アイリスの待つ家
旦那様はお腹が空いていたのか、わたしが持参した差し入れをあっという間に平らげた。例え空腹の最中であっても品のある綺麗な食べ方に惚れ惚れしつつ、わたしは旦那様のためにお茶の準備をする。
(……わたし、ちゃんと笑えてるかな?)
表面上は何でもない風を取り繕っているつもりだけど、心の中はズタズタのボロボロだった。何かをしていないと不安と嫉妬で頭の中が一杯になっちゃう。だから、さっきから旦那様の周りをうろちょろしたり、ロイと戯れてみたのだけれど、ちっとも気が紛れない。
「アイリス、こっちにおいで」
その時、旦那様はそう言って、自分の隣の席をポンポンと優しく叩いた。穏やかで優しい笑顔に、わたしの心は揺れ動く。
(行きたい。けど、行きたくない)
できるだけ旦那様の側に居たい。旦那様の温もりを感じていたい。
だけど、今のわたしは醜い嫉妬心が心の中を占拠している。そんな感情、旦那様に見透かされたくない。気づかれて、嫌われたく無かった。
「わたしは片づけがありますし、そろそろお暇します。旦那様もお仕事再開しないとですよね」
旦那様にお茶を差し出しながらわたしは笑う。少し気を抜くだけで涙が零れ落ちそうだった。
(二度目の人生だっていうのに、情けない)
そんな風に思っていると、旦那様はわたしの腕をグイッて引っ張った。バランスを崩したわたしは旦那様の胸に着地して、そのままギュッて思い切り抱き締められる。堪えきれずに、涙が零れた。
「片付けなんて俺がするから。それに、仕事よりも今はアイリスの方が大事だ」
旦那様はわたしの背を優しく撫でながら、そんなことを言う。まるで恋人同士の会話みたいだ。だけど、わたしは旦那様の恋人じゃない。
(ミモザさんはさっき、『また後で』って言ってた)
ということは、旦那様とミモザさんはこのあと二人きりで会うんだ。大人の男女が二人きりで会う意味なんて、考えたくもない。
旦那様は疲れた心を、ミモザさんに癒してもらうんだろうか。身を寄せ合って、互いに優しい言葉を掛け合うんだろうか。家には帰って来てくれないのに。ミモザさんのことは優先するんだろうか。
(苦しいなぁ)
焦らないと決めた癖に、ブレてばかり。旦那様に本当のことを聞く勇気もなくて、一人で悶々とするなんて。本当に救いようがない。
「寂しい思いをさせてすまない」
旦那様はわたしが泣いていることに気づいているらしい。腕に力を込めながら、宥めるような声音を出す。
(違うよ。わたし、寂しいんじゃない)
どうして泣いているのか、旦那様に気づいてほしくなんかない。だけど、ついついそんなことを叫びたくなる。
結局わたしは、自分だけが旦那様の特別なんだって思っていた。だって、わたしは旦那様の前世の妻だし。旦那様がわたしのことを覚えていなくても、運命で繋がっているんだって。だからきっと、心のどこかで安心していた。
だけど旦那様は『リアン』として、既に100年以上の時を生きている。その間どんな出来事があったのか、わたしが知ることはできないし、事実を変えることはできない。例え旦那様に愛する人がいても、どうすることもできないのに。
「旦那様と一緒にいたいです」
旦那様の綺麗な洋服が涙でぐちょぐちょになっている。だけど、旦那様はわたしを放しはしなかった。「俺もだよ」って口にして、旦那様はわたしをギュッと抱き締める。
「出来る限り早く、アイリスの待つ家に帰る。だから、待っていてほしい」
その瞬間、涙がじゅわっと込み上げて、わたしは声を上げて泣いた。旦那様が『わたしの待つ家』、って言ってくれたことが嬉しくて堪らない。コクコク必死で頷きながら、わたしは旦那様を抱き返した。
旦那様は忙しい中、庁舎の出口までわたし達を見送ってくれた。
「気を付けて帰るんだよ」
鳳族の翼を付けたわたしへ、旦那様は何度もそう言い聞かせる。
「大丈夫ですよ。ちゃんと旦那様が下さったお守りも持っていますし」
わたしはそう言って、旦那様から貰ったお守りをそっと取り出す。すると、旦那様は目を細めつつ、わたしの頭をポンポンと撫でた。
「今夜……は無理かもしれないけど、明日にはきっと帰れるから」
その瞬間、少しだけ胸が軋んだ。
(今夜……はミモザさんと会うのかな)
でも、旦那様がミモザさんと会っていたって関係ない。旦那様が帰る場所は『わたしの待つ家』だもん。だからわたしは、精一杯お家を綺麗にして、温かくして、旦那様のお帰りを待つ。帰りたいって思える家を作りたいって思った。
「お待ちしてます、旦那様」
そう言ってわたしは笑った。
だけどその日。わたしは旦那様との約束を守ることができなかった。