006 コメディ補正が恨めしい
マリエッタは激怒した。必ず、かの邪智暴虐のディアーヌを除かなければならぬと決意した。マリエッタには悪役令嬢がわからぬ。マリエッタは、コメディ界隈のヒロインだからである。故に大抵のことは笑って誤魔化すスキルも身につけてきた。けれども食事を無駄にされる事に対しては、人一倍に敏感であった。
「ぶっ殺す」
マリエッタは食堂の床に綺麗にうつ伏せになりながら床に向かって小さく呟く。
前方には無残に散らばったトマトパスタとサラダの残骸。今日のお昼、マリエッタのお腹に収納される予定だったものだ。
「マリー落ち着け。可愛い君がそんな事を口にしてはいけないよ?」
グレアムが無残に床ペロリンしたマリエッタの体を起こしながら、なだめるようにわざとらしく優しい声をかける。
「だってグレアム、この食事でどれだけのちび達が笑顔になると思うの!!」
「確かにそうだな、殺るか」
立ち上がったマリエッタの横に並ぶグレアムの体から黒いモヤが漏れ出す。
(あっ、魔界の王子が漏れ出してる)
マリエッタは慌ててグレアムの両手をガシリと掴む。
「駄目。グレアムやっぱ殺るのは駄目。落ち着こう。ね?」
「チッ」
グレアムは舌打ちと共に漏れ出た魔力をサッと消した。
(危なかった。ついうっかりノリでディアーヌ様を殺しかねなかった)
マリエッタは深呼吸を数回し、何とか心に抱いた怒りを外に逃した。
「あらあら、あなた大丈夫?今すぐ片付けますからね」
騒ぎを聞きつけた食堂のおばさんが清掃道具を持ってマリエッタの前に現れてくれた。そして床に散らばるトマトパスタなどを拭き取り始める。
「あ、私もやります」
「いいのよ、お昼の時間がなくなっちゃうわよ」
「でもこぼしたのは私ですから」
マリエッタは食堂のおばさんから紙を受け取る。
(でもこうなるよう仕向けたのはディアーヌ様だけどね!!)
新たに怒りが込み上げてきたマリエッタは鼻息荒く、床に散らばったパスタを紙で包んだ。
というのも、毎日の日課。グレアムと仲良く並んで少し早めに食堂を訪れたマリエッタ。無事にトマトパスタを配膳台で受け取り、庶民仲間のために席取りをしようと浮かれた気分で歩いていた。
すると前方から自らを悪役令嬢だと名乗るディアーヌが取り巻きと共に歩いてきたのである。
(うわ、目を合わせたら負け)
極力関わり合いになりたくないマリエッタは慌てて俯いた。
(おっ、今日はこのままスルーできるかも。ラッキー)
マリエッタが無事ディアーヌとすれ違う事に成功した……かも?と思った瞬間、ディアーヌが小声で魔法を唱えたのがわかった。
そしてマリエッタがまずいと思った時には両足に魔法の縄が巻きついた状況。前に出そうと思っていた足を出せず、その結果マリエッタは無惨にも床ペロリン状態になってしまったのである。
(くっ、一生トマトパスタが食べられない恐怖の呪いをかけてやる……そのうちね!!)
マリエッタは悔しい気持ち、それから何よりも貴重な食事を無駄にしてしまった事に腹をたてながら、ばらまいた食事を紙で包んでいく。
「あ、ミシェル。悪いけど俺の飯、お前たちの席に持って行ってくれるか?」
「オッケー。マリー大丈夫か?」
マリエッタの起こした惨事を遠巻きに見ていた庶民仲間のミシェルが声をかけてきた。
その手にはグレアムが頼んだ今日のランチ。成長期男子に人気のメニュー、太やかトンカツの乗ったトレイを手にしている。
「うん、ミシェル。ごめんね」
「いいって。グレアムの食事置いたら、もう一度並んでパスタをもらっておく。トマトでいいんだよね?」
「うん。トマトがいい。ありがとね、ミシェル」
「気にするな」
ミシェルはマリエッタを励ますように笑みを浮かべると人混みの中に消えた。
「ほらマリエッタ。紙かせよ」
「うん、ありがとうグレアム」
マリエッタは食堂のおばさん、それからグレアムと共に納得いかない気持ちで床を綺麗に掃除した。最後にマリエッタは床に浄化魔法をかける為に杖を召喚する。
「ヴォルヴァーナ」
シュッと音を立て焦げ茶色の杖がその手に召喚された。
「イーダムウダカ」
マリエッタは床を撫でるように杖を数回振る。すると木の床にベットリ染み付いていたトマトソースが忽然とその場から消えた。
(トマトソースが消えた。つまり最初から浄化魔法をかければよかったのでは?)
