約束
「旦那、様……」
目を開けたら、旦那様の今にも泣き出しそうな表情が飛び込んで来た。隙間が全部なくなるぐらい、旦那様が力強くわたしを抱き締める。わたしはそっと辺りを見回した。
攫われたときは真っ暗闇の中に居たはずなのに、わたし達は今、神殿みたいな雰囲気の、真っ白な建物の中にいる。太陽の光がステンドグラスからキラキラと射し込む。優しくて柔らかな光だ。あれからどのぐらいの時間が経ったのかは分からないけど、今は夜が明ける少し前って頃合いかな?光と闇のグラデーションがそんな風に思わせた。
「アイリス……アイリス…………」
旦那様は小さな声で、何度も何度もわたしの名前を呼んだ。苦し気な声音。きっと、いっぱいいっぱい心配させたのだろう。胸がギュッと軋んだ。
「旦那様……」
まだ声が上手く出せない。けれど、旦那様はわたしの声を聞きながら、小刻みに身体を震わせた。ちゃんと伝わっているんだなぁって分かって嬉しかった。
「良かった。アイリスが目を覚まさなかったら、俺は…………」
ぎゅぅって音を立てて、旦那様がわたしを抱き締め直す。肩のあたりが旦那様の涙で湿っている。小刻みに震える身体を抱き返すと、旦那様はまた一層、腕に力を込めた。
「――――夢を見たんです」
わたしはポツリとそう漏らした。旦那様は何も言わない。黙ってわたしを抱き締めている。
「世界で一番、大好きな人の夢だったんです」
未だわたしは、自分の気持ちを上手く整理できずにいる。
きずな君に会えて嬉しかったこと。きずな君とさよならをして悲しかったこと。きずな君が生まれ変わってもまた、わたしと一緒になりたいって言ってくれたこと。それから旦那様が、わたしが目覚めたことを、こんなにも喜んでくれたこと。わたしだけの胸に収めておくことができなくて、その断片を言葉にする。
「そうか……」
旦那様はそう言って、悲し気に目を細めた。わたしの頭を優しく撫で、まるで迷子の子どもみたいな表情を浮かべる。
「アイリスは――――戻って来たくなかった?」
旦那様のセリフに心臓が震えた。きっと、その言葉はきっと『俺のところに』って続くんだと思った。そんな表情をしていた。なんて答えようか迷って、わたしは首を横に振った。
「最初は……ずっと、夢の中に居たいって思いました。大好きな人に大好きって言われて、大好きな人に大好きって言えて。たくさんたくさん愛されて、幸せでした。だけど、旦那様の声が聞こえて――――旦那様がわたしに会いたがってるって分かって……だから、帰ろうって思ったんです」
旦那様は切なげに顔を歪めた。まるで『当たり前だろう?』って言われている気がして、胸のあたりがキューって疼く。
(旦那様はわたしを必要としている)
ずっとずっと、不安だった。だって今、わたしと旦那様を繋ぐものは何もない。恋人として愛情を確認し合っているわけでも、親子として血が繋がっているわけでもない。気持ち一つでさよならできる、不確かな関係。だけど――――。
「攫われてきたとき……旦那様と関わるなって言われたんです。旦那様はミモザさんと結婚するんだって。それを聞いてわたし、すごく、すごく嫌でした。もう目覚めたくないって、そう思いました」
ずっとずっと、自分の気持ちを旦那様に伝えるのが怖かった。こんな子どもがなにを言ってるんだって。おまえじゃ無理だって言われるのが怖くて。子どもが言っても変じゃない、ギリギリの言葉を選んでいた。
だけど、それじゃ本当の気持ちは伝わらない。このままじゃダメだって思った。
「だって……だってわたしは、旦那様のことが好きだから! この世の中の誰よりも何よりも、旦那様のことが大好きだから! 側に居られないなんて嫌! 他の人と結婚しちゃうなんて嫌です」
