夜が来た
夜が来た。
夜だよ、夜。
(夜~~~~~~~~!)
わたしは屋敷の隅っこに蹲り、一人声にならない叫びを上げていた。
昨夜のわたしは気を失ったまま、いつの間にか旦那様に抱かれて眠っていた。だから、一緒に寝台に入る時のドキドキとか、恥じらいとか躊躇いとか、そういうのを経なかったわけだけど、今夜は違う。バッチリ目は覚めていて、意識なんかもハッキリしている。
(どうしよう……どうしたら良いんだろう…………)
日中散策したところ、この屋敷には旦那様の寝室とは別に部屋がいくつかあるんだけど、そこには寝台も机も、何も入っていなかった。もしかしたら旦那様はこれから、あの部屋のどれかを改修するつもりなのかもしれないけど、取り敢えず今夜のわたしの身の置き所が気になってしまう。
(ソファで寝る……って十歳児が提案するのは変よね)
そんなの、『旦那様を男性として意識してます!』って宣言するようなものだ。そりゃぁわたしは旦那様のことが大好きだけど、マセガキ認定されて、変に距離を取られたくはない。
それに、そんな提案しちゃったら、心優しい旦那様の方がソファで寝ようとするのは必至。そんなの絶対嫌だ。
(やっぱり、何にも気にしていない風を装って無邪気に一緒に寝るってのが正解なのかなぁ)
こういう時、前世の記憶があるって結構面倒だ。記憶がなかったら綺麗で優しい竜人様に甘えて、ギュッて抱き付いて、スリスリして……って十歳じゃもうそんなことはしないか。記憶が戻るまでのわたしって、案外自立してたもんね。
それに、記憶があったからこそ旦那様のことを『旦那様』って認識できるんだし。
まぁ、記憶が戻らなくたって旦那様のことを好きになったのは間違いないけど!
「アイリス」
「ひゃぁっ!」
唐突に後から呼びかけられて、わたしは素っ頓狂な声を上げた。
「だっ、旦那様……」
口にしながら、わたしの頬は真っ赤に染まっていた。どうしよう。もしもわたしが何考えてたか旦那様に悟られたら、きっと恥ずかしくて死んでしまう。
「おまえの部屋を準備したんだ。付いておいで」
「へ?」
旦那様は柔和な笑みを浮かべながら、わたしの手を握った。あぁ、心臓が痛い。
(ん? っていうか)
「わたしの部屋、ですか?」
「そうだよ」
神々しいまでの旦那様の微笑みに眩暈を覚えながら、わたしは旦那様の手を握り返した。
連れてこられたのは、旦那様の部屋のすぐ隣にある、日当たりの良い広い部屋だった。
「うわぁ……っ!」
開けてみたら、部屋の中は昼間見た時とは全然変わっていた。
天蓋付きの大きなベッドに、十歳のチビには立派過ぎる文机、チェストに加えて絵画なんかが飾られている。よく見たら壁紙すらも薄紅の可愛らしい色合いに代わっていて、わたしは目を見張った。
「急いで準備したし、アイリスの好みに合っているか分からないけど」
申し訳なさそうな旦那様の声に、わたしはブンブンと首を横に振った。
「ありがとうございます、旦那様! こんなに素敵なお部屋を準備してくれて、本当に、本当に嬉しいです!」
旦那様は嬉しそうに微笑むと、わたしの頭を優しく撫でた。
それにしても、一体いつの間にこんなに準備したんだろう。
今日の旦那様は、わたしの両親のためにお墓を準備して、わたしの家から服や小物を取ってきて、わたしのために新しいお洋服を準備して、お部屋の準備をして……って聞くだけでへとへとになりそうなことを全部実現してくれた。
全部全部、わたしのために。そう思うと涙が出てきた。
「おやすみ、アイリス」
旦那様はわたしを優しく抱きしめてから、そっと部屋を後にした。ミントみたいな爽やかな残り香がふわって漂って、心まで洗われるみたいで。
(本当、邪なことばかり考えて申し訳ございません!)
旦那様の去っていった方角を拝みながら、わたしはため息を吐く。
正直、旦那様は今のわたしを『女性』と認識しているとは思えないし、そういう気が無いのは分かってたんだけど。でもねぇ、大好きな旦那様が側で寝ていて、平常心でいられる自信は無い。
好きって言いたくなるし、大好きって言いたくなるし、ギュッて抱き締めたくなっちゃうし、ドキドキして眠れなくなっちゃうかもって。
(良かった。わたしの部屋を用意してもらえて)
旦那様の優しさが、物凄く身に染みた。本当に、わたしには勿体ないほど素敵な旦那様。
そんなことを考えながら、わたしはベッドに横たわる。すると、疲れが溜まっていたせいか、すんなりと睡魔が降りてきた。
***
(……ん?)
その夜、わたしは誰かの視線を感じて目を覚ました。いや、正確には目は開けないまま、感覚だけ起きたというべきか。
(もしかして、旦那様?)
感じる眼差しが優しくて、眠ったふりをしながら、わたしはそっと微笑む。
すると、大きな手のひらが、わたしの頭を優しく撫でた。心臓がキュンキュン音を立ててときめいて、頬も紅く染まってしまう。暗いからよく見えないのが幸いだった。
「…………可愛い」
(え?)
それは紛れもなく、旦那様の声だった。めちゃくちゃ小さかったけど、聞き逃しはしない。
(可愛いって言ってくれた! 旦那様が、わたしのこと、可愛いって!)
眠ったふりをしつつ、わたしの心の中は、興奮でとんでもないことになっていた。本当は今すぐ手足をバタバタさせて、高まった熱気を逃してしまいたい。身悶えるってこういうことを言うんだって身を以て知った。
「可愛い、俺のアイリス」
すると、一分も経たない内に、二回目の大きな爆撃がわたしを襲った。
(俺の……俺のアイリスって!)
リアルに心臓が爆発するかと思った。正直、爆発しても本望ってぐらいの状況だし、あまりにも衝撃的で色々とヤバイ。
(ねぇ、良いんじゃない? 今すぐ結婚しちゃって! ダメ? ダメかなぁ⁉ )
もしも旦那様が求婚してくれたら即イエスって答えるのにな、と思う。いや、十五歳になるまで結婚できないルールって知ってるんだけど!
(旦那様、わたしは旦那様のものですよ)
本当は今すぐ旦那様を抱き締めて、そう伝えたい。だけど、旦那様はわたしが眠っていると思っているし、だからこそ本心を聞かせてくれてるのかなぁって思うから、必死で寝たふりをする。
「良い夢を」
旦那様は小声でそう囁くと、わたしの額に触れるだけのキスをした。
(どうしよう……本当に幸せ過ぎる)
夢よりも現実の方がよっぽど甘い。これ、わたしの願望が見せる夢じゃないよね?って聞きたくなるぐらい、本当に幸せだった。
「旦那様も……良い夢を見られますように」
自分の部屋に戻っていく旦那様を見送りながら、わたしはそっと笑ったのだった。
本日、新作短編『婚約者は昨日別れたばかりの元カレでした』を投稿しています。よろしければ、そちらの方も読んでみてください~。