第12話.結局、できるヤツは球も棒もイカしてる。(それに比べてぼくってヤツは……)
結局、ぼくは夏季合宿中、素振りから解放されることはなかった。
一度面を付けたあとでやり直す素振りは、なんとなく惨めなものがあった。絶叫にも似た発声が飛び交う中、ひとりだけ体育館の隅っこで「えいっ、えいっ」とか叫んでるこのあぶれ者感と言ったらなかった。後ろめたかったし、できれば注目してくれるなと感じていた。稽古が終わるたびに真っ先に先輩方にスポーツドリンクを汲みに行き、休憩時間に誰よりも早く気を利かせることでこの罪悪感から解放されたくて仕方なかった。
けれども同時にホッともしていた。厳しい稽古に参加しなくて良いというみみっちい喜びと、何より同級生の足を引っ張っていないという安心感。どちらかというと後者のほうが大きい。
経験者やそれに匹敵する運動神経の持ち主だけが、それでも汗をかいてひいひい言っている中を、そのどちらでもない人間が後を追いかけるというのはとても辛いことだ。
ほんとうのことを言うなら、自分自身負けん気を発揮して誰よりも努力しろ、というのがセオリーなのだろう。少なくともぼくが今まで好き勝手に読み散らかしてきたスポーツ系漫画は、この落ちぶれから立ち直るために猛特訓を繰り返し、レギュラーに返り咲くというのが鉄板と言って良かった。
ところがそれはフィクションの話であり、ぼくのいる部活動はそこまでれっきとしたフィクションではなかった。
よく漫画の背表紙に書いてある有名文句がある。「この物語はフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。」初めて目の当たりにした時はなんでこんなくだらないことを、いちいち書かないといけないのかと子供心にあきれていた。
しかしこれは書いてしかるべきことだった。現実に頑張っている人間は決して漫画の主人公みたいにタフでもなければやる気に満ちあふれているわけでもないし、ましてや一回落ちてしまった人間が返り咲くポジションなんてものがあるわけでもない。これはいわゆる椅子取りゲームであり、ぼくらは一回こぼれた途端にゲームオーバー、あとは成功者の背中を見送りながら、雑務でお茶を濁すのがせいぜいといったところなのだ。
そして二日、三日、四日、と経ち。
五日目。今日頑張れば明日の朝の稽古で家に帰って良いとなる、そんな一日が始まる。
朝。みんな死んだ魚の目をして布団から目覚め、歯磨きをしたり、テーピングを巻いたりと寝起きを過ごす。七時になればご飯。先輩後輩問わずのそのそと動き出し、学年ごとに家庭科室のテーブルに就く。
静座。背筋を正して「いただきます」。もうこれを何度繰り返したことだろう。目玉焼きとウィンナー定食という、オーソドックスな朝ご飯を食べ、目玉焼きには醤油か塩かで多少揉める食卓を過ごす。
七時半には食べ終わり、皿を片付け消化がこなれるまで一休み。もうこの辺りまで来ると一年生も目新しさがなくなり、他の先輩方と同様、稽古のための体力温存を目論むようになる。布団に寝転がるもの、ケータイをいじるもの(とは言ってもパケット代があるからそんなに遊べるわけじゃなかった)、虚無の表情を浮かべてただ時間の経過を待つもの。少なくともゲームをしたり、かけっこをするような感じは一切ない。
そして九時。のそのそと道場に歩き出し、道着と袴を、そして手拭いをそれぞれ手に取って着替えを始める。
いつもの光景、いつもの稽古。
ただぼくだけが、その景色のなかにいまだ溶け込めていないような、ふわっとした感じがあった。
竹刀を握る。体育館へ移動する。いつもよりも広いスペースを、前から順に学年ごとに並んで準備体操はまだかまだかと待機する。
どうせ今日も素振りだろう。そんなつもりでどこか安心している自分がいる。ほんとはそれで良くないことは自分が一番よく知っている。しかし、先生や同級生に怒鳴られたりする、そんなことは正直嫌だった。
準備体操。素振り。そして着装。
並んで、黙想。そして夏野先生の手が鳴る。
