旦那様と男心②
「なぁリアン、おまえ仕事は? まだ残ってるんじゃないの?」
ニコラスはそう言って、ニヤニヤしながらこちらを見ている。わたしはというと、旦那様にギュッと抱き締められたまま身動きが取れない。既に苦しいぐらいなのに、腕にはどんどん力が込められていく。だけど、約二年ぶりの抱擁だもの。今を逃したら、次いつ味わえるかわからないもの。力いっぱい抱き返した。
「仕事なら終わらせてきた」
「またまた~~。週末までに終わらせないといけない仕事がたくさんあるって言ってただろう? そんなすぐ終わるわけないじゃん。良いよ良いよ、アイリスちゃんのことは僕が送ってあげるから。気にせず残業しなよ」
そう言ってニコラスはわたし目掛けて手を伸ばす。けれど、旦那様はニコラスから遠ざけるようにわたしを抱き締め、眉間に皺を寄せた。
「終わらせてきたと言っている」
「あの量を?」
問い掛けたのはアクセスだった。感心したような、寧ろ呆れたような、何とも言えない表情を浮かべている。
「お仕事、そんなに立て込んでるんですか?」
尋ねると旦那様は静かに首を横に振った。けれど、それが嘘だってことぐらい、わたしにだって分かる。胸がモヤモヤと騒いだ。
旦那様は仕事のことをあまり話そうとしない。前に『家に仕事を持ち込みたくないから』って言ってたけど、多分それよりもわたしに心配を掛けたくないっていうのが大きいんだと思う。でも、大変な状況を共有してもらえないのは、結構寂しいことだ。旦那様の負担になんてなりたくないし、力になりたいもの。
「あの……わたし、あれだったら友達の家に泊めてもらいますよ? 旦那様、家と職場を往復するのも大変でしょうし。友達の家なら心配ないでしょう?」
そう言ってわたしは旦那様の顔を見上げる。本当は泊めてもらう当てなんてないけど、良いんだ。別にお屋敷に一人でも平気だし。わたしだってあと数日で大人なんだから。
「心配なのもあるけど」
旦那様はそう言って、わたしの顔をまじまじと見つめながら息を吐く。そのまま、首を傾げたわたしの頬にそっと静かに頬を寄せた。
「俺は毎日アイリスに会いたいから」
その瞬間、わたしは大きく飛び上がった。心臓が直接撫でられたかのように騒めき、身体中の血液が沸騰する。旦那様はそんなわたしの身体を支えながら、愛し気な笑みを浮かべている。もしかしたらフィルターが掛かっているだけなのかもしれないけど、少なくともわたしにはそう見えた。
(わたしだって、旦那様に毎日会いたい)
心臓がバクバクと鳴り響いている。本当は今すぐに大好きだって伝えたい。結婚してって叫びたい!
だけど、こんな所で、こんなタイミングで『好き』って伝えても、旦那様に十分に伝わるとは思えない。勢いで言ったって思われたくないし、一世一代の告白だもの。シチュエーションとか言葉とか大事にしたい。今更ながら、そう気づかされた。
「だから一緒に帰ろう?」
旦那様はそう言って、そっとわたしの手を握る。旦那様の手のひらは、二年前と変わらず、大きくて温かかった。優しくて、いつまでも触っていたくなる、そんな手のひらだ。まるで心臓が手のひらに移動してしまったかのように、ドキドキと脈打っているのが分かる。わたしは旦那様の手を握り返した。
***
「あっ……あの、旦那様」
「ん?」
わたしの問いかけに、旦那様は穏やかな笑みで答えた。旦那様の翼が月や星の光を集めて、キラキラと輝いて見える。あまりにも美しくて神秘的な光景。いつまでもいつまでも、眺めていたくなる程に神々しい。だけど、今のわたしには、それよりも重要な気がかりがあった。
「わたし、鳳族の羽、持ってきてますよ?」
「うん。知ってるよ」
旦那様はそう言って笑みを深める。
まるで宝物のように旦那様の腕に大事に抱かれ、わたしは夜空を飛んでいた。鳳族の羽で飛ぶ時よりずっと早く、旦那様は風を切って走る。まるでジェットコースターに乗ってるみたいなスピード感なのに、不思議と恐怖は全くない。寧ろ、大きな安心感に包まれていた。
こんな風に旦那様と空を飛ぶのは、本当に久しぶりだった。そりゃぁ、触れるのが二年ぶりだし、当然なんだけど。でも、嬉しいのと同じぐらい、気恥ずかしさがわたしを襲った。
「俺に抱かれるのは嫌?」
旦那様は少し掠れた声で、そんなことを尋ねる。その瞬間、皮膚がぶわっと粟だって、心臓が痛いほどに早鐘を打った。
(ワードのチョイスが宜しくないです、旦那様!)
