きずな君の記憶⑥【生まれ変わっても】
無機質な部屋の中、俺は呆然と立ち尽くしていた。部屋の真ん中に鎮座するベッドに、誰かが眠っている。顔の上には白い布が被せられていた。
「奥様は即死でした」
俺の後で誰かがそんなことを言う。心臓が止まってしまったかのように、身体が重く、動かない。促されてゆっくりと部屋の中に進む。
(奥様は即死でした……?)
電話でも、同じことを言われた。俺の妻が――――逢璃が事故に遭って亡くなったのだと。
だけど、そんなの何かの間違いだ。だって、俺達はほんの数時間前、入籍をしたばかりだった。きっと俺を誰かと間違えているんだろう。亡くなったのが逢璃であるわけがない。絶対、違うに決まっている。
俺はスマホを取り出し、逢璃の番号に電話を掛けた。――――繋がらない。電源が入っていないらしい。部屋の隅に、逢璃が持っているスマートフォンとよく似たものが見える。事故の影響で壊れてしまったのだろうか。画面が大きくひび割れていた。
(違う……逢璃じゃない)
今朝は、珍しく逢璃の方が仕事で先に出なければならなくて。いつも逢璃に見送られる側の俺が、「行ってきます」とそう言われた。
(違う……違う…………)
逢璃である筈がない。俺は心の中で何度も何度もそう呟きながら、遺体に掛けられた白い布を手に取る。逢璃じゃなかったと、そう口にできることを夢見て。
「あ…………あぁ………………!」
けれど、次の瞬間、俺はその場に崩れ落ちた。
部屋の真ん中で眠っていたのは間違いなく逢璃だった。誰よりも可愛くて、誰よりも美しい、俺の最愛の人――――決して見間違えるはずがない。
逢璃は俺の腕の中で眠る時みたいに、安らかな顔をしていた。けれど、俺を見て薔薇色に染まる頬が、今は生気を失って青白い。「きずな君」と俺の名を呼ぶ唇が、石みたいに冷たかった。
「逢璃? ――――逢璃?」
名前を呼ぶのがやっとだった。呼べば逢璃は起きてくれると――――俺の名前を呼んでくれると思っていた。いつもみたいに「きずな君」と。そう言って笑ってくれると信じていた。
けれど、何度呼んでも、どれだけ抱き締めても、逢璃が俺に応えることは無い。
「逢璃!」
俺、ようやく逢璃の旦那様になったんだよ? これから逢璃を幸せにするって。誰よりも幸せにするって誓ったのに、何一つ果たせていない!
涙で前が見えなかった。小さな部屋に俺の慟哭が響き渡る。涙と一緒に瞳も、身体も、全部崩れ落ちて無くなってしまえば良い。喉から身体が裂けてしまえば良いと、心から思った。
気が付いたら、俺は逢璃の隣で眠っていた。
悪い夢でも見ていたのだろうか――――一瞬そんなことを思ったが、逢璃の身体は変わらず冷たいままだ。どうやら我を失った俺を、親族の誰かが逢璃と一緒に葬儀場まで運んでくれたらしい。
「逢璃……」
涙が止め処なく流れ落ちる。逢璃は俺の手を握り返してはくれない。左手の薬指には、俺が贈った指輪が光る。
(俺が先に告白をしていれば……)
逢璃はもっと幸せだっただろうか。今よりたくさん笑ってくれていただろうか。
(俺が臆病じゃなかったら)
逢璃を片時も不安にさせずに済んだのかもしれない。あんな風に泣かせずに済んだのかも。
(もしも俺が先にプロポーズしていたら――――)
何かが変わっていたのだろうか。
少なくとも、逢璃をこんな風に一人で死なせずに済んだのかもしれない。そう思うと、悔やんでも悔やみきれなかった。
(俺は、逢璃をちっとも幸せにできなかった)
伝えるべきことがもっと、もっと、たくさんあった筈なのに。可愛いも、好きも、愛してるも、全部全部、逢璃のためだけに存在する言葉だった。それなのに、俺は己の想いの一欠けらさえも、逢璃に伝えられていない。
「逢璃……」
何回呼びかけても、逢璃は俺の名前を呼んでくれなかった。「きずな君」とも「旦那様」とも、呼び掛けてはくれない。
逢璃がこの世にいなくなった瞬間、俺には何の価値もなくなってしまった。この世に存在する意味も、存在し続けようという意思も何もかも皆無だ。目の前が真っ暗だった。俺にとって逢璃は、自分の心臓そのものだった。
出棺の日。逢璃の棺には、結婚式で着る筈だった真っ白なドレスが一緒に納められる。
「逢璃……綺麗だ…………」
棺の中で笑う逢璃はこの世の中の誰よりも、何よりも綺麗だった。本当に愛おしかった。
そこから先はもう、殆ど何も覚えていない。誰の目にも明らかな程、俺は空っぽだった。
夜風に吹かれながら、俺は膝を抱えていた。目の前には穏やかで、けれど深い闇が揺れる。感覚という感覚を失った俺の鼻にも、微かに潮の香りが届いた。
「逢璃」
何度呼んでももう、逢璃はこの世にはいない。既に身体は失われ、骨だけになってしまった。骨壺からこっそりと逢璃の骨の一部を持ち出し、俺は自分の懐に隠していた。娘を失ったばかりの逢璃の両親から全てを奪うわけにはいかない。それは、俺に残された最後の理性だった。
『きずな君!』
遠くの方から逢璃の声が聞こえる。何度呼び掛けても返事のなかった逢璃の声が、俺の心に直接響いた。
『きずな君、大好き!』
逢璃がそう言って目を細める。
俺も好きだよ。好きだ。一生――――死んでも、逢璃だけを愛している。
『もしも生まれ変わったら、また一緒になろうね』
俺の中の逢璃がそう言って、笑った。冷たい潮風が頬を優しく撫でる。俺は静かに笑った。
大きな水音が一つ、夜の闇に響いて消える。一瞬だけ、全身をナイフで刺されたような痛みが走って、それはすぐに俺の身体に溶け込んでいった。逢璃が死んでから、呼吸なんてしていないも同然だった。海の闇に溶け込むようにして、ゆっくりと意識が無くなっていく。
(逢璃――――)
生まれ変わったら、俺はまた逢璃を探す。絶対に見つけ出して、俺達はまた夫婦になる。逢璃が嫌と言ったって、絶対に離してなんかやらない。
(絶対、絶対、来世でも一緒になろう)




