない慰めを、そうして表したのかもしれない。


 尾羽根のおかげで、少しだけ冷静さを取り戻した雅峰を、取り乱したことによる羞恥が襲った。しかしながら、そんなものに身悶えしている時間はない、と顔を上げる。


「理乃、せめて、お別れのキスを」


 その頼みにも、尾羽根は首を縦に振ってはくれなかった。


「駄目よ」

「どうして?さっきは、応えてくれたじゃないか」


「その役目は…、もう私のものじゃないから」


 ぽん、と体を軽く押されたことで、彼女と距離が出来る。


 落日と共に、宵闇が忍び寄ってくる。


 朱色が世界から追い出されつつある中で、黒に近い紫が、風に乗って渦巻くようにこの丘と、そこから見える町並みを染め上げていく。


 同時に、尾羽根の体が薄く、向こう側の景色に同化する。


 そうして、夕日を追いかけるように消えていく尾羽根から、目が離せなくなる。


 行かないで、と繰り返す言葉は、今度は喉につかえて出てこられなかった。


 かろうじて指先を伸ばす。


 尾羽根は最後に下手くそなウインクをしてみせると、やがて、物言わぬ無数の光の粒となって、闇を淡く照らした。


 蛍のように宙を舞う光だったが、青白い輝きは、むしろ夜光虫のようだ。

 一つ一つは小さく、儚いが、寄り集まって放つ光は強く、辺りをはっきりと照らし出していた。


 これが、これらの全てが。

 尾羽根理乃だったもの。


 ならば、と、雅峰はふらつく足取りで、未だにたゆたっている青白い光の粒に近寄った。


 この夜光虫の光をかき集めることで、また君に逢えるのなら。


 だが、彼女の願いとは裏腹に、雅峰の指が触れた先から、淡い輝きは霧散していった。


 ふっ、と脆い笑みが漏れる。


 そうだよな。現実とは、こういうものだ。


 がくり、と膝を着いた雅峰の体の正面。花束の添えられた、真新しい墓石に刻まれた文字を目でなぞる。


 そうしているうちに、とうとう、こらえきれなくなった嗚咽が雅峰の喉から漏れる。


 どうにもならないものに、咽び泣きつつ、誰に向けるでもなく言葉を紡ぐ。


「もしも、と思い続けること、忘れてしまうことが、そんなにも正しいのか…?理乃、引きずることは、悪なのかい…?」


 雅峰は、あてのない後悔と苦しみのこもった言葉を虚空に放った。それが何かしらの慰めになると、期待したわけではない。


 すると、そんな雅峰の耳に、先ほどまで聞こえていた声と非常に似た響きが届いた。


「翠、さん」


 顔を上げずとも、誰だか分かった。


 彼女は、俯いたままの雅峰から、天に舞い上がっていく夜光虫の光へと視線を移して、呟いた。


「お姉ちゃん、翠さんのところに来ていたんですね…」


 ようやく、雅峰は顔を彼女へと向ける。


「…(こう)、覗きは感心しないね…」


 そこには、尾羽根理乃の妹――尾羽根紅(おばねこう)が、真剣すぎて、触れるものを切り裂いてしまいそうな目つきで立っていた。

 



(5)