旦那様の胸に顔を押し付けながら、わたしは熱い吐息を噛み殺す。
きっと、旦那様に他意はない。邪なのはわたしの心の方だ。でも、わたしは旦那様のことを好きで好きで堪らないんだし。心も身体も成長しているんだもの。こういう勘繰りもある意味健全だと思う。
とはいえ、旦那様の問い掛けにそんな返答をするわけにはいかない。わたしはコホンと咳払いをした。
「嫌なわけないです。わたしはずっと、旦那様に触って欲しいって――――前みたいに抱き締めてほしいって思ってましたから」
思いがけず、咎めるような口調になってしまった。旦那様は目を細めて笑うと、わたしを抱く腕に力を込めた。
「俺もアイリスと同じだよ」
旦那様の返答に、胸がキュンと疼く。
「本当ですか?」
旦那様がわたしに触れたいと思っている――――そのことがあまりにも嬉しくて。確かな事実にしたくて。わたしは思わず聞き返す。
「もちろん。だけど――――俺は男だから」
そう言って旦那様は目を細めた。瞳の奥に妖しげな光りを潜ませて、旦那様は笑う。いつもみたいな穏やかな笑みじゃない。どこか切迫した、飢えた獣みたいな表情だ。
旦那様がわたしの唇を指でそっとなぞる。グルルと音を立てて旦那様の喉が鳴る。心臓が鷲掴みにされたみたいだった。まるで今にも食べられてしまいそうな、そんな感覚に身が竦む。
きずな君と旦那様は同じ魂を持っている。それは絶対、間違いない。けれど、二人は違う人間だ。そのことを今実感した。
(旦那様は、雄だ)
その身の内に荒れ狂う『竜』を飼っている。そう思うと、旦那様のことがまるで知らない男性のように見えてくる。
「――――アイリス」
「うぁ、はい!」
旦那様の呼びかけに、わたしは思わず身体を震わせた。おまけに変な声まで出てしまって、恥ずかしくて堪らない。
すると、旦那様はそれまでの雰囲気はどこへやら、穏やかに微笑んで、おでこを重ね合わせた。
「これから数日、また少し帰りが遅くなるんだ。だけど……アイリスの誕生日は二人で一緒に迎えよう。俺に一番にお祝いさせてほしい。ダメかな?」
「ダメなわけないです。わたしも、旦那様に一番にお祝いしてほしい」
素直な気持ちを吐き出すと、旦那様は目を細めて笑った。
夜空に浮かぶ星々がキラキラと瞬き、弧を描きながら流れて行く。風が頬を撫で、心を穏やかにする。
結局、男心のことはちっとも分からなかった。けれど、これまで知らなかった旦那様の一面が垣間見えた気がする。前世とはまた違った、わたしの知らない旦那様が、まだまだたくさん存在するんだろう。
(もっとずっと、旦那様のことを知りたい)
そんな風に思いながら、わたしは旦那様を抱き締めるのだった。