まだまだ小さな身体の中、心臓が張り裂けそうな程にバクバクと鳴り響いている。旦那様は驚きに目を見開いて、わたしのことを見つめていた。表情から感情が読み取れない。だけど、ようやく自分の本当の想いを言葉にできて、わたしは嬉しかった。結果がどうあれ、何にもしないでウジウジしているより、よっぽど良い。心が晴れ晴れとしていた。
「そうか」
端的な返事。だけどわたしは、旦那様がわたしの気持ちを否定せず、受け止めてくれたことが嬉しかった。
旦那様は目を細めてわたしの頬に手を伸ばすと、まるで宝物みたいに優しく撫でる。心が震え、目尻に涙が浮かんだ。
「ねぇ、アイリス。約束してくれる?」
旦那様はそう言ってわたしの前に跪いた。わたしの目線よりも低い位置に、旦那様の綺麗な綺麗な顔がある。何だろう?って思いつつ、わたしは軽く首を傾げた。
「どうか、約束して。君が大人になった時……俺がアイリスの一番になれたら――――その時は俺と結婚してほしい」
その瞬間、わたしは心臓が止まるかと思った。自分の耳が――――聞いた内容が、信じられなかった。
(結婚⁉ 旦那様、結婚って言った⁉)
脳内は軽くパニック状態だし、胸が焼けるみたいに熱い。喉の奥からせり上げてくる何かを呑み込みながら、わたしは旦那様をまじまじと見つめた。
旦那様の表情は、真剣そのものだった。決して冗談で言ってるようには見えない。瞳が不安げに揺れ動いている。そこに映っているのは間違いなくわたしだ。切実な感情がそこにある。
「旦那様――――ミモザさんと、結婚しないんですか?」
「しないよ。俺が結婚したいと思うのはアイリスだけだ」
旦那様はそう言って、わたしの手をギュッと握る。それはずっと、わたしが求めていた言葉だった。涙がポロポロと零れ落ちる。喉の奥がツンと痛んだ。
「わたし……これから先も、旦那様の側に居て良いんですか?」
「居てくれないと俺が困る。――――もう、誰にも何も言わせない。俺はこれから、誰よりも何よりも強くなる。アイリスを守り抜けるように――――――アイリスの一番になれるよう、死力を尽くすとここに誓う」
旦那様はそう言って、わたしの手の甲にそっと口づけた。
「わっ……わたし、まだ子どもですよ? それなのに、こんな約束しちゃって良いんですか? 本当にわたしをお嫁さんにしてくれるんですか?」
子どもに贈るにはあまりにも熱く、真剣な想い。間違ってた、なんて言われても、今更撤回させる気なんて無い。だけどわたしは、確かな言葉が欲しかった。
「もちろん。待つよ。アイリスに出会うまでの百年間に比べたら、五年なんて一瞬だ。……いや、寧ろ時間が足りないぐらいかもしれない」
旦那様は優しい顔をして笑っていた。堪えきれず、激情のままに旦那様に抱き付くと、旦那様はわたしのことをギュッと抱き締めてくれる。
(全部、きずな君の言う通りだった)
温かい涙が頬を濡らす。きっと、これから先もたくさん、たくさん不安になるんだろう。どれだけ言葉を尽くしても、刻一刻と現実は変わっていく。その全てに対応できる言葉なんてない。
だけど、わたしはきずな君と――――旦那様と約束した。現世でも絶対、旦那様のお嫁さんになるって。そう約束したから、もう大丈夫。
『絶対、絶対、現世でも一緒になろうね』
心の中でそう口にしながら、わたしは満面の笑みを浮かべたのだった。
思いがけず間が開いてスミマセンでした。今話で第1章が完結となります。第2章では、15歳の誕生日を間近に控えたアイリスのお話からスタートを予定しておりますので、宜しければ今後もお付き合いください。よろしくお願いいたします。