ふとそう気付いたマリエッタ。
「それは気付いても、口にしてはいけない。何故なら設定だからだ」
最強ヒーロー。魔界の王子グレアムがマリエッタにそう指摘した。
(そうか、設定ならば仕方がない)
何故かそうすんなり思えるのはやはりここが天然なすの世界だからか。
そして最近ふとこの世界のアレやコレに疑問を感じる事が多いのは、ヒロイン仲間であるメアリーヌが口にした通り、本編終了によりリミッターが解除され、あれやこれやの制約が緩和されたせいなのだろうとマリエッタは推測している。
「ふぅ、これで元通りね」
食堂のおばさんが腰を叩きながら床から立ち上がった。
「ありがとうございます」
「いいのよ。誰だって転んじゃう事はあるんだから」
「はははは」
マリエッタは引き攣った笑いを返す。
「それに浄化魔法をありがとね。助かったよ」
「こちらこそ、助かりました」
「じゃ、頑張ってね」
「はい。ありがとうございました」
マリエッタは感謝の気持ちを込め、食堂のおばさんに頭を下げた。
「マリーがコケたのってディアーヌ様の魔法だろ?」
「うん」
「やっぱ仕返ししようぜ?」
グレアムが不機嫌な声でそう口にした。
(私だってやられっぱなしはムカつくけど)
「だったらひと思いに、殺っちまおうぜ?」
「駄目だよ。今はまだその時じゃないってシンデレラ様も言っていたし」
先程はカッとなり「ぶっ殺す」などと激情していたマリエッタ。
その事をすっかり記憶の片隅に押しやり、マリエッタは先日参加した会議の事を思い出す。
(あの時シンデレラ様は悪役令嬢がヒロインにしている数々の嫌がらせの裏を取っていると言っていた)
だから今は勝手に動くなと、ヒロイン達は指示されているのである。
「でも俺、マリーにこれ以上害を成したら流石に許せないぜ?」
「グレアム……」
マリエッタはまるで自分の事のように怒りを込め、許さないと口にするグレアムに尊い愛を感じた。そしてその気持が爆発し、ここが食堂の真ん中である事をすっかり忘れ、小麦畑の真ん中に立っていると錯覚する。
そして潤んだ瞳でグレアムの顔を見上げる。
相変わらず冴えない眼鏡姿だけれど、マリエッタには誰よりも美しい魔界の王子に映る――気がする。
「マリー、やばいって。そんな顔すんなよ」
口ではそう言いながら、グレアムが少しデレた様子でマリエッタの頬にかかるストロベリーブロンドの髪に手を伸ばす。
マリエッタの心臓はドキリと大きな音を立てた。
「あのさ、お前には色々バレちゃったけど。でも俺やっぱ、お前の事す――」
ピピピー、ピピピー。
「緊急魔人速報、これは訓練です。繰り返します。緊急魔人速報、これは訓練です」
食堂に響き渡る無機質な声。遠ざかるグレアムの愛の言葉と手のひら。
「あー、今日は訓練の日か。というか、魔人に襲来されて机の下に隠れるとか自らの命をタダで餌として差し出しているようなもんだけどな」
「確かに」
「ま、いっか。そういう設定だし。マリー、ほら早く机の下に潜るぞ」
「う、うん」
グレアムがマリエッタの手を取って近くのテーブルの下に誘導する。
(ぐぬぬ。これは確実にコメディ補正)
こういう時は空気読んでとマリエッタは自分を取り巻く世界を恨んだのであった。