変わる朝。お出掛けと、それからドレス
夜が明けて、今日はわたしの誕生日当日。わたしはいつものようにキッチンに立ち、旦那様のためにパンを焼く。
「おはよう、アイリス」
「旦那様……! おはようございます」
背中に感じる大きな温もりに、わたしは心臓をときめかせる。いつもと同じようでいて、全然違うことがある。
旦那様はわたしの顔を上向けて、そっと触れるだけのキスをした。甘くて、あまりにも甘くて、わたしはギュッと目を瞑る。旦那様の背中に抱き縋ると、ミントの香りが胸いっぱいに広がった。
ついこの間まで、手すら握らせてもらえなかったというのに、こんな風に恋人として触れ合えることが嬉しくて堪らない。許されている。寧ろ求められている。そのことが幸せだった。
「ようやく、だ」
「何がですか?」
スリスリと甘えるように囁く旦那様に、わたしは尋ねる。旦那様の綺麗な髪の毛がすぐ側にあって、引寄せられるみたいによしよしと撫でた。前世とは違って、旦那様はわたしよりもずっとずっと年上なのに。そうすることが正解みたいに思った。
「ずっとずっと、アイリスに触れたかった。たくさんキスして、思い切り抱き締めたかった」
やっと叶った――――って熱い吐息と共に吐露する旦那様に、わたしは唇を尖らせる。
「だったら、そうしたら良かったのに。わたしがずっと、旦那様に触れたくて堪らないの、知ってたでしょう?」
今度はわたしが旦那様に甘える番。胸に顔を埋め、スリスリすると、旦那様はクスクス声を上げて笑った。
「箍が外れると思ったんだよ」
耳元でそんなことを囁かれて、わたしは腰が砕けそうになる。旦那様はわたしをそっと抱き支えながら艶やかな笑みを浮かべた。反則だ。
(寧ろ外れてしまえばよかったのに)
そんな風に思いつつ、やっぱり思いとどまってくれて良かったのかもしれない、なんて思う。だって、多分少し前のわたしだったら、やっぱり受け止めきれなかった。心も身体も甘く蕩けて、日常生活なんて儘ならなかった気がする。
チラリ、チラリと顔をあげると、旦那様は嬉しそうに、満足そうに笑う。その顔があまりにも嬉しそうで、わたしも一緒になって笑った。
折よく今日は、学校もお仕事もお休みで。旦那様は「一緒に街に出掛けよう」と誘ってくれた。恋人になって初めてのデートだ。
最初はロイだけに誕生日会の準備を任せるのは申し訳ないと思っていたのだけど、ニコラスやアクセスが約束の時間よりもずっと早く、屋敷に来てくれた。ロイの手伝いをしてくれるらしい。聞けば「旦那様に頼まれてた」って言うものだから驚かされる。
「愛されてるね、アイリスちゃん」
ニコラスがそう言って楽し気に笑う。前までなら返答に悩んだであろう問い掛けも、今は違う。
「はい!」って答えながら、わたしは満面の笑みを浮かべた。
街では二人、手を繋いで歩いた。未だ幼さは残るかもしれないが、今のわたしは少なくとも、幼女じゃない。
(ちゃんと旦那様と恋人同士に見えるかな?)
ソワソワしながら歩いていると、旦那様がわたしの手を力強く握った。優し気な笑みが愛おしい。微笑み返してから、真っ直ぐ前を向いた。
「入籍と式はアイリスが学校を卒業してからにしようか」
喫茶店で飲み物を注文してから、旦那様はそんなことを言った。
「籍……入れられるんですか?」
尋ねながらわたしの胸は踊った。
学校の図書館とかで色々と調べたけれど、人間と異種族が結婚する方法なんて見つからなかった。見つからないからには、不可能なのだろうと。事実婚――――気持ちの上で旦那様と夫婦になれればそれで良いぐらいに思っていたのだけど。
「あるよ。殆ど知られていないし、手間暇かかるから誰もやりたがらないけど」
「そっ……そうなんですね」
心臓がドキドキ鳴り響いている。旦那様がそっとわたしの手を取った。目を細めて笑う旦那様は綺麗で、愛しくて、やばい。指を絡ませながら、旦那様は目を伏せた。
「俺はどうしても、アイリスと夫婦になりたい。俺の戸籍にアイリスの名前を刻みたいと思っている」
旦那様の言葉に、胸がキュンと疼いた。旦那様がわたしを求めてくれている。そう強く実感した。
(昨晩から旦那様、わたしを甘やかしすぎでは?)
これまでだってめちゃくちゃ大事にされていたし、甘やかされていたけど、昨晩からの旦那様は段違いだ。
(めちゃくちゃ、愛されてる)
知らず頬が紅く染まっていく。そんなわたしのことを、旦那様が嬉しそうに見ていた。
「アイリスのウェディングドレス姿が見たい」
旦那様がそう言うから二人、教会と式の下見に行く。休日ということもあって、今日も一組のカップルが結婚式を挙げていた。フリルや刺繍があしらわれた真っ白なウエディングドレスに瞳が釘付けになる。花嫁さんはとても幸せそうな表情で笑っているし、花婿さんがそれを嬉しそうに見つめていた。
(良いなぁ)
わたしがウエディングドレスを着たら、旦那様はあんな風に笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。そう思っていたら、旦那様がわたしの手を強く握った。まるであの花婿さんみたいに幸せそうに笑う旦那様に、心がむず痒くなる。
「ドレス……一緒に選んでくれますか?」
どうせなら旦那様が好きなドレスを身に着けたい。旦那様はニコリと微笑んで「もちろん」って言った。
(あれ?)
その時、妙な違和感がわたしを襲う。
(わたし、きずな君と結婚式――――――挙げた、よね?)
何故だろう。その辺りの記憶がひどく朧げで、思い出そうと頑張っているのに、あまり効果がない。微かに残っているのは、打ち合わせの時に試着をしたドレスの記憶だ。だけどあの時、きずな君は仕事が忙しくて、母と一緒にフィッティングをした。そんな気がする。
「アイリス?」
旦那様がわたしのことを心配そうに見つめる。どうやら相当、変な顔をしていたらしい。ブルブルと首を横に振りながら、わたしは笑った。
「何でもありません」
わたし達は手を繋ぎ、腕を絡ませて歩く。幸せだった。この上なく幸せだった。
だけどそれから数日後。わたしはこの胸騒ぎの理由を、身を以て知ることになった。




