一年で一番大切な日
それからあっという間に数日が経ち、わたしの誕生日前日となった。
旦那様はその日、予告通りに早く帰って来てくれた。お土産にアルコール度数低めのお酒と、おつまみ、それからテーブルに飾る小さな花束を携えて、「日付が変わったら一緒に飲もう」って笑う。感激で胸が熱くなった。
「それでは僕はこれで」
ロイがそう言って恭しく頭を垂れる。
ロイはこの五年間の間にお嫁さんを貰って、五匹の子どもを抱えるお父さんになった。今も変わらず旦那様にお仕えしてくれてるけど、もうこの屋敷で寝泊りをしていない。すぐ近くにお家を建てて、家族水入らずで暮らしているからだ。子ロイ達はめちゃくちゃ可愛くて、暇を見つけてはしょっちゅうモフモフしに行っている。わたしの癒しの空間だ。
「アイリス様、明日は気合を入れて、お誕生日会の準備をさせていただきますね」
ロイはわたしを見上げながら、キラキラと瞳を輝かせた。
明日の誕生日当日は、ニコラスやアクセス、アクセスのお嫁さんであるヒバリちゃんや、ロイの家族がお祝いに来てくれることになっている。何か月も前からニコラス達と一緒に予定を立てて、準備を始めてくれていたのだ。
「ありがとう。楽しみにしてるね」
「はい、お任せください! アイリス様の記念すべき成人の日ですから。」
そう言ってロイはドンと胸を叩くと、手を振り家に帰って行った。旦那様と並んでロイを見送る。そんなの、いつもしていることなのに、何となく緊張感が走った。
***
「アイリス、こっちにおいで」
そう言って旦那様は、わたしをソファに誘う。いつの間に用意したのか、真新しい涼やかな色合いのグラスが並べられている。前世でいう琉球グラスみたいなガラスで出来たそれは、色違いのお揃いだった。
(夫婦茶碗みたい)
そんなむず痒い気持ちを抱えつつ、わたしは旦那様の隣にチョコンと座る。旦那様は微笑みながら、わたしの顔を覗き込んだ。
「――――色んなことがあったね」
感慨深げな旦那様の声。頷きながら、胸の中がじわじわと温かくなって、次いで目頭が熱くなった。
「はい。この五年間、毎日ずっと……幸せでした。全部全部、旦那様のお蔭です」
現世の父親と母親を亡くして、それから旦那様に出会った。本当だったらわたしは、あの時に死んでいたのかもしれない。旦那様がわたしを見つけてくれたから、今もわたしはここで生きている。こうして成人の日を迎えることが出来た。旦那様には感謝の気持ちしかない。
「――――知ってる? 俺にとってはアイリスの誕生日が、一年で一番大切な日なんだ」
旦那様はそう言って目を細めた。時計の針が刻々と動く。旦那様は躊躇いがちに、わたしの頬に触れた。心臓がトクンと跳ねる。
数日前には気づかなかったことだけど、旦那様の触れ方は、幼い日のそれとは違っていた。宝物みたいに大事にしてくれるのは今も昔も変わらない。それなのに、何かが違う。
(わたしが緊張してるから?)