「星野は、素振り」
また、言われた。ぼくのこの夏は、四六時中素振り合宿だった。そんなふうに終わるのだろうか。
「はい」
夏野先生は、ぼくを見向きもしない。
ぼくも、夏野先生を見ない。
見たくない。見られてもない。
ぼくはどこにいるんだろう。
鎧を着ることすら許されず、暑い体育館の中を、ただひとり素顔をさらしたまま、稽古を眺める。あとはひたすら竹刀を振る。それだけの日中が、また過ぎた。
休憩時間。夏野先生が師範室に下がって、ぼくら中一がスポーツドリンクをジャーから汲んで配る最中、ふと、ぼくを呼ぶ声があった。「おい呼ばれてっぞ」と中嶋がやや棘のある声でぼくを小突いた。ぼくはちょっとイラっとしたまなざしで中嶋を見るが、すぐに呼ばれた方へ返事した。
呼んだのは、飛田先輩だった。
「星野よお」
「はい。おかわりですか」
「ちげえよ。おまえさ、このままで良いと思ってんの?」
「……」
ぼくはあらためて飛田先輩を見た。当たり前だけど、ふざけてない。真剣な目。怒ってすらいる。
こういう時、とても残念なことに選択肢はひとつしかない。ぼく自身がほんとにどう思ってるのかどうかはさておき、だ。
「よくない、です」
「だよな」
「はい」
「だったら先生にちゃんと言ったほうがいいぞ。このまま素振りで終わるなんて、情けないことないだろうがよ」
「はい」
「……」
「……」
飛田先輩の手が、ぼくの胸ぐらを掴んだ。
「ばかやろう。なんでおまえ言われっぱなしなんだよ。悔しくねーのかよ」
「……」
「初心者はそりゃ強くねーさ。おれだって北島に勝てたこと一回もありゃしねえよ。でもな、諦めたらそこで終わりなんだよ。何にもしないで『はい、はい』言ってるだけの部活動のどこが楽しいんだよ、なあ」
「…………」
「よそ見るな、こっち向け」
「……はい」
気まずい。そして辛い。
そんなこと、言われなくたって、ぼくが一番よく知っている。
「行動しないと何も変わんねえぞ」
「はい」
飛田先輩はそう言ってぼくを解放した。ぼくはそれでも、どうやったら、何をすれば良いのか、何も、まるで、わかってなかった。
何よりもいま受けたショックの方が大きくて、それからまだ立ち直ってないかのようにずるずると背を丸めて歩いていると、今度は佐伯先輩がやってきた。飛田先輩の声が聞こえていたのか、すぐフォローに来てくれた。
「師範室、行こう」
「えっ?」
「えっ、じゃないよ。敬語使おう。じゃなくて、先生にきちんと言うんなら、いま、師範室に行こう」
「えっ、あの、いや」
「とにかく行くの」
こうしてぼくは引き摺られるようにして、師範室の前まで連れてこられた。
いま思い返してみると、たった一枚のドアひとつ、ノックして開けるだけにどれだけのプレッシャーを感じていたのかと笑いたくもなるだろう。しかし中学生にとって、先生とは強い存在であり、怖い存在でもあった。もちろん怖くない先生も、舐めてかかる先生もたくさんいた。ただ、ぼくらにとって夏野先生はおふざけの余地が一切ないぐらい厳しくて、容赦がなくて、そして何よりぼくみたいな実力も根性もない人間が嫌いなのだと思い込んでいた。
嫌われてるのでは、という感覚は、ひょっとするとぼく自身が嫌っていることの裏返しかもわからない。たぶんどっちも正しくて、どっちも間違っている。ぼくは夏野先生のことはあまり好きではなかったが、それはほかの同級生や先輩方とも大差ない程度だった。
ただ夏野先生は、部活動で、公式戦で結果を出すためには厳しくもするし、容赦なく振る舞っていた。そこに気持ちが追いつかない人間のことを、無理にどうしろこうしろと言わないだけだった。辞める人間の背中を無理に引き留めはしない。「やり切った経験は重要だぞ」と言うだけだ。その言葉を浴びてなお退部届を出して去った人も少なくない。
ぼくは、そんなドラマがせめぎ合う舞台に、無理やり上がることになった。
心拍数が上がる。手をあげようとして、ちょっと俯く。手を下げるけれども、もう一回あげた。佐伯先輩は近くで見守っているだけで、別になにもアシストしてくれない。そういうものなのだろうか。