「そんなことで、翠さんに怒られたくありません。恋人に黙って出かけた挙句、元カノと浮気ですか」


 姉そっくりで、気の強そうな、責任感がありそうな吊り目。明らかに違うのは、身長がやや低いことと、目元に黒子があることぐらいか。


「お彼岸に、故人とデート。それくらいは許してほしいものだがね…」


「ええ、許すつもりでしたよ。翠さんが、あんなふうに、泣いてお姉ちゃんに縋ったりしなければ、ですけど」


「…まさか、見えていたのかい?」

「ほら、やっぱりそうなんですね」


 カマをかけられたと気が付いて、雅峰は眉をしかめた。


 こういう可愛げのないところは、つくづく姉に似ていない、と心のなかで悪態を吐いてしまう。


 物言いたげな雅峰の態度にも怯まず、紅は雅峰の見せた弱々しい一面をなじるように言葉を重ねる。


「情けないですよね、翠さんのそういうところ。言葉では格好つけるのに、お姉ちゃんのことが絡むとそうですもん」


「しょうがないだろう。人は孤独には勝てない」


「孤独?」と相手の正気を疑うように、眉を曲げた。「私が、いるのに…」


 不満と悲しみをかき混ぜたような感情が、紅の瞳に浮かぶ。それを目撃した雅峰は、完全に紅に(つまりは、今の恋人に)当たっていることを自覚し、謝罪の言葉を口にした。


「すまなかった、紅。私が悪い、君に落ち度はないよ」

「当たり前じゃないですか」


 雅峰の謝罪は、かえって相手を刺激したらしく、紅はさらに目元を吊り上げた。


「だいたい、死んだ人には、もう会えないんですよ」


 その言葉は、雅峰の体をドン、と奈落に突き落とすには十分すぎる言葉だった。


 苦虫を噛み潰すように、顔をしかめながら、紅の発言を受け入れているフリをする。


「そんなこと、言われずとも分かっている」


「分かっていないから、私を放っておいて、死んだ姉とデートなんか出来るんでしょう」


「死んだ、死んだって…。紅、君の姉なんだろう?つらくはないのかい」


「つらいに決まってます。仲は良かったですから」

「だったら――」


「でも、翠さんが私じゃない女性を見ていることのほうが、つらいんです」


 そう言い切った紅の瞳は、ハツラツとした口調とは裏腹に、じっとりと濡れていた。


 今の発言を誤魔化すように、紅が乱暴に雅峰の片手を取った。理乃のものに比べ、温かかった。


 悲しみだとか、苛立ちだとか、そんなチープな言葉では、腐り果ててしまうほどに複雑な瞳の色だ。


「貴方が、姉の面影を私に求めているのは別に構いません。私だって、大事な人を失って弱っている、翠さんの心の隙につけ込んだんですから」


「紅…」と雅峰は自分よりも背の高い、年下の彼女の肩に手を伸ばした。しかし、その手はすぐにはたき落とされて、行き場を失う。


 私は、一体何をやっているのだろう。


 割り切れない想いが、自分だけでなく彼女までも傷付けてしまっている。


 心をすり潰す後悔、その劇毒がもたらす苦さは、『銀猫』のブレンドコーヒーなど比べ物にならなかった。


 誰かを一心に思い続ける傍らで、孤独に打ち負かされ、人の温もりを求めてしまった結果がこれだ。


 理乃によく似ていた、紅の気持ちを利用した。

 彼女が私を慕っていることは、ずっと前から知っていたから。


 紅のことを真に思うのであれば、互いに強く握り合っているこの手を、今直ぐにでも離すべきなのだろう。


 でも、それが私には出来なかった。


 離れれば、私と理乃を繋いでいるものが消えてしまいそうで。

 私の孤独に寄り添う者が、二度と現れないような気がして。


 気丈な表情のままで、こちらを見据える彼女を見ているうちに、今度こそ、心の底からの謝意が湧き上がる。


「紅、すまない。私は――私は、まだ、理乃が好きなんだ。失ったことを、受け止めきれないんだ」


「知ってます…っ」


「でも、君にもそばにいてほしいんだ…。どうか、身勝手で、情けのない私を、許さないでくれ。許されれば、私は、自分の醜さも、理乃への気持ちも忘れてしまいそうだから…」


「言われなくても、許しませんから…!」


「…あぁ、すまない。ありがとう、紅」


 この行き場のない未練と、後悔を抱えたまま、

 私は、違う愛を見つけられるのだろうか。


 こんなにも、胸を蝕む理乃への想いがまだ残っているのに?


 いつか、理乃に注いだこの愛の行く先を、紅へと向けることが出来る日が来るのだろうか。


 …だが、もしもそうなったら、理乃を愛していた私はどこへ行くのだろう。


 そうして、一人の古い私が死ぬのか。

 理乃を愛した私が。


 それは果たして、本当に私なのだろうか…。


 差し迫った闇は、やがて夜光虫の光すらも飲み込んで、黒く、天を覆い尽くしていた。


 雅峰は、その腕で抱きしめることも出来ない愛を胸に、そっと目の前の、愛した人の残像に手を伸ばし、壊れ物を扱うかのごとく触れるのだった。


いかがでしたでしょうか?


ついつい私は、シリアスな話に持っていきがちですが、

みなさんは、シリアスよりもライトなほうがお好みでしょうか?


なにはともあれ、いつもお付き合いくださり、

本当にありがとうございます!


読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、


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