15歳を迎えたその時、わたしは旦那様に告白する。旦那様が大好きだってこと、結婚してほしいこと――――その想いを改めて伝えようと、ずっとずっと、そう決めてた。心臓がドキドキと鳴り響く。旦那様が大きく息を吸った。
「アイリスが生まれてきてくれなかったら、俺は一生、空っぽのまま生きていた。いや……生きてるなんて言える状態じゃなかった。生命を維持するためだけに必要最低限の睡眠を取って、食事をして――――嬉しいと思うことも、楽しいと思うことも無かった。ニコラスやアクセスの存在をきちんと『友人』だと認識したのも、アイリスと出会ってからだよ。俺にとっては本当に、何もかもがどうでも良かったんだ」
ポツリ、ポツリと、旦那様が想いの内を打ち明けてくれる。淡々とした口調だけれど、それはわたしの心に少しずつ少しずつ、温かく積み重なっていく。
「俺はアイリスに出会うために生まれてきたんだ。生まれてからずっと、アイリスを探していた。アイリスが生まれてくるまでの百年以上もの間、ずっとずっとアイリスを待っていた。だから、アイリスが生まれてきてくれたことが、何よりも嬉しい」
わたしの瞳から涙が零れ落ちる。
旦那様のお父様から攫われたあの日、夢の中できずな君が言ってたことを思い出した。旦那様ときずな君は別の人間だ。だけど、二人はやっぱり同じ魂を持っている。きずな君が言ってたことは全部全部、本当だった。そのことがあまりにも嬉しい。
「わたし……生まれてきて良かったです。わたしも絶対、旦那様に出会うためにこの世に生まれてきました。旦那様に会いたかったから……」
時計の針は間もなく午前0時を指し示そうとしていた。
(告白するなら今しかない)
ゴクリと唾を呑み込み、わたしは旦那様を真っ直ぐに見つめる。緊張で指先が冷たくなっている。けれど心と身体は熱くって、チグハグだった。
初めてきずな君に想いを伝えた時もこうだった。期待と不安が入り混じって、息もうまくできなくて。でも、好きだって伝えられて、気持ちを受け入れてもらえて、本当に本当に嬉しかった。
(旦那様にも、わたしの想いを受け止めてほしい)
意を決し、わたしは口を開く。
「旦那様、わたし聞いて欲しいことが――――」
だけど、わたしの言葉はそれ以上続かなかった。言葉も吐息も、全部全部旦那様に塞がれてしまったから。
カチコチと時計の針が進む音が聞こえる。心臓がバクバクと鳴り響き、身体が熱くて堪らない。肩を抱き寄せられて、旦那様の香りを胸いっぱいに吸い込む。目はとてもじゃないけど開けていられなかった。旦那様の眼差しが熱くて、綺麗で、吸い込まれてしまいそうだった。
(旦那様の唇、柔らかい)
少しずつ、少しずつ、わたしの内側を侵食するみたいに旦那様が口づける。唇から全身に広がる甘さが愛おしくて、わたしは旦那様を抱き締めた。旦那様が優しく抱き返してくれることが、堪らなく嬉しかった。
名残惜し気に唇が離れる。初めてのキスの余韻を存分に味わいながら、わたしは旦那様を見上げた。
「アイリスが好きだよ」
旦那様は真剣な表情でそう言った。旦那様が『好き』と言葉にしてくれるのは、これが初めてだった。数年分の不安とか焦燥感とか、色んなものがぐずぐずに崩れ落ちて、幸福感へと変わっていく。
「アイリスが好きだ」
わたしがちゃんと旦那様の言葉を受け取れるように、旦那様はそう言葉を繰り返す。涙がポロポロ零れ落ちて、当分止まりそうにない。旦那様はそれを唇で拭いながら、わたしのことをギュッて抱き締めた。
「あの日の約束を覚えている?」
旦那様は尋ねた。あの日がどの日かなんて、聞かなくても分かる。
『どうか、約束して。君が大人になった時……俺がアイリスの一番になれたら――――その時は俺と結婚してほしい』
ほんの一瞬だって忘れたことなかった。だって、その約束を胸に、わたしは五年間、頑張って来たんだもの。
「俺はアイリスの一番になれただろうか?」
旦那様の心臓がドキドキ鳴り響いていた。鼓動がわたしと同じか、それ以上に速い。嬉しくて胸が締め付けられるような気分だった。コクコク頷くと、旦那様はわたしの額に口付けて、キツくキツく抱き締める。切なげに笑う旦那様が堪らなく愛しい。
「わたしも旦那様のことが好きです。大好きです。この世の中の誰よりも何よりも、好き」
ようやく想いを口にできたわたしは、涙を流しながら笑った。
旦那様は眉間に皺を寄せ、わたしのことを抱き締めた。嗚咽が密かに漏れ聞こえる。
(あぁ……わたし、こんなにも愛されていたんだなぁ)
長かった。でもそれは、必要な時間だったんだって今なら言える。
だって、わたしは――――旦那様は、お互いを強く必要としていたから。だから、出会わずにはいられなかったんだって、そう思う。
目尻が少しだけ赤くなった旦那様が、わたしを見つめる。
「アイリス――――俺の、お嫁さんになってくれる?」
旦那様の緊張がこちらにまで伝わってくる。だけど、答えなんて最初から決まってた。
「喜んでっ!」
微笑み合いながら、わたしたちは何度も何度も口付けを交わした。