でも、ぼくはここで退がるという選択を取らなかった。べつに「辞めたい」と思ってもなかったし、逃げようともしなかった。
ついに、手がこぶしを作って、裏拳でノックする。恐る恐るドアを開けて、「失礼します」と声を出す。「おう」という低い声が、意外そうな、間延びした調子で聞こえた。
「なんの用だ?」
開口一番、夏野先生は興味なさげに訊ねる。ぼくは、唾を飲み込んだ。ついでにたくさん空気も飲み込んでしまった。
部屋の中を支配する重い雰囲気が、肺からどっぷりとぼくのはらわたにのしかかる。緊張で足がすくむし、先生の前に立つだけで溺れそうになるほどだ。ぼくは忍び足にも似た歩調で、師範室奥のソファでタバコを吸おうとしていた夏野先生へと近づいた。
「あの……」
夏野先生はライターを付けた。
「防具付けたいです」
「は?」
「素振りではなく、防具を付けた稽古がしたいです」
「すまん。もう少し大きな声で話してくれ」
テレビの音を下げる。ぼくは、震える声を精いっぱい抑えながら、もう一回言った。
「防具付けた稽古が、したいです」
ハッキリ言ったつもりなのに、声が弱かった。その最初から最後まで聞き届けた夏野先生は、一回タバコを吹かしたあと、灰皿にそれを置いた。
「だめだ」
即答。ためらいもなにも。一切なく。
「…………」
「星野な、ものごとには基本ってのがあるんだ」
「はい」
「基本ができてないときに稽古をしたところでなーんも身に付かない。おれは星野のやってることは無駄じゃないと思ってやらせてるつもりだ。でも、それを〝チャンス〟と捉えてやるか、〝稽古やらせてもらえなかった〟と思ってやるのとでは、意味が違うんだ」
「はい」
「それに、だ」
夏野先生は立ち上がった。背丈はぼくと並んでる。大人の中ではそんなに大きい方ではない。にもかかわらず、ぼくにとっては先生は大きくて、怖かった。
「いまの星野の言葉が、ほんとうに星野のやりたいことなのか、もう一回自分に聞いてみるんだな」
「…………」
「少なくとも、『なにくそっ!』『おれはもっとやれるぞ!』ってほんとうに思ってるんだったら、もっと頑張って欲しいところだけど、いまの感じじゃそんなふうには聞こえなかったな」
……おっしゃる通りです。
「でも、わかった。合宿終わったら、また面付けて、頑張りなさい。それまでは、ちゃんと素振りから見直しなさい。いいね?」
「はい。ありがとうございます」
ぼくは言いくるめられた気がしたが、それでも終わってみれば、それまで胸でつかえていたものが取れたような清々しさもあった。
「どうだった?」と佐伯先輩が心配そうに声をかけてくれた。
「だめでした。少なくとも合宿中は素振りで終わりそうです」
「そっか。まあでも、ちゃんと言いたいこと言えたんだったら、よかった」
飛田先輩からの言及は、それ以降まるでなかった。いちおう報告はしたが、「そっか」とあの怒りようはどこにいったんだというぐらい淡白な返事だけだった。
そのまま午後の稽古が終わった。地稽古、掛かり稽古とボコボコにされた先輩方を、労うようにサポートする作業も、今日で大方終わりを迎える。晩ご飯も終え、さてこれから汗を流そうかと言ったところで、とつじょ高等部の先輩が駆け込んできた。中学生にも声を掛ける。
「夜のプールの鍵、もらってきた!」
「まじっすか!」
「すげえ!」
中等部の先輩たちがざわつく。タマキタのプールは屋内プールだ。その施設の鍵をもらってきて、剣道部一同は今夜だけ、水泳部になった。
え? 海水パンツはあるのかって?
あるわけがない。だから、そうだね。穿いてる人と穿いてなかった人がいる、というだけにこれは留めておこうか。
そうして合宿最後の泊まりの日は賑やかに終わった。そして、翌朝またご飯食べて、稽古と素振りをして、ぼくたちはようやく家に帰った。それだけといえばそれだけ。でも、この夏の長い合宿を終えて、ぼくはまだ剣道部を続ける理由ができたのだった。